1995.12
アメリカ大統領の死と葬儀

  アメリカの大統領は、初代から94年に亡くなった37代ニクソンまで36名が死亡している。彼らの平均寿命は69.6歳で、一番長生きしたのは2代大統領のアダムスと31代のフーヴァでともに90歳まで生きた。暗殺で死亡したのは4名で、46歳だったケネディが最も若くして死亡した大統領であった。


G・ワシントン

  (1732〜1799)初代大統領。アメリカ合衆国建国の父。1775年以来独立戦争を指揮し、83年独立を成就させ、初代大統領に就任、92年再選。彼はマウントバーノンで幸福な引退生活を望んだが、1798年フランスとの戦いが切迫し、総司令官の命令を受けた。79年12月12日彼は喉頭炎にかかり、医者の勧めに従って960ccの血液を抜いた。これが彼の生命力の衰えを促し、14日(土)死亡した。生きながら埋葬されるのを恐れた彼は、「死後2日間は埋葬してはいけない」という遺言を残していた。葬儀は18日(水)の午後にきまった。16日には埋葬先の家族の霊廟の点検が行われた。葬儀には、彼が属していたフリーメーソンの団体も参加することになった。
  18日の朝、マホガニーの棺に入ったワシントンの遺体はポトマック河を見下ろすマウントバーノンの広場に安置された。人々は11時には最後の別れに集まってきた。午後3時過ぎに葬列が開始され、葬列が霊廟に到着する頃には日が沈みかけていた。霊廟の前で宗教儀礼が行われたあと、フリーメーソンによる古代儀礼が厳粛に行われ、棺が廟に納められた。(67才)

 

J・アダムズ

  (1735〜1826)第2代大統領(1797〜1801年)。独立戦争で活躍。彼は死の直前まで快活で明晰であった。彼は独立宣言の50年記念日にあたる1826年7月4日に、彼の故郷であるマサチューセッツ州で死亡した。(90才)

 

T・ジェファソン

  (1743〜1826) 第3代大統領(1801〜1809)。1776年、独立宣言を起草。晩年ヴァージニア大学総長。独立宣言の50年記念日にあたる1826年7月4日に、ヴァージニア州モンチセロで死亡。2代大統領と同じ死亡年月日である。彼が生前に言い残した遺言により、墓碑銘には「アメリカ独立宣言、ならびに宗教の自由のためのヴァージニア州法の起草者、そしてヴァージニア大学の父」と書かれ、大統領の功績は記されなかった。(83才)

 

J・マディソン

  (1751〜1836)第4代大統領。「合衆国憲法の父」といわれ、ジェファソンの後継者として就任したあと、第2次米英戦争を決意。彼は死の前年より寝たきりの生活を送り、ヴァージニア州モンペリエで死亡。(85才)

 

J・モンロー

  (1758〜1831)第5代大統領(1817〜1825)。国務長官・陸軍長官などを経て大統領。モンロー宣言で有名。晩年ニューヨーク市の女聟の家に移ってそこで7月4日に死亡した。またしても独立宣言記念日である。彼は死後20年してからヴァージニア州リッチモンドに改葬された。(73才)

 

J・Q・アダムズ

  (1767〜1847)6代大統領。マサチューセッツ生まれ。外交官としてモンロー宣言の推進を行う。大統領をやめてから17年間下院で活躍。2月21日執務中に2度目の中風の発作に襲われて倒れ、2日後に死亡。(81才)

 

A・ジャクソン

  (1767〜1845)第7代大統領。ニューオリンズの戦いに勝ち、「アメリカのナポレオン」と呼ばれた国民的英雄。1837年3月、任期を終えテネシー州の自宅に帰った。すでに結核に冒されていたが、乗馬などの日課は欠かさなかった。最後まで大統領選挙の応援を続けた。(78才)

 

M・ヴァン=ビューレン

  (1782〜1862)第8代大統領。ニューヨーク州のキンダーフック生まれ。1836年大統領に当選するが、翌年アメリカ最初の大恐慌に見舞われ、出口のないまま任期を終える。その後も政界にとどまるが、南北戦争中に故郷のキンダーフックで死亡。(80才)

