1995.07 |
葬儀の記録は日記や新聞記事などに残されていることが多いが、小説のなかでも葬儀の場面が登場し、背景となる時代や地方の風俗を克明に捉えている作品が少なくない。今回は、アメリカ、フランス、スイスの小説に登場する葬儀シーンを取り上げ、葬儀の姿をみてみたいと思う。
(アーヴィングが描いた埋葬風景。子供を亡くした貧しい寡婦の悲しみの場面が描かれている。中に「泣き男」という言葉が出てくるが、こうした人を雇う風習があったことを物語っている。)
(ある朝、作者は二人の人夫が墓を掘っているのを見ていた。そこは墓地の一番はずれの、手入れの届かない片隅で、まわりに無名の墓がたくさんあるところを見ると、貧乏で友人知己もない人たちの埋葬所らしく、新しい墓は、ある貧しい寡婦の一人息子のためのものだという。)
鐘が鳴って、葬いの近づいたことを知らせた。それは貧しい人の葬式で、およそ飾りらしいものはなかった。
ごく粗末な材料でつくった棺が、棺掛けもかぶせずに、数人の村人にかつがれてきた。教会の下役僧が先に立って、ひややかな無頓着な顔つきをして歩いていた。見せかけはいかにも悲しそうによそおう泣き男は一人もおらず、そのかわりに、ほんとうに哀しみ悼む人が一人、力弱く遺骸のあとをよろめきながらついてきた。それは故人の老母だった。…彼女は一人の貧しい友にささえられていたが、その人は一生懸命彼女をなぐさめていた。近所の貧しい人たちが、2、3人葬列に加わっていた。村の子供たちがいくたりか手をつないで駈けまわり、分別もなく歓声をあげたり、子供らしい好奇心から、この喪主の悲しみに目を見はったりしていた。
葬列が墓に近づくと牧師が教会の玄関から出てきた。白い法衣を着け、祈祷書を片手にもち、一人の僧をつれていた。しかし、葬儀はほんの慈善行為にすぎなかった。故人は窮乏の極にあったし、遺族は一文なしだった。だから、葬式はとにかくすましたとはいうものの、形だけのことで、冷淡で、感情はこもっていなかった。よくふとったその牧師は教会の入口から数歩しか出てこず、声は墓のあるところではほとんど聞こえなかった。葬いという、あの荘厳で感動的な儀式が、このような冷たい言葉だけの芝居になってしまったのをわたしは聞いたことがなかった。
わたしは墓に近づいた。柩は地面においてあった。その上に死んだ人の名と年齢とがしるしてあった。
「ジョージ・サマーズ、行年26歳。」
憐れな母は人手にすがりながら、柩の頭のほうに膝まずいた。そのやせこけた両手を握りあわせて、あたかも祈りを捧げているようだった。だが、そのからだはかすかにゆれ、唇はひきっるようにびくびく動いているので、彼女が息子の遺骸を見るのもこれが最後と、親心の切ない思いにむせんでいるのがわかった。
棺を地におろす準備がととのった。このとき愛と悲しみにみちた心を無惨にも傷つけるあの騒ぎがはじまった。あれこれと指図する冷い事務的な声。砂と砂利とにあたるシャベルの音。そういうものは、愛する人の墓で聞くと、あらゆるひびきのなかでいちばんひどく人の心を痛めつけるものだ。…彼女は泣きはらしてかすんだ眼をあげて、狂おしげにあたりを見まわした。ひとびとが綱をもって近つぎ、棺を墓におろそうとすると、彼女は手をしぼりながら、悲しみのあまり、わっと泣きだした。
(吉田甲子太郎訳/新潮文庫)
(少年少女の人気者トムソーヤが死んだと思われ、彼の葬式が行なわれようとしている。ここでは教会で行なう葬式の牧師の役割がよくわかる。)
(ある日曜日のこと、葬式を知らせる鐘が鳴り、町の人たちは教会に向かった。入口で事件について話し合う人がいるが、会堂のなかは静かに、式の始まるのを待っている。)
