1995.02
日本の葬儀のルーツ

  日本の古代の葬儀の歴史を記録している文献に『古事記』『日本書紀』がある。この二つの文書には、天皇の年代期にそって出来事が記録されているので、語られる葬儀の記録も天皇のものが中心となる。そのなかに記されている葬儀や埋葬の仕方などは、今日のものとは全く異なるもので、場合によっては当時生きた人々の死生観を垣間見ることができる。しかし詳しいことはわかっていないことも多いので、未だ多くの人の想像力をかきたてている。ここでは『日本書紀』を軸にたどってみたい。


黄泉の国

  日本神話のなかで最初に登場する神々がイザナギノ尊、イザナミノ尊の二柱である。イザナミノ尊が火の神を産んだときに、身の一部を焼かれそれが原因で亡くなられた。妻の死を知った夫のイザナギノ尊は、「わが愛妻を犠牲にしてしまった」といって悲しみ、イザナミノ尊の枕の方や足の方にふしてお泣きになり、その時に流した涙によって出現した神が泣沢女(ナキサワメ)の神である。その後、イザナギノ尊はイザナミノ尊を黄泉の国まで追いかけて話し合われた。しかしその国で、亡き妻の醜い姿を見たために心変わりをされ急いでそこを逃げ出し、黄泉津平坂まで帰ってきた。彼の体はそのために死の汚れが付いているので、橘の小門(日向)に行き、払いすすぎを行った。(1巻『神代上』)これが死の汚れを水で清めるはじまりである。しかし死の汚れが、当時の葬送儀礼にどのように反映されているかはよくわかっていない。

 

葬儀の役割

  天孫降臨に先だって出雲国に降った天の稚彦は、いつまでたっても復命せず、それどころか問責の使者雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を弓矢で射殺し、仰向けになって休んでいたところ、天から返された矢に当たって死んでしまった。その妻の下照姫は、夫の死を嘆き悲しみその声は天まで届いた。この時、天国玉神(あまつくにたまのかみ)はその声を聞いて、その遺体を天に上げ送らせた。そして天上に喪屋を作り、モガリの式を行った。式にはガンが持傾頭者(きさりもち=死者に供える食物を持つ役)と持帚者(ほうきを持つ役)を、スズメをつき女とした。そして八日八夜嘆き悲しんだ。(2巻『神代下』)この役割は『古事記』のなかでは、更に細かく規定している。
  「死者の食物を持つ役をガンが、帚を持つ役をサギが、料理人をカワセミが、臼をつく女をスズメが、そして泣く女をキジが担当し、八日八夜というもの遊んで騒いだ。」このように鳥が葬儀に関係するのは、死後人間の霊が鳥に移るという信仰に由来する。古代エジプトでも人の魂はカー(鳥)として現わされた。またヤマトタケルノ尊が死後白鳥になって飛んでいったお話しは「景行天皇」の章に記されている。

 

神武天皇と天皇の死亡年

  初代天皇である神武天皇は、橿原宮(かしはらのみや)で崩御された。127歳であった。翌年9月12日、畝傍山(うねびやま)の東北の陵(橿原市大字洞字)に葬られた。『古事記』には神武天皇の死亡年を110歳と記している。このように古代天皇の死亡年は、『古事記』と『日本書紀』とでは大きく食い違っていることが多い。30代の継体天皇の場合には、『古事記』82歳、『日本書紀』43歳となっている。なぜこのように食い違っているかは謎である。
  『日本書記』には41代の持統天皇まで、40人の天皇が記されているが、その40人(39代の弘文天皇は記されていない)のうち、死亡年が記されている者は17名である。鎌倉時代の歴史書『神皇正統記』に記されている死亡年によると、この41人の天皇の平均寿命は79歳で、100歳以上が12人である。(表参照)

