1991.12
日本葬儀史(上古江戸)

  日本には葬儀史を扱った本が大変に少ない。その理由は、それを書くための知識として仏教、儒教、神道の葬儀を知り、次に貧富や階級の違いよる葬儀の仕方を調べる必要があるからである。また同じ宗派、階級でも時代や地域によっても異なってくる。こうしたさまざまな違いが原因して、これまで葬儀史を作ることを困難にしてきた。しかし葬儀の流れの大筋を掴んでいくことによって、始めて次の「葬儀」が見えてくることもある。そこで今回は無謀にも日本の葬儀史のアウトラインを特集した。


●上代

  日本では上代より死者儀礼を大変重んじてきた。3世紀前半の葬儀の様子は『魏志倭人伝』の中に、「死が発生すると喪主は泣き、哀悼人は歌舞宴酒の行為を行なった」とある。まず人が死ぬと新しく喪屋を作り、その中に棺を置き、白細布で装飾して、数々の儀礼や歌舞を行なった。遺体を蘇生させるために行なう儀礼をモガリという。人々は昼夜遺体を守る一方、酒や料理を供え、死者の生前の事績や哀悼の言葉を述べた。そうして一定の時期がすぎると、棺を土の中に埋葬する。このモガリの風習は古代アジアに共通にあり、『高句麗伝』にも「死者喪屋内にあり、3年経て吉日を選び弔う」とある。さて埋葬には行列が欠かせないが、この役割に岐佐理持が死者の食べ物を持ち、箒持ちが葬地を掃き清め、泣女が大声を挙げて悲嘆を表した。又幡旗をひるがえし、音楽を奏し、松明を燃して行列をしたのである。
  日本各地に古墳を作り、莫大な予算をかけて行なわれた死者儀礼も、646年の詔で大きな規定を受けた。墓の大きさや築造の期間が制限され、喪屋を営む風習や、殉死などが禁じられるようになる。この法律は西暦222年、魏の文帝の葬制の令を模倣したものである。
  さて日本に仏教が導入されると、これまでの葬送儀礼と質的に大きな変化が生じた。特に仏教を擁護しその普及に勤めた聖徳太子の葬儀(622没)はどうだったのだろう。『扶桑略記』には「葬送で輿に乗せられ、葬列に加わる陪従の人々は、おのおの雑花を手に捧げ、仏弟子は仏を賛える歌を歌い、道の左右の百姓も、手に花を持ち仏歌を歌い、あるいは声を失い大声で泣いた。荼毘にふされたあとには、諸国の百姓が遠くからの墓参が絶えなかった」とある。
  しかしこれが事実であったことが疑問視されている。まず当時の仏教の目的は、『鎮護国家』つまり、国家の平安を祈る呪術的な要素が多く、そうした術の執行者である僧侶は死の汚れを恐れ、病気回復の祈祷を行なったが、死亡したあとの葬儀はこれまで通り神式で行なわれたものと考えられる。もっとも追善供養という仏教儀礼は、例えば盂蘭盆会なども657年から始められている。
  さて記録に残る日本での火葬の始まりは西暦700年、法相宗の祖・道昭が最初といわれている。道昭は入唐して、玄奘三蔵を師事し660年帰国している。道昭のあと、3年後に持統天皇が飛鳥岡で火葬にされている。このように仏教の発達と共に火葬が普及していった。

 

●奈良時代(710〜784)

  道昭の弟子であった行基(668〜749)は、畿内に49ケ所の道場を建てている。これは火葬場と説教所を兼ねたもので、これによって国家中心の仏教が、始めて民衆とのつながりを持つようになった。奈良時代の貴族階級が火葬に移行することで、古墳などを作ってきた葬儀専門集団の一群が、行基の宗教組織のなかに流入してきたようである。
  756年聖武天皇が崩御され、葬儀が佐保山陵にて行なわれた。聖武天皇は深く仏教に帰依し、東大寺を建て、鑑真について法名を授かった人であったが、葬送役人の中には僧侶の名前は記されていなかった。獅子座、香炉、天子座、金輪幢、華幔などの供具が準備されたが、僧侶はまだ参加していなかったのである。聖武天皇の七七忌には、遺品を東大寺に施入されている。

 

●平安時代(794〜1185)

