1994.02 |
死と悲嘆の体験には、その置かれた状況によってさまざまなニュアンスがある。93年12月で宗教儀礼研究所で行なわれた講演のなかで、講師が 『漢字には人間の心からなる漢字が1,246字ある。つまり中国ではこれだけ人間の心を使い分けてきたのである。しかしそれが日本に入ってくると、その微妙なニュアンスがないがしろにされ、その違いが理解されないまま使われている。例えば悲しいと哀しいの違いがわかる人は少ない。そこで例えば、遺族の哀しみを慰めるにしても、どうしていいかよくわからない。それは哀しみのもつ細かいニュアンスの違いを理解できないからである。』
と語られた。
そこで漢字の中にみる死と悲嘆に関する漢字を取り出し、その本来の意味を学ぶことにする。資料は白川静 『字統』 平凡社を中心に行い、藤堂明保 『漢字源』
などを参照した。
人が老いて命の終わりが近づいてくると、まず体が衰弱(すいじゃく)してくる。ではどうして衰の字に衣があるのか。「衰」は死者の襟もとに麻の組ひもを飾って魔除けとしたことを字に示した。葬礼の時には、日常の礼を控えるので、控えて少なくなることをあらわし、それが衰微の意味と変化したもの。
次に「憔悴」(しょうすい=やせおとろえること)の「憔」(ショウ)。焦は火の上で鳥が焼けて肉が縮むこと。そこから憔は心が焼け体が縮むこと。悴(スイ)の卒は死者の襟もとを結ぶ形で、憔悴は死に近い状態をあらわす。
「急」(キュウ、いそぐ)の字は、逃げる人の後ろから手を伸ばして捕まえる形を描いたものに心を加えた形。そこからせわしい心の状態を意味する。「急卒」(きゅうそつ)はにわかなこと。卒もにわか。「急逝」(きゅうせい)は急に亡くなること。
「危篤」(きとく)は病気が非常に重く、命があぶないことである。「篤」(トク)は馬が疲れる意味やてあついという意味があるが、病気が重いという意味もある。「瀕死」(ひんし)の重体というが、「瀕」は水際のことで、死が際まで迫っているということである。「臨終」は同じく死に際で、終わりに臨むことである。
そして死。「死」は偏の部分のタの上にトが組合わさった人の残骨の形、右のつくりの部分は「人」でその骨を拝している形で、死者を弔う意味であるという。
同じくシと発音する「屍」(しかばね)は尸と死が組合わされた形である。死亡して葬らない間は、尸(かたしろ)をたてることがないので、屍はまだ完全に魂が抜けきっていない遺体ということがいえるのではないだろうか。かたしろとは死者の霊の言葉を語る霊媒のことで、かっては子供がその役目をした。
死亡すると目を閉ざす。「瞑目」は目を閉ざすことで死ぬことをあらわす。また安らかに死ぬことなどの意味がある。「瞑」は目が冥(おおわれて暗い)で、目をふさぐという意味。
落命、絶命、隕命、畢命はそれぞれ死を意味する。「命」は人々を集めて口で意向を告げることで、命令に近い。そこから命は天からさずかった生きる定めのことをいう。
さて死者の霊魂は肉体から離れて、あの世へと旅立つのであるが、霊の旧字は「靈」と書き、巫女の雨乞いの儀礼をあらわした。そののち神霊を降すのも同じ儀礼が行われるので、霊は神霊のことを指すようになったという。
次に「魂」である。魂は云と鬼という字からなっている。云は雲気のこと。中国では魂魄(こんはく)といい、死者の魂は雲のように上に昇り、魄は魂の重い部分として、地の中に同化するものと言われている。魄の白は生気を失った頭骨の形である。
次に死をあらわす言葉に逝去、終焉などがあるが、「逝去」(せいきょ)これは他人の死の尊敬語であるが、「逝」はふっつりと折れるようにいってしまうこと。「終焉」(しゅうえん)は死に臨むこと。末期の意味であるが。「焉」の文字はえんという鳥の事で、終わりという意味はない。
