1994.06
欧米の霊柩車史

欧米の霊柩車の発達

  人の死は常に日常生活のなかに割り込んでくる。死が発生するとまず最初に行わなければならない処置に、遺体を死亡場所から安置場所に動かすことである。欧米では人が病院などで死亡すると、遺体を葬儀場に運び、そこで遺族・会葬者との最後のお別れをして、葬儀場内のチャペルで葬儀を行う。そのあと棺を霊柩車に乗せ埋葬のため霊園に向かう。霊柩車を先頭に遺族の乗ったリムジーン、そして友人たちのマイカーが続く。葬列の変化はこの霊柩車の変化と大きくかかわり合っていたのである。

 

●霊柩自動車発生以前の歴史

  土葬、火葬などを問わず、葬列は死者を送る荘重な社会的行為である。単純な式、あるいは壮大な式を行うかどうかは別として、葬列は多くの人々が集う劇的な行事である。また葬列は儀式全体のクライマックスでもある。
『全ての行列のなかで葬式行列が最も古い。』といわれる。
  葬式(funeral)はラテン語のfuneralis(たいまつの明かり行列)に由来している。葬列の共通の象徴は、霊柩車(hearse)であった。hearseはフランスの語でherseといい、語源はラテン語のhirpex熊手か手押し車に由来している。
  元々最初の霊柩車は、夜間行われるに葬列にふさわしいローソクを支える木製の骨組みであったと考えられる。それが棺車か棺の上に取付けられて夜道を進んでいった。この単純な骨組みはのちに精巧となり、国王や有力者などの霊柩車は尖塔のような形に変化した。そこには旗、ろうそく、武器が取付けられ、墓碑銘もしばしば霊柩車に描かれた。
  豪華なこうした霊柩車が作られる一方、多くの遺体は手製のストレチャーに似た「棺車」によって、教会の敷地内の埋葬地まで運ばれた。しかし敷地内での埋葬が限られるようになり、都市の外に共同墓地が設けられるようになると、輸送のための道具が必要となった。居住区から離れた埋葬地に手押しの棺車で遺体を運ぶことは、骨が折れる作業であるので、馬で引く乗物が必要になった。
  車輪のついた霊柩車の最初の例が1648年のレインボロウ大佐の葬列で使用された。1690年、霊柩車は英国で必需品となり、賃貸の霊柩車の新聞広告が現われた。霊柩車は町や村の狭くでこぼこの道では使用出来ないので、駐屯霊柩車をより小さくする必要があった。しかし小さくなった分、棺を納める場所を確保するため運転手がそれにまたがるか、その側に座るかしなければならなかった。

 

●植民地時代の霊柩車

  アメリカ大陸では植民地時代の初期には、田舎での葬式の霊柩車や棺車が不足していた。そこで遺体は墓地や教会まで、馬車で輸送するか、遺体を担いで徒歩で行進した。
  海岸部に沿って都市が現われ商業施設がつくられると、重要な人のための独特な葬式が行われるようになった。1687年アンドロス夫人の葬列では、教会から6頭立ての馬車に乗せて運んだと記録されている。ニューイングランドの植民地では葬儀人としての職業が確立されておらず、寺男、家具師、棺メーカーが葬儀を手伝った。1700年に入ると、馬車で遺体と遺族を運ぶようになる。1750年にはアメリカに入植した工芸職人が、棺の製作に携わるようになる。こうしたタンス職人が一般に葬儀屋(アンダーテーカー)と呼ばれるようになる。独立戦争(1776年)の時代、ニューイングランドと中西部の町では金持ちの家族には少数の馬に引かれた霊柩車が用いられていた。しかしほとんどの葬列が徒歩か馬車であった。
  この頃ガラス窓のある馬車が、すでに英国に登場していた。そして植民地で材料、人材が確保できるまでは、イギリスから乗物と貨物車、馬車が輸入された。葬列に使用される馬車の製作には多くの技術が必要とされ、馬車の製作は都市の贅沢技術であり、植民地での富を誇示する象徴の一つであった。町が繁栄すると、馬車製作のビジネスも繁盛した。それは木工と金属細工技術が結びつき、さらに鍛冶屋、装飾用の鉄職人、いす張り職人、建具職などが馬車製作を手伝った。このような精巧な産業は、大きい資本を必要とした。そしてようやく18世紀後半にロンドンやアイルランドから輸入された乗物と競争出来る水準となった。
  奥地の植民地では馬車屋の主人あるいは馬車の運転手が、霊柩車と乗物の提供を拡大して、遺体の世話と配置を行うようになった。そして輸送の次のステップとして葬列の指揮と進行の世話をした。
  1787年に作られた霊柩車には、狭い縁取りのガラス製の外枠をもつキャビネット型で、両サイドはカーテンが飾られている。また別の霊柩車はそれ自身を見せるもので、後部に大きな2輪、前部に小さい2輪がつき、屋根には6つの壷が飾られた。この壷は相当普及したようであるが、それが何を象徴しているのかよくわからない。
  バルチモアでは馬車屋の主人が葬儀社を始め、1824年、貸し馬車屋と葬儀屋が市の職業録に登録された。

