1995.04
東西の臨終行儀

  人間の力ではどうにもあてにならないものに、死の恐れの克服と浄土への大往生がある。こうした願いをかなえるためにかっては宗教が、末期の人々に力を与えてきたと言っても過言ではないだろう。また、死の間ぎわの病の床にあって、どのように死を迎え、死んでいったらよいかを教えるテキストは、いつの時代にも必要とされたに違いない。今回はそうしたテキストのなかから、日本とドイツの臨終行儀を取り上げた。


日本の臨終行儀

  日本の臨終行儀の書物には、恵心僧都の『往生要集』(985)のなかの「臨終行儀」が最も有名なものとして知られている。またそれを解説した湛秀(たんしゅう)の『臨終行儀注記』(年代不詳、写本記録は1650年)、及び真言宗の覚鑁(かくばん 1095〜1143)『孝養集』3巻、鎌倉時代中期の東密の道範が著した『臨終用心事』(1233)、同じく鎌倉中期の禅師良忠の『看病用心鈔』、そして浄土宗の法州上人(1765〜1839)の『臨終用心』などが有名である。

 

『孝養集』のなかの臨終行儀

  新義真言宗の開祖覚鑁は、密教の著作『五輪九字明秘釈』などで知られている。『孝養集』(『国訳大蔵経宗典部二、真言宗聖典』東方書院)は、覚鑁の作ではないが、一般に覚鑁の作品として有名となっている。構成は上中下の3巻からなり、下巻が臨終行儀を扱い、その末尾には「年老いた母のためにこれを記した」とある。この「臨終行儀」は次の十項目からなっている。
  
1. かねてから臨終の用意が必要
2. 道場の飾り方
3. 善知識(仏事に詳しい人)を招く
4. 病人に勧めること
5. 病人を苦痛から避けること
6. かねてから念仏を習うこと
7. 最後の一念によって往生すべきこと
8. 仏と聖衆が迎えくる様子
9. 浄土に生まれ楽を受ける様子
10. 浄土に生まれ、裟婆に帰って衆生を浄土に導く様子

  以上の構成になっており、「病人には8を読んで聞かせ、もしもの時には7を見る」と説明を加えている。次はそれぞれの項目とその説明である。


1. かねてから臨終の用意が必要である。

  「臨終を迎えるときには、病人には三つの愛心が生じるという。一つは「境界愛」で、親子、夫婦、弟子、眷族、そして財物を愛し、それと離れることを惜しむ心。二つは「自体愛」で、わが身を愛し、命を惜しむ心。三つは「当生愛」で、この世界の愛着によって、もう一度この世に生まれたいと思う心である。こうした心が起こるために、死ぬことが大変に辛いものとなる。こうした心では、たとえ極楽に行くことを強く願っても、現世に未練が残り、出船のともづなを解かないまま、船を出発させるようなものである。そこで心残りのないように財物を寄進し、雑務を人にまかせて浄土のことだけを考えるようにしなければならない。」


2. 道場の飾り方

  道場とは、病室を修行の場にみたてての名前である。場所は西方浄土の方角にあたる「西日の当たるところがよいが、これが出来なければ僧坊、あるいは人の家に新しい物を敷き、屏風を立てて仕切とする。病人がいよいよの時は、座って西方に向かう。病人がふしている場合には、北枕にして表を西に向ける。」次に「三尺の阿弥陀像を用意する。病人の希望によっては他の仏像でも、絵像でもよい。この像を病人から五尺くらい離して置き、寝たままでもそれが見える所に置く。そして仏像の左手に五色(青黄赤白黒)の幡、または糸を取付け、その一方を病人の右手の指に掛け止める。」
  このように、西方浄土から迎えにきた阿弥陀仏に、心ばかりでなく、五色の糸を通じて直接結ばれるようにする。「そして仏像の前に香を焚き、そして灯明をつける。また枕元には鳴らすための磬を置く。このように病人のために準備するものは、屏風(病人の見苦しいところを隠す)、肘かけ、きゅうす、手洗い、紙置きなどである。」


