1996.06
老いと死の通過儀礼

  人生の転機である誕生、出産、死などの時期に、体験する者が安全を脅かされることなく無事通過することを目的として行う儀礼である。つまりこの時期は大変に危険で、生命を落とすことも珍しくなかった。こうした危機回避機能をもつ儀式は、時代や民族、性別や宗教を超えて広く継承されてきた。しかし現代では医学の発達で、出産時での死亡率は激減し、また一方交通機関やマス情報の発達により、通過儀礼の意味や価値があいまいにされ、その伝承を守り伝えることが難しい時代となった。そこで通過儀礼の果たしていた役割が変貌したり、まだ開発されないまま現在に至っている状態にある。ここでは老いと死の「通過儀礼」についてみてみたい。


通過儀礼とは

通過儀礼の3つの部分

  通過儀礼の研究は、1907年人類学者のファン・ゲネップが提唱した説が今日まで影響力をもっている。彼は通過儀礼を3つの部分に分けた。分離、移行、合体である。「分離」とはこれまで属していた身分や状態から離れることを意味し、「移行」はこれまでの身分から離れ、自分の能力や待ち受けている状況にしたがって到着場所を探すまでの期間である。最後の「合体」は新しい身分や組織に入るための時期である。
  人生の最後に迎える葬儀の場合は、これまで属してきた社会と「分離」するための儀礼が中心となり、結婚式は、これから属する家や共同体に「合体」する儀礼が中心となる。またそれぞれの儀式を細かく分解してみたとき、それを3つに分けることも可能となる。たとえば「葬儀」を3つに分け、「儀式」は現世からの分離、「葬列」が移行、そして「土葬」が合体と捉えることも可能である。
  では人生の盛りのあとに訪れる「定年」も通過儀礼に相当するのではないだろうか。この場合、「分離」は退職であり、「移行」は再就職のための期間であり、合体は再就職ということになる。そしてそれぞれの時期には、特有のストレスがあり、それを潜り抜けるためにふさわしい儀礼が設けられている。
  例えば「定年」の場合、分離儀礼は送別会、合体儀礼は入社式ということになる。では再就職しない多くの人はどうなるのか。ここでは分離以後の移行、合体がない。毎日が日曜日であるため、毎日が移行期間であるともいえるし、楽隠居というパターンのなかに「合体」するまでが移行期間にあたるかもしれない。
  今日ではかっての通過儀礼がもたらした効用が、誰にでも通用する時代ではなくなってきている。かっての通過儀礼が適切に機能しなくなったゆえに、人生の局面を乗り越えることが出来ず、心に傷を残したり、新しい状況に価値を見い出すことが出来ないまま老け込んでしまうことが往々にしてみられるのである。

 

葬儀のなかの通過儀礼

  ファン・ジユネップの『通過儀礼』のなかで葬儀の場合の分離・移行・合体儀礼を次のように紹介している。「分離」は遺体を家の外に運ぶ種々の方法、死者の持ち物、家、宝物、富を焼くこと。このように故人の持ち物を処分することによって、現世から完全に分離させるのである。また遺体を洗ったり、油を塗ったりする浄化も分離の一種であるという。これはたぶんこの世の汚れをきれいに拭さることによって、より異界への旅たちを容易にするためであろう。
  「移行儀礼」は、死者の部屋(通夜)や家の玄関などに遺体をある程度の期間置いておくことなどによって表現されるという。これは死者を埋めたり焼いたりする前に、その準備期間を設けるということであろう。かってのもがりの習慣も、死者が完全に死んでいるのかを確認するための期間の役割をもっていた。
  「合体儀礼」には葬儀の後の食事や法事の食事がある。こうした場面での食事は、生き残った者同士が、あるいは死者との間にあった切断された絆を、もう一度結び合わせる働きをしているという。

 