「遷化」(せんか)は人が死ぬこと。高僧が死ぬことの意味の場合「せんげ」と発音する。遷のしんにゅうのない字は、死者を仮もがりするため、板屋などに移す意味の字である。藤堂明保の『漢字源』では頭の泉門から魂が抜け去る動作で、遷は中身がよそへ移ることと解している。
「卒」という字は「卒去」(そつきょ=一般の人の死)、「卒年」(死亡したときの年令)など死と関係の深い字である。これは死者の襟を結び留めた形で、死者の霊が迷い出ることを防いだという。
「斃」(ヘイ)は人がのたれ死ぬことをいう。敝は布が古びてだめになることであり、斃は疲れて倒れ死ぬこと。死亡の「亡」は死者の足を曲げている形といわれるが、『漢字源』では人を衡立で隠し見えなくなる意味にとっている。
戦歿者などの「歿」はつくりが水に沒すること。そこで死んでこの世から見えなくなることを意味する。
「訃報」(ふほう)の訃の字は、人が死んだことを急いで知らせるという意味であるが、つくりの「卜」は占いの割れ目で死の意味はない。
「故人」の故の文字は固まって固定した事実で、古いなどの意味である。故人を死んでしまった人の意味に用いるのは日本語で、故○○とするのも日本の用法である。また物故者の物故は中国の古典にみられるが、諸物はことごとく朽ちるため「故」といった。
僧侶の死は往生(おうじょう)、入定(にゅうじょう)、入寂(にゅうじゃく)、帰寂、滅度、入滅、寂滅、涅槃などという。また「帰幽」「昇天」などともいう。帰幽の幽は糸の束を火であぶって黒くすることで、そこから暗黒をさすようになった。そこで「帰幽」とは暗い所に帰るということになる。
「涅槃」はサンスクリット語でニルヴァーナ。火が吹き消された状態をいう。釈尊の入滅も涅槃という。仏教用語では他に「彼岸」、「浄土」があるが、「彼岸」は悟りの世界、仏界のことで、向こう岸に到達した状態をいう。「浄土」は仏国土の意味で、これも神道やキリスト教では使わない。
「彼岸」の反対語である「裟婆」(しゃば)は、これはサンスクリット語のサハーを漢字にあてたもので大地という意味がある。
押されて死ぬのは圧死、車に轢かれて死ぬのを轢死(れきし)、凍えて死ぬのを凍死、火に焼けて死ぬのを焦死、焚死(ふんし)焼死などという。水の中では、水死、溺死。
若くして死ぬのを早世(そうせい)夭折(ようせつ)、短命、早世(そうせい)などという。7才以下は無腹、8才から11才は下殤(かしょう)、12から15までは中殤、16から19までは長殤、長命で死亡する時は寿夭(じゅよう)寿終。子が親に先立つことを逆さ事という。
逝(ゆく)、果てる、消える、罷(まかる)、歿す、終わる、引取る、身罷(まかる)、消え果てる、絶入る、事切れる、息盡(いきつく)、鬼籍(きせき)に入る、成仏、往生する、雲隠れる、死出の旅、帰らぬ旅、不帰の客
死が発生するとまず葬儀の準備から始まる。しかし死を忌むこととして考えられた長い歴史がある。
この忌(キ、いむ)の「己」は『漢字源』によると、はっと目だって注意を引く目印の形で、忌は心に抵抗が起きて受け入れないこととある。忌が使われる熟語に、「忌日」(きじつ)=親の命日。事を行なうのに忌み避ける日。「忌中」(きちゅう)=喪に服している期間。人の死後49日間。「忌服」(きふく)=喪に服している期間。忌は家で慎む期間、服は仕事しながら慎む期間。「忌諱」(きき、慣用できいともいう)=命日と諱(いみな=死んだ王の名)。いみきらう。いみさける。「忌辰」(きしん)=死者の命日などがある。
「凶」。これは胸に入れ墨をした形で、横死者の遺体の胸に入れ墨をして、その霊の災いを防いだという。