天皇 享年 天皇 享年 天皇 享年 天皇 享年
1 神武 127 11 華仁 140 21 雄略 80 31 用明 41
2 綏靖 84 12 景行 140 22 清率 39 32 崇峻 72
3 安寧 57 13 成務 107 23 顕宗 48 33 推古 70
4 廉徳 77 14 仲哀 52 24 仁賢 50 34 舒明 49
5 孝昭 114 15 応神 111 25 武烈 58 35 皇極 68
6 考安 120 16 仁徳 110 26 継体 80 36 考徳 50
7 考霊 110 17 履中 67 27 安閑 70 37 斉明 68
8 考元 117 18 反正 60 28 亘化 73 38 天智 58
9 開化 115 19 允恭 80 29 欽明 81 39 弘文 25
10 崇神 120 20 安康 56 30 敏達 61 40 天武 73
                  41 持統 58

 

殉死の禁止と埴輪の始まり

  垂仁(すいにん)天皇(11代)の28年10月5日、天皇の母の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられた。11月2日、倭彦命は身狭(むさ)の桃花鳥坂(築坂)に葬られた。このとき仕えた者たちを集めて、全員生きたまま陵のまわりに埋めた。何日間も死なないため、うめき声が聞こえた。やがて死んで腐っていくと、犬や鳥が集まってそれを食べた。天皇はこのうめき声を聞かれて心を痛められ、群卿を詔して、「生きているときに愛し、使った人々を殉死させることはいたいたしい。古の風習であっても、良くないことは従わなくてもよい。これからは殉死を止めるように」と言われた。(6巻『垂仁天皇』)
  それから4年後、垂仁天皇の32年7月6日、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった。葬るまでに日があったので、天皇は群卿を詔して、「殉死がよくないことは良くわかった。今度のモガリはどうしようか」といわれた。野見宿禰(のみのすくね)は、
  「君主の陵墓に生きている人を埋立るのは良くないことです。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」と言った。そして、使者を出して出雲の国の土部(はじべ)100人を呼んで、土で人や馬や色々のモノを形作って、天皇に献上して言った。
  「これからは、この埴(黄赤色の粘土)で生きた人に代え、陵墓に立て、後世のきまりとしましょう」。
  天皇は大いに喜ばれ、その土物を墓に立てた。それ以来この土物を埴輪、あるいは立物とも言った。天皇は命を下されて、「今後、陵墓には必ずこの土物を立て、人を損なってはならぬ」と言われた。そして野見宿禰の功績をほめられ、土師の職に任じた。それ以後天皇の喪葬を土部連(はじべのむらじ)らがつかさどるようになった。(『垂仁天皇』)

 

景行天皇の妃の死

  景行天皇(12代)の皇后である播磨大郎姫が亡くなられた。そこで墓を日岡に作って埋葬するため、その遺体を担いで印南川を渡った。その時たつまきが川下から吹き、皇后の遺体を河の中へ吹き飛ばし、見えなくなってしまった。ただ櫛とそれを収める箱(ヒレ)だけが残された。そこで仕方なくこの二つの道具だけを持って墓に埋葬した。このためにこの墓をヒレ墓と呼ぶ。さて天皇はこの出来事を大変に残念に思われ、「この川の物は食べない」と誓われた。この話は『播磨風土記』の残されている。

 

父の死を偲ぶ白鳥

  成務天皇(13代)は、成務天皇の60年の夏に107歳で亡くなられた。翌年9月6日、遺体は奈良市北部の狭城盾列陵(さきのたたなみのみさぎ)に葬られた。この古墳は全長219メートルの前方後円墳で、4度盗掘された記録が残されている。仲哀天皇は即位した年の11月、群臣を詔して、
  「自分が20歳にならないときに、父はすでに亡くなった。魂は白鳥になって天に昇った。それ以来、父を慕い思わぬ日は一日としてない。願わくば陵の回りの池に白鳥を飼い、それを見ながら父を偲び心を慰めたい」と言った。そして諸国に白鳥を献上させた。(8巻『仲哀天皇』)
  9年後の2月5日、天皇は急に病気になられ、翌日に死亡された。時に52歳。皇后と大臣は天皇の喪を隠して天下に知らせなかった。秘密のうちに天皇の遺体を棺に納め、竹内宿禰に任せて、海路で穴門に移し、そして豊浦宮で、人目を避けるため燈火を焚かないで仮葬した。この年は新羅の役があり、天皇の葬儀は取り行われなかった。(『仲哀天皇』)