 

●霊柩馬車の発達(1850〜1910年)

  1831年、オハイオ州にマーツ・リドル馬車・霊柩車会社が、1838年にニューヨーク州のJ・カニングハム乗物・霊柩車製造会社が設立されている。馬車メーカーによる霊柩車製造の副業は南北戦争まで安定していた。1850年の霊柩車は、長い長方形の箱に厚いフランス製のガラス窓がつけられ、小粋なカーテンがかけられている。そして一頭の馬が運転席の下にある車軸を牽引するのである。
  1852年、ナポレオンを破った英雄ウェリントンの葬儀が行われた。葬列に用いられた葬儀車(図表紙)はおよそ12トンもある巨大なもので、12頭の馬で牽引し、ジェームス公園から聖ポール寺院までの葬列に4時間半かかっている。
  南北戦争(1861〜65年)まで霊柩車の製造は、乗物製造業者の安定した副業であった。戦争のために死亡した者のために国立霊園が設置されるようになり、5年間の戦死者は61万7000人といわれる。この戦争で戦死した遺体は、改めて陸軍の主計総督によって国立霊園に埋葬され直し、他は故郷に搬送された。
  保守的な霊柩車も年ごとに変化が現われ、南北戦争では霊柩車が重要な役割を果たした。そして戦争の終結までに霊柩車は改良が加えられ、古い霊柩車は時代遅れとなった。1840年〜50年代の霊柩車が1860年代にも見られたが、それ以後霊柩車のスタイルは15年の間隔で規則的に変化した。
  10年もすると旧型は見られなくなり、そのようにして新しいデザインが国中に広まった。一早く霊柩車を購入した業者は、新しい車種を望み、先見の明のある実力者として、メーカーに新しい霊柩車を製作させるように説得し、一方メーカーも、市場拡大のためにモデルチェンジを行った。
  南北戦争の頃までに霊柩車はより大きくなった。戦争の終わりに、大型の曲面ガラスを使用したケースが登場した。1875年頃には霊柩車の屋根には装飾用の壷と羽が飾られていた。このあと羽は家紋などの象徴に替えられ、最後に屋根の上の装飾がすべてなくなった。
  南北戦争後に登場したものに子供のための白い霊柩馬車がある。この馬車を牽引する馬も白馬が用意された。この種類は、その後4半世紀にわたって使用され、葬儀社の標準設備となった。

 

●フォレスト将軍の葬列

  作家小泉八雲は1877年11月、アメリカ滞在中にフォレスト将軍の葬列を目撃している。その葬列には霊柩車が描かれている。『フォレスト将軍の葬儀』によると、200騎ばかりの騎馬が葬列を先導し、その後、軍楽隊、ライフル隊、南軍の元兵士たちが徒歩で続き、そのあと黒の棺衣に覆われた霊柩車が、4頭の黒い馬と農園の黒人の囚人たちに引かれて登場した。続いて消防隊、警察隊の隊列が続き、さらに貸し馬車やその他の馬車からなる列が続いた、とある。葬列という形式によって市民と最後のお別れをしたのである。
  1893年のシカゴ世界博覧会でクレーン&ブリード社は、精巧で目だった葬式車を登場させた。それは西インド諸島及び南米貿易のために作られたもので、大変に大きく、屋根に金色の天使や十字架のキリスト像が飾られていた。この畏敬の念を起こさせる乗物は、8頭の馬によって牽引されるもので、アメリカでの使用は考えられていなかった。しかし、博覧会の終わりに暗殺されたシカゴ市長のために利用され、その後海外で使用された。