3. 仏事に詳しい人を招く

  「さて病人のために善知識(高僧または在家の行者)を3人または5人招き、浄土の話を聞かせる。また5人のそれぞれの役割は、@一人は仏教の摂理を説いて聞かせる。A不動明王を念じて魔界の力を封じる。B磬をたたいて念仏を唱えるC静かに経を読むD雑用をする、である。もし病人のところにモノの気が現われたら、鏡を掛けて影を見せよ」とある。


4. 病人に勧めること

「さていよいよという時になったら、『今最後、臨終の時である』と耳にあてて聞かせる。聞こえたと思ったら、その後は何も言わないようにする。そのときには、体にさわったりしない。」


5. 病人を苦痛から避けること

  「看病の人は、病人をないがしろにする口のきき方はよくない。病人を仏のように思って敬い、あるいは我が子のように思って憐れをかけるのである。色々と好きなものを聞いては食べさせる。時期ではない食物を言うのが病人の常であるが、与えないと未練が残るといけないので出来るだけ与える。また看病する人は、騒々しい人や心の良くない人を病人の近くに来てもらわないようにする。酒や肉、あるいは匂いのある物を食べた人も近くに寄せないようにする。」


6. かねてから念仏を習うこと

  心を集中して十回「南無阿弥陀仏」と唱えることを十念という。こうして仏の名前を唱えることよって浄土に行くことをのみを願うのである。そのため、「病人は南無阿弥陀仏と十回唱え、付き添いの僧侶(または行者)は磬を鳴らし、次のように発願をする。西方極楽の阿弥陀如来の本願には誤りはない、聖衆とともにきて、必ず行者を引接したまえ」と。


7. 最後の一念によって往生すべきこと

  いよいよとなると、「まずこのときは静かにして、僧侶(または行者)以外の人を近づけない。病人は五色の糸を手に取り、また手に印を結んで往生浄土の心になる。『仏以外の姿を見ず、法音以外の音を聞かない。一心に南無阿弥陀仏と唱え、出る息が終わったあとには、極楽に到着している。』」このように励ましの言葉をかける。
  「もし病人が声が出なくて『南無阿弥陀仏』の六号を唱えることが出来なければ、阿弥陀の『阿』の一字を唱える。最後の出る息とともに、『南無阿弥陀仏』または『阿』と唱えることを僧侶(行者)も祈り、病人も思うべきである。」
  「また清い水を置いて、それに紙を浸して唇を濡らし、また蛤の貝でもって唇を常に濡らす。そうしたうえで、十念を常に唱えさせるのである。」これは末期の水の古い形なのだろう。こうして息を引き取ったならば、たとえ五逆を犯した悪人でも往生出来ると言っている。
  さて「病人が死んだあとも、僧侶(行者)は真言を唱え、その場を立ち去ることをしない。立ち去る場合には、不動明王、あるいはうすさま明王の図像を掛けて立ち去るべきである。」と注意を促している。うすさま明王はトイレの神様でも有名で、汚れを清めてくれる役割を果たしている。以上が、『孝養集』のなかの臨終用意の大意である。

 

臨終用心

  『臨終用心』は同じく、末期の病人をいかに浄土に往生させるかを目的に書かれたものである。19の項目からなっている。法州上人は浄土宗の人であり、先に述べた『孝養集』の記述とおおかた同じであるが、所々意見の違いが見られて興味を引く。これは宗派の違いによるものか、個人的な見解の違いなのかはよくわからない。資料は『浄土宗法要儀式大観』の第6章第3節「臨終用心」より。


1. 正念を願う

  「人の命は無常である。普段でも自分の命は安心できないのに、病気中はなおさらである。そこで、死に臨んで正念(往生を信じて一心に思念すること)を願うべきである。」

1. 最後の妄念を避ける

「看護する者にとって、一切世間のことや病人の心にかかる事、そして腹の立つようなことはあえて語ってはならない。もし質問があれば、心にさわらないように語るべきである。」