移行・合体儀礼である喪

  ユダヤ教では葬儀のあとの喪が3つの時期に分けられている。一つは葬儀から埋葬までの時期、次に埋葬から7日間の時期。そして7日目の終わりから30日目までである。
  ユダヤ教では葬儀のあと土葬を行う。埋葬の場所まで葬列に向かう途中で、棺を担いだ人たちは7回停止し賛美歌を歌う。賛美歌が7という聖なる数によって高められ、葬列はより厳粛なものとなる。埋葬が終わったあと、会葬者は2列になりその間を遺族が通り抜ける。そのときに遺族に向かって、「神がシオンとエルサレムの遺族のなかで特にあなた方を慰めるでしょう」と言葉をかける。
  埋葬から7日間は第2の喪に入る。遺族は家に戻り、ローソクを灯して7日間その炎を見守る。炎は人間の魂の象徴である。そのあと遺族は、友人たちにの手になる慰めの食事をとる。このなかに卵のような丸い物が含まれている。これは生命と希望の象徴である。この7日間遺族は家に残り、仕事などの世俗的な行為を控える。また髭剃りや風呂も避け、皮靴をはくことや性行為を避ける。この期間に友人や近親者は、遺族を訪れて慰める義務がある。
  7日目が過ぎると遺族は働きに出てもよいが、30日が過ぎるまで社会的な集まりに参加してはいけないことになっている。このようにして、遺族が親族の死という危険な時期を乗り越えるのである。
  そして死後1年目に記念行事が行われ、記念のローソクがともされる。これは24時間ともされる。そして墓石もこの時に建てられる。
  この喪の行事は日本の喪の行事に何かしら似通っている点が感じられる。いずれにしろ、喪と喪開けは、死者ばかりでなく、残された遺族が社会に再復帰するための「移行」から「合体」の儀礼期間といえる。

 

不完全な死者儀礼

  最近お寺さんを呼ばず、音楽と弔辞を中心に構成される「自由葬」というものが、葬儀の流れを作り始めた。これは宗教儀礼が形式化し、また戒名料などの批判から生じたものでだろう。また社葬が無宗教で行われたり、有名人が「お別れの会」などを催してマスコミなどに報道されることで、一般の人々も葬儀形式を選択出来る時代になったという認識が生まれた。
  また葬儀の重点は、死者どのものよりも遺族や会葬者に重点が置かれてきているため、死者儀礼が不十分になってきているようだ。これは通過儀礼の構造にあてはめてみても理解できる。つまり分離儀礼としての葬儀はよく理解出来るが、死者の魂の移行、合体はあくまでも信仰の次元になるので、本当に死者が三途の河を渡って、西方浄土に合体したどうかの保障は得られない。かってはその証拠として遺体が腐敗せず良い香を出したとか、火葬したら紫色の雲がたなびいたというエピソードが提示された。それは庶民が往生の証拠を求めたがゆえに、作り出された演出である。しかし現在では、死後の魂が無事往生したという証拠は求められないし、提示しようがない。戒名は仏の弟子となった標となるが、成仏した標ではないのである。このように「合体」儀礼が完全にその役割を演出しきれず、求める方もそれを正面から要求しなくなったために、葬儀がより世俗的な流れをたどったといってもよいだろう。ただし残された「合体儀礼」がないわけではない。それは先にも登場した土葬の場合の土に帰る儀礼、会食儀礼などであろう。

 