 

W・ハリソン

  (1773〜1841)第9代大統領。「丸太小屋とりんご酒を愛する庶民」というイメージで選挙戦を勝ち取り、大統領に就任したときは68才。3月4日に就任式を終えたハリソンは風邪をこじらせ、肺炎を起こし4月4日に死亡。就任演説は最も長く、在職期間はわずか30日という記録を残した。遺体はオハイオ州の州立ハリソン・メモリアル公園に埋葬されている。(68才)

 

J・タイラー

  (1790〜1862)第10代大統領。大統領の死去により副大統領の地位からくりあがった最初の人物。引退後、議員に選出されたが、議席につく前の1月に死亡した。遺体は5代大統領モンローと同じ、ヴァージニア州リッチモンドのハリウッド霊園にある。(71才)

 

J・ポーク

  (1795〜1849)第11代大統領。彼は死ぬ1年前メキシコと講話条約を締結し、カルフォルニアやアリゾナなどの領土を獲得した。引退後3か月してコレラにかかって急逝した。病死で死亡した大統領のうち最も若死であった。(54才)

 

N・テーラー

  (1784〜1850)第12代大統領。アメリカ・メキシコ戦争の英雄。大統領に当選した2年目の1850年7月4日、痙攣と下痢で苦しんでいたが、午後9時過ぎ息を引き取った。遺体はケンタッキー州のテーラー国立霊園にある。(65才)

 

M・フィルモア

  (1800〜1874)第13代大統領。テーラー大統領の病死に伴い大統領に就任。フィルモア大統領は1852年、ペリーを東インド艦隊指令長官に任じて、日本に開国を求めて黒船を向かわせた。その後、大統領選挙に破れ、ニューヨーク州バッファローに帰り弁護士を開業した。彼は引退した後、死の数日前まで快適に生活していた。しかし2月13日朝、突然左手の力をなくし、左顔面が痙攣して飲み込むことが困難になった。2月26日に左半身が不随となり、3月7日には脱水症状を起こし、翌日8日(水)死亡した。木曜日に通夜が行われ、葬儀は4日後の12日(日)と決定した。午前9時、屋敷内で家族だけのミサが行われ、そして9時半に屋敷から教会への葬列が開始された。10時に棺が教会に入り、何千というバッファロー市民が教会に入って、10時から1時30分まで最後のお別れが行われた。2時10分より葬儀式が開始され、ヴェートーベンの葬送行進曲とともに牧師が入場。午後3時過ぎには棺は霊柩車に乗せられ、フォーレストローン霊園へと向かった。(74才)

 

F・ピアス

  (1804〜1869)第14代大統領。「流血のカンザス」惨事を招いた政策で評判を落とす。政界を去ったのち、ニューハンプシャー州コンコードで不運な晩年を過ごす。60を超えてから急に体調を崩した。酒に溺れ、気管支炎を患う。亡くなる2日前の10月6日(水)、医師は死を看取るデスウオッチャーを手配した。そして10日(金)午前4時、息を引き取った。死亡診断書の死因欄にはドロプシー(水腫症)と記された。葬儀人と看護人はピアスの夜衣をたたみ、遺体を沐浴させた。そのあと遺体に防腐処置を施さず、白の死装束を着けた。
  日曜の朝、葬儀人はオールドノース霊園のピアスの墓穴を用意したあと、棺を屋敷に運び遺体を納めた。日曜の午後、ピアスの家族は棺のそばに集まって過ごした。10月11日朝、短い祈りのあと棺は霊柩車に乗せられ、市庁舎へと向かった。葬列は11時過ぎに市庁舎に到着。ホールにピアスの棺が安置され、11時30分から1時間、市民との最後の別れのために棺の蓋が開けられた。市民との別れのあと、棺は再び閉ざされ、葬儀の行われる聖パウロ教会へ向かった。葬儀は1時よりアメリカ聖公会の埋葬儀礼に従って行なわれた。儀式のあと、再び棺が開けられ、最後の別れとなった。2時少し前に葬列は教会を出発、オールドノース霊園へと向かった。霊園には多くの人々が集まっていた。墓地での儀式が7分で終了した。(64才)

