1992.10
懐かしい葬儀

  葬儀は形式がはっきりと決まっているので、よく「形骸化されている」という批判を聞く。しかし個々に見てみるとそこには、様々なドラマが隠されている。今回のデス・ウオッチングでは、平成2年にセキセー(株)が行なった葬儀の体験談募集のなかから、「葬儀の思い出」を抜粋して取り上げてみた。


●死に島田 /女性 (千葉県)

  喪服は現在では黒が定着しているが、地方によっては今でも白を用いている所がある。この話は昭和初期まで見られた、葬儀の時の髪形の話である。


  母方の祖母が亡くなったのは昭和2年、私が6才の年の早春であった。葬式の朝、祖母の娘である私の母とその妹の叔母が髪を結いに出かけるので、私は一つ年下の従妹といっしょに隣の地区にある髪結いいさんの家までついていった。
  母たちが結ったのは日本髪で「死に島田」と呼ばれる島田髷であった。芸者さんのつぶし島田よりずっと低く小さく、鬢(びん)もたぼもこじんまりしていた。その頃の農村地帯では日本髪を結っている人を見る機会はあまりなかった。婚礼の花嫁と「死に島田」くらいしかなかった。「死に島田」の風習がなくなりつつあった時代とみえ、私の村ではあまり見かけなかった。
  ふだんは野良着姿か、鯉口半纏と呼ばれる筒袖の上衣の上に絣の前掛けをしめ、ひっつめ髪に手拭いを被っている姿しかしらない母が、日本髪に結い薄化粧をし真白な喪服を着た姿は本当に美しく、よその人の様に思われて、葬列に並んで村外れの墓地へ行くときも母ばかり見ていた気がする。その頃死者の近親の女性の喪服は白無垢であった。(中略)
  それから数年して父方の祖母が亡くなったが、その葬式に母は「死に島田」でなく庇髪を地味にした「ハイカラ」であった。

 

●原野の葬送 /男性(北海道)

  過疎の部落では火葬場すらない。そうした所では原野が荼毘の場所となった。そんな地に赴任した先生の体験談である。


  時々、下から吹き上がってくる海霧の冷たさに身ぶるいしながら、私は棺桶の焼けてはじける音におののいていた。棺を囲んだ薪は、おとろえもみせず音をたて、炎をちらしている。
  始まってから1時間にもなろうとするのに、交代の者は姿を見せない。校長と私は炎を見つめながら、ただにがい酒をあおった。(中略)学校ゐ出て赴任したのが、道東の陸の孤島ともいうべき漁村の一部落の小学校だった。戸数21。全校生も21人。教員は私と校長のみ。(死んだ)杉谷春子は5年生だったが、幼児から結核にむしばまれ床に寝たっきり。私は一度、やせた小さな体を見舞っただけの担任におわった。その春子が治療もほどこされないまま、5月の半ば、死を迎えた。
  火葬場などなかった。部落から2キロはなれた原野が荼毘の場であった。そこまで交替で棺をかついたが、重かった。そして、まず先生方にいって、私達が夕ぐれの原野にぽつんと荼毘の番をさせられた。他の者は500はなれた家に寄っていて、3〜40分ごとに交替しあうことになっていた--。(中略)晩7時をすぎて、私は身内の者と彼女の骨をひろった。不幸な少女がさびしい原野の土に還えるのを胸を痛みが走るほど悲しみながら--- 昭和32年。私が22才の時であった。

 

●土葬の話 /男性(神戸)

  土葬はいまだ各地に残されているが、年々火葬に変わってきている。これは土葬の風習の体験談で、時代は昭和38年頃である。


  義理の伯母の葬式に会社を1日だけ休んで参列した。出棺は、私の到着を待っていたとの事で、私も申し分けなく、入室すると何と驚いたことに映画やテレビでしか見たことのない、俗に言われる棺桶そのものの座棺であり、その桶に白布で十文字でくくって縛ってある。
「やぁ〜やっと神戸から、甥っ子が来たで、最後のお別れじゃ」と伯母の上の息子が、そのように布を外して丸い蓋を空けた。そこには、わりと肥えた白髪の老婆が頭の正面に三角形の鉢巻を巻き、両手を胸に組まされて、窮屈そうに座っていた。
  私が驚くと、「ここらの風習でこうするのんじゃ、お前の親父さんは寝棺で、うらやましかったじゃ」と随分年上の従兄が言った。あれは昭和38年頃の事、すぐ蓋をしてまた布で十文字にしばり、「サァ、行くべぇ、墓で穴堀が待ちよるから」と息子たちがその布の所へ太い丸太を突っ込んで、位牌や写真を持った者と紙の旗や白い提灯を竹の先に付けた物を持つ者。棺の後ではお坊さんが3人程と、お経をあげたりドラのような物を打ち鳴らしたりして山を登る。墓地へ着くと、3人ほどの人がクワを持って、「お宅の墓地は、何処じゃ」と聞いている。…やっと位置が定まり3人が直径1m、深さ1.2m程も掘ると、何と昨年埋めた仏様のお骨が、眼の周りに赤く肉状のものをつけて出てきた。
  「しもたァ、昨年のじい様がここで寝てござったア」と従兄。まず私は丸桶のお棺に驚き、またその土葬にも驚いてしまった。