この小さい教会に、こうも多くの人々がつめかけたのは、かってないことであった。やがてポリイ伯母さんがシッドとメアリをしたがえ、つづいてハーバー一家が、それぞれ黒い喪服姿であらわれ、老牧師をふくめて全会衆がうやうやしく起立して迎えるうちに、とくに設けられた遺族席についた。場内は、ふたたび静まりかえって、ときどきすすりあげる声がきこえるだけであったあ、やがて牧師が両手をひろげて祈祷を捧げた。おごそかな讃美歌がうたわれ、聖句がそれにつづいた。「われはよみがえりなり、生命なり」
式が進み、牧師は言葉をつくして死んだ少年の生前の徳をたたえ、この徳によって必ずや天国にめされるのであろうと説いた。聞き入るものは、いずれも、かってはこれらのものに眼をふさぎ、哀れな少年たちの過失と欠点とのみに目くじら立てていたのを思い起こして痛惜の念に駆られた。牧師はさらに、死んだ彼らの純情闊達な性格をしめす数多くの生前の逸話を説き、会衆はあらためて、これらの事件が美しい崇高なものであったことをさとり、当時は手に負えない腕白小僧と思い、鞭で打たれてもいたしかたがないと考えていたことを思いだして悲しんだ。牧師の追憶談が進むにつれ、会衆は、いよいよ心を打たれ、ついに一体となってすすりあげ、この咽び泣きは合唱となって遺族の鳴咽に加わり、牧師自身も感きわまって壇上で声をあげて泣いた。
(大久保康雄訳/新潮文庫)
(1933年からまる2年間、テキサスからカナダ国境にいたる平原に砂嵐が襲い、耕地が砂丘と化した。
この物語は土地を追われてオクラホマの砂塵地帯から、カルフォルニアに移住していく農民一家の姿を描いた小説で、移動する途中で死亡した祖父を埋葬するシーンが出てくる。これを見ると、貧乏な一家であるため、遺体は布にくるまれ、棺もなしで直接埋葬している。)
母親は祖父の足と肩の周りをていねいにかけ布で包んだ。かけ布の端を持って頭に頭巾のようにかぶせ、それからそれを顔の上にひきおろした。セリイが大きな安全ピンを56本渡した。母親はかけ布を長い包みみたいにしてていねいにしっかりととめた。しまいに立ち上がった。
「悪いお葬いじゃありませんよ」と母親は言った。
「見送る牧師さんはいるし、家族もみんなまわりにいるしね」(略)
(それから家族が交代で墓穴を掘った。そして死者の名前を紙に記す。)
「ここにいるのはウィリアム・ジェームズ・ジョードといって中風でなくなった老人である。彼の家族が彼を埋めた。なぜなら彼らは葬式に払う金を持たなかったからである。誰も彼を殺したのではない。ただ中風で彼は死んだのである」彼は手をとめる。
(男たちは埋葬のために墓坑墓穴を掘ると、テントの中に入り、みんなで祖父の遺体の包みを下げて墓へ運んだ。)
父親が坑のなかへ飛びおり、その包みを前腕にうけ、そっと下におろす。ジョン伯父が手をさしだして父親を坑から引上げる。
父親が言った。「ちよっくらお祈りしてくれねえだかね?わしらの家族は誰もお祈りぬきで埋められたことはねえだて」
「祈りましょう」と説教師は言った。
「ここにあるこの老いたる人は、まさに一つの生命を生き、まさにそれを終えて死んだ。わしは彼が善人だったか悪人だったか知らない。しかしそれは、どちらにせよ大きな問題ではない。彼は生きていた、そのことが大きなことなのです。彼は死んでいる。しかしそれは大した問題ではない。(中略)ここにいるお祖父さん、彼は安楽な、まっすぐな通を得たのです。いま、わしたちは彼を覆い、彼を彼のなすべき仕事につかせてあげましょう」
彼は頭をあげた。父親が言った。「アーメン」そして他の人々もつぶやいた。
(それから父親がスコップをとり、それに土を半ば入れて穴の上にまいた。そして順次スコップを手にして、各自土を落とすと、父親は土の山を崩して穴を埋めた。)
(大久保康雄訳/新潮文庫)
