1991.08
アメリカ版「葬儀の役割」

  アメリカと日本では、大きく葬儀事情が違う点がある。アメリカでは土葬が一般的なため、葬儀代金に占める棺代金の割合が高い。そのため各齋場では棺の展示室を設けて、高級な棺を売ることに力を注いでいる。もう一つ異なる点は、葬儀の社会的役割が明確にされ、「何のために葬儀をするのか」をしっかり把握している点である。
  今回のデスウオッチングでは、「アメリカの葬儀営業マンの役割」と「アメリカの葬儀の社会的意味」の二つを見ていきます。参考にした資料は、棺製造販売会社の葬儀士教育マニュアルとして制作された『葬祭業のカウンセリング』の6章「今日の葬儀士の役割」(1989年)と、『鋭い悲嘆と葬儀』の10章、「葬儀の社会的意味」です。


1. 営業としての葬儀士の役割

  アメリカの葬儀士は、遺族を助ける相談のプロなのか?あるいは、死を販売する営業マンなのか?ほとんどの葬儀士は、人生の危機の相談員であり、同時に高価な商品を取り扱う販売員の二つの役割があると答えるであろう。


[1] 葬儀士の役割の進歩

  アメリカの葬儀士は、今日に至るまでに100年間の発展をとげた。近代葬儀の基礎を作った第1段階は、棺の提供者であった。正確には、アメリカの最初の葬儀士は棺の大工であった。まもなく、この「葬儀下請け人(アンダーテーカー)」は、手袋から氷まで販売するようになった。このように商品販売は、葬儀士の最も古く最も基本的な役割である。
  南北戦争(1861-65)以後に、葬儀士はエンバーミング(遺体保存)を行なうことが一般的になった。その後1920年から30年代に、遺体保存の技術が発達し、保存技術を行なうことが葬儀士の大きな役割となった。第二次世界大戦後、人口が郊外に移動し、葬儀社もそれに従った。葬儀社は、葬儀専用の建物を、下町や郊外に建てた。このフューネラルホーム(齋場)経営が、葬儀社の新しい役割となった。
  60年代はアメリカの葬祭業にとって、最も荒々しい時代であった。イギリス人ジェシカ・ミットフォードは『アメリカ人の死に方』という本を書いて、すべての葬儀社の営利主義を徹底的に批判した。従ってこの時代は、ミッドフォードの投げつけた泥が、ほとんどの葬儀士の上に降りかかった。しかしこれによって葬儀界に少し変化が生じた。つまり最初の泥が拭われたあと、一般の人が葬儀に関心を持ち始め、葬儀社の役割について問いかけるようになったのである。これに最初に答えたのは葬儀士である。続いて牧師、そして学者が調査し始めた。彼らの結論は、葬儀士の役割は大変に重要で、その役割は将来もっと大きくなるであろうと答えている。
  葬儀の新しい時代が、70年代になって登場した。この時代は「遺族の悲嘆管理」と「死の教育」が発生した10年間である。皮肉なことに「悲嘆治療」という言葉を有名にしたミッドフォードが、葬儀士が「悲嘆治療者」の役割を演じようとしていると告発した。真面目な人たちはこの告発を検討した。その結果、葬儀士がそれを行なうことはいいことであり、まだ実施していないのなら実施すべきであると言った。ほかの人も、まだカウンセリング的役割をしていないのなら、教育講座でそれを学び、その役割を努めるべきであると答えたのである。


[2] サービスか利益か

  葬儀社の役割に二つの局面がある。ある人は葬儀士の役割を、エンバーミング、カウンセリング、葬儀の手配と運営などの専門職種と捉え、同じく商品販売と設備管理、つまりビジネスと捉えている。又ある人はカンセリングと個人的サービスは、顧客の利益の基本であり、葬儀商品の販売は葬儀社の利益の基本であるとしている。
  もう一つの答えは、個人サービスはすべて、葬儀代金に含まれというものである。これは医者や弁護士にも、同じことが言える。ほとんどのプロの、「販売活動」は、顧客の最も関心のある領域に、よいサービスをすることである。
  個人へのサービスは、相談業務、葬儀の手配、販売があり、葬儀用品の販売には、顧客に必要なアドバイスがある。


[3] 棺の販売は遺族を助けるか?