「儀式」の「儀」は、ほどよく整って手本となる人間の行為という。私儀の場合は、私に関することという意味で日本語である。「式」の字は巫女などが左手に呪具を持つ形で、法式の意味となる。
「祭」は肉と又と示からなる。示は祭卓をあらわし、その上に肉を供えて祭ることである。「祭祀」の祭は人を祭り、祀は巳(蛇)からわかるように大地などの自然神を祀ることをいう。「齋場」の斎は、神事を行う婦人が髪に飾りをつけ、祭卓の前で奉仕する意味。
「喪」は哭と亡とからなる字で、死者を送って口々に泣くこと。「喪礼」(そうれい)は葬儀や喪中の礼法。「葬」の字は草むらに遺体を遺棄し、風化したものをあらためて祭ること。これは漢字が出来た当時、複葬が行われていたことを示すものである。手あつく葬るのを「厚葬」、簡単に行うのを「薄葬」という。
「弔」(チョウ)は矢に糸をまきつけたものの形で、屍を野に捨て、その骨を拾うときに、弓を持参したのではという。「弔慰」=死者を弔い、遺族を慰めること。
「香奠」の奠は酋(樽酒)を台に乗せて神に供えること。「香典」の典は書物を台の上に平に並べた形で、どちらも、仏前に香を供えるという意味となる。
さて次は遺体を「棺」に入れる順となるが、棺は遺体を布でくくって納める木製の箱。官は館の原字で周囲を塀で取り巻いた館。「柩」の久は遺体を後から支える形。それを納めたものが柩である。「殯」(ヒン)は賓、つまり主人に次ぐ位の客をあらわす。そこで殯は死者に対して客のように大切に扱うこと。
「廟」(びょう)はもともと朝礼を行うところで、それが祖先の霊を祭る場所であったが、政教分離により祖先の祭だけを行う場所となった。
「墳墓」の「墳」は土を盛り上げて作った墓。「墓」の莫の字は夕暮れや暗黒の意味がある。墓は古くは地下に作られ、土を盛ることはなかったという。墓には「碑」がつきものであるが、これは立てた石で、墓穴に棺を下ろすとき石に穴をあけて、そこに紐を通して下ろしたという。のちにそこに経歴が記されるようになった。古い石碑にはそうした穴が開いているという。石碑に刻まれている「諡」(シ、おくりな)は死んだ人の功績につける名。「諡号」は生前の功績を賛えてつける称号。「諱」(キ、いみな)。人の死後その人の本名を避けること。つくりは違(いきちがい)の原字でぶつからないように避けること。
次ぎに遺族のことを調べてみると、この「遺」の貴は貝を両手に持って人に与える形である。寡(カ、やもめ)は未亡人のこと。廟中にあって、頭に喪章をつけた婦人が、霊を拝する形。男は鰥(やもお)と書く。つくりは涙のことで、魚のように目をあけて涙を流す妻を失った者をあらわす。
親の死、配偶者の死、子供の死、遺族にとってその悲しみはさまざまな違いがある。また月日の経過とともにその悲しみのニュアンスは微妙に変化していく。そうした違いを一言で悲しみと片付けることは出来ない。漢字は多くのニュアンスを知っているのである。
死を迎える患者の心理経過を研究したキューブラー・ロスは有名な5段階説を発表したが、それにそってみていくと、
(1)死の事実の否認と隔離
(2)怒り
(3)取引
(4)うつ状態
(5)受容
これは患者の心理状態であるが、家族の死を体験する遺族にとっても心理的変化がある。遺族の悲嘆には次のようなものがある。
(1)肉体的苦痛と虚脱感
(2)悲しみ
(3)罪意識を感じる
(4)運命に対する怒り
(5)現実感の喪失
(6)幻覚
こうしたものをランダムに複合して感じながら徐々に日常生活に復帰していくことになる。
まず人間の心の字を見ると、「心」(シン、こころ)は心臓の形を描いたものである。