 

仁徳天皇(16代)が行った魂よばい

  「魂よばい」とは、肉体から去っていった魂を、もとに戻して生き返らせようという願いを込めた儀式である。
  応神天皇が亡くなられたあと、太子は位をおおさぎの尊(のちの仁徳天皇)に譲ろうとしたが、それがかなわないので、「長生きして天下を煩わせても忍びない」といって自殺された。これを聞いたおおさぎの尊は3日後にかけつけ、胸を打ち泣き叫んで、なすすべを知らない様子であった。自分の髪をとき、死体にまたがって「弟の皇子よ」と3度叫ばれた。するとにわかに生き返られた。そしておおさぎの尊に向かい「天命なのです。もうだれもとめる事は出来ません。もし先帝の身許にまいることがありましたら、兄王がたびたび位を辞退されたことを申し上げましょう」といい、棺にうつ伏せになって再び亡くなられた。おおさぎの尊は麻の白服を着て激しく亡き、遺体を山の上に葬った。(11巻『仁徳天皇』)
  67年の冬、天皇は河内に行幸して陵地を定め、すぐに着工した。全長486メートル、高さ30メートルの前方後円墳である。これが世界一の仁徳天皇陵である。完成した年代はわからないが、彼は工事着工後20年間生きた。

 

外国からの弔問団

  19代・允恭(いんぎょう)天皇の42年1月、天皇が亡くなられた。78歳。新羅の王は、天皇が亡くなったことを聞いて驚き悲しみ、多くの調べの船に沢山の楽人を乗せてたてまつった。この船は対馬に停泊してそこで大いに泣き、そして筑紫についてからも大いに泣いた。泣くことが一つの儀礼であった。難波津に停泊してみな麻の白の喪服を着た。
  船には様々な楽器が用意され、沢山の曲を捧げて、難波から京に至るまで、泣いたり踊ったりして弔慰をあらわした。そしてモガリの宮に出向きそこで会を催した。10月10日、天皇を河内の陵に葬った。11月、新羅の弔使たちは、喪礼を終えて帰国した。(13巻『允恭天皇』)彼らはおよそ一年喪礼のために滞在したことになる。今ではとても考えられない。

 

雄略天皇のへの殉死

  清寧(せいねい)天皇(22代)の元年10月、雄略天皇を陵に葬った。この時、近習の隼人たちは昼夜陵のそばにいて悲しみ、食物も取らなかった。そのため彼らは7日目には死んだ。役人は彼らの墓を陵の北に作り、礼をもって彼らを葬った。(15巻『清寧天皇』)これは一種の殉死といえないこともない。

 

殯宮儀礼の成立

  安閑天皇(27代)の時代である6世紀前半、百済から五経博士が招かれ、中国的礼法が伝えられた。礼法のうち、喪葬儀礼が調えられて「殯宮(モガリのみや)儀礼」が一つの決まりとなっていった。殯宮儀礼とは、棺を埋葬するまでの一定期間、モガリの宮に安置し、そこで様々な儀礼を行うことを指す。
  岩脇紳は「モガリ」のなかで、埋葬までのモガリの期間は、『令集解』にある喪の期間とだいたい一致すると述べている。(『葬送墓制研究集成第2巻』名著出版158頁)

 