 

●猫のお焼香 /女性(松本市)

  これは、故人に愛された猫が、喪主とともにその死を悼み、葬儀に出席した?話である。


  ある葬式に出席した。喪主の横に何かがいるようだが、遠くてよくわからなかった。お焼香が始まり、喪主が立った。と、白、黒、茶色の三毛猫が喪主のあとをついて行く。喪主がお焼香をする間、三毛は、首をたれており、あたかも合掌の姿であった。お焼香がすみ、喪主が僧侶や会葬者に会釈をすると、三毛も頭を下げる。式が終わるまで1時間20分ほどだったろうか。三毛は静かに、一度も声をたてず、喪主のかたわらに控えていた。…いくつかの葬儀に出席したが、その後、猫が同席している葬儀に出合ったことはない。

 

●日本の風習 /女性(北海道)

  地域による風習の違いで、とまどうことや驚くことは多いが、紅白の幕は珍しいと想う。


  昨年末、夫の祖母が亡くなりました。夫の実家は仙台です。私は生まれ育ちが北海道なので、何もかもが珍しい葬儀でした。まず玄関先には大きな花輪。そして自宅での葬儀。北海道では地区会館や公民館を借りる事が多いのです。本州の開け放つ事のできる家の間取りですから可能なのでしょう。祖母は高齢で亡くなったので、黒と白でなく青と白の幕でした。もっとお年を召した方ですと、紅白の幕で、紅白のお餅をまいた事もあったと聞き、また驚きました。
  そして何といっても印象深かったのが、葬列でした。映画、しかも古い日本映画でしか見た事のないような…。男は白い三角の紙を頭につけ、女は白い木綿を顔にかぶります。そして様々な器物をそれぞれ持ち、お骨からの白い布をロープの様にして女たちはそれにつかまり、お墓へ向かうのです。北海道では、見たこともなく、驚きと供に、何か清らかで、しみじみとした想いになり、良い伝統だと感じました。

 

●ある宗派の葬儀 /女性(茨城県)

  各宗派の儀礼よりも地域の風習が優先して、地域地域での儀式を行なっている例が多い。そのため本格的な古式にのっとった儀礼も珍しくなったが、やろうと思えば出来る伝統だけはすたれていないようである。


  平成2年の早春の晴れた日の午後、80才の生涯を閉じた義姉の葬列は木々の緑に囲まれた山寺に到着した。石の山門には「真言宗智山派 西徳寺」と刻まれていた。人里離れたこの山門には山を切り開いて作られた墓地があり、それぞれゆったりと広く居を構えていた。広い寺苑の中央の石の台の上に、近親者達がたずさえてきた供物の米椀、お団子、お花をはじめ様々な品が置かれた。私も十三仏の御名を記した白木の板をそっと置いた。人々は耳にはさんできた小布を次々に墓穴に入れた。この小布は、昔編み笠を被って葬列に並んだ名残りという事であった。
  仏教の宗派の古式にのっとって、実に荘重にていねいに実施されたお通夜の営みに始まる葬送の儀式、更に初七日、四十九日、百ケ日の法要をまとめてもう一度、墓地に詣でる儀式まで、70年近く生きてきた私にも初めて体験することが多かった。

 

●み仏の浄水 /男性(福島県)

