1995.11
歴代総理の死と葬儀

はじめに

  日本の歴代の総理大臣で、初代の伊藤博文(1902年死亡)から、1993年に死亡した田中角栄までの42人の死を扱った。うち暗殺や自殺など、いわゆる病死以外で死亡した大臣は9名。寿命の最も短かった大臣は服毒自殺をした近衛文麿の54歳、最高齢者は東久邇稔彦の102歳で、平均寿命は76歳である。なお取り上げた大臣の順序は、死亡順ではなく、首相就任順である。

 

伊藤博文(1841〜1909)

  山口県萩の人。憲法制定に当る。首相・枢密院議長・貴族院議長(いずれも初代)を歴任、組閣4度。また、日清戦争の講和全権大使、1905年(明治38)韓国統監。10月26日、ハルビン駅で韓国人安重根の銃弾3発を胸に受け間も無く絶命した。遺体は軍艦「秋津洲」で横須賀軍港に着き、11月4日、日比谷公園で国葬が行われた。午前7時、柩前祭が行なわれる。午前8時、柩は官邸を出て、日比谷の祭場に向かう。日比谷公園の祭場は、早朝より清掃され、広場を2区に画して、南方半分を祭場とし、北半分を会葬者の控え所とした。祭場には黒白の鯨幕を二重に引き回し、幄舎に対する幕の中央に祭壇を設け、会葬者控え所には4個の幕舎が設けられた。広場の入り口には会葬者名刺受付所を設け、午前8時頃から到着する会葬者に対した。葬列は午前10時過ぎに到着し、霊柩を正面壇上に安置。式典終了の後、午後零時20分、霊柩は馬車に移されて、大井町の墓地に至り、埋葬式を行なう。終了は午後4時。(68歳)

 

黒田清隆(1840〜1900)

  戊辰・西南戦争に官軍参謀、北海道・樺太の開拓長官を経て、農相・逓相・首相・枢密院議長。明治30年頃から座骨神経痛や高血圧に悩まされ、明治33年8月23日朝、脳溢血で倒れまもなく死亡した。彼は火葬にふされたあと、青山墓地に埋葬された。(60歳)

 

山県有朋(やまがたありとも)(1838〜1922)

  長州藩士。松下村塾に学ぶ。明治初年欧米を視察し、徴兵令を制定。のち内相・首相を歴任。日清戦争に第1軍司令官、日露戦争には参謀総長。のち枢密院議長。大正10年11月、気管支カタルを患った。翌年2月1日死亡した。最期の言葉は「いろいろお世話になりました」であった。葬儀は2月9日、日比谷公園で国葬として行われた。葬儀委員長には田中義一大将が任命された。国葬は明治の元勲というばかりでなく、枢密院議長の現職にあるというのが理由である。午前10時、19発の弔辞砲を合図に開始された。午後1時、棺は護国寺に到着し、そこで埋棺式が行われた。「東京日日新聞」は「民抜きの国葬で、幄舎(あくしゃ)の中はガランドウの寂しさ」と報じた。前月、同じ日比谷公園で行われた大隈重信の国民葬には30万人の会葬者が集まったのだが。(84歳)

 

松方正義(1835〜1924)

  薩摩藩士。1881年(明治14)大蔵卿となり、紙幣整理・官業払下げなどにより西南戦争後の財政窮乏を克服。蔵相・首相を歴任して金本位制の確立など国家財政の整備に尽した。大正13年7月2日午前危篤に陥り、午後10時40分呼吸麻痺の状態で死亡した。葬儀は三田の本邸斎場において国葬として行われた。(90歳)

 

大隈重信(1838〜1922)

  佐賀の人。参議・外相・枢密顧問官・首相。外相として条約改正に努力中、1889年(明治22)爆弾テロで片脚を失う。98年憲政党内閣で首班。また、東京専門学校を創立、その後身早稲田大学の総長。大正10年8月、膀胱炎の診断を受けるが、前立腺ガンの症状があらわれている。翌年1月10日死亡。1月17日は大隈重信の国民葬が行われた。大隈邸での告別祭が終わると、すぐに霊柩は自動車に移された。柩の上は白桧の館型の屋根が作られ、扉は丸に花菱の家紋が飾られてた。26騎の儀丈兵が捧げる鎗旗の中を「吹きなす笛」のラッパの曲に送られて、霊柩自動車が日比谷に向けて出発。この霊柩自動車はのちの宮型霊柩車の原形ともなった。(84歳)