(ゴリオ爺さんが亡くなると、家族に見離されて葬儀費用も十分に払えないので、二人の医学生が病院から患者用の棺桶を分けてもらい、自分たちで納棺することを引き受ける。また墓地は5年契約で買い入れ、教会と葬儀社には3等の葬式を依頼する。)
(それは飾りも会葬者も知己も身寄りもない貧民の葬式である。教会と交渉した結果、ミサ費用は法外な値段なので、あまり金のかからぬ晩祷のお勤めをお願いし、そして葬儀社との打ち合わせも行なう。)
霊柩車が来たので、ウージェーヌは棺桶をふたたび邸内に運び入れ、釘付けにしてあった蓋をあけ、老人の胸の上にうやうやしく例のメダルを載せてやった。…
(学生の)ラスチニャックとクリストフたけが、二人の葬儀社の男といっしょに、ジュヌヴィエーブ通りからほど遠からぬ教会、デュ・モンに、老人を運んで行く車のあとにと付添った。教会について、遺骸は低い陰気な小さな礼拝堂に安置された。学生は礼拝堂のまわりをまわってゴリオ爺さんの娘たちやあるいは婿たちの姿をあちこち探してみたが無駄だった。…
二人の司祭と聖歌隊少年と寺男とがやって来た。無料で祈祷をしてやるほど、宗門は裕福なご時世でもなかったので、70フランのお値段だけのお勤めはいっさいやってくれた。聖職者たちは聖詩のリペラやデ・プロフォンディスを歌った。儀式は20分ほどで終った。墓地行きの、車は1台しかなく、司祭一人と聖歌隊の少年だけを乗せることになっていたのだが、ウージエーヌとクリストフも、それに便乗させてもらうことにした。
「お見送りの人もございませんな。では遅れぬように早く参ることができますでしょう。もう5時半ですからなあ」と司祭は言った。
(柩を霊柩車のなかに入れ、ペール・ラシェーズ墓地まで行く。)
午後6時、ゴリオ爺さんの遺骸は、塚穴のなかに降ろされた。そのまわりに立っていた両家の傭人たちも、学生が金を出して爺さんのために頼んだ短いお祈りがすむや否や、司祭といっしょにさっそく姿を消してしまった。二人の穴掘人夫は棺を扱うため、いくらかの土をシャペルでかけるや、身を起こしてなかの一人がラスチニャックに酒手を要求した。(小西茂也訳/東京創元社)
(シャルル・ボヴァリー医師の妻のエンマは、不倫と借金に苦しみ自ら毒杯を仰いで命を断った。妻を愛するシャルルに見守られながら苦しんで息を引き取るエンマ。葬列のシーンでは、車ではなく、運搬人によって棺は担がれている。)
(鐘が鳴り、いよいよ出発である。聖堂内陣の座席に腰掛けたエンマの父と夫のシャルルの二人は、聖歌隊員の歌を聞いていた。)
ブールニジァン師は盛装して、甲高い声で歌いながら、聖櫃に礼拝し、両手をさしあげ、腕をのばした。…聖歌隊の譜面台のそばには、四方に並べた大ローソクのあいだに、棺が安置されていた。(中略)
聖歌隊歌手の一人が献金を集めに堂内をまわりにきた。大きな銅貨がつぎつぎと銀の皿に音を立てた。
「早くしてくれ。おれは苦しいんだ」シャルルは腹立たしげに5フランン金貨を投げた。
…鐘がまた鳴りだした。いくつも椅子がガタガタ動いた。運搬人が棺の下へ棒を3本さしこんだ。行列は教会を出た。…
人々は葬列の通るのを見ようと窓ぎわに出ていた。シャルルは先頭に立って、からだをそり返らせていた。彼は元気そうなふりをして、路地や戸口などから目白押しに並んでいる人々に会釈した。
棺の両側に3人ずつ6人の男が、すこし息をきらしながら小きざみに歩いた。司祭たちや聖歌隊員や2人の少年唱歌隊は、「深き淵より」を唱えていた。
その声は高く低く波うちながら野辺に流れて行った。…女たちは、頭布をうしろにはねた黒のかつぎをかぶってあとにつづいた。手には火をともした大ローソクをもっている。シャルルは、祈りと灯火の絶え間のない繰り返しのために、蝋と僧服のいやな匂いで、気が遠くなりそうだ。