伝統的イニシェーションの終焉

  イニシェーションは宗教用語で、入会儀礼と訳されている。仏教の出家もフリーメーソンの入会もこのイニシェーションを通して確実なものとなる。この儀礼の重要な要素は個人として「死と再生」を象徴的に体験することである。キリスト教では洗礼をすることで、これまでの自分を清算し、キリスト者として再生する重要な儀礼となる。この洗礼はもともと川に行き、頭まで水の中に沈めてしまうという力強いものであった。スタインベックの小説『怒りの葡萄』にも川での洗礼の場面が出てくる。この水をかける儀礼は、インドの場合には王様の即位儀礼と関係がある。これを仏教では潅頂といい、王の資格を持つ者の頭頂に頭から水をそそぎかけた。この水は聖なる力の象徴であり、この水をかけられた瞬間、彼は個人ではなく天国の代理人となるのである。
  残酷な風習と考えられる割礼も、イニシェーションのひとつである。正式に割礼を受けた者は、それまで母親の所有物であった関係を断ち切り、その象徴である血を出すことで、初めて男の世界の仲間に入るという象徴行為であった。しかしこうしたイニシェーションの伝統は、地縁、血縁の結びつきが生きている時には効果的に働いていたが、現在ではイニシェーションの伝統そのものが失われ、また維持されているところでもその効果は疑わしい。それは時代の要請によって、新しく生まれた宗教団体の閉鎖的な空間のなかでしか力を持ちえないのかもしれない。

 

任天堂キッズの登場

  「任天堂キッズ」とは、大前研一のいう「ドラゴンクエスト」が発売された86年に20歳以下だった世代をさす。彼等は日本人としての文化伝承を受けていないので国に対する忠誠心はゼロ、またはマイナス。この世代が実際に影響力を持ち始めるのは西暦2000年くらいという。彼らはかろうじて保持されてきた伝統を完全に無視してくるのだろうか。あるいは彼等「新人類」も、しかるべき年齢になればそれなりに伝統回帰するのであろうか。
  こうも言われている。大学を出てから外国留学した者は、自分の考えをもって外国の文化を取捨選択するが、それ以前の年齢で留学すると、外国の文化を無批判に受け入れてしまうと。同じように「葬儀」に尊厳も伝統も感じない「キッズ」が大きくなったら、彼等は何を基準に葬儀を行うのであろうか。


高齢者が迎える危機

高齢者のマイナスイメージ

  高齢社会はすでに始まっている。現在我々は「死」はタブーでなくなった時代に生きていると思っている。では「老い」はどうだろうか。ベティ・フリーダンは『老いの泉』(西村書店)のなかで、「老い」についてのイメージ調査について書いている。
  この調査は、雑誌広告の中で高齢者が何人、どんな役割で登場しているかを調べたものである。それによると、『ヴォーグ』には290人の登場人物に対し高齢者はたった5人。雑誌『エスクァイア』は201人中3人である。このように広告には高齢者は登場させてもらえない。また記事のなかでも、高齢者に関する記事の多くは「高齢者が抱える窮状」を取り上げたもので、日常のなかにみかける高齢者の姿を抹殺している。このように「高齢者」についてのメディアの扱いは、広告のなかでは登場させないし、また記事のなかでは問題点ばかりをクローズアップさせ、高齢者のイメージを肯定的に扱っていない。この理由は、平和や幸福では記事にならないが、危機や不幸は記事になるということであろうか。広告の場合はその反対で、健康で裕福というイメージを売る紙面には、高齢者は肩身の狭い思いをしなくてはならないのかもしれない。

 

女性のライフサイクルと男性の短命の関係

  女性はその一生のサイクルのなかで、男性に比べて役割を中断する時期が多い。たとえば結婚して退職し新家庭に入ると、これまでの連続性が跡絶える。次に妊娠して子育てという役割を担うことになれば、職業についている女性でもこれまでの役割が変化する。そして子供が成長して心身ともに自立すると母親役にお別れしなければならない。こうした大きな転機を何度も体験してきた女性に対し、高齢になって初めて退職をいう経験を味わい、新しい環境に入る男性の方が新環境に適応が難しいのではないか。ベティ・フリーダンは、転居、結婚、転職などの変化を繰り返した男女の方が、年を取っても士気が高いという。これは男女に限らず、同じ状況に長くいた人間ほど適応性に欠けるため、新しい環境に移されたときには大きなストレスとなる。こうした理由から男性は女性よりも短命が多いという数字となってあらわれるのだろう。