1. 病人の心にそわない人は、近くに寄せない

1. 見舞の人の出入りを一々病人に知らせない

  見舞の人は「やかましくもあり、また不心得の人は雑事や病気祈願などのことを語るので、正念する妨げとなる。」

1. 資材や妻子、また心に留ることを近づかせない

  「財宝には五つの苦がある。一つは財を求める苦、二つは財を守る苦、三つは財産を失う苦、四に財産ゆえに命を狙われる苦、五つは財産の行く末を心配する苦である。」
  現在では妻子が病人の看取りにするのは当然のことであるが、仏教の立場ではそれを勧めていない。「しかし看病する者がいない場合には、妻子であっても、嘆き悲しんで病人の心を乱さず、また病人に念仏を勧めるような人の場合はよろしい。」と言って、現実に即した意見も見られる。

1. 看護人の数

  「看護人は三、五人以上であってはいけない。人が多ければそれだけ騒がしくなり、それによって病人の心も乱れるからである。一人は枕元で念仏の勧めを行ない、一人は病者の手当てをし、そして一人は雑用をする。」

1. 病人には、臨終が近づいたなどと言わない

  「『一言芳談』に、ある人が私が臨終の時には、ただいま臨終とみえるなどと言ってはいけない。生まれてからこのかた惜しみ大事にしてきた命であるから、心細く思えることもあるので、ただ念仏を勧めるだけでよい。」これは先に紹介した『孝養集』と反対の立場を取っているが、作者は時と人によって使い分けてもよいとも言っている。

1. 臨終が近づいたら、室内では静かにし、病人に対して憂いや悲しみの様子を見せないようにする。

1. 仏像のほかの物は見せないようにする。また念仏の他は聞かせないようにする。

1. 臨終の前より病人の体にふれてはいけない。

1. 北枕は無用 

  病人を北枕にし、顔を西に向ける作法は、病人が望まなければしなくてもよい。 「また、体の熱があるうちから枕直しといって、手足を曲げたり、無残なのは足と肩を縄でくくったりする習慣がある。あるいはまぶたをなでおろし、合掌をさせ数珠を持たせるなどを行なうことがあるが、痛ましいことである。」と言って、風習に反対の立場をとっている。故人を合掌させて数珠を持たせることは現在でも行なわれているが、死んだあとに体に触れる行為は、当時の仏教医学の立場から、相応しくなかった立場をとっている。つまり人は「第六意識が去って息が絶えれば、死が確実になったと思えるが、まだ第八識が去ったのかどうかわからない。従って命が終わってからも、遺体の暖気がなくならないうちは、決して遺体を動かしてはならない。」と言っている。またチベットの習慣でも死の前後に体に触れることを禁じている所がある。それは、触れたところから魂が出ていくと考え、頭頂以外の所から出るといいところに行かないと考えているからである。

1. 末期の水の心得

  「命が終りの節にはのどがかわくので、きれいな紙に水をひたして少しずつ与える。」ただし作者は、「末期の水」を身内が集まって病人に与えることは必要ない、と言っている。「人は病人が必要としないのに水を飲ませることがあるが、これは大変に間違っている。なぜなら横になった人の口の中に水を入れると、本人は大変に苦しいものである。また末期の水をこれは誰、これは誰であるといって与えることは、病人が家族に対して愛着の心を起こして正念を失うのでよろしくない。」とも言っている。このあたりがお寺と庶民感覚の違いなのだろう。

1. 静粛にする

  念仏を耳に吹き込むことは無用である。また枕もとで磬を大きく鳴らしことも無用である。これは体に響いて良くない。

1. 遺体は不浄なもの

  「息が絶えたら、34時間は遺体に触らないようにする。また仏前で命が終わった場合には、その間に屏風を立てて遺体の不浄をさえぎるようにする。遺体のまわりには焼香を絶やさないようにする。」これも遺体が不浄であるという考えが残っていた時代の考えがあらわれている。