(墓場では司祭が祈りの言葉を唱え終わり、4本の綱が用意され、その上に棺が乗せられた。)
シャルルは棺が降りて行くのをみつめた。棺はどこまでも降りて行く。ようやく底にあたる音がした。綱はきしみながらまた上がって来た。そこでプールニジアンはレスチブードワの差し出す鋤をとった。そして右手で聖水をそそぎながら、左手では土をたっぷりひと鋤すくってふるいかけた。棺の板に石ころがあたって、あの世のこだまかと思われるぶきみな音がした。
(これも大衆の貧しい葬儀が描かれている。通夜の描写では、夜を通し起きてローソクの火を守っている所は、最近までの日本と同じである。また葬儀で司祭が何を唱えているかわからないので不満を述べている所もどこかと似ている。)
(クーポ婆さんの)お通夜がはじまった。クーポーは寝そべっていた。…ポワソン夫婦は真夜中までいた。みんなはとうとうフランス風にサラダ鉢で酒のまわし飲みをはじめた。コーヒーがご夫人連の神経に効きすぎたからである。
(中略)お通夜は、羽目をはずさぬながらも陽気になった。…女たちはベッドで、代りあって1時間ずつでも休んだらいい。ロリユは、こんなことは結婚以来はじめてだと、くどくど言いながら、ひとりで寝にあがっていった。
(中略)そこでは、消してはならぬろうそくが、燈心の燃え残りで炎を大きくふくらましながら赤く怨しげに燃えていた。明け方近くなると、ストーヴの強い熱にかかわらず、みんな、がたがたとふるえた。
〈出棺前の別れ〉
(葬儀人夫の一人は、家族の最後の別れのために棺の蓋をとり、もう一人は釘を口に含み、金槌を手にした。そこで遺族のひとたちはひざまずいて、涙を流しながら死んだ母親に接吻した。)
蓋がおろされ、パズージュおやじは荷造り屋みたいに手ぎわよく、釘一本を2度ずつたたいて打ちこんだ。家具の修繕みたいなこの騒音のなかでは、みんな自分の泣き声さえ聞こえなかった。それも終った。出棺だ。
(立派な霊柩車が到着した。人々は造花の花輪をもってきたり、棺の上には麦わら菊の花輪や花束が置かれた。葬儀人夫たちは、棺を持ちあげてかつぐために、ひとふんばり肩入れをした。)
葬列はなかなかそろわなかった。クーポーとロリユはフロックコートを着、帽子を手にして、葬列の先頭にたった。…そのあとに男たちがつづいた。…つぎにご婦人連で、第1列目が、死んだ母親からまきあげたスカートをはいているロリユのおかみ。上着にリラの花をつけ、即席の喪服に見せて、それにショールをまとったマダム・ルラ。それからヴィルジニーなどが列をつくった。十字をきったり帽子をとったりする人々のなかを、霊柩車が揺れながら、ゆっくりとグートドル街をくだってゆくと、4人の葬儀人夫は、ふたりは車の前に立ち、他のふたりは車の左右について先導した。
教会では、葬儀はすぐ終った。だが、ミサはちょっとながびいた。司祭がたいへんな年寄りだったからだ。マディニエ氏はたえず司祭たちのようすを見ていて、観察の結果をランチエに伝えた。あの道化たちはぺらぺらとラテン語をまくしたてているが、自分がなにをしやぺっているのか知りはしない。あの連中ときたら、心のなかには感情のかけらもなしに洗礼や婚礼とおなじ調子で葬式もやってしまうのた。それから、マディニエ氏は、ぎょうぎょうしく儀式ばったり、お燈明をあげたり、つらそうな声を出したり、身内の前の見かけだけのひけらかしを非難した。じっさい、家と教会とで2へん死に目にあわせるようなものではないか。するとみんな、彼の言葉はもっともだと言った。というのは、ミサが終ってもまだわけのわからないお祈りがあり、会葬者たちは遺体の前で列をつくって聖水をふりかけねばならない。それはどう考えてもくさくさすることであったからである。さいわい、墓地は遠くなかった。…