 

桂太郎(1847〜1913)

  山口県の人。3度首相となり、日英同盟締結・日露戦争・日韓併合条約締結などに当る。下野後、立憲同志会を組織。大正2年新政党を組織する準備に着いたが、4月上旬より腹痛に悩まされた。胃がんであった。もともと18貫あった体重が3か月の間に14貫となり、10月10日死亡した。(66歳)

 

西園寺公望(きんもち)(1849〜1940)

  維新の際軍功を立て、1870年より10年間フランスに遊学。後、政友会総裁・首相。1919年(大正8)パリ講和会議首席全権委員。昭和15年11月10日微熱を発し、翌11日腎孟炎と診断。同24日、静岡県興津町の別邸坐漁荘で死亡。(92歳)

 

山本権兵衛 (1852〜1933)

  鹿児島の人。海相として日露戦争を遂行。1913年首相となり、翌年ジーメンス事件により辞任。関東大震災の翌日、再び首相となる。昭和8年3月、前立腺肥大症を患う。彼の妻は同年3月30日がんで死亡。その年の12月8日、死亡。(81歳)

 

寺内正毅(まさたけ)(1852〜1919)

  山口藩出身。長州閥の1人で、陸相。韓国統監を兼ねて韓国併合に関与、後に朝鮮総督。1916〜18年首相。大正8年11月2日、心臓肥大及び糖尿病が原因で危篤状態に。11月3日午後零時15分、平井赤十字病院で死亡。葬儀は11月7日、芝山内増上寺金堂で挙行された。午前11時、葬列は麻布の元帥邸を出発、午後2時10分、葬場に到着、19発の元帥弔砲が秋空に向かって放たれた。(67歳)

 

原 敬(1856〜1921)

  盛岡の人。外務次官・朝鮮公使を歴任。退官後大阪毎日新聞社長。のち逓相・内相を経て政友会総裁。1918年平民宰相として最初の政党内閣を組織。1921年11月4日、東京駅で19歳の青年に短刀に刺されて死亡。葬儀は遺言により東京では行わず、遺体は11月9日、郷里の盛岡に送られた。11日葬儀。午後1時、位牌を納めた棺が原邸を出発。式場の大慈寺には会葬者が溢れ、山門に至るまで人で埋めつくされた。(65歳)

 

高橋是清(これきよ)(1854〜1936)

  日本銀行総裁、再三蔵相。原敬の暗殺後、一時首相・政友会総裁。昭和11年2月、岡田内閣の蔵相在任中に、2・26事件で拳銃の弾を受けて死亡。本葬は1か月後の3月26日、築地本願寺において盛大に行われた。午前11時半、赤坂表町の自邸を出て15台の自動車を連ね、11時50分本願寺に到着。午後2時、儀仗兵の弔砲3発が轟いて式が終り一般告別式に移り、30余の焼香台に会葬者が押し寄せた。(83歳)

 

加藤友三郎(1861〜1923)

  広島県の人。日露戦争時、連合艦隊参謀長。海相として88艦隊計画の実現に努力。ワシントン会議の首席全権。その後、首相。大正12年8月25日午後零時35分、一族の見守るなか青山の自邸で死去。葬儀は8月28日神式で執行された。永田町首相官邸の大広間の式場にて、午後零時20分、祭主による祭文を奉読して故首相の勲績を偲び、親族等の拝礼が行われた。、午後4時、一般会葬者の告別式を終え、午後5時、青山墓地にて埋葬式が行なわれた。(62歳)

 

清浦奎吾(けいご)(1850〜1942)

  熊本県の人。法相・農相・枢密院議長を歴任。1924年いわゆる超然内閣の首相。晩年は重臣会議の1員。昭和17年の秋より衰弱し重態であったが、11月5日午後4時52分、熱海市伊豆山の別邸「米寿庵」で死亡。(92歳)

 

加藤高明(1860〜1926)

  愛知県の人。岩崎弥太郎の女婿。外交官より政界に入り4度外相。第1次大戦中、対華21ヵ条要求を提出。憲政会総裁として、原敬と併称される。第2次護憲運動の結果、首相。大正15年1月28日午前2時頃、突然病状が険悪になり、午前8時40分死亡。かねてから慢性腎臓炎でたんぱく尿があり、また心臓疾患があるところに、今回の発熱で急に心臓の衰弱をきたし、心臓麻痺になったものと病気経過が発表された。現職の総理大臣であったため、内閣は即日総辞職が決行された。葬儀は2月2日、青山斎場で行われた。(66歳)