  仏壇にお水を供えることは普通であるが、火葬場の祭壇に水を供えるという地域があるので取り上げてみた。


  昨年暮れのこと、上州、具体的には大田市近郊の縁者に葬いがあって参列した。葬式はおごそかに行なわれ、いよいよ葬祭場で荼毘に付されることになった。扉が閉まる。むせび泣く声が聞こえる。亡骸には点火された。火葬場に設けられた祭壇には浄められたコップがいくつか並べられてある。まず遺族がそれを手にして水道からコップに水を注ぎ、それを祭壇に供える。それを次々に交替しながら、各自が供えるのである。親戚や縁者、さらには被葬者にゆかりの深い者が終わると、その場から控え室へ移る。
  やがて遺骨を拾って自宅に戻った。そしてその夜は、いわゆる三日、七日の供養である。祭壇の脇には十三仏の掛軸が掲げられ、まもなく近隣の者が遺族とともに念仏を唱える。いわゆる念仏講なのだろう。普通念仏というと南無阿弥陀仏を称名するのかと思っていたら、ここでは不動尊からはじまり、釈迦、文珠と十三仏のご尊名を順次唱え、それを数十回と繰り返す。…この称名中に遺族の者が中心になって、仏前には葬祭場で行なったように、めいめいがコップにお浄水を注ぎ、仏前に供えていた。

 

●伊那谷のお弔い /女性(大阪市)

  葬儀にはさまざまな風習が伴うが、ここでは故人の着物を水びたしにすると言う変わった風習を取り上げる。


  58才で急逝した母のお弔いは、2月の身を刺すような寒い日だった。男たちが墓穴を掘り、女たちは天プラを揚げ、すしを巻く。娘である私に与えられた仕事は、悲しい作業だった。母の着物を1枚水びたしにする。それを竿に通して家の北側の軒先に架ける。そして、水気が切れないようにバケツに水を汲んで側に置き、絶えずかけ続けるのだ。そうすることによって、母が冥土へ向かう途中、のどのかわきを癒せるのだという。
  寒風の中で着物はパリパリと音をたてていてついてゆく。カチンカチンになったその上から杓の水をふりかけると、裾には小さなつららができる。悲しさと寒さで、身も心も冷えきっているのに、流れる涙は熱かった。
  太陽が頭上にくると、お弔いの行列は出発した。裏山の墓地に向かって長い列がゆっくりと進んで行く。棺を担ぐ男たちは素足に、「おさらばぞうり」と呼ばれるわらじをはく。…やがて深い穴に棺が沈められ、掘り起こされた黒土が静かに母を包みこんだ。

 

●そうれん(葬斂)の思い出 /女性(茨城県)

  一時はすたれかけた葬儀の風習でも、放鳥のように新たに復活しているものもある。しかし葬列は見られなくなった。


  昭和ひとけたの頃、郷里奈良県の伊那か町では、葬式のことを「そうれん」と言った。万延元年(1860年)生まれだった私の祖母は当時70才代で、町内の老人仲間では顔ききだった。町内のだれがが亡くなると、「よとぎ」(お通夜のこと)や「そうれん」の手伝いの打ち合わせに顔を見せる老女達を眺めているうちに、人の死を悼む思いの中にも一種の心のたかぶりとでも言えるような気配が、幼い私にも感じ取れた。(中略)「夜とぎ」は夜を徹して行なわれる坊さんのお経や、尼講の老女等の御詠歌が次々と死者の遺体の前であげられた。「それ院主様にお茶を…」等、老人達は指図をしていた。死者の頭上の逆さ屏風、遺体の上の魔除けの刀、枕団子はこうして作る等々、私の祖母を含めて老女達のくちはマメに動いていた。町内の人々が手伝うにせよ、夜通しの大勢の参列者への気配りに当家の方々はさぞ疲労されたことであったろうと、今にして当時の風習を思う。
  町家のほとんどが浄土真宗だと祖母に聞いたように思うが「そうれん」は中々に華やかで、生花を盛った赤い花車や放鳥の為の鳩を入れた鳥車数台、お経の文字を配した大ののぼり等々が延々と墓地まで葬列は続くのだった。勿論遺族は喪服だが男性は白一色のカミシモ袴姿。女性は「そうれんまげ」と呼ぶ無飾りの日本まげ姿しゅくしゅくと歩んでいた。
山菓子と呼ばれた菓子袋を山積みした「こし」はこども達の目を引きつけ、墓地まで走らせる魅力があった。墓地に着くと一包みずつの山菓子がもらえるのだ。「そうれん」の真の意味のわかる年頃までの私達こどもは「そうれんイコール山菓子」の思い出しかないのだった。

 

●異郷で母の葬儀 /男性(大阪)