(規則正しい官吏の母親が亡くなったと思われたとき、妻が夫に渡した用事リストである。)
見ればこう書いてある。
1、役場へ届けること。
1、検死医に来てもらうこと。
1、お棺を注文すること。
1、寺へいくこと。
1、葬儀屋へ行くこと。
1、通知状を印刷屋へ頼みに行くこと。
1、公証人のところへ行くこと。
1、親類へ電報をうちに行くこと。
その他にもこまごました用事がたくさん書きつらねてあった。
(青柳瑞穂訳/新潮文庫)
(一人の死が彼の親族や地元の人々を引き寄せる。興味深いのは、祖母の遺体を埋葬し皆で会食したあと、ダンスを行なうという風習が記録されているところである。)
(亡くなった祖母の夫は、盛大な葬式の準備をし、60人以上の客を呼ぶ支度をし、金に糸目をつけなかった。)
…葬式の鐘がなると、いっしょに出かけた。先方へ行きつくと、私はつれ立ってきた人たちから引き離されてしまった。孫である以上、喪に服している一番近い親戚のなかに加わらなければならなかったし、しかも一番若くって一番直接に血統をひいている関係上、緑色の服を着た私は、喪服を着た人たちの上座に据えられて、四角四面な長ったらしい儀式の第一の対象にならなければならなかった。血統の近い連中は広々とした大きな居間に集まって、悔みを述べにくるはずの女たちを待つことになった。長い間物も言わず壁際に直立していると、黒い服をきた村の老婆たちがおいおいにはいってきた、そしてひとりひとり順々にまず私の前へ近づいて手をさし出し、悔やみの言葉を述べて、同じようにして次へ次へと移っていった。(略)
(棺は長い行列となって自宅から教会へと向かった。棺は教会の外にある墓地に置かれたままである)
教区民が堂にあふれている冷えびえした教会の中にいた。それから私は祖母のもとの姓と血統と年令と経歴と、彼女をほめたたえる言葉とが説教壇の上から語られるのを、異様に思いながら耳をかたむけて聞き、そして最後にうたわれる贖罪の歌と、安息の歌とに心から唱和した。が、教会の外から聞こえてくるシャベルの音が耳にはいると、私は人々をかきわけて、墓穴を見にいった。質素な棺はすでに穴の中におろされて、大勢の人たちがそのまわりに立って泣いていた。土塊が堅い音な立てて蓋の上に落ち、だんだんにそれをかくしていった。
会葬者のうちで招待を受けた客だけがもう一度家へ戻ってゆくと、そこの部屋部屋は饗応の支度で賑わっていた。一同が席につくと、私はまた風習に従ってむっつりした寡夫の隣に座らされ、慣例どおりぜびとも必要な皿数をそろえた最初の食事がつづく間、誰れとも口をきかずに、まる2時間辛抱していなけれぱならなかった。…この長い2時間が過ぎると、客のうちの無遠慮な連中は、だんだん食卓の方へにじりせって、テーブルへ腕をかけ、それからいよいよ本式にぱくつき、がぶがぶ飲みはじめるのであった。が、行儀のいい人たちはだんだん話し声を大きくして、お互いに椅子を近づけ、そして談話をおいおいに羽目を外さない程度の陽気さに変えていった。
〈葬送のダンス〉 集まった客のうちで元気のいい連中が立ちあがって、広い屋根部屋の方へ上ってゆくのを見ると、先生は言った、
「それではダンスまでやろうというんですね。そういう風習はとうとうすたれてしまったと思っていましたが、なるほど、近隣でもこの村だけは、今でも時々これをやるんでしたね。私は古い物を尊敬しますが、古いと言われるものはなんでも尊い有益なものとはかぎりませんからな。だが、それはそれとして、お前さんたちのような若い者は、あとの話の種にもなるから一度見ておきなさい。葬式の時のダンスなぞはそのうちに廃れてしまうだろうからね。」
すぐに駈け出してみると、玄関の廊下と、階上へ通ずる階段の上とに、人々が組になって列をつくっていた。
(伊藤武雄訳/河出書房)