1994.04
納骨と骨壺

  人間は火葬になったあと、その遺灰は遺族の手によって一旦骨壷に収められる。そしてこの遺骨を納めた骨壷は、多くの地域では日の忌明けまで中陰壇でまつられ、忌明けとともに墓地の中に納められることになっている。しかし最近では墓地不足から墓地を建てるまでの間、寺院に預けたり、仏壇に安置したりしているケースが多いようである。そして骨壷の最終的な行き先は、墓に納められる場合、納骨堂に納める場合、そして所属する宗派の本山に納める場合、あるいは分骨先でまつるなどさまざまなケースがある。いずれにしても、納骨の歴史は大変古くからある。今回はこの納骨と骨壷について取り上げた。


遺骨崇拝

  さてこの遺骨に対する信仰はどこから来ているのであろうか。人間が生きている間は肉と骨が魂の宿る所であったが、死んで火葬になったあとでは遺骨だけが肉体の残りとなる。太平洋戦争で死んだ多くの兵士の遺骨収集が、戦後何十年に渡って続けられたことを思うと、遺族にとっていかに大切なものであるかがわかる。これは仏教の教えというよりも、日本人の肉親の遺骨に対する尊敬の念から来ているのであろう。そしてこの大切な遺骨をどこに安置するかが大切な問題となる。
  骨壷は普通、骨箱に納められてしまうので、たとえその壷が芸術的に価値の高いものであっても、それを観賞することは出来ない。しかし自分の墓を事前に購入する人があるように、事前に自分の骨壷を用意する人があるようである。先ごろ作家水上勉氏の製作した陶器の骨壷の展示販売が行われたが、大変大きな反響を呼び、大きな収益をあげたようである。この場合、壷を買った人は、あらかじめ自分の部屋などにその壷を飾り、「私が死んだらこの壷に私の遺骨を入れてくれ」と家族にお願いしているのであろう。自分の死を後の者に任せるのでなく、自分で決めていく姿勢は、残された者に大きな精神的遺産を残すことであろう。
  さて沖縄など、最近まで洗骨が行なわれた文化圏では、遺骨に肉が付着している間は死者は成仏しておらず、肉が完全に乾燥して骨だけになったとき、初めてその骨の主の魂は浄化されたと考えられる。そうした状態になったら遺骨はきれいに洗われ、壷に納めて祀り直される。
  中陰後に遺骨を墓に納めることと、洗骨は、浄化されたものとして改めて祀り直されるという風に考えるとわかりやすい。もっとも葬儀の前に火葬を行う地域では、葬儀のあとその日に納骨をすませることがあるので、いちがいに断定することはできない。

 

本山納骨

  さて忌明けなどに寺院に納骨する場合には、火葬の際に火葬場に提出した埋葬許可書が必要である。また本山に納骨する場合には、寺院にある申込書に必要事項を記入して申し込むことになっている。高野山が死者の霊の行く浄土であるという信仰が定着し、奥の院に至る両側には多くの石塔がならんでいる。真言宗の信者である遺族は、遺骨をもって山に登り、山上で回向をしてもらい、奥の院の納骨堂に骨を納める風習がある。納骨料は電話で問い合わせたところ5万円(平成6年3月現在)で、故人の氏名、戒名、死亡年月日などを記入する必要があるので、それをメモしたものが必要であるという。受付時間は8時30分から2時30分頃までという。
  紀州那智の奥の院である妙法山は、高野山に向かう死者の霊がここに立ち寄って行くという俗信がある。ここにも納骨堂がある。長野の善光寺は死霊の集まるところとして、多くの位牌が納められている。生前ここで「お血脈」を買っておき、死んだときには一緒に納棺する風習がある。これがあると、亡くなったあと死者は閻魔の裁きを免除していただけるそうである。
  甲斐の身延山久遠寺は日蓮宗の本山で、信者はここに納骨する習慣がある。木曾の御岳山は登山道の傍らに多くの墓石が建てられているが、納骨は行われていないという。

 

骨壷の歴史

  古くから火葬が行われると、あとに残った骨は遺骨として大事に壷に納められた。その時の入れ物は専用の壷ではなかったが、骨壷を故人の象徴として祭るようになると、特別の壷が作られるようになった。歴史的には釈迦の遺骨を納めた骨壷が異国から伝えられたとき、日本でも遺骨を美しい器に入れておくという考え方が生まれた。
  遺骨を美しい容器に入れるという風習は、インドの釈迦の舎利信仰からであろう。仏舎利とは釈尊の火葬した骨をさすが、伝説ではこの遺骨の分配をめぐって8つの国が争った。それほど遺骨は大切なものであった。
  釈尊の遺骨は大変に尊いとされ、仏教の教えを信ずる者にとって仏舎利が納められた容器は、釈尊そのもののように見做され、それを大切に祀ったのである。仏舎利の容器はそれが製作された時代や土地の文化水準をよく表しており、瓶、壷、塔など様々な形が生まれた。この仏舎利の容器は紀元前2〜3世紀のものがインドで発掘されているが、蓋の部分が特徴があり、そのつまみの材質は滑石や水晶製である。その後、この仏舎利容器は仏教の伝播とともに中国、朝鮮にもたらされ、それぞれのお国柄を示す独自のものが製作された。