 

J・ブキャナン

  (1791〜1868)第15代大統領。南北戦争(1861〜65)前夜の57年に大統領に就任。戦争中はリンカーン政権を支持。6月1日ペンシルベニア州で死去。(77才)

 

A・リンカーン

  (1809〜1865) 第16代大統領(1861〜1865)。ケンタッキー州の貧農の子。初め弁護士。1863年南北戦争下に奴隷解放を宣言して勝利し、64年再選。翌年4月14日、ワシントンのフォード劇場でブースにピストルで射たれ、9時間後死亡した。
  リンカーンの遺体はエンバーミング(防腐処置)がほどこされ、4月18日、19日の両日ホワイトハウスに安置された。4月21日、リンカーンの遺体は7輌編成の霊柩列車に乗せられ、葬儀が行われるニューヨークに向かった。
  その行列を見るために50万人の見物人が集まり、通りが埋め尽くされた。ニューヨークの葬儀のあと、列車は一路、彼が最初に立候補したスプリングフォードに向かい、そこで埋葬された。その距離およそ2,700キロ、14日間の行程である。(56才)

 

A・ジョンソン

  (1808〜1875)第17代大統領。南北戦争末期の65年3月、ジョンソンは副大統領に就任。わずか1か月あまりでリンカーンが暗殺され、そのあとを継ぐ。1875年3月、上院に選任されたが、テネシーの娘の家に訪れた時に病気になり、7月31日死亡。(67才)

 

U・グラント

  (1822〜1885)第18代大統領。南北戦争の時、南軍のリー司令官を降伏させ英雄としてもてはやされる。しかし大統領としては最低の評価を受ける。その後彼はビジネスで失敗するが、その埋め合わせに回想録を書き上げる。これは彼が咽喉がんで苦しんでいる間も続けられ、生前に完成した。7月23日ニューヨーク州で死亡。(63才)

 

R・ヘイズ

  (1822〜1893)第19代大統領。オハイオ州生まれ。オハイオ州知事から1877年大統領に。1月17日オハイオ州で死去。(71才)

 

J・ガーフィールド

  (1831〜1881)第20代大統領。オハイオ州生まれ。1881年大統領に就任。在任わずか4か月後の7月2日、旅行のために立ち寄ったワシントン駅で無職の男に背後から拳銃で射たれる。大統領の帽子が飛び、「神よ、何事でしょう」と叫んだ。そのあと男の拳銃がもう1度火をふいた。ガーフィールドは11週間のちの9月19日死亡した。(50才)

 

C・アーサー

  (1830〜1886)第21代大統領。暗殺された大統領のあとを継いだ。美食家。死亡する1年前、彼はニューヨークの鉄道会社社長に指名された。しかし彼はすでに腎臓と膀胱を患っており、気分もすぐれなかった。そのうえ彼は暴飲暴食を続け、状態をさらに悪化させた。彼が公衆の前に現われた最後は85年7月に行われたグラント前大統領の葬儀だった。86年6月、健康のためにコネチカットへ移ったが病状は回復しなかった。
  11月17日(水)朝、彼が寝室で脳溢血を起こして倒れている所を発見され、18日午前5時10分死亡した。5時30分、葬儀社のアレックス・ダビッドソンがアーサーの館に到着。アーサーの家族はすでに葬儀のプランと、土曜日の教会の葬儀を決定していた。しかし土曜には葬儀が出来ないこと、そして著名人の到着などを考え、月曜日に延期された。さらに葬儀はニューヨーク州葬でも軍隊葬でもなく、遺体とのお別れも自宅で行われることになった。
  木曜の午後、葬儀社が寝室内で遺体の防腐処置を施し、金曜日に納棺した。通夜は木曜の夜から月曜の宗教儀礼までの間とされた。その間、家族はずっと棺のそばにいた。遺体が置かれているアーサーの2階は供花で一杯となったが、さらに多くの供花が届けられた。土曜日の午後には棺は1階の居間に降ろされ、午後5時より友人や著名人のための最後の別れの時がもたれた。
  葬儀の当日、朝7時30分、アーサー家の前には多くの人々が集まった。8時20分クリーヴランド大統領が到着し、人々に手を振ってから家の中に入った。8時35分、館から出棺、霊柩車に乗せられた。棺に従っていた家族は、霊柩車の後の馬車に乗り込んだ。教会までの葬列に初め23台の馬車が予定されたが、実際には125台以上になった。通りには1200人以上の警官が交通整理にあたった。8時50分、霊柩車は多くの群衆が待ち構えている教会に着いた。5分後に儀式が始まった。約1時間の後、棺は再び霊柩車に乗せられ、埋葬先のルーラル霊園に向かった。(56才)

