1998.08 |
2050年というと、約50年先のことである。「2、3年先すらわからないのに、50年先なんぞわかるものか!」という声が聞こえてきそうであるが、大きな流れや方向性を捕えることは出来るのではないか。ただし、葬儀の変化は、社会の構造や交通・通信手段、レジャーなどの変化と対応してくるので、その関係でとらえないと、本当の姿は見えてこない。
2003年 | 国内の病院、火葬場がインターネットに接続され、予約が可能に。 |
2004年 | 介護保険がスタート。役所への死亡手続きがインターネットでも出来るようになる。 |
2005年 | 人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)の解読完成し、DNAバンクが登場。 |
2006年 | 国内の地上波テレビがデジタル放送になる。 |
2007年 | 日本の人口が1億2,778万人とピークに達し、以降は減少に転じる。 |
2008年 | 地球環境を24時間監視するネットワークが普及して環境問題が統制化。 |
2009年 | 指紋・筆跡・音声で個人を識別するセキュリティシステムが普及。 |
2010年 | インターネットが全家庭に普及。散骨が10%を超える。月面に散骨するサービスが登場。 自宅介護が増え、自宅での死亡も増え始める 。 |
2013年 | ガン患者の平均5年生存率が7割になり、平均寿命が伸びる。 |
2015年 | 無宗教葬儀が増え、仏式葬儀が6割程度に減少。 |
2018年 | 老化の仕組みが解明される。 |
2022年 | 宇宙旅行が商品化される。 |
2025年 | 65歳以上の高齢者が3,312万人と、4人に1人が65歳以上の老人に。要介護老人が520万人に。国民負担率は現在の約37%から51.5%に上昇。世界の人口が80億人に。 |
2030年 | 日本の痴呆老人が300万人を超す。中国の人口が16億人に達する。 |
2036年 | 国内の年間死亡者数が176万人とピークを迎える。 |
2045年 | 世界の人口が95億8,700万人に。 |
2050年 | 日本の死亡人口が166万人になる。国内人口の3分の1が65歳以上の老人に。世界の人口は93億人に。 |
死亡人口は1998年の98万人から、2050年(平成62)には約1.7倍の166万人になると予測されている。逆に人口総数は、1億2千万人から9,500万人と20%減る。総人口に於ける65歳以上の高齢者の割合は、16%から30%と2倍になる。このとてつもない数字が何をあらわすかというと、まず働き盛りの人が7人で1.6人の高齢者を世話していたのが、6人で3人をみることになる。つまり、1人あたり0.5人分の経済や医療を負担しなければならないわけである。それだけ税金が重くなるだろう。
国連の1996年の調査では、世界の人口は西暦2025年に80億人、2050年には93億人になると予測されている。低開発国での人口増加が著しいのが特徴である。1995年から2050年までに36億人が増加するが、そのうちアジア地域での増加が20億人占める。中国は12億から15億の伸びとなるが、インドでは9億から15億と急激な伸びが予想されている。
アメリカでは1998年の人口が2億7000万人、それが2050年には3億9000万人に増加すると予想されている。現在の約1.4倍にあたる。またその内の半数が白人以外の人々によって占められるという。国内の民族問題が解決できないと国力は弱くなるだろう。
自然保護の運動が世界的に広まり、国際的な規制が作られて日本にも適応される。資源保護の立場から、棺の材料である木材が制限される。火葬ではダイオキシン問題から棺に入れるものがさらに厳しくなる。墓地の造成でも規制が厳しくなり、認可が下りにくくなるだろう。
2050年(平成62)の死亡人口が166万人であるが、死亡人口がピークを迎える2036年(平成48)では176万人。平成8年の人口1000人あたりの死亡率が7.2から、西暦2050年の15.1と死亡率も2倍以上になる。これだけを取ってみても、葬儀がいかに多くなるかがわかる。