しのびごとを笑う

  敏達天皇(30代)の14年(585) 8月、国内に疫病が流行して多くの人々が死んだ。このとき天皇も疱瘡に冒された。この病で死者が国にみちあふれた。8月になって天皇の病が重くなり大殿で崩御された。この時モガリの宮が広瀬に建てられた。
  蘇我馬子は刀を付けて死者にしのびごと(死者を哀悼する詞)を述べた。このとき、物部守屋は馬子の不格好な姿を笑った。次に守屋がしのびごとを読むと、馬子はその動作を笑った。この時代から葬儀に不謹慎な者が列席していたようである。(20巻『敏達天皇』)

 

街中でしのびごとが奏上される

  推古天皇は敏達天皇の皇后であった人で、敏達天皇が崩御されたときに、モガリの宮にこもっておられた。彼女が皇位についたのは39歳のときである。推古天皇の20年(612)2月20日、皇太夫人が陵に葬られた。この日、軽の街中でしのびごとが奏上された。1番目に阿部内臣鳥(あべのうちのおみとり)が天皇のしのびごとを読み、霊にお供えをした。供物には祭器、喪服などが1万5000種あった。2番目に皇子たちが序列に従って行われ、3番目に中臣宮地連烏摩侶(なかとみのみやどころのむらじおまろ)が蘇我馬子のことばを奏上した。4番目には馬子大臣が多くの氏族を従えて、しのびごとを述べさせた。(22巻『推古天皇』)

 

聖徳太子の死

  推古天皇の29年(621)2月、仏教普及に勤めた聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなった。この時、諸王から農夫に至るまでその死を悲しんだ。そしてこの月に陵に葬った。太子の死を知った高麗の僧は大いに悲しみ、太子の為に僧侶を集めて斎会を催した。
推古天皇の36年(628)2月、天皇は病気になってふせるようになられた。翌年3月75歳で亡くなられ、朝廷の中庭にモガリの宮がおかれた。
  この年は春からずっとひでりが続き、9月になって初めて喪礼が行われた。このとき群臣たちはモガリの宮でしのびごとを述べた。天皇は亡くなる前に、「この頃はひでり続きで、穀物が実らず、農民は大いに餓え苦しんでいる。私のために陵を建て、厚く葬ってはならない。ただ竹田皇子の陵に葬ればよい」と言い残されたので、その通りに実行された。(22巻『推古天皇』)

 

豪華な葬儀の廃止

  中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した大化の改新(645)の翌年、孝徳天皇の2年1月1日、賀正の礼が行なわれたあと、改新の詔が発せられた。同じ年の3月22日、厚葬と旧俗の廃止が告げられた。
  中国皇帝はその民をいましめて次のように言っている。「昔の葬礼では丘の上に墓を作り、盛り土や植樹をしなかった。」これは漢の「武帝紀」の記録である。
  また「棺は骨を朽ちさせることが出来れば十分であり、また浄衣は遺体を腐らせるまで持てばよい。私の墓は丘の上の開墾できない所に作り、代が代わった後にはその場所がわからなくなっても構わない。金銀銅鉄を墓に収めることは必要ない。土器で車の形を作り、草を束ねて従者の人形を作ればよい。棺は板の隙間に漆を塗るのも3年に一度で十分である。死者に玉を含ませる必要もない。玉で作った衣や飾り箱も無用である。これは愚かな者のすることである」と述べている。(「文帝紀」)

 

墓の制度

詔はさらに続く。 
「この頃我が国の人民が貧しいのは、むやみに立派な墓を作ることに費やしているため」として、墓の制度を決め、尊卑の別を設けることになった。次がその時に決められた墓制である。

●皇族以上の墓制

墓の内(玄室)は長さ9尺、巾5尺。外域は縦横9尋(約15メートル)高さ5尋。労役に従事する数は1,000人、工事期間は7日。葬礼の垂れ帛は白布を使用する。霊柩車は用いてもよい。