  平安時代には天台宗と真言宗が誕生し大きな影響を与えた。842年、嵯峨上皇崩御にさいし、遺言で葬儀を地味にし、柩を引く者、松明を持つ者、それぞれ12人とし、従者も20人以内にし、土を盛らず樹木も植えず、山陵を造営せず、国忌を設けなくしたため、葬祭費が商布3千段、銭1千貫文ですんだという。
  天皇の間で薄葬を尊ぶ風潮が定着し、淳和天皇(840没)の場合には遺言で荼毘のあとは、御骨を砕き、大原野の西にまき、山陵を造ることを禁じた。
  清和天皇(880没)は西に向かって結跏趺坐し、手は結定印を結んで崩御された。こうしたことで当時の信仰心のあつさが伺われる。
  醍醐天皇は930年9月29日、崩御された。剃髪され法名は宝金剛という。2日後に納棺され、翌日囚人が解き放たれ、また鷹が放生された。葬送は11日後の10月10日に天皇の遺志で薄葬で行なわれた。この葬列には導師役を天台西塔院主が、呪願は基繼僧都が受け持った。遺体は翌日朝8時45分、醍醐寺の山陵に到着した。 道を挟んで86ケ所の寺のための幕が設置され、鐘を叩き念仏が唱えられた。12日には山陵に卒塔婆が3基立てられた。このように天皇の葬儀は仏式に定着している。
  京都では鳥部野(京都市東山区)を荼毘所にしていた。貞観13年(871年)五條荒木の里、六條久受の里、十條の下石原の西外の里、十一條の下佐比の里、十二條の上佐比の里等が、京都庶民の葬地と定められた。後に京都に五つの三昧場、つまり火葬場ができた。阿弥陀峯、舟岡山、鳥部野、西院、竹田である。又東寺、四塚、三條河原、千本、中山延年寺を五墓所という。
  喪服は鈍色(濃いねずみ色)で、死者との血縁の濃さに従ってその濃度を強くした。特に血縁の強い者は乗車調度に至るまで鈍色の物を用いたという。そして死者の住まいには、僧侶を招いて読経してもらい、あるいはその家をそのまま寺に変えて菩提寺にすることもあった。遺骸を埋めた場所には石の碑や卒塔婆を立て、墓標とした。初七日、七七日などには読経をし、一周忌には「御はての業(わざ)」と名づけ供養をした。この日には重服の人も喪服を脱ぎ、平服に改めた。これが最後の法事で、当時三回忌、七周忌はまだ行なわれていなかった。


臨終マニュアル『往生要集』

  この時代で最も後世に影響を与えた書物に、985年に記された『往生要集』がある。これは天台宗の僧・源信が記したもので、死後どうしたら西方浄土に到達することが出来るかを示した手引き書で、のちの浄土宗の葬儀に影響を与えた。そのなかにある臨終作法によると、寺の西域に無常堂を立て、その堂の中に金の阿弥陀像を安置する。仏像の左手に五色の幡を持たせ、その一方の端を病者が握るのである。次に25人の同志は、死んでいく者の成仏を願って念仏を繰り返し唱えるのである。これを二十五三昧講という。さてこの者が死んだあと、同志は四十九日までは七日ごとに集まって念仏を唱える。そして過去帳を作り、命日には念入りに供養するということを実践したのである。
  さて墓に卒塔婆を立て、死者を追善供養するようになったのは平安時代の終わりである。1036年に後一条天皇の遺体は浄土寺の西で荼毘にふされた時、墓の上に石の卒塔婆を立て、その回りを柵で囲ったと記録されている。

 

●鎌倉時代(1185〜1333)