  販売とは「知らせる」ことで、決して強制したり、説得することではない。販売は、家族がかかえる問題や必要な商品を、提供することで利益と満足をもたらすのである。このため、販売の第1段階は、家族の問題や状況を注意深く分析し、どのような葬儀商品が、遺族にふさわしい援助となるかを決定することである。
  担当者は棺についての、色、内装、材質の違いや料金設定の理由を説明する。有能な販売員は、それぞれの家族のニーズに合わせて情報を提供する方法を心得ている。
  プロの販売員は、家族の一員がしばしば死を認めたがらないのを知っている。そうした家族は、「出来るかぎり安い棺(あるいは葬儀)にしてほしい」ということがある。その場合、販売員は、家族の気持ちを棺に集中させることにある。「死者のために出来るだけのことをした」という、遺族の心を満足させるためにも、安い棺を選択することは、決して遺族のためにならないことがあることを、知っていなければならない。
  そのため販売員は、遺族の悲嘆の過程を知ることに加え、適切な指導力をもたなけらばならない。遺族の心は揺れ動き、何度も高級な棺にしようと思ったり、こうした気持ちを変えたりするからである。
  多くの家族は気持ちが動揺して、確かなものが何であるかを知らない。しかし展示室で棺を見ることで、決断しなければならないことを知る。その決断のほとんどが、部屋を出る前に行なわれる。これによって、茫然自失の状態にあった遺族が現実に戻るきっかけとなる。


[4] 葬儀士は遺族の相談役

  アメリカには、3つのタイプの販売員がいる。
(1)形式的な販売員
(2)友好的な販売員
(3)買い手の相談役
  形式的な販売員とは、販売時に緊張してしまう販売員のことである。彼は顧客のニーズや選択を無視して売ろうとする。形式的な販売員は将来を無視し、今すぐ売ることだけを考えている。幸運なことに、今日のビジネス環境では、この種の販売員はほとんどの業界から消え始めている。
  2番目のタイプの販売員は友好的な販売員である。このタイプは、常に顧客の意見に同意し、「お客様は常に正しい」と教えられている。彼らは、顧客が信じていない商品を説明することを恐れている。又顧客には決して反論せず、顧客の問題解決に良いと思う商品を勧めて、顧客の考えを変えようとはしない。友好的な販売員はよく笑い、大変友好的である。しかし彼は依然としてお客様本位ではない。
  第3番目の販売員は、買い手の相談役と呼ぶ。この販売員は顧客の問題点を調べ、結論を導き、顧客に何故この解決が適切なのかを効果的に伝える。買い手の相談役は顧客の最も満足する選択を、一生懸命に見つけ出す。こうしたアプローチを続ければ、客との間にある信頼度が高くなり、将来的にも深い結びつきが生まれ、新しい顧客にもどんどんと紹介されるようになる。


[5] 買い手の相談役になる準備

  「買い手の相談役」は生まれつきの人と、訓練の賜物によってなる人がいる。どちらの場合にも、共通の態度がみられる。

(1)葬儀士の役割
  相談志向の販売員は、肯定的な態度をしている。彼は自分のすることや、販売する商品を信頼している。
  仕事熱心とは人目につく態度や派手な格好をすることではない。むしろ、作業のもつ価値を、深く確信していることである。
  良い態度は、葬儀の重要性を理解したときに発揮される。葬儀士が呼ばれたのは、人々が助けを求めていることを忘れてはならない。彼は棺や葬儀についてのアドバイスと知識を求められている。遺族は助けを求めて葬儀士を呼んだのである。

(2)商品知識
  葬儀士は葬儀商品の知識を持っていなければならない。商品の機能と、その長所、短所を知ることである。棺についての価値、構造、材質とその仕上げの違い、性能、その利点などの知識は、家族に役立つだけでなく、どんな質問や問題についても対応ができる自信となる。

(3)コミニュケーション技術
  コミニュケーション技術は、正しい態度と商品知識だけでなく、効果的に伝える技術をいう。
  コミニュケーション技術は学ぶことが出来る。大切なことは、家族の身になって決定し、何を知り何が知らないかをはっきりさせ、最も大事な点を伝えることである。そのために説明方法を練習する。テープに録音し、販売能力を自分で点検する。社員同士がロールプレイを行ない、互いに批判し合う。

(4)よい作業習慣
  良い販売員は良い作業習慣を持っているときにだけその良さを維持でき、より成長できる。彼らは準備のために情報に目を通し、自己啓発に努める。きちんとした身なりをし、家族の前で煙草を吸うときには注意し、家族と合う前にはお酒を飲まない。彼らが顧客と合うときには常に顧客を重要視し、すぐに対応できる準備をもって接する。