 

●葬式電車

  イギリスでは1850年、メトロポリタン埋葬業が鉄道による棺輸送を許可された。そして主要駅に棺車が用意され、そこから棺が馬車に乗せられて霊園に運ばれた。このように鉄道が棺を運ぶ重要な役割をする時期があった。1902年ビクトリア女王の遺体がポーツマスから王室専用列車でウォタールー駅に移送され、そこからウインザーに運ばれた。それ以来王室の遺体は列車で運ばれるようになった。その例として1910年にエドワード7世は、パディントンから汽車でウインザーに運ばれたことがあげられる。
  アメリカで1909年「霊柩車の次のスタイルが」問題となったことがある。その答えは、霊柩車設計に科学技術が反映されることである。すでにガス馬車が一般の好奇心をひき、輸送手段全般に進歩が見られ、1885年以来都心では電車が定期運行していた。
  アメリカで最初の電動の市街鉄道がバルチモアで産声をあげた。4年後カンザスの市街鉄道会社が、近くの共同墓地へトロリー葬式車の操作を始めた。車輛は8輛で、室内のテーブルに棺を安置した。後部にある大きな折りたたみ式ドアは、棺の出し入れが出来るように十分に開いた。車体は内部が黒と金、外装はピンクであった。料金は距離と時間により異なり、8ドルから10ドルであった。哀悼者のために追加の車輌が利用できた。路面電車の多くが葬式路面電車として使用され、1890年代から20世紀初期まで使用された。これは主要都市のほとんどで使用され、大規模の共同墓地に向けて定期的に運行された。
  1920年代クリーブランドとシカゴに葬式車が走り、郊外の共同墓地に棺と花と悲しみに沈んだ乗客を運んだ。まだ葬式トロリーの使用は大都市に限られ、また喜んで受け入れられる期間は長くはなかった。電車での葬列は威厳が失われ、線路の上をゴロゴロ音を立てた。一般市民は、早いスピードで通りを進んでいく葬列の光景に戸惑いの感じているようであった。

 

●霊柩自動車の登場

  ドイツでベンツの1号車が1885年に試運転された。アメリカでは1896年最初のガソリン駆動の自動車がデトロイトに現われた。
  1900年4月イギリスで初めて自動車エンジンによる霊柩車が登場した。(図)それはルーベン・トンプソン工場で作られた12馬力のもので、シェフィードからマンチェスターまで運転された。そしてそれ以来霊柩自動車の有効性が認識され、国内の全ての地域、および遠く離れた地区へ遺体が運ばれるようになった。それから10年後、静かな霊柩車として徒歩で葬列する速度に合わせて走ることができる霊柩自動車が登場した。それは議員のパーゲター氏が作ったもので、霊柩車の車体の両側には浮き彫りのあるガラスが嵌められ、カーテンが取付けられた。
  一方アメリカでは1905年、葬儀業のメンバーの一人が初めてビジネス用に霊柩車を持った。1909年にはニューヨーク市のフレッドフルバーグが改良型の霊柩車と乗客乗物の専売特許をもつトラックのような箱型の客室部分を展示した。形は霊柩馬車と葬式路面電車と自動車を結合したものである。価格はおよそ6,000ドルで、霊柩自動車に取って代わることが目的であった。同じ年、少くとも2社は葬式サービスに自動車を使用させていた。
  カニングハム工場では32馬力のモーター救急車モデルを製造した。車内には、ベッドと付添人のための二つの椅子と照明のシステムが備えられ、内側はマホガニー製で、外側は金のラインが入った銀塗装であった。
  その年の春、地方の自動車ショーでカニングハムの救急自動車が展示され、雑誌『西部葬祭』に宣伝された。この時すでにクレーン社では彼らの最初のエンジンつき霊柩車を生産していた。これは1909年市場に出た。彼らの最初の広告で、葬式サービスに導入される霊柩自動車の意義についての考えを述べている。
  1908年、フォード社がT型を発売し、自動車も大量生産体制に入った。これまでの葬列に費やされる時間に人々は不満を感じており、霊園に行くのに早く的確に行くことを望んでいる人たちの期待に答えた。
  最初の商業霊柩自動車は黒塗で、平らな屋根の頂上に幾分グロテスクな小さい装飾があった。2番目のモデルは、それ以前の装飾柱とカーテン付き窓の従来のスタイルに戻った。11月、クレーン社は製品の中に救急自動車を加えた。初期霊柩自動車の車体は乗用車のシャーシに霊柩馬車の車体を乗せたものであった。