 

日本に広まった火葬壷

  骨壷は飛鳥、平安時代には土器で壷形のものが最も多く発見されている。この骨壷は直接土の中に埋められたり、外容器に納めて埋められたものとがある。また金属製の骨壷には、墓誌銘文の記されたものもあった。
  奈良・平安時代の骨壷は壷形で、つまみのある平らな蓋が被せられている。その他の特徴として、遺骨と同時に貨幣や砂を入れたものが見つかっている。その他三彩の骨壷も発見されている。三彩は美術品として唐三彩が最も有名であるが、三彩はもともと死者を埋葬するときに副葬する明器として用いられたものである。この三彩が日本に入ると、早速その美しさにみせられ、奈良三彩が作られあるものは骨壷として用いられた。その後平安・鎌倉時代に入ると、中国から青磁や青白磁の壷が骨壷として使われるようになった。そうした意味で骨壷はたえずその時代の最先端技術を用いて作られていたのである。
  日本の火葬は西暦700年、中国帰りの法相宗の僧侶、道昭の遺言によって栗原で行われた。『続日本紀』によると、親族や弟子たちが火葬したあとの道昭の遺骨をほしがって相争い、そのうちに風が吹いて骨灰を吹き散らしてしまったという記事があるから、骨壷に納めなかったのであろう。
  弘法大師の聖地・高野山に納骨する習慣が広まったのは、12世紀に入ってからである。高野山は清められた地であり、そこに納骨することによって死者が成仏するというふうに考えられた。こうした聖地に納骨する風習は、平安時代末期になると高野山の独占ではなくなり、格式のある寺院の五輪塔の下への納骨という風習として広がっていった。
  鎌倉時代の僧侶忍性は、北条時宗の建てた病院で貧しい病人を看病し、20年間に5万7千人を養ったという。1303年に死去したのち、彼の遺骨は遺言によって3つに分けられて青銅製の骨壷(高さ26センチ)に納められ、3つの寺院の五輪塔の下に埋められた。
  五輪塔は鎌倉時代に多く見られる墓の形式で、地水火風空の象徴であり、もともと密教の思想であった。世界はこの5つの要素から構成され、人が死ぬとまたこの5要素に帰って行くという思想で、人が死ぬと土に返るというものよりもより多次元の思想といえる。この五輪塔は仏舎利を納める容器の形ともなった。

 

骨壷の形と変遷

  舎利容器は蓋のついた壷形のものが基本であるが、さらに五大元素を表した五輪塔形の舎利容器、また仏像の内部に遺骨や経文を入れたものなどが登場した。また、奈良西大寺愛染堂に安置された興正菩薩叡尊(1201〜1290)の座像は、高さ88センチの等身像で、この僧が80歳を記念してして作られたもので、像内には仏舎利が安置された。京都南禅寺の開山大明国師(1212〜1291)の木造のなかには、仏舎利一粒、五輪小塔、そして経典が納められていた。これは大変リアルな肖像彫刻のなかに、遺骨とそれを供養する五輪塔、そして経典をセットにして内部に納めたもので、こうした供養の仕方は現代にも通じるものがあると思われる。

 

現代の骨壷

骨壷の種類

  日本の骨壷はほとんどが陶磁器製であるが、その生産地は陶器は四日市市、常滑市、土焼きでは栃木県の益子町が有名である。また磁器製品では、愛知県瀬戸市が全国の8割りのシェアを得ている。またその他有名陶芸家による壷形・瓶形骨壷が製作され、さらに台湾製の大理石の骨壷まである。


骨壷のサイズ

  骨壷は東京では小さく、地方に行くほど大きくなっている。また東日本と西日本では大きく習慣が異なり、東日本では全部、西日本では一部拾骨というように、火葬した遺骨を納める量の違いから骨壷の大きさの違いとなっている。遺骨を全部、壷に納める習慣がある地域では、どうしても大きな骨壷が必要となってくるわけである。
  サイズは5寸、6寸、7寸などがあり、分骨用の壷は一まわり小さく作られており、全国的にはほぼ同じサイズで2寸から3寸までの間である。デザインは七宝の色鮮やかなもの、鳳凰をあしらったもの、花柄、経文入り、キリストでは十字のものなど多種多様である。
  骨箱は骨壷を収納する木製の箱で、桐、モミの白木、また金欄や紫の布張り、白地などがある。サイズは4寸から7寸である。また金欄布製の分骨袋やそれを納める木製の厨子なども販売されている。

