1997.11
航空機事故で家族が体験すること

  外務省の97年5月の発表によると、昨年1年間に日本人が海外で、事故や病気で死亡した数は444人で過去最高だった。死因は、病気が半数近くの208人。次いで自動車事故65人、自殺37人となっている。数としては多くないが、航空機事故も見逃せない。航空機事故の場合には、遺体発見の困難さと、事故原因の特定に時間がかかるので、補償の問題に何年もかかることになる。そこで今回は、「海外の航空機事故で遺族が体験すること」と題して、外国の例を2つ取り上げて見た。


グァム島に墜落した第一報と乗客名簿

  ソウル発グアム島行きの大韓航空機801便ボーイング747型機(乗客231人、乗員23人)が、8月6日午前2時すぎ(日本との時差は1時間)、グアムのアガナ国際空港から5キロほど離れたニミッツの丘に墜落炎上した。連絡を受けた救援隊の努力によって、その日のうちに55人の生存者と、39人の死亡が確認された。しかし160人は存在すら確認できていないし、墜落現場が山のなかであり、機体が炎上したため遺体の確認に手間取った。乗客の大部分が韓国人の行楽客か新婚旅行者で、アメリカ人が15名含まれていた。
  8月6日早朝のニュースで事故が報道され、家族はその知らせに絶句した。
  金浦国際空港に設けられた緊急本部には、早朝から死亡者と生存者のリストを求める乗客の親族が訪れた。またソウル金浦国際空港の横にある大韓航空本社は、グアムに事故対策本部を設置したほか、本社5階会議室に臨時状況室をつくって対応した。そして同社は午前8時20分、30人の生存者の最初のリストを発表した。


家族の反応

  空港に駆けつけた乗客の家族は、身内の安否が第一の関心事だった。そのため、「会社は乗客の家族が、グァム島に行けるよう手配すべきである」との要求が出た。これに対して航空側は、「事故現場には近づけない。すでに特別便が調査に出発した」と言って、理解を求めた。
  海外での事故の場合、現地からの詳しい連絡はなかなか入らないし、また航空会社や旅行代理店に電話を入れても話し中の場合が多い。そこで勢い家族は、誰かを航空会社に直接行かせて、情報を収集してくることになる。今回の事故では、そうしたことも関係しているのだろう。インターネットのホームページが臨時に設置され、事故の情報や犠牲者の情報が流された。特に今回、グアムが作成した「大韓航空801便墜落サイト」には、被害者名簿から、現地のさまざまな連絡先までが登録されており、これからも発生する非常時の連絡の一つの雛がたを提供している。


●現地で最初に行なわれること

□死亡事故の場合、遺体の回収と身元の確認、および検視が行われ、死亡診断書が作成される。
□死者が加盟していた保険会社に保険金の請求をする。その場合に死亡診断書が必要である。
□在外公館に、死亡情報(日時、場所、死亡者の氏名、住所、旅券番号、死因、遺体安置場所)が入り、遺族の問い合わせに対応する。
□現地の葬儀社が火葬や遺体搬送の業務を司る。


●海外で事故が起きたら

□在外公館または旅行代理店から家族へ事故連絡が入る。
□家族は旅行代理店などとその後の対応について相談する。
□家族の希望により、飛行機で現地に向かうことがある。(緊急の場合、政府がパスポートやビザの特別手配をする)


救出ホットライン

  グアムのアメリカ海軍基地は、ソウルの国連司令部( CFC )とのホットラインを通じて、救出の任務と負傷者の医療などの情報交換が行われた。
  事故発生でまずアンダーソン空軍基地のトリアージ・チームが現場に向かった。またアメリカ海軍と空軍の兵士が、ヘリコプターで事故現場での救出作業に従事した。国防省は可能な緊急手術に備えるため、空軍の医師とC-130輸送機を準備した。


