1998.05
江戸時代の葬儀風俗

  日本の葬儀の9割以上が仏式で行われているが、それは江戸時代以来続いてきた習慣である。日本の仏教はよくも悪くも「葬式仏教」といわれるように、庶民にとって葬式を抜いては仏教を語れない。彼らは葬儀を通して仏教と縁を結んできたと言ってもよい。しかし葬儀といっても、地域地域によってしきたりが違う。同じ宗派でも、地域によって葬儀の習慣が違うこともある。ではどこが違い、なぜ違うのか。
  地域によって違いが多いのは、葬儀の前後に行われる枕飾り、通夜、葬列などで、ここに地域の特徴が発揮される。葬儀の風習は、仏式の葬儀が入ってくる前からあった部分と、仏式の葬儀式の部分が合体されて作られたことが考えられる。葬儀式以外の部分では、宗教的な式次第が決められていないので、それ以前のものがそのまま踏襲されたということが考えられる。もちろん、こういうケースもあっただろうという程度に考えてほしい。


葬式仏教

  「現在の寺院分布の大筋は、1467年から1665年にいたる約200年のあいだにできあがっている。その間、各宗の伝道者たちは、血まなこになって農村に足がかりをもとめた」
  これは圭室諦成の『葬式仏教』(大法輪閣)221頁からの引用である。現在の寺院の分布は、江戸時代初期に形づくられたというのである。そのあと彼は、「葬祭仏教化」した宗派が、人々に受け入れられて行ったという。(1)寺院と庶民との接触が、葬祭を主とするものであった。(2)葬祭宗教としてすぐれている浄土・禅の諸宗が伸びている。(3)他宗も葬祭仏教化することによって、辛うじて郷村の宗教化をなしえた。(4)葬祭を中軸に、寺と檀家の関係が強化された…という。
  農村に進出した伝道者たちは、村の既存の座や講の組織を利用して、そのまま葬祭を中心とした寺檀の関係を組織化していった。

 

日本各地の冠婚葬祭を記録した「風俗問状」

  文化14年(1817)、幕府の右筆の屋代弘賢(1758〜1841)は「風俗問状」という小冊子を作成して、各地方にいる友人のところに、その土地土地の冠婚葬祭の模様を尋ねた。今でいうアンケート調査である。この時の調査結果は、現在『諸国風俗問状答』というタイトルで、手にすることが出来、三一書房の『日本庶民生活史資料集成』の第9巻に収録されている。質問に対する回答は、5行くらいの短いものから、24行くらいのものまである。質問項目が多岐にわたっているため、一つ一つの回答が短い。集められたものは、北は奥州から南は肥後(熊本県)天草までで、葬儀の記事は、そのうち18ケ所である。

 

変化のあるものとないもの

  江戸時代と現在を比較してみると、葬送風俗に変化の目立つものは、「野辺の送り」、つまり葬列である。土葬の場合、遺族とその関係者が、棺をかついで墓地まで列をなしていくが、火葬が主流となった現在では、この葬列と野道具、つまり葬列に持参する持ち物が省略された。
  それから衣装。現在、喪服と言えば黒の略礼服を思い浮かべるが、当時は白の麻の上下であった。主な変化は、葬列と喪服である。その他、武士、町人、そして農民の葬列の際の衣装や持ち物が身分によって異なっていたことがあげられる。
  結論をいうと、葬列や喪服以外の風習は、江戸時代から今日まで続いているということが出来る。また現在も土葬の行われている地域では、江戸時代のままの葬列の風習が残っているところがある。

 

死装束と納棺

  人が亡くなった後、入棺の前には湯かんが行われる。湯かんは単に肉体を清めるというのではなく、魂を清めるということが大切な要素であるので、これには僧侶がかかわることが多かった。

  土葬、火葬ともに遺体を沐浴させ、死者の衣服は経かたびら、または白布で縫ったひとえの着物、あるいは時節の服を着せて入棺することなど一定していない。上下など着せることもある。
  さて柩のなかに白布の袋(頭陀袋)を縫って米を入れ、外に、手甲、またわらじ等を入れることもある。棺の外は白布で包むことが多い。また棺のうえに白無垢あるいは衣服をうちかけることもある。(三河国吉田領)

