最後のつめきり

[神奈川県 女性 主婦 41歳]

イラスト  冷たい…。額も唇も耳も手も。寝たきりで痴呆の症状が重かった祖母が、死を迎えた。86歳。今から20数年前のことである。当時、独身だった私は、母と交代で、祖母の看護に明け暮れた。
 昼と夜の区別がつかない。夜通し大声でしゃべる。寝返りがうてないため、ひっきりなしに体を動かしてほしと言う。痩せた体をさわると痛がるので、シーツを引っ張り、ころがすように位置を変えた。
 日ごとに衰弱し、うつろな目だけが何かをさがすように動いていた。そんなある日。久しぶり穏やかな顔の祖母が「お風呂に入りたいよ−」と、つぶやいた。私は、せめてお湯の感触だけでもと、布団の上にビニールを敷き、小型のタライを持ち込んだ。ぬるめのお湯に、そっと祖母の両足を入れる。むけた皮膚がパラパラと湯面に浮いて、赤味を帯びた足先が、ゆっくりと伸びた。石けんを泡立て、指を洗う。室中に湯気が立ち込め、石けんの香りが漂った。突然、「あー、いい気持ち…」と、祖母が言った。まるで、病気が治ったような声である。80年もの人生を、この小さな足て歩んできたのかと思うと、目の前がかすんできた。
 その晩、遅く…。大きな息をひとつ残して、祖母は旅立った。安らかに眠る祖母の顔をなでながら、私は、死というものを静かに見つめた。ふと、祖母の足のつめが伸びていたことに気がついた。足をさわると、まだ、あたたかい。顔を近づけてつめを切る。指の間から、かすかに石けんの匂い。小指で最後という時、ハサミを当てたところから血がにじんだ。あわてて薬をつける。
 両足はだんだん冷たくなっていった。悔いのない別れであったと、今も思う。


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