  鎌倉時代は浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場した。この時代は貴族階級が没落し、武士が興隆し、民衆は苦難災厄に悩まされていた。栄西が中国伝えた臨済宗は幕府や大名の帰依を受け、一方、道元がひらいた曹洞宗は地方武士の間に広まった。禅宗の葬法は、中国で1103年に編集された『禅苑清規』が基礎となっている。これは本来僧侶の葬法を扱ったものであったが、日本ではそれに手を加えて武家、および庶民の葬法が作られていった。
  この時代には葬事という言葉が忌み嫌われ、「吉事」または勝事と言った。京都の天皇・貴族の間で行なわれた葬儀の概略が、12世紀末の『吉事次第』に次のように記されている。「まず人が死ぬと北枕に直し、衣を上にかけて覆い、枕元に屏風または几帳を逆さに立て、燈火に火をつけ、葬儀が終わるまで消えないように守る。香は燈火の火を着けて焚く。夏は酢を容器に入れて、死臭を消す。人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱えるのである。
   棺は木製で長さ6尺3寸、広さは1尺8寸、高さ1尺6寸が標準である。夏であれば、棺の中に香や土器の粉をに敷きつめ遺体が動くのを防ぎ、また遺体から漏れる液を吸う役に立てる。納棺には蓆のまま遺体を入れ、その上に梵字を描いた衣で覆う。更に頭、胸、足の3ケ所に土砂をふりかけ、蓋をして、葬儀のときまで北枕にして安置する。
  葬儀当日には、早朝から貴所に荒垣をめぐらし、鳥居を立てて貴所屋を仕立てる。貴所屋とは遺体を荼毘にするところで、高さ4尺、広さ2尺、中央に鑢を置く。葬儀は夜間で、執行の人々は何も染めていない白の素服を着け、役人6人で牛車に棺を載せる。このとき遺体の頭は牛車の後の方に向ける。松明を持つ者が前に立って進み、香炉で香を焚く者が棺の傍に従い、そのあと多くの人々が付き従う。出棺後、留守の人は竹の箒で屋敷内を掃除し、使用後箒は河に捨てる。葬列が貴所に到着すると牛を外し、導師は御車の前に並び、咒願をしたのち棺を移して荼毘にふす。収骨は、瓶に納めてから土砂を加え、蓋をして白の皮袋に包む。そのお骨は三昧堂に納める。葬儀が終われば貴所屋、荒垣、鳥居を壊し、そのあとに墓を造って卒塔婆を立てる。回りに簡単な柵を設け、四角に松を植える。」
  この当時は葬儀のあと、魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣もあった。以前から七七日、一周忌の法要はあったが、この頃から三回忌から十三回忌の法要が営まれるようになり、法要は寺院で行なわれた。法要は十種の供養、あるいは一切経の供養などを勤め、僧侶には布施として太刀、金銭、牛馬などを与えた。


二人の僧侶の葬儀

  光明真言をあげた土砂によって人々は、極楽往生ができると説いた明恵上人(1232没)の葬儀の記録がある。、納棺のあたって香水を遺体に注ぎ、次に「当願恩霊乗棺中 十地菩薩侍囲繞 引接都率内院中 当証如来妙覺位」と唱える。これは菩薩が棺を取り囲み、死者を都率天の中の菩薩の位に迎え入れるという意味である。次に真言を述べ、棺の底に土砂を入れ、納棺してさらに土砂をかける。次に衣をその上から覆い、そして蓋を覆う。葬列の途中には光明真言が唱えられ、埋葬場に到着すると、あらかじめ掘ってあった穴に土砂を散らし棺を埋葬した。このとき『理趣経』が読まれている。そして墓の上に五輪の卒塔婆が立てられた。

  日蓮宗の教祖・日蓮(1282没)の場合を見てみたい。死亡した翌日の10月14日、午前8時に納棺され、深夜12時に弟子の日昭・日郎が導師となって葬送が行なわれた。葬送次第には用いられた道具に、先火、大宝華、幡、香、鐘、散華、経、文机、仏、履物、輿の棺、天蓋、太刀、腹巻、馬が記録されている。遺骸は15日、現在の本門寺の山麓で荼毘にふされ、16日収骨し、遺骨は遺言に従って身延山に納骨された。

 

●室町時代(1336〜1573)

  天皇の葬儀は鎌倉時代から引き続いて火葬にされ、遺骨は寺院に納め、陵墓には卒塔婆を立て、樹木を植えて墓標とした。後光厳天皇(1374没)の崩御には泉涌寺(京都市東山区)に葬り、ここを陵所とした。のちに後円融、後小松、称光、後土御門、後奈良、正親町の諸天皇もこの寺に葬られ、後陽成天皇(1617没)以降は代々の天皇の陵所となった。後光厳天皇の葬列の模様は『後光厳院崩御記』に記されている。「泉涌寺の儀式で、御車が大門から入り法堂の前に寄せ、法堂の仏前には供具が供えられた。前に位牌を立て、供具の上に錦に飾られた輿を据え、錦の幡を四方に立てた。御車に安楽光院の僧侶二人が寄った。そして係りの者が御車から錦に包まれた棺を降ろし、輿のなかに入れた。このあと両寺の長老が焼香し、経をあげる。多くの僧は『楞巌呪』一巻を読み終え、そのあと輿を担ぐ係りが輿を担いだ。僧6人がその脇について光明真言を唱えると、貴族たちは泣きながらその後について南の廊下を渡り、火屋に入った。火屋にはまわりに仮の垣根を立て、その中に幔をめぐらされている。火屋は檜木の皮で作られ、正面に鳥居を立てられている。棚に位牌を乗せ、両脇には香呂がありそこで香をたくのである。棺を入れ、輿を取り除くと、次に長老が焼香をして松明で薪に火を着けた。その間に『楞巌呪』一巻を読み終え、光明真言を唱え、火の燃えているうちに人々は泣きながら立ち去った」とある。