熟語には、「心喪」(しんそう)=定まった喪の期間が過ぎても、心のなかで喪に服すること。「心痛」(しんつう)=悲しんだりして心を痛めること。「心労」(しんろう)=思いわずらうこと、などがある。
死の宣告を受けたときは、悲しみより先に驚きや拒絶となってあらわれる。
「驚」(キョウ)の字は馬が驚いて前脚を上げて上向きになった姿を形にしたもの。「驚愕」はおどろき恐れるという意味。驚の同訓には愕、駭(がい)がある。驚ははっとして心がしまること。愕は驚いて何をしていいかわからないこと。駭は驚より強くびっくりして肝を潰すこと。
「愕」(ガク)の咢は口々に騒ぐ様子。予期しない事態に驚く。「愕然」(がくぜん)=非情に驚くさま。
「慄」(リツ)の栗は針が連なっているので、連続して刺すことを意味する。慄は刺激が連続して続くこと。「慄然」(りつぜん)=恐れて震えること。
「憾」(カン)は心に強くショックを受けること。「憾恨」(かんこん)=いつまでも残念に思う。
「愴」(ソウ)は形声文字で、心をいためること。「愴然」(そうぜん)=つらさにうちひしがれるさま。「悲愴」(ひそう)=かなしく愴(いた)ましいこと。
家族や知人の死にともなう感情に悲しみがある。
「悲」の「非」は羽が左右に裂けること。胸が裂けるような苦しみを表す。悲は喜びの反語で、熟語には、「悲哀」(ひあい)=悲しく哀れなこと。「悲傷」(ひしょう)=悲しみ痛む。「悲嘆」(ひたん)=悲しみ嘆く。「悲壮」=いさましくかなし、などがある。
「悲辛」(ひしん)=つらいかなしみ。「悲惨」(ひさん)=かなしくいたましい。「悲報」=かなしい知らせ。「悲痛」=かなしくいたましい。
「哀悼」の「哀」(アイ)は衣の襟もとに死者の魂をよぶための祭具を入れて、魂よばいをする形である。哀の反語は楽で、心にあわれを感じてかなしむ意味。「哀傷」は人の死を悲しみいたむこと。「哀別」は別れを悲しむことである。
「悼」(トウ)は人の死を思って悲しむこと。「哀悼」(あいとう)は人の死を悲しみいたむこと。「悼惜」(とうせき)は人の死を悲しみいたむ。
「泣」(キュウ)は、水粒のこと。「説文」に声を出さずに涙を流すのを「泣」とある。
「涕」(テイ)は下へ落ちる涙で、「涕泣」は涙を流して泣くこと。
「哭」(コク)は大声を上げてなくこと。慟哭、悲哭、哭泣(こくきゅう)などの熟語がある。「啼泣」(ていきゅう)も声をあげてなく意味である。
「咽」(エツ)は声がむせびふさがること。むせび泣くのを「鳴咽」(おえつ)。
「慟」(ドウ)の動は上下に動くこと。そこで慟は体を上下して悲しむこと。「慟哭」(どうこく)は身を震わせて大声で泣くこと。
「嘆」(タン、なげく)は興奮して口が熱くなって乾くこと。「嘆息」(たんそく)は、なげいて溜息をつく。「歎」(タン、なげく)はおどろいて息をはあと出す。この字はよい場合にも悲しい場合にも用いる。
「慨」(ガイ)の既は腹が一杯になることで、慨は心中が一杯で胸が詰まること。慨嘆(がいたん)=胸を詰まらせて嘆くこと。
「愁」(シュウ)の秋は草木も人の心も引き締まること。そこで心が引き締まること。
「愁心」(しゅうしん)=心細い気持ち。「愁傷」(しゅうしょう)=ご愁傷さまです、で用いられる。悲しみ嘆くこと。
遺族にとって、さまざまな抑圧されたエネルギーが怒りとなって、吹き出すことがある。
「怒」(ド)は形成文字で奴がいかるさまの音を形容する。「怒気」=いかったさま、
「怒号」=怒って叫ぶ。同訓に忿(フン)、恚(イ)、慍(ウン)、憤(フン)、瞋(シン)、嚇(カク)がある。忿は腹を立てて恨むこと、恚は恨み怒ること、慍は心の中でむっとする、憤は怒りが吹きでそうになること、瞋は怒って目をむくこと、嚇はかっとして怒鳴ること。