1. 急死の場合

  「急病・急死で命が終わった場合には、死んだように見えなくても、灸、針、薬などで治療をしてはならない。また24時間はそのまま置いて、遺体には触れてはいけない。」このように、遺体に触れないようにするのも、死者をわずらわせて浄土に往生できなくなるからという宗教上の理由である。

1. 経かたびらの禁止

  「今どき、経かたびらを用いる作法があるが、これはおかしいことである。尊い経典で汚れた遺体を包むことは、はなはだ理屈にあわないことである。また棺のなかに経袈裟、数珠、血脈などを入れることもあってはならない。」これもお寺と庶民感覚の違いが出ているところである。
  作者は、「念仏により浄土に往生することが明らかであるのに、なお功徳を願って経典や数珠を入れたりするのは、念仏に対する信仰が足りないためである。また往生のための御印文というものがあるが、これで往生が出来るくらいなら、往生しない者はいない。」と言っていましめている。

 

  このように、見てくると、宗教者の立場と末期患者をかかえた庶民との立場は、いつの時代もくい違いがあることがわかる。なお新村拓『死と病と看護の社会史』(法政大学出版局)のなかで、近世以降の臨終行儀である「看病人用心の事」が『家内用心集』(1730)の上巻に取り上げられているという。
  そこには「看護人は病人の口に合う食物を調えること。大小便・膿血・たんなどの始末をきちんと行なうこと。病状に応じた薬を用意すること。病人に腹を立てさせないようにすること。病人の気に合わない人を近づけないこと。病人の心を善心に移すように勧め、かりそめにも執着のないように導くこと。末期には薬を用いないこと」などが記されており、それまでの宗教的伝統の流れをくむ『看病用心抄』に当時の儒教倫理思想が盛り込まれた内容であるという。

 

ルターの臨終用心

  今度は目を西洋に転じて、ドイツの宗教改革の祖マルチン・ルターの『死の準備についての説教』を見てみよう。これは1519年にザクセン選帝候が病気になったのにともない、ルターが病人を慰めるために記したものである。資料は『ルター著作集』第1集(聖文舎)、または『マリヤの讃歌』岩波文庫。

これは20の項目からなっている。そこでその概略を次に述べる。


1. 財産の整理をする

  「死はこの世の営みとの別離であるから、死後遺族の間にいざこざが起こらないように、財産をあらかじめ整理しておく。死とは肉体的別離であり、また財産との告別である。」

2. 人々を許す

  死によって「人は霊的にもこの世から別れる。そこで私たちの心を傷つけた人たちに対しては、心から許さなければならない。また反対にこちらが傷つけた場合には、神の許しを願って、死者の魂がこの世の面倒を背負ったままに死んでいくことのないようにしなければならない。」

3. 神を目指す

  「地上の人々と別れをつげたあとは、ただ神のみを目当てとしなければならない。この死の道を勇敢に進まなければならない。この世界はたとえどんなに広く見えようとも、未来の天に比べれば母胎よりもはるかに小さなものである。そのため聖徒たちの死は新しい誕生と言われる。私たちは子供の誕生のように、死に臨んだときは、不安を払いのけて、死後大きな世界と喜びがあることを知っていなければならない。」

4. ざんげをする

  「準備として、純粋な告解、ざんげをして、キリストの真実の聖体と終油のサクラメントを受けられる機会があれば、拝受することである。しかしそれが求められなくとも恐れることはない。」サクラメントは、目に見えない霊的な恩寵を、目に見える形で行うもので、プロテスタントでは洗礼と聖餐の二つをサクラメントとしている。

5. サクラメントを信頼する

  「サクラメントの効力を信じ、それに頼ることにもまして大きな敬いはない。」

6. 死について考えない

  「死には三つの悪い相がある。一つは死の恐るべき形相であり、第2は罪の恐るべき形相であり、第3は陰府の耐えがたい形相である。この死の相は、気の小さな人間がそれを見つめすぎると、ますます増長して、恐るべきものとなっていく。「死をあまりに深く考え、見つめ、認識すればするほど、いよいよ死ぬことが危険なこととなってくる。そのため、人は死がまだ遠くにあり、差し迫って来ないうちに、死の想念についての訓練をすべきである。しかしながら、臨終に際して死がすでに目の前にあり、その力が強くなっている場合には、死を考えることは危険であり、何の役にも立たない。逆に死の形相を払いのけ、これを見ないようにしなければならない。」