  時の将軍足利尊氏(1358没)が臨済宗の等持院(京都市北区)に葬られて以来、等持院は足利氏歴代の廟所となる。
  足利義詮(1367没)の葬儀は『大平記』のなかに記されている。それによると、「泣き泣き葬礼の儀式を取り営み、衣笠山のふもとの等持院に遺体を送り届けた。同じ日の午後12時、荼毘の用意が整い仏事の式次第も規則に則って丁重に行なわれた。鎖龕は東福寺の長老、起龕は建仁寺、奠湯は万寿寺、奠茶は真如寺、念誦は天龍寺、下火は南禅寺和尚にて行なわれた」このように完全に禅宗の様式で行なわれたのである。

貴族の葬儀

  貴族の間で死者がでると、家では物忌札を門口に立てる。遺体は棺に納め輿に乗せて寺に送り、寺で輿を西向きにして儀式を行なった。まず僧侶が焼香し、次に身内の者が順次焼香する。次に遺体を沐浴剃髪して、黒衣、袈裟、帽子を着けて戒を授け、更に位牌を作って法号を与えた。死者の前に燈火、花、茶湯、香を供え、2日間の間陀羅尼を唱える。その一方で死体を葬るための葬場を設ける。葬場は大屋とその中の火屋からなる。大屋は外周に囲いでめぐらし、広さは7間四方で、四面を板で囲み、東西南北に1間半ばかりの門を作る。東は発心門、南は修行門、西は菩提門、北は涅槃門と名付けられている。各門の入口に鳥居を作り、中央は1間四方の火屋を作る。高さ2間、四面を壁で塗り、それぞれ龕を入れる口を開いておく。
  葬儀の日に僧侶は龕前で仏事を行なう。その他の役にに下火(あこ)、起龕、鎖龕、點茶、點湯、掛具、挙経、念誦、起骨、初七等があり、それぞれ僧侶が行なう。寺院での仏事が終われば棺を葬場に送る葬列となる。力者は棺をかつぎ、松明、幡、天蓋を持つ者、鉢、鐃皷を打つ僧、燭台、香呂、花瓶、湯瓶、茶湯、掛具等を持つ僧が続き、位牌は家督の人が持つ。棺の善の綱は日頃故人に縁の深かった者が持ち、僧侶は阿弥陀の大咒を唱えて進んでいく。葬場に至れば、三度火屋を回り、読経してから遺体を荼毘にふす。当日遺骨を納める。これを起骨と言う。のちに諸寺に分納するのである。

 

●江戸時代(1603〜1867)

  江戸時代の大きな特徴は、何といっても寺請制度の確立による葬儀の普及である。徳川幕府はキリシタン禁制のために、寺請制度を強制し、寺院は庶民の戸籍事務を取り扱う機関となった。死人が出た場合に、旦那寺の僧侶は壇家であった者の死相を見届け、邪宗でないことを確認してから、引導を渡すこととなっていた。