●上臣の墓制

内(玄室)は長さ9尺、巾5尺。外域は縦横7尋、高さ3尋。労役に従事する数は500人、期間は5日。葬礼の垂れ帛は白布を使用する。霊柩車は用いずに輿を担ぐ。

●上臣の墓制

内(玄室)は長さ9尺、巾5尺。外域は縦横5尋、高さ2尋半。労役に従事する数は2,150人、期間は3日。葬礼の垂れ帛は白布を使用する。霊柩車は用いずに輿を担ぐ。

●大仁・小仁の墓制

内(玄室)は長さ9尺、巾4尺。盛り土なし。労役に従事する数は100人、期間は一日。葬礼の垂れ帛は白布を使用する。霊柩車は用いずに輿を担ぐ。

●庶民の墓制

  死者は土中に埋葬する。垂れ帛は粗い布。一日もとどめることなくすぐに埋葬する。王以下庶民に至るまで、モガリ屋を作ってはならない。畿内より諸国に至るまで葬り場所を決めて収めて埋葬し、方々にみだりに埋葬してはならない。
  また人が死んだときに殉死をしたり殉死を強制してはならない。また死者のために宝物を収めたり、死者の哀悼のために遺族が髪を切ったり、股を刺したりして、しのびごとをのべたりしてもならない。もし詔に背いて禁を犯したものは、必ずその一族を処罰する。

 

  以上のような法律があったことは、それが当時行われていたことを示している。
  また辺境の役人が任務を終えて郷里に帰る途中で死んだりした場合に、その近くに住む人が、「どうして家の近くで死なせた」と言って、死者の同伴者に祓えの費用を強要することがある。そのため、家族が道中で死亡しても、その始末をしないことが多い。また溺死した者があったとき、それを目撃したものが、「どうして溺死者を人に見せた」と言われて、そのつれに祓えのつぐないを要求する。このために人が川に溺れても救おうとしない者が多い。(25巻『孝徳天皇』)

 

天武天皇の死

  朱鳥元年(686)5月に天武天皇の病気が重くなった。天皇の病の原因は草なぎの剣の祟りであるということで、即刻熱田神宮に送り返した(6月10日)。天皇は使いを飛鳥寺にやり「私の体が病で臭くなった。出来れば仏の力をかりてやすらかになりたい。そこで衆僧たちが力を合わせて仏に祈願してほしい」と依頼した(6月16日)。9月4日、親王以下諸臣に至るまで、天皇の病気平癒の誓願が川原寺で行われた。しかしこうした努力の甲斐もなく、9日崩御された。56歳。以後陵に収められるまで、2年3カ月にわたって、モガリの宮の儀礼がおこなわれた。
  崩御された2日後、はじめて発哀(みね=声を出して哀惜をあらわす礼)が行われた。そしてモガリの宮が南庭に立てられた。9月24日、モガリの宮でモガリと、発哀が行われた。27日午前4時、多くの僧尼がモガリの宮で発哀を行った。、またこの日はじめて奠(みけ=死者に供えもの)が供えられ、しのびごとが述べられた。この日は大海宿禰(おおしあまのすくね)他6名がしのびごとを行った。大海宿禰は天皇をお育てした幼児のことをしのびごとをした。
  28日、僧尼が殯宮で発哀をし、また布勢朝臣(ふせのあそん)他4名がしのびごとを行った。29日、僧尼が発哀をし、また阿部久努朝臣他3名ががしのびごとを行った。30日、僧尼が発哀をし、百済王がしのびごとを行い、続いて国々の造がそれぞれしのびごとを行い、様々な歌舞が披露された。(29巻『天武天皇』)この日まで6回発哀の儀礼が行われており、歌舞が行われた最後の日は21日目にあたる。

 