98年の「読売新聞」の調査(資料(1))によると、年々宗教を信じている人が減少し、宗教を「信じている」は21%で、79年調査(34%)から13ポイント減少、「信じていない」が78%を占めた。「友引の日の葬式」は36%で、79年の59%から大きく後退している。この数字はさらに進んでいくと思われる。
しかし日本人の多くは「神道」の氏子であり、また同時に既成仏教団の信徒になっている。それは信仰心というより先祖が属していたというだけのことで、家の宗派を知らない人も多い。今後は仏式葬儀や年忌法要も減少して、寺院と檀家関係を維持していく家庭が減少していくだろう。
以前は「死」に対する不安や恐怖を宗教が癒し、救済してくれたが、現在でもその力があるか疑問である。「死後の世界があり、仏教の力で死者を浄土に導く」などと寺院も言わないし、言われたとしても素直にそれを信じるという単純なものではなくなっているからである。
墓のもつ意味は、死後観や宗教観の変化にともなって変化してきた。
古代では死者は生活の場の中心に葬られたが、その後、死者は住居から離れた場所に葬られたり、火葬にされたりした。また焼骨を5輪塔に納めたり、埋葬した場所に板碑を置いて死者をすみやかに成仏させる努力をした。また埋め墓と参り墓という考え方も生じた。つまり遺体を埋めるところと、死者をまつるところとを別にする方式である。しかし江戸時代になると、遺体を埋葬したあと、そのうえに墓を建てる形式が生まれ、同時に自宅に仏壇を置いて故人の位牌をまつるという形が現在まで続いてきている。
仏壇で祖先を拝み、墓には埋葬場の機能をもたせたのである。しかし現在のように、火葬にしてしまった遺灰を墓に祭ることによって墓の意味が薄れていった。
墓が尊ばれたもう1つの理由は、中国の風水思想から来ている。風水思想は、墓を立派にすれば祖先が繁栄するという考え方で、儒教の教えが長かった韓国にも根強く残っている。しかし、現代の日本ではそうした考え方を信じる人は年々少なくなっている。
墓には「先祖代々の墓」と記された墓石があるように、家代々の祖先の遺体をまつるという考えがある。(宗派によっては○○家の墓とするのを禁じているところもある)しかし、最近では「夫の実家の墓に入るのはいや」という意見をもつ主婦が多く見られるようになった。また一人暮らしの女性は、生前に身内のない者が共同で入る墓に契約するという選択肢も見られるようになった。
利用する立場によって墓を次のように分類できる。
1.先祖代々の墓
2.家族の墓
3.本人の墓
4.共同墓地
時代が進むにつれて本人の墓が増えるが、それは遺骨を安置する納骨スペースという意味合いがつよくなると思う。
墓の形式というより、火葬した遺骨をどこに安置するようになるかといった方がいいだろう。現在では、
1.墓地
2.納骨堂
3.自宅安置
4.散骨という方法がとられている。
現在、都市部の公営墓地はいっぱいであるが、民間墓地であれば購入可能である。しかし段階の世代が死亡年齢に達する25年先には、墓地に対する考えが大きく変わっているだろう。墓地利用者は2025年には40%、2050年には20%くらいに低下するだろう。それに対して納骨堂の利用は2025年(30%)、2050年(60%)と考えてみたい。
「将来お墓を継いでくれる人がいるか」という調査(資料2)で、51.2%がいると回答している。逆に半数近い人が、継承者が決まっていないのである。同じ調査で、6割以上の人が先祖の墓を守るのが子孫の義務と考えている。こうした考え方が、年々どのくらいの率で減少していくかはむずかしい。
自分が生前に墓を用意しても、子供がそれを管理してくれるとは限らない。子供たちが墓参りしたり、毎年墓の管理費を払ってくれるとは考えにくい。そのために墓の意味づけが年々低下し、それに支払われる金額も少なくなって行くだろう。