7. 自分の罪を見つめない

  自分が生前に行なった悪い行ないを反省し、それについて悩んだり余り深く考え過ぎてもいけないという。考えると人は「またしても絶望におちいり、死をいとうようになり、結局神を忘れるからである。こうして人は自分の準備の足りなさや未熟さを知って」自暴自棄になるからである。しかし「その時は罪について考える時期でもなければ、その余裕もないから、そうした問いかけは、健全の間におこなうものである。」と言っている。

8. 地獄を考えない

  地獄(陰府)も、末期の時にはあまりこれを考えたりすると、その考えが増大してよくないと言っている。そうして「自分が本当に救われるかどうかの疑いが増大し、考えれば考えるほどその人の立場は危険なものに変わっていく。」従って、地獄のことをあれこれ考え、不安になってはいけない。

9. 死の三つの相を見つめない

  死の三つの相である、死の恐るべき形相、罪の形相、陰府の形相は大きな力で襲ってくる。そのためこれを無視し、何とかして心からそれを払いのけなければならない。そのために、「死を生命に、罪を恩恵に、陰府を天国に」それぞれ置き換えて見る必要があると言っている。

10. 死に負けてはいけない

  キリスト教では、キリストは死から復活され、キリストを信仰する者もまた死後、永遠の命が与えられる。従って「死を死そのものとして見たり考えたりしてはいけない。でなければ、死に打ちまかされてしまう。」そこで「キリストの姿をしっかりと心に銘じ、注視すればするほど死の形相がはげおちて、キリストのうちに安らかに死ぬことができる。」

11. 自分の罪を見ない

  自分の罪を見つめるのでなく、「十字架上のキリストがあなたの罪を取り去り、あなたに代わって担い、その息の根を止めてくださる。これが恩恵であり、憐れみである。」

12. 地獄(陰府)を思わない

  地獄とそこでの永遠の苦痛を考えない。日本でも『往生要集』などで、地獄の描写が克明に描かれているが、それらを思い考えすぎると、それに捕われてしまう危険性がある。ここでも、「あなたはここで無理にも目を閉じて、このようなものを見ないようにしなければならない。たとえあなたがそれに千年もかかわりあっていたとしても何の役にもたちはしない。しかもしれは、一挙にあなたを滅ぼしてしまう。それゆえキリストの崇高な姿を見るがよい」と言っている。日本で丁度、阿弥陀如来の姿を念じると同じことが西洋で行なわれていたのである。

13. 死の三つの相を打ち破ったキリスト

14. 死の三つの相の試練を受けたキリスト

15. 16. 17. 聖なるサクラメントを信じる

  「心からサクラメントに頼り、サクラメントを信じるならば、神を愛し、賛え、感謝し、喜んで死ねことができる。なぜならサクラメントにおいて司祭を通し、あなたと語り、働きかけるのはキリスト自身であるからである。」

18. 一人で死ぬのではない

  「キリスト者は臨終に際して一人だけで死ぬのではない。まず、神とキリストが見守っている。次に天使や聖徒たちとすべてのキリスト者たちが見守っており、これらの人々が一体となって駆せ参じ、死と罪と陰府を克服するのを助け、すべての重荷を一緒に担ってくれる。」

19. 心を空しくして聖なるサクラメントに願う

20. 神のみ心に感謝する

 

  以上がルターが残した『死への準備についての説教』である。こうした神学を中心とした末期患者の手引書は、現在では主に、本人や遺族の体験から導きだされた心理学的な心理過程と、その対応方法を扱ったものが趨勢になっているといえるだろう。

 

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