 

退職による健康の危機

  イギリスのランカシャーで行った健康調査で、退職前の2年間に病気の割合が増加するが、退職直後は急減し、退職後4年から6年して再び増加しているという。個人の生きがいの一つが仕事であり、その仕事が失われることは、自分の価値そのものの見直しを迫られることに他ならない。退職はこれまで自分が属していた社会からの分離にあたる。この分離を上手に切り抜け、自分にあった社会との再統合が行われなければならない。しかしこのソフト・ランディングに失敗する人が多いことも事実である。うつ病の発生率が64歳から70歳の間が一番高いというのも、そうした事実を反映している。

 

末期の病気による危機

  「介護」は、「治療」が出来なくなる生命の終わりにおいて特に重要である。米国では毎年約200万人が死ぬが、ほとんどが病気、苦痛、正常な機能の喪失、孤独、そして恐怖などに苦しんだ末である。
  これはV・フュックスの『生と死の経済学』(日本経済新聞社)にある言葉である。これは我が国にでも事情は同じで、不治の病を抱えた人は誰しもが体験する危機である。治療が出来なくなる時期を迎えた人は、人生の最後で最大の危機の一つといえるであろう。しかしこれに対する通過儀礼は用意されていない。ではどの世界にもないかというとそうではない。たとえばアメリカでは病院付属のカウンセラーや牧師がおり、必要ならば患者のもとに派遣されて、彼等の悩みを聞いたり必要なアドバイスが与えられる。日本の場合は、坊主が病院に顔を出すということはまず考えられない。また専門のカウンセラーもよほどの事情がない限り、病院の方から手配してくれることはないだろう。こうした状況のなかでは、医師もがん告知など恐ろしくて出来ないだろう。

 

伴侶の死と悲嘆

  ベティ・フリーダンは『老いの泉』のなかで、「なぜ女性は男性より長生きで、豊かな老いを過ごすのか」という疑問に答えている。高齢者が抱える危機の一つに伴侶の死がある。アメリカの統計では、高齢女性の方が配偶者の死にスムーズに「適応」し、悲しみや苦しみがいかほどであろうと、その後は再出発している。一方男性の場合は妻が死ぬと、同年齢の男性に比べて、その後2年以内に病気になったり、病気で死んだりする可能性が高い。しかし再婚するか5年以上生き延びれば消える。(同書上、162ページ)

 

死者儀礼の役割

  ローズマリー・ゴードンは『死と創造』(創元社)のなかで、死の儀礼とその意味を次の5つに要約している。

(1) あらゆる移行は危険なものとして経験される。しかし生から死への移行ほど危険なものはない。

(2) 儀式を念入りにすることで、社会は移行状態の心理的な危険性を認める。社会的に受けいれられる形式を整えることで、こうした儀式は、個人がその情動を否定したり抑圧したりすることなく、ある範囲ないし限界内で表現することを助ける。

(3) 儀式の存在は混乱ないし解体の感じを軽減するのに役立つ。それが、当事者にきちんとした形の表現の機会を与えるからである。それは、同じ社会の仲間の蓄積してきた経験が彼にも役立つ、という感じを与え、彼自身の状態、経験、苦境についての方向性を示し、その無力感と孤立感を和らげる。

(4) 死の儀礼は、愛していた人の死にまつわる多くのアンビバレントな感情に、形と表現を用意するように見える。

(5) 死の儀式によって、生者は、自分たちがなお死者とつながっており、彼らの役にさえたてると感じることができる。

(6) 死の儀式は遺族たちが生活に戻り、社会的関係の中に再び入り込むのを助ける。ー死者とはっきり別れ、見放したことからくる過度の罪悪感や良心の咎めなしに、である。(氏原寛訳)

 