 

若槻礼次郎(わかつき)(1866〜1949)

松江の人。東大卒。蔵相・内相を歴任、1926年憲政会総裁となって組閣、30年ロンドン軍縮会議首席全権。翌年民政党総裁となり再び首相、満州事変勃発後、辞職。以後、重臣として活動。昭和24年11月20日死亡。(83歳)

 

田中義一(1864〜1929)

  山口県の人。原内閣の陸相。1925年(大正14)政友会総裁。27年組閣、対中国積極外交を推進、張作霖爆殺事件の責を負い総辞職。昭和4年9月28日、貴族院議員当選祝賀会の主賓として出席。翌日29日午前6時、急性の狭心症で死亡。(65歳)

 

浜口雄幸(おさち)(1870〜1931)

  高知県人。蔵相・内相を経て、民政党初代総裁として首相となり、緊縮政策を断行、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。昭和5年11月14日、岡山県での陸軍特別大演習に参加する途上、東京駅のホームで右翼の銃に狙撃された。幸い一命を取り留め、手術後静養していたが、翌年8月傷口に繁殖した菌によって腹部に膿がたまり、それが肺を破って、26日に死亡した。葬儀は8月29日、日比谷公園で「党葬」として行われたが、日比谷公園に至る沿道や式場一帯は、最後の別れを惜しむ大衆が21万5000人にも達した。墓は東京青山墓地の加藤高明の墓の隣りにある。(61歳)

 

犬養 毅(1855〜1932)

  岡山県の人。慶応義塾に学ぶ。第一議会以来、連続して代議士。国民党・革新倶楽部の党首を経て、1929年政友会総裁、31年首相。昭和7年5月15日午後5時半、首相官邸で7名の1団に射撃され、輸血の効もなく、11時すぎに死亡。葬儀は5月19日、首相官邸のホールで行われた。たまたま日本に来ていた喜劇王チャップリンも、首相の葬儀にあたって次の弔電をよせた。「憂国の大宰相犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す、チャールス・チャップリン」。遺骨は青山墓地に納められている。(77歳)

 

斎藤実(1858〜1936)

  岩手県生れ。海相・朝鮮総督・首相・内大臣を歴任。2・26事件の犠牲となって死亡。(78歳)

 

岡田啓介(1868〜1952)

  軍人・政治家。海軍大将。福井県生れ。連合艦隊司令長官、田中・斎藤両内閣の海相。1934年(昭和9)首相。2・26事件の際襲撃されたが難を免れ、以後重臣として国政に関与。昭和27年10月17日死亡。(84歳)

 

広田弘毅(こうき)(1878〜1948)

  福岡市生れ。玄洋社の一員。駐ソ大使。斎藤・岡田両内閣の外相。近衛内閣外相。昭和21年1月15日、A級戦犯として極東国際軍事裁判にかけられた。5月18日、夫人が自殺。昭和23年11月12日、死刑判決が下り、12月23日刑が執行された。(70歳)

 

林銑十郎(1876〜1943)

  金沢市出身。朝鮮軍司令官・教育総監・陸相を歴任。1937年2月首相。4か月で総辞職。昭和18年1月、風邪気味で渋谷区千駄ケ谷の自邸に引き篭り、医師の手当てを受けていたが、19日下痢を起こし、25日脳溢血を併発。2月4日午後11時過ぎに死亡。葬儀は興亜同盟葬として青山斎場にて、午後1時から2時まで仏式で、2時から3時までは一般告別式が行われる。(69歳)

 

近衛文麿(1891〜1945)

  東京生れ。1933年貴族院議長。37年第1次、40年第2次組閣。昭和20年12月6日GHQから彼の元に、12月16日に巣鴨拘置所に出頭せよという指令が発せられた。出頭を明日に控えた夜、自宅で青酸カリを飲んで自殺。東京裁判の検事団から医師が送られて検視が行われた。葬儀は12月21日、麻布の有栖川宮公園内にある養正館で行われた。遺骨は京都の大徳寺に埋葬されている。(54歳)

 

平沼騏一郎(きいちろう)(1867〜1952)

  岡山県生れ。東大卒。検事総長・大審院長・法相を歴任、1936年(昭和11)枢密院議長。39年組閣、ついで国務相・内相。右翼団体、国本社を主宰。昭和23年1月、A級戦犯として終身刑の判決を受けたが、病気のため仮出所を許され、昭和27年8月22日病死。(84歳)