14万ドルの補償

  8月7日つけの「コーリア・ヘラルド」によると、死亡した乗客と乗組員は、それぞれ、14万ドル(1,600万円)と10万ドル(1,200万円)までの保険金が支払われ、大韓航空から葬式費用と1,000万ウォン(136万円)の弔慰金が死亡した乗客の家族に支払われることになった。
  死亡した乗客に補償される金額は一律ではない。それは交通事故の場合と同じように犠牲者の社会的地位や所得によってより高くなることがある。
  遺族は大韓航空と交渉するか、法廷に持ち込むことが予測された。法廷で争えば、裁判所は判決が下りるまでの間、遺族に最小生活費を支払うことを命じるであろう。
  これまでの例では、大韓航空は、1989年にリビアのトリポリで墜落した時、犠牲者の家族に弔慰金として死亡した乗客毎に1億4,000万ウォン(1,900万円)を支払っている。


救援活動

  墜落現場には、米軍ヘリや米沿岸警備隊などが救出活動に当たり、乗客は続々と病院に運ばれた。およそ200人の米国海軍が救助に動員された。大韓航空の李泰元副社長は55人の生存を発表し、グアムのメモリアル病院に12人、米海軍病院に15人が収容され、28人の軽傷者がいることを明らかにした。乗客は日本人1人と米国人13人を 除いて、ほとんどが韓国人だった。
  外務大臣はワシントンに相談し、横田基地からC-9軍用機で医療器具積み、グアムから傷ついた人たちをソウルに輸送することを確認した。


生存者の治療と

  大韓航空機事故の8人の生存者が、グアムの海軍病院から、横須賀の医療チームの協力によって、8月8日韓国に運ばれた。医師は生存者が衝突のショックの治療のため、精神医学的なカウンセリングを受ける必要があると語った。
  専門家はこのショックを「心的外傷後ストレス障害」と呼んでいる。
  アメリカ軍の輸送機がソウルの 金浦 国際空港に到着すると、8人はすぐに救急車に移され、市内の4つの病院に移された。8月7日最初の生存者を韓国に輸送したアメリカ軍の輸送機は、11人の負傷者を連れて帰るために再度グアムに戻った。


身元確認の努力

  8月7日、FBIは身元確認のために指紋のプロを派遣した。死者の身元確認は、身分証明書や顔写真で行ったあと、遺族に確認をとるが、遺体がひどく損壊して確認がむずかしい場合には、指紋、写真、歯のカルテやレントゲン写真などが用いられる。なお最近ではDNAによる身元確認も行われる。
  検察官総長事務局( PGO )から、5人の遺伝子のチームがグァム島に飛んだ。
  一方警察庁( NPA )は、254人の搭乗者のうち、174人の韓国人の指紋記録を航空便で送った。
  木曜日、NPAは韓国の20人の指紋専門家が身元判明に協力した。


遺体の搬送

  大韓航空機の事故現場から、8月12日までに、200人以上の遺体が回収された。遺体は現地の病院の遺体安置場に置かれた。遺体の身元が確認されると、すぐにソウルに運ぶように手配された。
  墜落から8日後の8月13日、グアム島から10人の遺体が、ソウルに到着した。
  焦げ茶色の木製の棺に入った遺体は、金浦空港に到着した後、家族が待ち受ける6つの病院に運ばれ、病院霊安室に移された。


家族の到着

  160人の家族が8月7日午前3時にグァムに到着している。そして8月10日には235人の家族が墜落現場近くを訪れた。「公式グァム墜落サイトセンター」の記事によると、「8月23日、200人以上の関係者が墜落現場に集って追悼をしたとある。またアメリカ赤十字では、遺族のために、墜落現場の土と灰を入れた箱を用意して、遺族に渡したようである。
  100人以上の人がグァムに残り、(多くはパシフィック・スターホテルに滞在)その間、ボランティアのグループが、身元確認作業や遺体搬送、電話連絡などの手伝いをした。なお追悼式は島の至るところで行なわれた。最初の追悼式は8月6日、キリスト教の司祭の進行でおこなわれ、また個人的な仏式の追悼式も8月8日に行なわれた。


●現地で火葬を行った場合

  この事故のように、軍用機の協力がある場合には別として、現地で火葬することも珍しくない。
□現地で火葬した場合には、火葬証明書を発行してもらい、遺骨と一緒に保管する。
  (ただし、国によっては火葬が出来ないところがあるので、確認を要する)
□遺品及び遺骨を飛行機にて持ち帰る。ただし現地の土は「植物防疫法」により輸入が禁止されている。
□持ち帰った遺骨を埋葬する場合は、海外で発行した火葬証明書を役所に提出し、改葬許可証を発行してもらう。