 

●霊柩自動車の普及

  救急自動車と霊柩自動車の普及は大都市よりも、中堅都市の上流階層から普及していった。大都市の葬儀社では霊柩馬車に設備投資が進み過ぎ、自動車型に変えるのに遅れたのである。ニューヨークのある葬儀社は75頭の馬と関連装備をもっていたので、それを処分するため馬車霊柩車をキューバに輸送し、そして安価でそれを売った。確かにほとんどの店が霊柩自動車を取り入れたのに対し、ニューヨーク市では依然として馬で引く霊柩車を使用していた。
  初め葬式に霊柩自動車を使用することに賛否両論があり、『葬儀ジャーナル』では救急車と霊柩自動車が、商業生産体制に入ったことを述べる一方「自動車による葬式」の普及が遅れる5つの理由を述べた。
  第1は霊柩自動車が4,000ドルから6,000ドルで、霊柩馬車の1,500ドルより高いことがあげられる。2番目に霊柩自動車は霊柩馬車より早いとはいえない。第3に訓練されたお抱え運転手の管理と経費が高価である。第4に維持経費が高いので、棺などの料金を下げなくてはならない。そして最後に、霊園に急いで送ることによる、心理的感情面の問題である。年寄りはゆっくりと威厳を持って墓地に向かいたいのである。
  それでも霊柩自動車は新しい時代の人々に受け入れられた。1910年から1920年までの10年間、これまでの葬式でサービスに使った乗物は自動車に取って代わった。しかし棺ワゴン、救急車ワゴン、防腐処置人の軽装馬車、そして他のサービス乗り物は、それ以前にガソリン車にとって代わられた。
  第一次世界大戦(1914〜18年)を通して霊柩自動車は、ますます飾り立てたようになる傾向があった。精巧な装飾を施したピークが1920年である。ある会社では霊柩車の屋根に角笛を吹く天使の像を作り市場へ出した。
  第一次世界大戦にはリムジン霊柩車が登場した。美しく飾り立てて彫刻された乗り物で、葬儀社と市民がリムジンの長く滑らかなラインに惹かれた。そして車体が低いため、荷の積み下ろしがいっそう容易となった。
  リムジン型霊柩車の登場で他の霊柩自動車との調和を考え、美学的に快いスタイルのよい車による葬列が生まれた。また乗客専用リムジン、特に葬儀社用の8人乗りのリムジーンが製作され、付添い人または遺族車として賃貸された。
  イギリスでは1930年代まで霊柩馬車と霊柩自動車が並存した。なお日本で最初に霊柩自動車が作られたのは1928年(昭和2年)大阪の駕友であるといわれる。

 

●葬儀社による救急サービス

  第一次世界大戦後、齋場は救急サービスを拡大し始めた。葬儀社は赤十字で訓練した人を雇ったり、特別車(ステーション・ワゴン、リムジーン、救急車と霊柩車の兼用車、および専用救急車)に酸素吸入や救命具などを積んだ。1930年には、齋場のおよそ9割以上が、救急自動車のサービスを行なうようになった。ほとんどの葬儀社は24時間体制を取り、救急自動車とスタッフを揃えていた。しかしそうしたサービスは年々減少し、およそ20年後の1980年までに、救急自動車によるサービスが59%から7%に減少した。それは救急自動車の設備投資と維持に大変経費がかかることと、また独自に救急自動車を運営する制度が整ったことがあげられる。