モガリの宮

  さてこれまでに何度も登場したモガリの宮とモガリについて、様々な説明がなされてきた。国文学者の折口信夫は、モガリの期間を死者を蘇生させる「魂呼び」の期間としている。しかし岩脇紳は「モガリ」をするまでに準備に10日前後かかるので、この間に死の確認が十分に行われたはずであるので、この期間はモガリの宮で、遺族が喪に服す期間であると述べている。つまり死とそれに係わりの最も濃い者が一定の期間、自分を日常の空間から隔離する場所というのである。
「それでは殯宮は何ゆえに必要になったのであろうか。殯宮の中に配偶者がじっと籠って、ひたすら死者に対して哀悼の意をあわらすことが、人間の本来の感情に基づいているとしても、わざわざ殯宮と称する別小屋を設け、そこに死者を安置し、配偶者が籠るということの主旨を説明されねばならない。」(前出151頁)
  モガリまでの過程は(1)死亡(2)モガリ。これはモガリの宮を建ててそこに安置し、陵に埋葬するまでの期間を指す。(3)埋葬。これは山陵などに埋葬することを指すが、これも陵が完成するまでの期間と関係があるかも知れない。
  日本の当時の儀礼慣習は、多く唐の風習を取り入れたものであるから、それを参考にすることは常識となっている。例えば、『儀礼』によると、納棺や埋葬までの期間は、それぞれ位によって異なっており、役が高いほどその期間が長くなっている。例えば納棺をする日は、天子は7日目、諸候は5日目、大官、一般士人は3日目とある。また墓への埋葬は天子は死後7カ月後、諸候は5カ月後、士大夫階級は3カ月後とある。従って天子のモガリは、7日より始まり、7カ月後の埋葬の時まで続けられることになる。

 

古代葬儀の精神

  さてここでまとめに、折口信夫の『上代葬儀の精神』より、「喪」、「モガリ」、「しのびごと」そして「ホウリ」についての意味をみていきたい。
  まず「もにこもる」とは、普通親とか親類の誰かが死んで、喪の期間中じっとしていることと解釈されるが、実は「物のなかに入って外に出られないということです。何のためにそうするかというと、我々には謹慎しているのだとしか思えませんが、…けがれているから謹慎しているのではなく、身体が空っぽになっている為に、身体の中に物が入るのを待っているのです」(『折口信夫全集20巻』中公文庫版363頁)。この新しいものとは、蘇った死者の魂のことで、服喪期間とは関係なく、「そのものが入るとすぐにモから出てくることになる」と言っている。つまり喪にこもる人は、死者の魂を受け継ぐ人ということになり、それがすむとモが終了することになる。
「モガリ」については、「その間は復活せられるかも知れないと思っている。つまり、魂が遊離していられる時期だとこう思っているのです。だから、その間は一所懸命に魂ふりの歌ー鎮魂の歌を唱え、あるいは鎮魂の舞踏を行なっています。」(同書374頁)
  折口によればモガリは復活儀礼の期間ということになる。しかし中国から服喪の思想が入ってくると、モガリの鎮魂の意味合いが薄れていったと思われる。
「しのびごと」は、「貴人の死を悼んで平生の徳などを追憶して述べる詞」(『広辞苑』)であるが、「日本紀や続日本記を見ましても、どうも実際はそういうことでなさそうです」(同379)。ではどうかというと、天皇なら天皇をお育てした家の物語で、その天子がいつまでも達者であるようにと祈りの詞をふくんだ寿詞が、しのびごとに代わるもので、尊いお方が死なれた時には、そういうものが唱えられていたが、段々と悲しみを現すように変化してきたと言っている。
  最後に「ホウリ」である。これは普通には、遺体を野山に捨ててしまうことと考えているが、本来は地方の国の長(国造)の下にいたものが「ホウリ」で、揺れ動かすことを意味するといっている。そして死者をほうむるということは、その死者が悪い死に方をしたので、村から遠い所に運んで行って、村に帰って来ないようにさせた。それ以外に葬列のことは言わない、と言っている。以上大変に面白い解釈であり、合理的な考え方に慣れ親しんでいる私たちに新しい視点をもたらしてくれる。

 

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