 

G・クリーヴランド

  (1837〜1908)第22・24代大統領。一度ホワイトハウスを去り、再び大統領になった唯一の人物。体重が110キロもあった。6月24日ニュー・ジャージー州で死去。(71才)

 

B・ハリソン

  (1833〜1901)第23代大統領。第9代大統領W・ハリソンの孫。晩年には回想録「大統領を引退して」を書き、死後に出版された。3月13日、インディアナポリスで死去。(68才)

 

W・マッキンレー

  (1843〜1901)第25代大統領。大統領再選後まもなく鉄道で国内を視察の途中、9月14日ニューヨーク州バッフアローにおいて無政府主義者より腹部に銃弾を受け死亡。(58才)

 

T・ローズベルト

  (1858〜1919)第26代大統領(1901〜1909)。大統領の不慮の死によって42才という若年で大統領に就任。日露戦争の講和を斡旋、モロッコ問題を解決。死の前年に病に倒れ、翌年1月6日死亡。(61才)

 

W・タフト

  (1857〜1930)第27代大統領(在任1909〜1913)。フィリピン総督・陸軍長官を経て大統領に当選。1921年には最高裁首席判事となり、1930年に病気になり、3月8日ワシントンで死亡。(73才)

 

W・ウイルソン

  (1856〜1924)第28代大統領。ノーベル平和賞受賞。2月3日、自宅のあるワシントンで死亡。多くの市民が館の外で安否を気遣っていた。(68才)

 

W・ハーディング

  (1865〜1923)第29代大統領。7月27日、アラスカからの帰り道、シアトルで倒れ、サンフランシスコのパレスホテルの部屋で治療を受ける。病名は心機能不全と肺炎を併発。8月2日午後、突然痙攣し死亡する。医師団は心隔壁ないし脳血管の破裂と診断。毒殺といううわさも流れた。遺体はオハイオ州マリオンのヒルサイド霊園にある。(58才)

 

C・クーリッジ

  (1872〜1933)第30代大統領。1923年、副大統領から昇格。1928年再選を望まず、マサチューセッツに帰り、自叙伝を書いて余生を過ごした。1月5日(木)午後12時45分、買物から戻ったクーリッジ夫人が2階で、夫が仰向けになっているのを発見。医師の検査の結果、死亡時刻は発見の15分前、死因は血栓による心臓麻痺である。1月6日、葬儀はワシントンでもボストンでも行われないと発表された。葬儀は簡素に行いたいという夫人の意向であった。6日午前、青銅製の棺が運ばれ納棺された。
  1月7日早朝、棺はエドワード組合教会に運ばれ、内陣に置かれた。供花が飾られ、棺の両端にはガードが立った。8時半、教会の扉が開かれ1時間余の最後の別れの時がもたれた。9時45分、儀礼の客を招き入れるため再び教会の扉が開かれた。しかし多くの会葬者は雨の降る屋外に集まっていた。10時15分、フーヴァー大統領が到着、棺に花輪を捧げたあと2列目の席に座った。教会の前は人々で大混乱となり、招待された来賓の入場もスムーズに行かなかった。葬儀は10時30分開始予定であったが、10分ほど遅れて開始された。また霊園での埋葬式は午後3時からの予定であったが、これも天候などの関係で葬列が霊園に到着したのは午後4時30分であった。(61才)