死者儀礼を検証する

  では現在の葬儀は果たしてこのこれらの役割を果たしているのであろうか。
  (2)の「儀式を念入りにすることで、社会は移行状態の心理的な危険性を認める。社会的に受けいれられる形式を整えることで、こうした儀式は、個人がその情動を否定したり抑圧したりすることなく、ある範囲ないし限界内で表現することを助ける」
  これは遺族の不安な心理状態(移行過程)を儀式という定められた形式に置くことによって、遺族の整理されていないさまざまな感情を時には放出させ、時には抑圧させながら危険な時期を過ごさせるということであろう。これは現在の式が引き続き果たしている役割といえるだろう。

  (3)の「儀式の存在は混乱ないし解体の感じを軽減するのに役立つ。それが、当事者にきちんとした形の表現の機会を与えるからである。それは、同じ社会の仲間の蓄積してきた経験が彼にも役立つ、という感じを与え、彼自身の状態、経験、苦境についての方向性を示し、その無力感と孤立感を和らげる。」
  これは2 と同じ内容に感じられるが、「どうしたらよいかわからない」という状況に置かれた時、彼のすべき事柄を提供することによって、何をしたらよいかがわかり、それが無力感を和らげるということであろう。これも現在の葬儀が提供している働きである。

  (4)の死の儀礼は、愛していた人の死にまつわる多くのアンビバレントな感情に、形と表現を用意するように見える。
  このアンビバレントな感情とは作者の説明によると、喪失の悲しみ、罪悪感、怒り、恐れなどの感情をさす。ただし悲しみや怒りなどの感情に表現を用意すると言ってもわかりにくい。

  (5)の「死の儀式によって、生者は、自分たちがなお死者とつながっており、彼らの役にさえたてると感じることができる。」これは、儀式のなかで死者を無事あの世送り届けるために供物を供えたり、読経をしたりすることによって、自分たちが死者の役にたっていると感じさせることに意味がある。

  (6)「死の儀式は遺族たちが生活に戻り、社会的関係の中に再び入り込むのを助ける。」
  これは葬儀とその後の法事、さまざまな手続きを処理していく中で、死者についての思いや関係が順次整理されていくことをさしている。従って、交通事故や災害などで急死した場合などは、遺族の心の処理はより長くかかることが考えられる。そのため急死した人の遺族を満足させる葬儀というものは、大変にむずかしいということを考えておかなければならない。

 

死の恐怖の克服とその応用

  「死を考えない最上の方法は、死を迎えようとしている人から物理的に遠ざかることである。しかし、それを見据えることで恐れを克服することができれば、人はだれでも死ぬ運命にあるという事実を受け入れるようになる。」(B・フリーダン『老いの泉』より)
  モンテーニュも人は死について考えないことがもっとも安心な方法であるといっている。しかしなかには、考えないようにしていてもそれが頭から離れない人もいるだろうし、何を見ても悲しい思い出にダブって見える人がいる。そうすると、それを克服する方法が必要となる。それが通過儀礼とどのような関係があるかはさておいて、一般に知られている方法を紹介したい。それは、自分が体験した悲しい出来事をリアルに再体験することである。デビッドマス著『トラウマ』に、よると、まず映画館のなかに座っている自分を想定し、自分が受けた悲惨な体験をスクリーンの土に思い浮かべるというものである。次に今度は自分が体験したことを、時間を逆にして体験し直してみる。この方法によって多くの患者がその後遺症を克服したという。自分の体験が心の奥にしまい込まれ、それが不眠症やイライラや不安の原因を作っていた場合、それを客観的に体験することによって克服するという方法である。

 

新しい通過儀礼

  通過儀礼はその機能が分析され現代に生かすことで、応用心埋学やボランティア活動などの人的支援に置き換えられている部分があるといえるだろう。現代はかってない大きな変革期にあるため、人類そのものが集団イニシェーションの渦の中に人っているのかもしれない。われわれはその中で自分を見失わないようにしなければならない。

 

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