(5)販売活動のすべて
  葬儀士は販売に、多くの視覚に訴える道具(ビデオ、パンフレット)を使用するようになる。これは、消費者の情報に対する要求と、葬儀社自体の効率性の両方から生じている。ビデオカやパンフレットは、情報伝達の役割を引受るので、担当者は多くの時間を、家族の個別の要求に答えたり、相談業務に費やすことが可能となる。
  葬儀士はまた、値段についての基礎となる情報を用意しなけばならない。すべての家族が料金に予備知識があると思ってはいけない。また葬儀体験のない若い世代も葬儀の方法を聞いたり、読んだりしているので、料金に疑問をもっている。料金体系を理解させることは、代金をあらかじめ予期させ、商品を正しく選択してもらうために大切なことである。
  商品の選定に際しては、家族の人に実際に商品に触れ、感じてもらうようにする。
  有能な葬儀士は家族の一人一人を観察し、もし家族の一人が離れたり、死の現実を拒否しようとしたら、葬儀士はその個人に枕を手渡し、「これを持っていていただけませんか」といい、その間に家族に商品を説明をする。もし家族が商品の近くによらなかったら、「マットレスの感触は、止め金はどうか」などと尋ねる。人々は棺の近くによる必要に迫られ、そこで商品の特長を見る。こうしたテクニックは、棺に対して人々が抱いている神秘や恐怖感を取り除くために用いられ、これが問題についてよりオープンに、現実的に話し合うための基礎を提供する。


[6] 遺族の知識

  遺族は葬儀を決定する専門家を必要とし、かつ葬儀用品の専門家を必要としている。職業販売連盟では、販売のプロの特性の一つは、知識の体系化であるという。個人の葬儀士は知識をマスターし、プロとしてそれを応用しなければならない。特に遺族の悲嘆、人間関係、性格とその感情表現についての知識は、展示室の知識と同じくらい重要である。

 

2. 葬儀の社会的意味

  葬儀が世界的に実施されているのは、儀式が、宗教や政治を超えて、社会的に重要な意味を持っているためである。しかしアメリカ人は一般に葬儀には不慣れで、葬儀を実施するのに葬儀社に依頼している。
  葬儀はそれが重要視されている割には、その中身は論理的でなく、喪主や葬儀社によって内容が異なることがある。喪主にとって葬儀は、与えられた一連の役割を果たすことで、死別と悲しみを表出するという特別な目的を持っている。


[1] 葬儀の反復性

  今日アメリカでは、高齢者や病人の間で多く死が発生し、それは事件として受け取られない。反対にケネディなどの重要な人物が死亡した場合には、国はこうした人物の死に総がかりで参加する。しかし社会的に重要でない人物の死でも、その家族や友人にとっては大きな衝撃である。
  誰もが葬儀を行なうようになって以来、社会は葬儀の反復性に気づきはじめた。そしてこの気づきは、プロが行なう葬儀の場合には特に顕著である。人はそれぞれ一度しか死なないので、繰り返しのない出来事である一方、儀式に反復性があるために遺族による手助けが可能となった。
  葬儀士が葬儀のお世話をするのは、こうした観点からである。そして繰り返しと義務的な所作が、これからも行うべき体験内容となる。葬儀社は、「死者へのふさわしい対応と、遺族の悲嘆に対処する」ことを遺族や社会に伝えることで評価を受けるのである。


[2] 葬儀士の社会的地位

  葬儀士の地位は、個々の死を重視し、儀式を尊厳をもって取り扱うことが許されている立場にあることをはっきりさせることによって確保される。遺族は、死と葬儀の状況を明確にすることができない。さらに遺族は葬儀では、何が重要で何がそうでないかの考えが、葬儀士の経験と一致しない場合がある。
  そこで儀礼的制度の世話人としての葬儀士は、葬儀での役割を規定した実際的配慮に基づいて仕事をする。一般的な場面はもちろんのこと、個々の死の状況も原則にもとづいて修正され、実施される。
  葬儀士の役割は、死を定義をすることではなく、要点を指摘することである。彼らにとって死とは、死者の儀式を行なううえでの必要な技術と知識、つまり監督技術にある。
  葬儀士は死を自体の終わりと考えるのでなく、新しい過程の始まりと捉えている。
  葬儀士が取り扱う作業領域は、非常に大きい。それに営業地域で、広く普及している作業や習慣が加味される。そのように葬儀士は、死や死に行く者を扱う医師やと同じように、多くの問題に対処している。
  葬儀は、何世紀もの間、死の衝撃から守るために宗教的な信仰と儀礼を実践してきた。しかしながら、葬儀は常に宗教儀礼以上の、重要な社会的行事である。
  人々がある集団から去るとき、送別式を行ない、彼の独自性を強調して、その重要性を印象付ける。同じように葬儀の機能には、死者に対する告別式がある。告別式は通常、重要な人の死だけでなく、無名の集団の一人の場合にも、友情と援助のつながりが強いことを強調する。こうした援助によって、個人は集団の一員として重要視される。このように告別式は、去り行く人の価値を強調し、すべての会員が重要であり、別れによって影響を受けることを表現するのである。