●遺体を本国に搬送する場合

□遺体を本国に搬送する場合には、葬儀社でエンバーミング(遺体防腐処置)処置をし、証明書を添付する。
□遺体は航空貨物で搬送する。(ただし費用は安くない)
□遺体を日本の空港で受け取る場合、貨物便と航空便との到着時刻を合わせて予約する。
□日本に到着後、税関で遺体引き取り手続きをし、葬儀社の搬送車で遺体を自宅に運ぶ。
□遺体を火葬する場合は、現地の日本大使館、または遺体が到着した市町村で火葬許可証を発行してもらい、火葬場に提出する。


追悼式

  ソウルの韓国 放送局(KB)体育館に、死者を追悼する祭壇が大韓航空によって準備された。
  館内は線香の香り満ち、大きい長方形の祭壇が設置され、スタンドの周りは大量の白菊で飾られた。
  祭壇には207人の被害者の氏名、遺影そして香炉が安置された。多くの遺族、親類と友人たちが式典に参加し、そのなかで男子生徒が、67歳の祖父を哀悼して歌を歌った。
  8月29日、事故のための臨時の遺体安置所が閉鎖された。この日までに93体の身元が確認された。


TWA機、海中に墜落

事故と捜索

  1996年7月17日、ケネデ空港を飛び立ったTWA800便ボーイング747型が、午後8時40分、ニューヨークのロングアイランド沖に墜落、230人の乗客と乗組員の全員が死亡した。
  沿岸警備隊によれば、墜落地点は水深およそ120フィート、5平方マイルの区域を捜索領域とした。海中はおよそ華氏65度の水温で、生存者が助かるのはおよそ8時間が限度という。73人の遺体が回収され、遺体安置所に運ばれた。


遺族の苦しみ

  犠牲者の家族は、遺体との対面が終わるまでは、その死を信じることが出来ない。そのために、遺体の身元確認が遅れることは、遺族の苦しみをそれだけ引き伸ばすことになる。
  この事故でも遺体の回収が遅れ、事故の4日目までに回収された101体のうち、53体が識別された。4分の1弱である。
  「我々が第一に望むことは遺体の発見である」と遺族は語った。
  「飛行機の回収はどうでもいい。遺体を早く見つけて帰りたい。」
  検視官は、遺体が衝突でバラバラになり、検視に時間がかかると語った。 ニューヨーク州知事は、もっと多くの病理学者を集めることを約束し、作業が順調に進んでいると語った。


事故原因

  FBIでは、墜落の原因は、爆弾、ミサイル、あるいは機体の欠陥のいずれかであるが、現時点ではその原因は特定できないと発表した。事故原因が特定できなければ、補償問題もそれだけ伸びるのである。また被害者の家族も、死に対する怒りをどこに向けてよいかわからないので、それもストレスの一因になった。
  7月29日、TWA800便の被害者の家族に対し、飛行機の残骸を引き上げることより、犠牲者の発見を優先すると言って安心させた。しかし身元のわかった遺族にとっては、事故原因の追及が第一の関心事であった。


遺体発見の過程

  7月29日現在、161人の遺体がロングアイランド領海から回収され、155遺体が識別された。事故から10日後に67%の識別率である。

  7月31日までに181の遺体が回収され、49の遺体が行方不明のままである。
  視界の悪さと冷たい水温のために、ダイバーは1回15分間と限られているのである。

  8月4日、TWA事故のコックピットとその乗組員の遺体が発見され、機長とフライト・エンジニアの遺体が回収された。機長等の遺体の回収で、犠牲者194人が確認され、残りが36体となる。

  8月11日、2体の遺体が引き上げられ、土曜日にもう2体の犠牲者が引きあげられた。
  これで発見された犠牲者は198体となり、残り32体となる。
  しかし捜索中にハリケーンが襲い、この間、捜索は中断される。