 

H・フーヴァー

  (1874〜1964) 第31代大統領。彼が就任した年にウォール街の大恐慌が起こった。ニューヨーク市で10月20日死亡。(90才)

 

F・ローズベルト

  (1882〜1945) 第32代大統領(1933〜1945)。第2次大戦に連合国の戦争指導と戦後の世界平和確立に努力。ヤルタ会談のあと休暇を取り、滞在先のジョージ州アウォーム・スプリングで4月12日(木)脳溢血により急逝。遺体はアトランタの葬儀社で処置されたあと、大統領専用列車によって金曜日の朝、ワシントンに移送された。葬儀は土曜日午後4時ホワイトハウスのイースト・ルームで執行。4時23分に終了。その夜、葬送列車はワシントンを出発してニューヨークに向かい、4月15日朝到着。予定どおりハイドパークの所有地の庭に埋葬された。彼は生前に自分の葬儀プランを記しておいたが、それが発見されたのは葬儀がすんだあとであった。(63才)

 

H・トルーマン

  (1884〜1972)第33代大統領。日本への原爆使用を承認した。12月5日カンザスシティのリサーチ病院に入院、肺充血、心臓および膵臓衰弱で重態であったが12月26日死亡。遺体はミズーリ州のトルーマン図書館の庭に埋葬。式は簡素に行なわれ、250人の招待者が参列した。(88才)

 

H・アイゼンハワー

  (1890〜1969) 第34代大統領。第2次大戦に北アフリカおよびヨーロッパ連合軍最高司令官。1953〜61年共和党から大統領。カンザス州のアイゼンハワー図書館の敷地内に遺体が埋葬されている。(79才)

 

D・ケネディ

  (1917〜1963) 第35代大統領。11月22日(金)午後12時30分、ダラス市内をパレード中のケネディ大統領は頭に銃撃を受け、午後1時に死亡。遺体は大統領専用機でワシントンのベセスダ海軍病院に運ばれ、検死と防腐処置がなされた。
  カトリック教徒初の大統領の葬儀であった。式典は土曜にホワイトハウスのイースト・ルーム、日曜に国会議事堂、そして月曜に葬儀ミサと埋葬式と決定。
  11月24日(日)イーストルームで近親者のための最後のミサが行なわれたあと、大統領の柩を乗せた砲車が、ホワイトハウスから、追悼式の行なわれる国会議事堂へと行進した。議事堂の円形広間では大統領の徳を偲ぶ演説に続いて、ジョンソン新大統領が花輪を捧げる儀式が行なわれた。追悼式は14分で終わり、そのあと円形広間は大統領にお別れを告げる一般の人々に開放された。
  11月25日(月)午前11時、柩は議事堂を出発。葬列はホワイトハウスを経てセント・マシューズ教会まで徒歩で行き、鎮魂ミサのあと、アーリントン墓地に埋葬された。
J・ジョンソン
(1908〜1973) 第36代大統領。1月22日午後テキサスの農場で心臓発作を起こし、飛行機で病院に運ばれる途中に死亡した。23日にジョンソン図書館に遺体安置され、そのあと遺体は飛行機でワシントンに運ばれた。24日議事堂に遺体安置されたあと、25日、首都ワシントンのナショナル・シティー・クリスチャン教会で葬儀が行われた。彼の死から5日後にアメリカはヴィエトナム和平に調印した。(65才)

 

L・ニクソン

  (1913〜1994) 第37代大統領。74年、ウォーターゲート事件の責任を追及され、辞任。4月22日脳卒中で死去。葬儀は27日午後4時、カルフォルニア州ヨーバリンダにある生家前で行われた。クリントン大統領は遺体を連邦議会に安置して国葬で行いたい意向であったが、ニクソンは生前から国葬を望まないことを家族に伝えていた。ニクソンの遺体は葬儀が始まるまで生家のそばのニクソン図書館に安置され、一般市民約4万人が棺に入った遺体と最後の別れを告げた。(81才)

 

資料

「アメリカン・フユネラル・デレクター」88.8、10、91.10、92.11、12他)

 

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