[3] 葬儀の社会的役割

  ある人達にとって、儀式は個人の罪意識を清める試みとしして役立っている。この観点からみれば、葬送儀礼は特別の次元にあることがわかる。死によって遺族は、悲しみや苦しみの状態に入り、時には罪意識すら感じる。これに儀式が解決を与えてくれる。スタイン(1965年)によると、「すべての社会の儀礼の中で、最も重要な要素は個人に起因する罪を、他人や外部の力に転化する適切な方法を用意してくれる」という。
  宗教的儀式や死は、この段階に密接に関わり合っている。特に人の死には混乱、恐れ、不死、迷信、信仰が深く結びついている。こうした組合わせに、一時的な無気力さが加味されて、遺族には何らかの援助が必要となってくる。この援助は、伝統的な儀礼の実践によってなされる。しかしながら、儀式の実施が、アメリカ社会のなかでとみに縮小傾向にある。ゴーラー(1965)のイギリスでの死についての報告では、明らかに伝統的な葬送儀礼が、広く拒否され、一般的な死の始末や葬儀が、受け入れられなくなっているという。 ゴーラーによると、「今日のイギリス人の多数は、死と死別に対処するかの適切な規範がなく、また人が死んだときに、悲しみと悲嘆をどう迎え、どう折り合いをつけるかに対する社会的な援助がない」と言う。
  ゴーラーは続けて、死の際の援助の要素の一つは、宗教的信仰であるという。宗教に強く帰依している個人の場合、死を迎えるときに満足の感情を表す。伝統的な聖なる葬送儀礼の形式が、ある人にとって死別の危機の助けとなってくれるのである。
  アメリカの葬儀は普通、死や悲しみ、永世などに、熱心に対応する宗教とそうでない宗教がある。フルトン(1965)は彼の研究で、「葬儀に対する好ましい反応は、宗教に加入しているかどうかで、大きく異なる」と言っている。フルトンはゴーラーと同じく、伝統的な教会は、葬送儀礼に対し好ましい反応を示していると述べている。
  マンデルバウム(1959)によると、「アメリカの文化は、やがて、非儀式化される」という。もしこの説が正しいなら、死に際して不必要な混乱がしばしば起こるようになることになる。


[4] 死を拒否する社会

  葬儀の習慣とは、遺族に対する社会的援助であり、社会的な追悼が廃止傾向にあるのは、死を受け入れることの拒否、および人々が社会から分離した結果である。今日の社会は生きることを強調することよって、人々に遺体を見せることを拒否する考えを促している。しかし遺体を見せないことは、死の現実を直視しなくなることを意味する。人間は死を自然の摂理として理解する能力を持ち、それを制御できる力を認識している。しかしそれは、社会が、死を受け入れる手助けをしてくれた場合である。このような社会的機能は、葬儀の伝統の中で行われてきたのである。
  葬儀を避けることは、遺族を世話しないままほっておくことである。文化は分離の苦しみにある遺族に、意味を提供する援助をしているように見える。打ちひしがれた遺族の情緒は、機能的でも理性的でもなくなっている。死の儀式は、非現実で不合理になった遺族を援助するために、特別に考案されたように見える。
  葬儀の宗教的意味に加え、死の社会的機能が死の悲嘆の解決のために儀式を活用する。葬送儀礼は日常では容認できないことを、公に提供することである。その時には男は泣き、女は髪を振り乱して泣いて過ごす。この期間にはお悔やみの言葉が考えられるが、他の機会では気まずいものである。例えば、幼児が亡くなった場合、仲の良い友人が母親に慰めの言葉をかけ涙を流させることがある。しかし、これを町の市場で言ったなら、社会的にも気分的にも受け入れられないだろう。
  何人かのアメリカ人が、「もはや葬儀は必要ではない」と言っても、葬儀以外に情緒にあふれた感情を表現する機会を与えてくれる場所は存在していない。葬儀は死に対処する人間的な方法を提供するやりがいのあるものとなった。
  ケネディ元大統領の葬儀にも、その家族は情緒過多にならず、緊張しつつ立つことが出来た。誰もが慈悲の気持ちで深く感動しながら、葬儀の模様を見守った。もし遺体が死の場所からもち去られていたら、アメリカ人はその喪失の感情、罪、悲しみを表現する機会を失っただろう。


[5] 結論

  葬儀は社会的に同情を表わす手段を提供し、さらに遺族が社会に復帰するための援助を提供する。遺族は身内を失った悲しみを、社会に意味ある形で表現する機会を与えられる。同じく葬儀に参列する個人も、最後の言葉を考えることによって、これからの自分の人生に、何がしかの意味を与えるのである。
  葬儀を通して、遺族は社会的援助の中心に置かれ、同情の広がりによって社会的に受容されるようになる。社会は悲嘆の期間に、遺族を援助する機能を作り上げてきた。この機能は、個人と社会の両方に働きかけるが、この作用は悲嘆を感情移入によって受け入れるからである。この意味で、文化の価値の一つは、人間に必要な訴えを、社会的に受容する回路が備わっていることである。このように、葬儀は喪に服する人間に、他人を結び付けて援助することであるといえる。

 

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