  『徳川盛世録』は、時の政府の典礼や作法を集めたものであるが、そこから葬儀の部分を取り上げてみたい。
  儒葬は林家および古賀氏(幕府の儒者)等に限り儒葬が許された。墓地は江戸では寺院の境内に設けてあり、壇家に限って埋葬ができた。葬列の規模は武家では格式身分によって定められており、通常の行列よりも一層上位の格式をもって行なわれた。従って徒・率馬・対箱・先道具などを用いない身分でも、葬儀の場合に限って徒を立て、馬をひかせ、対箱を持たせ、棺前に槍を立たせることも行なわれた。武家では高張提灯を使用するが町人・百姓等はこれらを使用することができなかった。
  武家の葬礼は棺かき、中間、小者などの役の者は白丁を着た。それは単の白布で作られた法披のようなものである。槍・長刀の鞘、率馬、長柄傘などはすべて白い布を掛け、婦人の葬儀には、棺の脇に白小袖に白い衣を被った婦人がついた。町人・百姓等はこうした格好の婦人はつかない。
  武家では喪主・会葬人ならびに葬列に加わる侍もみな麻の上下を着た。町人・百姓等では、位牌・香炉持ちと喪主・会葬人等は羽織袴に一刀を帯びた。そして喪主は編み笠をかぶった。喪主・会葬人で刀を帯びる者は、その柄を白紙で包み、こよりでこれを結んで留めた。
  武家では忌に当たる近親者の他、親族は自ら会葬せず、使者を立てこれを見送った。
  近隣その他親戚の葬礼が門の前を通るときには、武家屋敷では囲いの外に手桶をまばらに並べて水を散布し、家来の侍を麻上下の衣装で出張させ、棺ならびに喪主が通行の際には道端に平伏した。
  寺院では壇家より死の知らせ、あるいは葬儀の依頼をを受けた場合に、葬式を行なう前にその家に検僧を使わせ死者を調べた。そして変死の疑いがある場合には、その筋の証書がなければ、葬儀を執行できなかった。なお将軍は代々仏式で葬儀を行ない、その菩提寺は港区の浄土宗・増上寺と上野の天台宗・寛永寺であった。
  中流社会の葬儀は、人が死んだら遺体をむしろの上に移し、逆さ屏風を立て、枕元に卓を置き、樒(しきみ)、香を供える。また死亡の知らせを告げ、旦那寺に知らせ枕経をあげていただく。次に遺体を沐浴し剃髪させ、白衣を着せて納棺する。棺は木製で富裕な家では寝棺を使うが、貧民は早桶といって、桶を棺に用いた。棺の中には故人の衣服、調度、六文銭を納めた。寛保2年、徳川吉宗が六文銭を入れることを禁じたことがある。
  葬儀は一昼夜を過ぎてから行なう。午後6時から始めるが、百姓町人は多く昼間に行なった。出棺にあたり、門火を燃やし、葬列を送る。葬列は僧侶が鈴を鳴らして進み、高張提灯を持つ者、紙華、幡、天蓋、位牌を持つ者が続き、棺は葬列の中央にあって、その両側に紋のない箱提灯を照らし、後に輿脇の従者が続く。その後に喪主が紋のついた箱提灯を従者に持たせ続く。葬儀が終われば埋葬または火葬になるが、この時代には火葬は真宗に多く、他宗は埋葬が多かった。ただし他宗でも本人が火葬したいという希望があれば、火葬が行なわれた。葬儀の翌日には、寺に墓詣りをし、火葬であれば翌日遺骨を拾い、残りの灰は荼毘場の近くに埋める。これを灰塚といった。江戸の火葬場は、北に小塚原、南に鈴か森の刑場の辺り、そして隅田川の東、行徳街道に当たる中川の辺りにあり、当時三昧場と呼ばれていた。


芭蕉の葬儀

  俳人の芭蕉(1694没)は御堂筋の旅宿花屋で客死したが、遺言で彼の遺体は近江膳所の義仲寺に葬られた。そのときの記録によると、芭蕉は弟子たちに囲まれて死亡したあと、すぐに不浄を清め、白木の長櫃に納められた。その夜川舟で伏見まで運ばれた。それには弟子たち11人が長櫃のまわりに付き添い、念仏を思い思いに唱えた。翌日午前10時には大津にある弟子の乙州の家に到着する。乙州は一足先に家に戻って、座敷を掃除し沐浴の用意をした。浄衣は本来白であるが、芭蕉は普段から茶色の衣装を好んでいたため。浄衣も茶色で作った。
  さて義仲寺の僧侶が導師を勤め、三井寺から弟子3人が現われて、読経念仏が行なわれた。葬式は14日の午後6時と決まる。昼のうちから300人以上の人が集まり、近郊から会葬にきた老若男女が別れを悲しんだ。焼香する人が多く、境内が狭くなったので、表から入った人も裏から抜けられるように、田に道をつけて、混雑を解消させた。そのあと遺言通りに木曾義仲の墓の右手に遺体を埋葬した。すでに時間は午前12時を過ぎていた。なおその時の葬儀費用は次のようである。

一、 真愚上人   金一両
一、 御齋米料   同一両
一、 御供養料   同一両
一、 御茶湯料   同百匹(一匹は二五文)
一、 御弟子観門子 同百匹
一、 三井寺常住院御弟子二人同二百匹
         家来衆三人  銀三両

 

資料:

『古事類苑礼式部二』吉川弘文舘、水藤真『中世の葬送・墓制』吉川弘文舘、『葬送墓制研究集成』全五巻名著出版、『儀礼文化』第10号・儀礼文化学会、『花屋日記』岩波文庫、市岡正一『徳川盛世録』平凡社

 

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