「怨」(エン)の字は、人が二人小さく屈んでいる姿を描いたものに心を加えた形。いじけて発散できない心を表す。「怨霊」(おんりょう)=うらんでたたりをする死霊。「怨魂」(えんこん)=恨み心。恨みを残して死んだ者の魂。「怨嗟」(えんさ)=恨み嘆く。
遺族が死に対する責任や罪意識に悩むというのは、親の場合では「生前もっと親孝行させてあげるんだった。」「もっと早く病院にかかればこんなことにはならなかった」などのように、自分を責めさいなみ、悩むのである。
「悩」(ノウ)の字の意味は心をみだすこと。悩と思は同じ形であり、ここから「思うことは悩むことである」という事が語源的にもよくわかる。「苦悩」=苦しみ悩むこと。同訓に屯(チュン)、懊(オウ)、艱(カン)がある。屯は心配事があって悩むこと、懊は恨みもだえること、艱は事の難儀なこと。
「懊」(オウ)の奥とは部屋のすみに米がちらばることで、そこから奥深いすみのこと。懊は奥のすみに心がこもること。「懊悩」(おうのう)=心の底から深く悩むこと。
「憂」(ユウ)は頭と心が悩ましく足が滞る字。沈んだ気持ち。「憂服」(ゆうふく)=悲しんで喪に服すること。「憂鬱」(ゆううつ)=思い悩んで心が晴れないこと。「憂苦」=憂え苦しむ。
なぐさめるという漢字は「慰」である。「慰」(イ)の尉は火で押し伸ばす意味がある。そこから不安の気持ちを抑える慰安の意味となる。「慰藉」は慰めいたわること。同情して慰めること。 「慰撫」(いぶ)=なだめること。慰めいたわること。 「慰謝」=慰めいたわる。
「憐」(レン)のつくりは次々と続いて絶えることのないこと。心があることに惹かれ、思いが絶えないこと。あわれむという意味がある。「憐愍」(れんびん)=かわいそうに思うこと。「憐惜」=あわれみおしむ。あわれむの同訓は恤(ジュツ)、矜(キョウ)、哀、閔(ビン)、愍(ビン)がある。恤は同情すること、「救恤」。矜、閔、愍はいずれも心でふびんに思う意味。
「憫」(ビン)は隠れた点まで思いやること。「憫凶」(びんきょう)=父母に死別する不幸。
遺族が身内の死を体験した時には、その心の傷は何年も、時によっては一生癒されないまま継続するという。
「惜」(セキ)の昔は日が重なるなど重なることを表し、惜は心に思いが重なって忘れられないこと。「惜別」(せきべつ)=別れを惜しむ。別れをつらく思う。
「忘」(ボウ、わすれ)の亡の字はなくなるという意味。そこから心のなかに記憶がなくなること。「忘形見」(わすれがたみ)=忘れないように残しておく記念の品。
「忍」(ニン、しのぶ)刃はしなやかで強い特性があり、こうした性質の心をしのぶという。「忍土」(にんど)=この世。裟婆世界。「忍辱」(にんじょく)=恥を忍ぶ。仏教語ではニンニクと発音する。
「忽」(コツ)勿は吹き流しがゆらゆらしてはっきりしないこと。心がはっきりせず見過ごしている状態。「忽然」(こつぜん)=たちまち。にわかに。「忽焉」(こつえん)=すみやかな様子。たちまち。
「念」(ネン)今は中に入れて含むことを表し、念は心の中に深く考えること。「念仏」(ねんぶつ)=一心に仏の名号を唱えること。
「悶」(モン)の門は入り口を閉ざすこと。胸がふさがって外に出さないこと。「悶死」(もんし)=もだえ苦しんで死ぬ。「悶絶」(もんぜつ)=苦しみ悶えて気絶する。
「悔恨」(かいこん)=後悔して残念に思うこと。悔は心が暗い気持ちになること。恨の艮(コン)の字は、目の縁に入れ墨をしていつまでも残ること。そこで恨は心の傷がいつまでも残ること。
『字統』 白川静 平凡社
『漢字源』 藤堂明保 学研
『和漢三才図会』 東洋文庫 平凡社
『広漢和辞典』 大修館書店