  死者は髪を剃り、通例白布の一重の着物を着せ、また同じ布の袷また布子を着せる。その宗派によって帝釋の印、または密印あるいは諸寺の経、僧印など入れる。わらじをはかせ、その人の常に手慣れた小道具を入れる者もある。(備後国品治郡)

  死衣を縫うのに、また糸の端を結ばず、襟なしに縫い、左前に着せる。(淡路国)

 

寺院へのお願い

  死者が出るとそれを寺院に知らせる必要があるが、これを「寺使い」とか「寺行き」とか呼んだ。この使いは二人で行われた。また次に出てくる「血脈」とは、極楽往生を保証する手形のようなもので、死者の頭陀袋(かばん)にこれを入れることがはやった。

  死人が出れば、旦那寺に申して早速参り、死者にさずける血脈を受け、お経を読む。もっとも旦那寺が遠方の者はしない。
  葬送の節、旦那寺に行って死者に行うことは、死者を沐浴し、髪をそったあと、かめあるいは桶に入れる。終日兄弟親類で真言念仏を唱え、葬送時に旦那寺に参って内にて勤める。それから葬儀場に行き、旦那寺ならびに他の僧侶が相並んで式典を行う。(備後国沼隅郡浦崎村)

 

寺院へのお布施

  菩提寺の住職は、読経の前に死者に剃刀をあてる。これをこうずりという。棺のなかに六文銭は家によっていれないところもある。せき銭として四八文を寺に送り、その他掛け銭として家から二貫・三貫を持って寺に送る者もある。読経僧・導師にはその場で布施を渡す。(陸奥国信夫郡・伊達郡)

 

喪主の衣装

  女性の喪服によく登場するのが「かづき」である。『広辞苑』をみると、「頭をおおうこと。頭にのせること」とあるだけで要領を得ない。一種のベールだろう。

  子息、親類等の衣服は上下の他なし。会葬の人も上下であり。郷村では、女は必ずかづきを被って従う。(三河国吉田領)

  土葬・火葬、子息親類の衣服等は、別にかわることはない。ただし小浜町家の風は、子は白い無紋の布衣を着、浅黄の素袍を着し、士烏帽子をかぶり、輿、傘、天蓋持ちなども右の服を着る。親類等は素衣に半上下を着て供をする。(若狭国小浜領)

 

出 棺

  家から棺を出す所は、平常の出口を使わず、竹や葦で仮門を作り、そこから出すことがよく知られている風俗である。また門から棺を出す時には、わら火をたくという習慣は今日でも残されているところがある。

  棺を出すとき、門戸の出口いっぱいに細い竹を角立てに折曲げ、これをあてて仮門とし、棺をこのなかに通す。棺をかつぎ出すとき、後を表へ向けてかき出し、外にて振り回す。出したあとは門火といって火を焼き捨てる。これは町家に限らず、武家でも行っている。(紀伊国和歌山)

  この仮門の儀式は、死者が再び家に帰って来ないようにするまじないで、葬列の帰りに行きとは異なった道を通るのと同じ理由である。

 

葬 列

  葬列はもっとも複雑で変化の多いところであろう。多くの人々の注目を集めるから、力をいれ、地域ごとにさまざまな特色を見せている。輿の屋根に鳥形を乗せる風習は、現在でもつばめの形に細工したものを用いる所がある。

  棺は四方棺、4人でかた上にかつぎ、屋根は御輿の屋根のように、上に玉か鳥を飾る。(陸奥国信夫郡・伊達郡)
  葬礼の行列に使う道具、棺台、天蓋、幡、八花、灯篭は八つ。ただし先堤灯は二つ。仮木戸、位牌六位、霊膳、四花、線香、樒(しきみ)。(葬礼に立つ者がめいめいに持つ)もっとも家の格式により異なる。(陸奥白川領)

  葬列に女性が白の「善の綱」、あるいは「縁の綱」を曳く習慣のあるところは多くみられる。

  在中農家では、死者がある家へ菩提寺に行って読経をすませ次第、その家の前から嫡子は位牌を持ち、近親縁者の者まで仏具、仏器などの品々をもち、女は棺前に先立ち、「縁の綱」という木綿を引き、これについて行列をする。村方はもちろん近村までうちより、老人は念仏を唱え、鉦、太鼓にて野辺の送りをする。(陸奥白川領)