 

阿部信行(1875〜1953)

  金沢の人。浜口内閣宇垣陸相の下に次官、陸相代理。1939年(昭和14)首相兼外相。朝鮮総督・翼賛政治会総裁。 昭和28年9月7日死亡。(77歳)

 

米内光政(よないみつまさ)(1880〜1948)

  岩手県の人。海軍大将。海相。1940年組閣、半年で辞職した。後、東条内閣の倒壊、太平洋戦争の終結に努力。彼は昭和20年頃から健康を害していた。そして昭和23年4月20日、目黒の自宅で死亡した。(68歳)

 

東条英機(1884〜1948)

  東京生れ。関東軍参謀長・近衛内閣陸相を経て、1941年組閣、陸相・内相を兼ね、太平洋戦争を起し、参謀総長・商工・軍需各相をも兼務。戦況の不利に伴い44年辞職。昭和23年11月12日、極東裁判で絞首刑の判決を受け、12月23日刑が執行された。 (64歳)

 

小磯国昭(1880〜1950)

  宇都宮生れ。3月事件に関与。拓相・朝鮮総督歴任。太平洋戦争末期(昭和19年7月から20年7月)の首相。戦後、A級戦犯で終身禁固刑。昭和25年11月3日、巣鴨収容所で病死。(70歳)

 

鈴木貫太郎(1867〜1948)

  海軍大将。千葉県出身。連合艦隊司令長官・軍令部長・侍従長・枢密顧問官。2・26事件で重傷。太平洋戦争末期、終戦内閣の首相。日本を終戦に導いた彼は、3年後の昭和23年4月17日、肝臓がんで死亡。彼が生前自分でつけた戒名は「大勇院尽忠日貫居士」である。(81歳)

 

東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)(1888〜1990)

  久邇宮朝彦親王の9男子。昭和20年8月、初の皇族内閣を組閣し、降伏文書調印と軍隊の復員・解体などの終戦処理にあたる。平成2年1月20日心不全で死亡。(102歳)

 

幣原喜重郎(しではら)(1872〜1951)

  大阪府生れ。各国公使などを経て、1924年(大正13)以後4度外相。対米英協調と対中国内政不干渉方針をとって、軟弱外交と非難された。45年首相、ついで進歩党総裁。後、民主党・民主自由党に参加。衆議院議長となる。51年3月10日病没。東京築地本願寺で衆議院葬が行なわれた。(78歳)

 

吉田茂(1878〜1967)

  高知県出身。外務次官・駐英大使などを歴任。第2次大戦後、外相。1946年日本自由党総裁、ついで首相。昭和42年8月、心筋梗塞の発作に襲われる。10月20日、神奈川県大磯の自宅で死去。生前の希望で、死亡直後にカトリックの洗礼を受けた。内葬は23日、文京区関口台町の東京カテドラル大聖堂で、近親者・特別縁故者ら1,500人が参列して行われた。また当時東南アジア歴訪中の佐藤栄作首相は、急遽帰国して10月31日、日本武道館で戦後初の国葬を執り行った。この時一般の会葬者は約3万5000人にものぼり、午後3時半から7時半過ぎまで献花の列が続いた。(89歳)

 

片山哲 (1887〜1978)

  和歌山県生れ。東大卒。弁護士として無産運動に活躍。戦後、日本社会党委員長。1947〜48年社会党首班内閣の首相。昭和53年5月30日、50年間住み慣れた藤沢市の自宅で死去。前年夏よりベッドで寝たきりだったが、家族に手を握られて苦しみもなく息を引き取った。(90歳)

 

芦田均(1887〜1959)

  京都府出身。外交官を経て代議士。日本民主党総裁。1948年首相在任中、昭電事件で逮捕され政界引退。無罪となったが、判決の翌年の6月20日夜10時57分、東京都港区の自宅で死去。死因は悪性肉しゅ。遺体は解剖のため順天堂大学に運ばれた。通夜は6月22日、芝の青松寺、葬儀は23日午後1時より築地の本願寺で自民党葬で行われた。(71歳)

 

鳩山一郎(1883〜1959)