 

骨上げ行為の地域差

  『火葬場』に、火葬場別骨上げ行為の所作と構成が記載されている。この調査は昭和50年当時のもので、現在では異なっているかも知れないが、参考までにあげておいた。

 

納骨と宗派

  骨壷には戒名を記すが、さらにそれぞれの宗派にふさわしい経文などをしるすことがある。これは伝統的な作法であるが、最近では行われることが少ない。
  例えば天台宗では骨壷の周りに阿弥陀様の呪文を梵字で3行にわたって記し、そのあと観音様と勢至菩薩の呪文を書くのである。次に蓋の表には往生が決定する呪文を梵字で、蓋の裏には9の仏様を表す梵字を、そして壷の底には阿弥陀様の呪文を記すのである。この文字は、死者が「西方にいます阿弥陀如来の元に往生するように」という願いが込められたものと思われる。
  真言宗でも、骨壷の底に阿弥陀様の真言を記し、骨壷の蓋の裏に9つの仏様を表す梵字を記すのである。
  臨済宗では骨箱の裏に「法名、取骨畢、年月日」を入れる。取骨畢とは骨を拾い終わるという意味で、年月日は收骨の日をさす。そして「如来舎利在宝塔中 逝者白骨同入仏道」つまり「如来のお骨は宝塔の中にあり、死者の白骨も同じく仏道に入る」と記す。

 

ペットの骨壷と納骨堂

  ペット用品製造販売のクハラ(下関市)では、萩焼窯元と業務提携し萩焼きのペット用骨壷を開発したという記事が『日経流通新聞』92年10月6日号に掲載されていた。このペット用骨壷は大で直径14センチ、高さ14.5センチ。桐箱入りで小売り価格大で7万円。小は3万円という。同じ日の紙面には、ペット納骨堂ピクシスが東京目黒に来年誕生すると出ていた。これは実際どうなっているのかを調べていないが、骨壷はもはや人間だけのものではない時代なのである。

 

納骨堂

  墓地不足であるため、ロッカー形式の納骨堂が増えている。平成2年に総理府が調査しところ、ロッカー形式の納骨堂は抵抗感が強く、40歳代が56.3%と最も高く、「止む終えない」と答えたのが50歳代で36.6%であった。またスペースが墓地ほど必要ないので、都心では地下などを利用して納骨堂を作る寺院が目立っている。

 

海外の骨壷

  西洋では火葬の普及に伴って、骨壷も様々な形態と材質が生まれた。例えば古代ギリシャの壷のような古典的なものから、モダーンなブック型のデザインまである。
  ヨーロッパでは、主に火葬場内にある教会や礼拝所で葬儀が行われ、そのあと地下にある火葬炉で火葬が行われる。この時には日本のように点火や收骨に立ち会うことはしない。火葬された遺灰は、職員の手によって名前や番号が記された骨壷に納められ、その後遺族に手渡される。そしてこの骨壷は遺族の立会のもとで集合納骨室に納められるのである。
  納骨室をコロンバリウムといい、日本の納骨堂のようにいくつものブロックで区切られ、家族単位で使用されている。個々の納骨部をニッチといい、骨壷を収納したあとに蓋をしてしまう。このニッチの大きさは縦横30センチくらいで、納骨のあと、故人の氏名、生没年月日が記された蓋で覆われる。もちろん收骨室によっては、中の骨壷がよく見えるガラスで覆われたものもある。

 

西洋骨壷のデザイン

  ヨーロッパやアメリカの骨壷は様々な形がある。それらは大きく分けて、壷形、立方体、そして宝石箱形が目につく。壷型はいわゆる骨壷で陶磁器や金属製である。立方体は金属製のモニュメントのようなもので、大変シンプルなものである。宝石箱型は4つの足がついており、大変安定性の高いものである。これは宝石箱のように蓋を開くことが出来る。またデザインは十字架の象徴の入ったもの、合掌している両手をデザインしたものが比較的ポピュラーである。

 

骨壷ボールト

  骨壷ボールトは骨壷を埋葬する時に用いる頑丈な覆いで、骨壷を永久に保存するために、頑丈な覆がそれを防いでくれる。もともと棺を土の中に埋葬するときに保護するために考えられ使用されたものであるが、それを骨壷に応用したものである。

 

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