  最低限の生活をしている者にも葬儀を行なえるよう、市営葬の制度が設けられている。しかし、実質本位を考える者にも、市営葬は利用されている。


  母は故郷の讃岐より遠く離れた京都の老人専門のピネル病院でなくなった。昭和59年のお彼岸の中日、9月23日だった。
「ご愁傷さまです」と医師は軽く一礼して退室する。看護婦はテキパキ遺体を清拭して、「これからどうしますか」と聞く。勝手がわからぬまま、現地ですませたいというと、病院と連絡のあるお寺を紹介してくれたので一任する。早速に遺体を運ぶ車の手配をして、安置するお寺に連絡して下さる。
  三条駅近くの青光寺というお寺で、ご老体の住職が「諸宗派にかかわらず安置、供養する」と説明して「市営と葬儀屋に頼むのと2通りあるが、市営は2〜30万は安くなる。霊柩車は黒塗りのワゴンで見栄えは悪いが、遺族と同乗できる」という。葬儀は見栄より実質本位と市営にする。
「一体いくら要いるのか」と多少心もとなく聞くと、印刷した明細表を示してくれた。
  火葬料92,000円。フトン1,000円(遺体に敷く)、心付け3,000円。骨箱1,500円、写真9,500円(額共)、供之物4,000円。寺15万円。供花45,000円(3対)、寝台車9,800円。チップ2,000円(運転手)計31万7800円。
そして肝心の戒名は「よそのお寺のように戒名料はとらない。無料です」と、「善心院釈尼静光」と有難い法号を頂いた。」

 

●カラオケテープのお葬式 /男性(長崎県)

  最近は葬儀の時に様々なBGMが使用されているが、これもその一つである。


  先般ある家の葬式に参列した時のことです。亡くなられたのは、95歳と言うご高齢の方でした。さて、式も進行し、やがて出棺と相成った時、喪主の方がマイクで「父は昨夜大往生を遂げましたが、皆様もご存知のように、生前の父は、どちらかと言えば、ほがらかなたちでめそめそしたことが大嫌いでした。そこで父が、生前得意としていたカラオケのテープを残していましたので、今からそのテープを葬送曲代わりに流したいと思いますので、皆様どうぞ、天寿を全うしてくれた父を、このカラオケで偲んでやって下さい」
  こうおっしゃった後、式場に流れはじめたそのカラオケは、むしろ悲しみを超越していて、そこにいささかの矛盾や、不謹慎とかを全く感じさせないばかりか、故人を偲ぶのに、実にふさわしい雰囲気を、かもしだしてくれたのです。

 

●いってらっしゃい、お帰りなさい /男性(東京都)

  交通事故死は突然の出来事だけに遺族の悲しみやショックは大きい。特に死者が若い場合には。


  その日、僕は級友T君の葬式に参列していた。T君は17歳で死んだ。バイクの事故だった。T君の棺に、参列した級友たちが、次々に花を投げ入れた。T君の母親は、その間ずっと棺によりそってT君の唇を指でなぞっていた。何かをつぶやいていたが、それは僕には聞き取れなかった。やがてT君の棺が家を出る時が来た。級友たちとT君の棺を運んだ。棺はずっしりと重く冷かった。T君の母親は、門のところによろよろと歩み出た。故郷の習慣では女親は火葬場までついて行かない。僕たちがT君の棺を車に乗せたときである。
「いってらしゃい」T君の母親が突然はじけるように叫んだ。そしてつづけざまに身をふりしぼるようにして叫んだ。
「お帰りなさい」T君の母親は喪服の黒をひらひらさせながら、なおも叫びつづけた。
「いってらしゃい。お帰りなさい」

 

●長い通夜 /男性(埼玉県)

  通夜は夜を徹して死者を守りのが本来の姿であるが、最近では段々と昔の風習はすたれてきた。しかし1週間というのも珍しい。


  その電話は旅館に泊まっていた我々を起こした。祖父が危篤なので、すぐに仙台の病院に来るようにとの知らせだった。夜中の12時だったので、翌朝に出発することにした。…仙台に着き、直接病院に行くか、実家に行くか迷った。まず実家に寄ることにした。玄関を入ると、いくつもの靴で置き場がないほどだった。その時、祖父の死を直感した。家の中に入ると、布団に寝かされ、布をかけられた祖父のまわりに親類一同が集まり、涙を流していた。
  長男が静かな顔を見せてくれた。その晩が通夜で線香を絶やさずに、一晩中起きていた。祖父の息子や娘たち6人も寝たり起きたりしながら祖父の側にいた。
  この土地では、7日間続けて線香を絶やさない風習があった。現在では、ほとんどの家で通夜だけだが、祖父の家ではこの風習が残っていた。初孫の私がこの仕事を引受て、7日間、昼と夜が正反対の生活をおくった。食事も動物性のものは一切、食べてはいけなかったので、牛乳やお菓子も食べられなかった。…1週間たち、親類一同にご苦労様と声をかれられ、東京に帰ってきた。この1週間、忙しくて何も考えられなかったけれども、自宅に戻り、落ち着いてやっと、祖父の死をかみしめるとができた。