  竜頭というものが葬列の道具によく用いられる。この竜頭については「魔払いのためと考えられているが、玉のようなものをつけたのがあり、玉袋と呼ぶ地方があるのを見ても、霊魂の容器の変形であり、花篭も喜捨の気持ちで存続しているが、形は魂袋と同じで、ともに分家などの者が持つ」(『日本民俗事典』弘文堂)とあり、興味を引く。

  葬送の時は白堤灯、次に紙旗、その次に家を継ぐ子が位牌をもつ。位牌の先に香炉と牌の台を持つ行事もある。その次に棺である。天蓋とて竜頭のついたものをさし掲げる。
  棺の後へ親類知縁の者など大勢が従う。会葬の人の多いのを喜ぶ事があるため、知縁の者は相互で皆出る。(三河国吉田領)

  血縁の女は白無垢を着、かづきを被り、真っ先に立つ。次に灯篭、同行あるいは懇意の者が持つ。次に四句偈旗(薄縁の親類)。次にローソク(厚縁の者)。次に紙花・香炉(血肉の者)。次に位牌(家を次ぐ者)。天蓋(家来分の者)。棺(血肉の者)。(伊勢国白子領)

  男女とも死者より上に立つ者は、葬列の供をしないが、鞆津には供をする者、持ち物のない者は柩の先に立ち、女のみ後に従う。位牌は嫡子はもたず、あるいは次男あるいは近き親類にもたせている。(備後国福山領)

  葬列の規模は格式に応じる。松明、灯篭、旗、盛物、紙花、仏事物、ろうそく立て、香炉、位牌、かご、この左右にそって輿の者が参り、杖、笠持ち、わらじ持ち、旗、灯篭、この次より諸々の懇意の者が見送る。(備後国沼隅郡浦崎村)

  当時の葬儀の衣装はわかりにくいが、五来重『葬と供養』によると、「葬列に立つ人は鉢巻にあたる手拭のような布を肩にかけたのである。この手拭をイロといった」とある。

  喪服の代わりに白布を巾三寸くらい。長さ2尺ばかりに切って、上下の襟にかける。位牌は家督相続の者が持ち、白い上下を着、頭に宝冠を結びつけ、髪の元結いを切る。足袋、わらじをはかない者もときにある。灯篭、旗持ちは出入り者が持つ。家付の家来、出入りの者などがいない場合は、互いに頼りあう。(備後国沼隅郡浦崎村)

 

葬 儀

  葬礼場に棺を持っていく、旦那寺の住職による引導、諸僧の読経がすみ次第、引き取る。無縁、薄縁ともにおいおい引き取って、関係の厚い者だけで墓所へ持参して念入りに埋葬する。(備後国沼隅郡浦崎村)

  導師による引導がすんだあと、他人は帰る。そのおり、親類や役付は下座して礼をする。(陸奥国信夫郡・伊達郡)

 

会葬挨拶

  この会葬の人に対する挨拶は、親族の焼香が終わって、寺の門などへ先に出て人々の帰る時に一礼する。忌明けのあとに、家に廻って謝辞を述べるなどするのみで、別に供応などのことはなし。(三河国吉田領)

 

火 葬

  火葬はわら、薪などにて焼き、骨を拾って瓶に入れ埋める。(陸奥白川領)

  浄土真宗はみな火葬で、土葬という事は大方ない。(越後国長岡領)

  近郷は火葬は野辺に大釜を構え、棺を上に乗せ、柿、せんだの木などで焼く。これは近隣の者が取り営む。(備後国品治郡)

 

土 葬

  土葬は最も多くみられた葬法である。墓地に到着すると、棺を左向きにに3回回し、死者の頭を北に向けて墓穴に埋めた。そのあと喪主、死者と血の濃い順に土をかけた。

  農人は大いに風俗が異なり、四五里で違う。それぞれの畑に葬る。また山野に葬る者も寺地に葬る者もある。(常陸国水戸領)

  疫病で死去の者は土葬しない所もある。(淡路国)

 