では、これまでの寺院墓地はどうなるか。現在都市部では、墓不足を幸いに境内の空き地を利用して墓地の造成をしている寺院が多い。しかしすぐに限界が来るので、寺院としても墓の管理費を支払わない壇家には退去を申し出るようになる。しかし将来的には墓地の借り手が少なくなってくると思われる。
次に納骨堂である。これは遺骨の永代保管所であり、個人用と共同の納骨堂に分けられる。個人用の納骨堂は5年ほどの年月がたつと、他の遺骨と一緒に廟に合祀されるようになるだろう。こうした納骨堂は、遺骨を安置したいが、墓がないという層に需要があるため、その数は伸びると思われる。
次に遺骨の自宅安置であるが、これも徐々に伸びて行くが、2050年には逆になくなると思われる。その頃には、世の中が完全にシステム化され、火葬した遺骨も事前に行き先が選択されて、自宅安置の必要がなくなっているからである。
「墓に関する意識調査」(資料2)では、「散骨を認める」人が7割以上いるが、「自分が散骨される」ことについては7割以上が希望していない。「葬送の自由をすすめる会」では、平成10年現在、376人の散骨を行った。同会員は7,000人いるし、この会に参加していない人による散骨も増えるので、散骨は確実に増加していくだろう。また散骨が法政化され、散骨地域が特定され、また散骨するための「散骨届」が必要となるだろう。
散骨では、一番利用されるのが、霊園内の特定の場所に撒くことである。また火葬場に隣接した敷地で散骨することがもっとも簡便であるため、設けられるようになるだろう。寺院内に散骨するスペースを設けるところも出てくるだろう。
納骨堂の数は平成8年で12,000箇所。納骨ビルも多く作られて、納骨堂への利用者は2025年の30%から2050年には60%くらいに増加すると思われる。散骨の数は増加していくが、火葬後に、収骨から納骨まで自動的に行ってくれるサービスが確立すれば、散骨よりもそちらに消費者のニーズが移っていくだろう。
火葬場、霊園、葬儀場などは、現在と同じように公営、民間で経営される。人は65歳を迎えるころになると葬儀の事前設計をし、死亡した場合には、その記録に基づいて葬儀が行われる。
葬儀は、現在のアメリカで火葬をする場合のように、家族が火葬場に集まって葬儀をし、火葬後に遺骨を受け取って、火葬場の管理する納骨堂に預けるという形が多くなるのだろう。
2025年には在宅医療が5割近くに普及している。病院のベッド数と末期患者の伸び率を考えると、必要ベッド数が不足し、その分自宅介護が必要となる。毎日の健康管理は、各家庭と結ばれた医療通信システムによって管理されるため、半数近くの人が自宅で亡くなることも可能となる。その場合、遺体は自宅から火葬場に直接運ばれることになる。
事前予約が必要なものに、旅行や音楽会などがあるが、死は事前に予測出来ないので予約しにくい。ただし、事前での相続や死後の手続きについては準備が可能であり、オリジナルな葬儀をする場合、登録しておけば故人の希望がかなえられる。
日本人の人口、特に若年層は減少する反面、他のアジア人の人口は増大する。その結果、若い労働力をアジアから求めることになり、日本国内で外国人の死亡者数が増大していく。そして規制撤廃による海外の企業が日本で商売を始めるが、それは葬祭業も例外ではないだろう。
あらかじめ葬儀設計をする人は3割くらいで、7割近くの人が葬儀の設計をしない。そのためその選択は遺族にゆだねられる。遺族が行う選択は、火葬場、葬儀内容、納骨場所がある。
式典はハイテックの装置が前面に出るという訳ではない。友人や関係者に残した故人のメッセージが朗読され、また参列者の代表が追悼の言葉を述べるという簡単なものである。一般的には故人の家族、友人など10名から20名程度が出席する。参列者には1枚のディスクに収録した故人に関する記録が渡される。また遠くにいる人が式典に参列したい場合は、自宅にいながらインターネットを通して見ることが可能となる。