 

●大切な宝物 /女性(東京都)

  弔辞を聞いて、故人の知らなかった一面を知り、感激を新たにすることがある。これもそうした一例である。


  葬儀は近くの寺で、父の愛した会社の社葬という形で行なわれた。弔辞の中の父に涙が流れた。あの音痴な父が、会社の慰安旅行でいつも「王将」を唄っていたこと。子供好きで会社の人の赤ん坊を顔をくしゃくしゃにしてあやしていたこと。「娘が東京から帰って来るんですよ!」と嬉しそうに話していたこと。そしてまるで恋人にでも会いに行くように、駅に私を迎えに行っていたこと。父が、ひとり娘の私をこれほどまでに愛していたことに涙が流れて止らなかった。
  この弔辞は、父の机の中に大事にしまってあった私の写真と共に、私の心の大切な大切な宝物になっている。

 

●妙な会葬者 /女性(京都市)

  会葬者の数が少ないと大変淋しい葬式になるが、こういう会葬者は困ったものである。


  84歳で大往生?を遂げた母の葬儀は、とどこおりなく終わった。「お葬式はにぎやかにしてや」生前、人寄せが好き、にぎやかなことが大好きな母の遺言でもあった。…
  幸い好天にも恵まれ、親戚縁者、多数の会葬者が見えて、さぞかし母も大満足だったのではと思えるほど、盛大にしてしめやかな葬式ができた。ところがである。式が始まるや否や、ちょっとした異変が起こったのだ。男女十数人の一団とおぼしき会葬者がやってきて、うやうやしく祭壇に手を合わせ、焼香をし、めいめいが粗供養の2,000円の商品券を手に、そそくさと立ち去っていったのである。
「あれ、どういう人?」と私は兄に聞いたのだが、「知らんな」と不審そうな顔をする。結局葬儀のあと、「彼らは粗供養の金品をせしめるだけの目的で、見ず知らずの他人の葬儀の場に現われる集団」ということがわかった。そういえば、最近の新聞でこのようなことをアルバイトにしている者がいると書かれた記事を読んだことがある。大学の教師をしている叔父の話では、そういうのを「山菓子泥棒」というそうで、昔から存在し、織田作之助の小説にも書かれているということである。

 

●アメリカでの葬儀 /女性(神戸市)

  海外に出かける機会の多くなった昨今、海外の葬式を見て日本の葬儀と比較し、あれこれと感じる人が多くなっている。


  夫の転勤に伴い、4年間アメリカに住んでいた頃のある日の事です。勤務先からのただならぬ夫の電話の声に、私は言葉がありませんでした。歴代の駐在員をお世話下さり、小柄で気さくなM夫人が脳内出血で亡くなったというのです。…急なことで、ご家族のお気持ちはどんなにかおつらいだろうと、アメリカの事情も知らないままに、私は手製の夜食をM氏のお宅に届けました。
  そしてその夜、フューネラルホーム(葬儀場)での弔問に出かけました。日本式に、私共は黒の喪服を着けましたが、その場で出会った人々の中に、黒の服装は一人も見受けられませんでした。また、弔問を受けるご家族の中に、初対面の方もあったからでしょうか、時にはやさしい笑みでご挨拶に応じて下さいました。…
  翌日、ご夫妻が日曜ごとに通われた教会でお葬式が行なわれ、とても印象的でした。普段着でかけつけた親しいお友達やご近所の方の暖かいまなざしと美しい讃美歌が忘れられません。お葬式の間中、お棺は開かれ人々が順番に遺体と対面したのも、私にとっては初めての経験でした。安らかなM夫人に黙礼しながら、いろいろな事が思い出され、私は涙がとまりませんでした。そんな私に「昨晩は有難う。とてもおいしかったよ。」とM氏が声をかけて下さいました。悲しみの中にも、大らかなアメリカの人々を知る貴重な体験だったと、改めて思うこの頃です。

 

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