  服忌は町在中ともに、一七日あい慎む。これは令の通り服忌を守っては実業に遅れることがあるからである。七日がすむと、町人は見店を開いて商を始める。農家では畑の仕事にかかる。(陸奥白川領)

  忌服中の慎みは、僧侶のようにするのを最上とする。(越後国長岡領)

  忌中の間は家に引きこもり、門戸を閉め、喪服のままで慎む。(丹後国峯山領)

  葬儀後、多くは常服で家からの出行を慎む。家内しずかにあい慎み、家継者は五七日あるいは七七日は月代を延ばし、日々墓所へ参る。(備後国品治郡)

 

タブー

  現在「清め塩」が葬儀に使われている所が多いが、これに似たタブーとその防衛は昔からあった。

  葬送の時に親族の持つ刀の柄に紙をまいて、青竹の杖をもち、わらの草履をはく。葬儀の道で転ぶことを忌む。ぞうりは帰りに道にて脱ぎ捨てる。また帰りの道は同じ道を通らず、道を変えて帰る。戸口に入り、足を洗うのに手を用いず、足と足をこすって洗う。死後「願とき」といって、死者の平生着た衣を逆さにして振る。これは、一生の間にこめた願いを、解きはらう意味をもつ。
  市組のうちには、葬送を終えて家に入るとき、戸口や敷居のきわに塩に水を入れておいて、内に入るときに片足をつけ、臼の上の箕に米を入れ、それを1、2粒後へ投げることがある。(淡路国)

 

初七日

  初七日といえば、現在では葬儀の当日に行われることが多いが、江戸時代では当然7日目に行われ、葬儀後はじめてナマグサを食べる。

  7日の前後に斎の料理に酒を出してねぎらう。別に用事を多く頼んだ人には、法事にも招き、あるいは斎米など配ることもある。(備後国福山領)

 

儒 法

  水戸藩では儒教が重んじられていたので、武士の葬儀は儒教で行われていたようである。

  士以上は儒法を行う。寝棺を造り、紅色の絹に故人の名氏君之柩と白粉で記した銘旌を先に立てる。堤灯は高張、その数は役格によって決まっている。その格式通りの供廻龕まで白布で覆う。そのあと喪主は、その役格の供連れにて、喪服は木綿でねずみ色、長袴も同じ色。以下の人は麻上下で同色。(常陸国水戸領)

 

払い

  昔は仏式で葬儀が行われても、汚れを払うために別に修験者を呼んだようである。

  喪を送って帰り、修験者をよんで払いを行う。忌明けにも払いを行う。(越後国長岡領)

 

香典

  現在では香典といえば金銭であるが、当時は米が多かった。

  懇意・近隣・町内は七日のうちに香典を持参する。大方はしない。そのほか、香、饅頭などいろいろと持参する。女は別の赤飯を持参する。七日の間に、所どころからきたる。(陸奥国信夫郡・伊達郡)

 

お礼参り

  大方一七日、二七日がすむと、みすを取り、弔に来た人の家にお礼に出向く。これは近隣・親類・手伝いに来た家だけで、遠方には礼状を出す。(陸奥国信夫郡・伊達郡)

 

泣き女

  泣き女の習慣は世界的に分布しているが、今日はみることが少なくなった。昭和16年の『日本民俗学辞典』には、「泣き女は今も能登、八丈島、沖縄等に微弱ながら残っている」とある。

  魚沼郡の山里での葬送のおり、悲泣を助けるのに、よく声をあげて泣く者をやとって泣かせることがある。喪家の貧富、泣く者の上手下手によって、一升泣き、二升泣きという。(越後国長岡領)

 

子供の死

  江戸時代まで7歳以下の子供が死んでも正式な葬儀をしなかったといわれるが、この記録では2歳から行うという。遺体はわが家の床下に埋めたが、それはまだ霊の世界から離れ切っていない幼児の霊が、再びわが家に戻ってくるようにとの願いをこめたものと言われる。

  当歳の若い子は家のなかや床の下に埋め、葬式はしない。2歳から寺に送って葬儀を行う。(陸奥国信夫郡・伊達郡)

 

  テーマごとに、江戸時代の葬儀をみたが、意外に古さを感じさせないのはどうしたわけであろう。

 

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