  8月29日、第4のコックピット乗組員の最後のメンバーの遺体が発見され、これまで211体が大西洋から回収され、残り19体となる。

  遺体の発見は時間の経過とともに困難を極め、最後の2人の身元が確認されたのは、事故から1年以上たった8月16日であることが新聞で発表された。


遺品の発見

  「労働者の日」の週末、FBIアシスタント部長は、どんな残骸や個人的な物でも発見したら警察に届けてほしいと大衆に呼びかけた。
  事故後いくつかの残骸がニュージャージーの浜に打ち上げられた。水中で犠牲者の財布が発見された。
  「どうか遺品の品をていねいに扱ってください。遺品は犠牲者の家族にとって非常に大切なものです」と語った。


検視報告

  1997年1月3日、TWA800事故から最初の検死報告が行なわれた。
  検視官のチャールズ ・ウェトリ博士は、検視報告が遅れたのは、政府の許可が伸びたためと語った。
  回収された215人の犠牲者の遺体のうち、およそ80体に対し、遺族に死因の説明が行われた。
  検死報告は機体の爆発原因が確定するまで保留されてきたが、原因が特定出来ないために許可せざるえなかったのであろう。
  家族がわかりきった死亡原因に、さらに検視報告を求める理由として、犠牲者が爆発のあとにも生きのび、苦しんだことが確認できた場合に、損害賠償に追加項目として提出されることがあるためである。
  しかしウェトリ博士は、犠牲者は全員即死か、飛行機が爆発した時には意識不明だったと語った。彼は犠牲者の大部分が「最高度のむち打ち症」、頭骨から脊柱の分離を経験した直後に死亡した可能性が高いと語った。


TWA残骸を見る犠牲者の家族

  1997年2月8日。 アメリカ国内とヨーロッパから、およそ150人の犠牲者の家族がTWA800便の残骸が集められている格納庫を見るために、ロングアイランドに集合した。ここでは、機体とエンジンの見学が予定されていた。この見学は事故原因が特定出来ないことによる遺族の怒りを、少しでも解消するのに役立つかも知れない。こうした事故後の見学は、この事故が初めてではない。
  現地では、TWA800の犠牲者の家族は小グループにまとめられ、それぞれのグループにはFBI係官と心理カウンセラーが付き添った。
  家族は本物の機体を見る前にあらかじめ残骸のスライドを見せられた。これはショックを少なくする意味であろうか。ただしこの見学には弁護士や関係者は参加できない。


DNAによる身元確認

  大韓航空機事故の場合にも述べたが、犠牲者の識別に用いる資料がない場合に、DNAによる身元確認が使われる。
  今回の調査では、犠牲者の洗濯物や歯ブラシに付着している皮膚の一部が用いられた。そしてDNA分析によって7人の遺体が識別された。DNAによる分析には何日もかかるが、他の方法は利用できない場合には効果的である。


海岸での追悼式

  衝突の4日後に、追悼会がニューヨークで行われた。ケネディー空港内の格納庫をチャペルのように作り替え、式典では犠牲者の名前が次々と読み上げられた。
  バグパイプで「アメージング・グレース」が演奏された。犠牲者が多国籍にわたっていたため、祈りはフランス語、ヘブライ語、イタリア語と英語で行われた。式典の参加者のなかには遺体探索に活躍したレスキュー隊員も多く参加していた。バグパイプが再び演奏され、州兵陸軍の隊員がトランペットを吹いた。
  式典のあと人々はバスに乗って、墜落現場の見える海岸に向かった。
  2機のF-16戦闘機が上空を飛び、そのあとを 低空飛行のC-130型輸送機が続いた。2人の救助隊員がバラを積んだボートを沖に向かってこぎ、海面にバラを投げた。遺族の人々が波の打ち寄せる砂浜に立ち、それぞれ海に向かって花を投げたり、思い出の水をびんに詰めたりした。また遺族は海岸線に集い、めいめいに海殻、サイン、数珠、詩歌のカードを死者の眠る海に送った。


一周忌

  惨事から1年たった1997年7月17日。TWA800便犠牲者の家族と友人たちが、追悼式に出席するためにニューヨークに集まった。 式典は、マンハッタンの五番街にあるセント・パトリック大聖堂で行なわれた。その日の午後、ロングアイランドの墜落現場近くにあるスミスポイント公園で追悼会が行なわれ、ニューヨーク州知事が主人役を務めた。
  なおTWA800便の事故の死者を追悼し、また救援に協力した人々をたたえるためのメモリアルパークが作られた。その名前もモリチェズ湾800便メモリアルパークである。

 

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