  東京の人。政友会に属し、再度文相。戦後、自由党を結成し総裁となったが、追放。解除後日本民主党総裁となり、1954〜56年首相。昭和34年3月7日朝、衰弱していた容態が急変し、午前9時過ぎ発作を起こし、ベッドの近くに倒れ死亡。(76歳)

 

石橋湛山(1884〜1973)

  山梨県出身。第1次吉田内閣の蔵相。自由民主党総裁。1956〜57年首相。 昭和48年4月25日死亡。28日池上本門寺で密葬。5月12日、築地本願寺で自民党葬が行われる。(88歳)

 

岸信介(1897〜1987)

  山口県出身。東条内閣の商工大臣。A級戦犯となり巣鴨拘留所に。1957年岸内閣を組織。60年安保条約に調印。昭和62年8月7日死亡。葬儀は11日午後1時より東京・芝公園の増上寺で行なわれ、4,000人を超える関係者が別れを告げた。会場には大門から本堂まで白のテントがはられ、本堂2階の式場正面には白菊と紫のカトレアに祭壇が囲まれ、中央にはモノクロの遺影が飾られた。葬儀の冒頭には葬儀委員長の福田元首相が、「岸先生の生涯は、戦前・戦中・戦後を通じて昭和史そのものだった。昭和史は波乱万丈、有為転変だったが、随所に先生の業績が点滅していた」と称えた。(90歳)

 

池田勇人(1899〜1965)

  広島県人。大蔵官僚を経て、自由党に入り、各省大臣を歴任。自由民主党総裁。1960〜64年首相。高度経済成長政策を推進。昭和39年秋、がんセンターでガンの疑いで入院し、放射線治療を受ける。翌年7月末に本郷の東大付属病院に入院したが、ガンはのど、食道、肺に転移していた。8月13日死亡。(65歳)

 

佐藤栄作(1901〜1975)

  山口県出身。吉田茂政権のもとで各省大臣を歴任。1964〜72年、3次にわたり自由民主党総裁・首相。昭和50年5月19日、自民党幹部、財界首脳と築地の料亭「新喜楽」で会食中、脳溢血で倒れる。それから15日間、「新喜楽」で昏睡したまま、6月3日死亡。6月16日、東京の日本武道館で「国民葬」が行なわれる。この時、三木首相が右翼に暴行を受けるという事件が発生した。(74歳)

 

田中角栄(1918〜1993)

  新潟県人。1972年田中内閣を発足させ、日中国交正常化。1976年ロッキード事件で逮捕。83年有罪判決。85年2月、脳梗塞で倒れ入院。93年12月16日、甲状腺亢進症に肺炎を併発して死去。自民党・田中家合同葬が12月25日午後1時から、青山葬儀所で行なわれた。葬儀委員長の河野洋平党総裁は、弔辞で「生来の明るい性格と人一倍豊かな他人への思いやり、コンピューター付きブルドーザーと称された抜群の才知で驀進続けた党人政治家の努力の軌跡であり、戦後日本のめざましい経済発展と一種絶妙なアヤをなすものでした」と述べた。葬儀に先立ち、長女真紀子さんは遺骨を胸にして、車で自民党本部など元首相のゆかりの地を回った。(75歳)

 

三木武夫(1907〜1988)

  徳島県人。1954年(昭29)鳩山内閣での運輸相。72年の田中内閣での副総理、1974年暮田中退陣のあと、三木政権を発足。昭和61年6月、脳内出血で倒れて療養生活を送り、昭和63年11月14日、議員在職のまま死亡。死因は急性心不全。三木武夫元首相の衆院・内閣合同葬儀は12月6日午後、北の丸公園の日本武道館で営まれた。遺骨は午後1時25分南平台の私邸を出発、自衛隊・警視庁の儀杖隊に迎えられて武道館に到着。式場正面には、青竹と杉の葉で国会議事堂を型取った祭壇が設けられた。式は葬儀副委員長の開会の辞に続いて1分間の黙祷をしたあと、生前の姿をスクリーンに映しだした。追悼の辞の後、天皇、皇后両陛下のお使いの礼拝と皇族の供花に続き、政治家たちによる献花が行なわれた。(81歳)

 

大平正芳(1910〜1980)

  香川県人、田中内閣が発足して外相。1980年5月31日、港区の虎の門病院に入院。6月、衆参両院のダブル選挙で、選挙運動中の6月12日午前2時、容態が急変し、5時54分心筋梗塞のため死去。葬儀は内閣・自民党合同葬儀として、7月9日、日本武道館で行われた。(70歳)

 

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