西暦2050年の世界中の人口が93億人となり、10万人あたりの死亡率を1,000人と仮定すると、世界の年間死亡者数は9,300万人となる。(1日あたり25万人である)。これだけの情報を閲覧でき、個人がアクセス出来るようになる。死者のデータは管理され、毎日どこかに「お悔やみ状」を送ることになる。
趣味や宗教などの精神的なつながりが重視される代わりに、親戚などのつながりは重視されなくなる。離婚率が6割くらいになり、人も平均2回ほど結婚するようになると、親戚つきあいそのものが意味をなくす。
葬儀会館の数は飽和状態を迎えると、その後は安定する。葬儀は会館で行われる割合が高くなるが、ホテルや自宅、屋外などさまざまなオプションが用意されている。会館の機能も、精神的な要求にも対応できる場所に変わっている。仏式葬儀が減るが、それとは異なった精神的なものが提供されるようになる。
労働時間が短縮され、人々は自分が求めるものを徹底して追及できるようになる。世界中の宗教がオープンになり、自分にあった宗教が何であるかが容易に探し出せるようになる。宗教は上からの押し付けではなく、自分の心を解放し、自分を向上させるための手段となる。
このように人々の意識が高くなると、葬儀会館に求められるものも、大変に高度なものとなる。ハイテックの部分として、故人の経歴を打ち込むだけで、コンピュータグラフィックで一生を回顧する映像にまとめるサービスも提供される。そして会葬者は、式のなかで故人の人生を見て、偲ぶことが出来る。
現在葬儀に参列する人は、香典をもっていく習慣がある。それは葬儀費用を扶助するという意味があった。しかし人々の生活水準に格差が生じ、互いに助けあうという考えがふさわしいものではなくなる。また香典は会葬者が減ることによって、合計金額が減少する。しかし香典そのものはなくならないだろう。香典返しの慣習は、忌明け法要の時ではなく、葬儀の当日に返す習慣が増えるだろう。
2010年にはインターネットが全家庭に普及し、葬儀通知はもちろん、お悔やみ状も電子メールでやりとりされるようになる。宗教では、既成仏教が葬儀や年忌法要をすることで壇家とつながっていたが、葬儀を仏式で行う割合が年々減少し、西暦2015年には6割を切るだろう。それと同時に既成寺院の後継者も少なくなり、寺院数も7割くらいに減るであろう。ただし2050年になるともっと激しく変化するだろう。
もともと日本の既成仏教は、国家の権威をバックに形成されてきており、江戸時代には庶民の戸籍係を果たすほどの普及をみた。当時としては、時代の最高の学問を提供したが、江戸時代末期になると知識人を中心に、西洋の文化を仏教よりもずっと実用的でレベルの高いものと考えるようになった。
これまでの仏教の絶対優位が低下しつつあったものの、経典のもつ神秘性と仏教が葬儀にかかせないものとして、その後も庶民と仏教の依存関係が続いた。現在では、僧侶の教育程度は向上したが、修行や戒律が形骸化したためサラリーマン的僧侶が続出することとなった。不景気が続き、物はあっても消費がともなわなくなった。人々は本物志向となり、これまでに守られていた慣習が尊ばれなくなった。中元や年賀状、結婚式、葬儀が簡素化され、必要なものには金をかけるが、そうでないものについては、消費者は厳しい選択をするようになった。そしてそのなかに宗教も含まれていたのである。
人間は本来宗教的なものを求める意識があるため、時代の要求に答える新宗教は減ることはなく、増大していくだろう。時代に適応できないマンモスは滅びるという例えは、宗教教団にもあてはまるのである。仏式葬儀は6割を切るといったが、他の宗教での葬儀があるので、宗教葬全体では7割くらいある。仏教の経典は全部インターネットに載せられ、それを自宅で音声としても流せるので、生でお経をあげてもらうのはめったになくなる。したがって仏式葬儀といっても、本当の僧侶が来ない場合が、仏式葬儀の3割程度はあるだろう。
(1)「宗教心に関する調査」平成10年5月読売新聞調査。
(2)「墓地に関する意識調査」平成10年2月厚生省調査。