 

●霊柩車のデザイン

  1921年、霊柩車メーカーの老舗であるユーレカ社は、棺を担ぐ人がそのままサイドドアから棺を入れることのできるデザインの霊柩車を開発した。同社はまた1926年、棺を納めると固定できる装置の特許を取った。1933年にはカルフォルニアの霊園業者から特注を受けてランドウ型の霊柩車を開発した。

 

●霊柩車のサイズと色

  南北戦争まで霊柩車はたいてい黒く塗られていた。戦後ゆっくりとその長さと広さが増え、色もいくらかの変化が見られ始めた。戦後10年内に紹介された子供の霊柩車は、常に白であった。さらに大きい葬式車は暗色であった。最も人気のある色の組み合わせは、黒の地に銀か金のラインの入ったものであった。しかし明るい灰色で彫刻された霊柩車が登場したときにはこれが流行し、葬式車の半分がこの色使いであった。
  明るい紫色の霊柩車が、1893年のシカゴ世界博覧会で発表された。しかし、一般の人気を得なかった。霊柩自動車は最初は黒く、そして第一次世界大戦前後には種々の灰色が使用された。
  また霊柩車は葬式がすむと常に磨かれピカピカになって登場しなければならないので、その美しさを維持するために問題があった。そのためあるメーカーでは、新しい霊柩車に6カ月毎の再塗装のサービスを含めた。
  イギリスでは現在ほとんどの霊柩車が、黒色であるが、いくつかの葬儀社は、濃い灰色を使用している。それは特にリムジーンの場合、結婚式のために週末に賃貸することが出来るからである。大葬儀社のチェーンの一つのPHKインターナショナル は紺色を導入したが、南東部での人気が今一つであった。ブリストルにあるグレンフォーム社では白い霊柩車とリムジンを提供している。

 

●花輪カー

  霊園への花の輸送にも特別の乗り物を必要とした。初め花は、特別の皿を取付けた霊柩車か、霊柩車の側壁の棺の上の容器に乗せて運んだ。また大量の花を運ぶときには特別に車が用意された。最初の花輪カーは、大きい7人乗りフェートンタイプか、あるいは天井が開いた車が使用された。このタイプが数年間流行したあと、全く新しいスタイルの花輪カーがデザインされた。

 

●米国霊柩自動車メーカー

  1993年の「霊柩自動車プレビュー」に紹介されていたメーカーを次に取り上げる。

キャデラックモーター社(デトロイト)1926年参入
 リンカーン・マーキュリー霊柩部(デトロイト)
 ビイックモーター霊柩部
 ブラウン社(インディアナポリス)1984年創業
 ユーリカコーチ社(オハイオ)1871年創業
 フェデラル・コーチ社(アーカンサス)
 リムジーン・ワークス社
 ミラー・メター社(カンサス)
 ローヤルコーチ・ワークス社
 S&Sコーチ社(オハイオ)1876年創業
 スペリア・コーチ社(オハイオ)1923年創業。

  これら霊柩自動車は、今日では欠かさすことの出来ない運搬手段である。自動車が個人の生活に大きな変化をもたらしたように、霊柩自動車の発展は死者の埋葬を改善する手助けを行った。また墓までの葬列が遠くなったため、遺体と哀悼者の輸送が葬儀サービスの必要部分となった。
  輸送が葬儀社の役割になると、葬儀社はますます遺族との接触の機会が多くなった。遺体を遠距離に運ぶようになれば、葬儀は複雑になる。この拡大されたサービスには、葬列の準備、収容サービスの他、哀悼者への安全と感情面に対する心くばりが必要となってくる。

 

資料:

(1)The History of Amerian Funeral Directing/Habenstein 1981
(2)雑誌Amerian Funeral Director 92.5
(3)リッテン著「イギリス人の死に方」

 

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