「親孝行したいときには親は無し」という諺があります。この諺は親を失ってみて始めて実感するものと言えましょう。生きているときは、煙たくうるさい存在であったかもしれませんが、亡くなってから「ああすれば良かった。」「海外旅行に連れていってやりたかった」「あの時、いうことを聞いていれば、親を悲しませずにすんだものを」など、残された子供には、後悔のタネはつきないものです。
ではなぜ生きているうちに孝行が出来ないのでしょうか。それは一つには、自分が当分は死ぬことがないように、親も当分は死なないだろうという思いがそうさせているようです。親が元気なうちに孝行しようと努力している人はあまりいないようです。また病気になったらなったで、「死」は考えるだけでも不吉なモノであるため、なるべく触れないようにしてきたためです。
そのため、いざ亡くなってしまうと、もう取り返しがつかなくなります。最近は医学の発達によって日本人の寿命も伸びました。死亡原因ではがんや心臓病、脳血管障害などの割合が多くなっています。たとえばがん疾患の場合には、早期に発見されれば、何年も生きることが可能となりました。また末期がんであっても、それを告知されていれば、あらかじめ死までの年月を計算して、それまでにやり残したことなどをやることができます。
しかしそれには、患者本人とまわりの家族全員が、その病名と死までのおおよその期間を知っていることが必要です。 残された命の限られた人が、本当にしてほしいこと、したいことを、家族が手助けするためには、両者の協力なくしてはむずかしいでしょう。(この本はガン告知をすすめる本ではありませんが、出来るならば「ガン告知」をすすめたいという立場をとっています。)
例えば、家族が患者の本当の病名を知っていて、本人だけが知らないとするならば、病人を大切にしたり親切にすることも、本人にあやしまれて積極的に出来ません。また旅行などに行くように勧めても、本人が「今調子が悪いから、元気になってから行く」と答えた場合、それ以上すすめられなくなります。こんな場合、やはり本人に伝えたほうがよいことになります。
以上は「孝行しておけばよかった」という精神的な問題ですが、また残された自分のために準備をしなくてはならないことがあります。特に未亡人の場合で、夫が財産などに関する書類などを管理していた場合には、残された夫人は何をしたらよいかがわからなくなります。次はあらかじめ「不慮の災難に備え」ればどんなに助かったか、後悔の念で書き残した文章です。
死と未亡人生活は、現実の中でも最も惨憺たるものである。それでもなお、私たちは目をそらしてはいけないのだ。それに、前もって準備をしておけば、正視するのも楽になるだろう。私が「なすべきであった」ことを、落ち着いてじっくりふりかえると、私にはそれが「なし得た」ことだとわかるのだ。マーチンと私は、死という窮極の変事に対して備えをすることができたのだ。
私は今なら、どうしたらいいかわかる。私は「不慮の災難に備える日」をもうけて、この日には年に1回、一家の経済状態を調べるつもりだ。私はどの夫婦にも、こういう検査を勧めたい。そうすれば、夫か妻のどちらかが一年以内に死亡した場合に、講ずべき手段を二人で相談できる。生き残ったほうと子供が生きていくには、いくらぐらいお金がかかるか。生活様式をどのように変える必要があるか。そういうことを家庭生活の自然なつながりの中で話し合えば、あとに来るやもめ暮しの傷口はいくらか小さくなるだろうに(統計によれば女はたいてい夫よりも長生きする。そのことを忘れないでほしい)。
(ケイン『未亡人』 175頁)