1990.10 |
死と葬儀はかかわりの深いものである。そしてこの現代の葬儀は、明治時代にそのルーツをもっている。しかし本当に現代の葬儀の原点が明治にあるかどうかは、調べてみなくてはわからない。そこで今回のテーマは、明治時代の葬祭史である。
ドイツの考古学者シュリーマンが日本に訪れ、ある高貴な身分の役人の葬儀に立ち会ったときの模様を記している。「故人は生前要職にあった自分の衣服を着せられ、帯に日本の刀と扇子を差し、頭には漆塗りの竹製の黒い帽子をのせ、・・・婦人の帽子の箱に似た柩に納められた。死者の脚と腕は折りたたまれ、座ってちょうど生まれる前の胎児の格好になった。(中略)次いで柩は釘で打ちつけられ、百合の花飾りのある白い覆いが掛けられた。そしてその寺院(善福寺)の大きな祭壇の前にある高座に安置された。白の喪服によって礼装した王国政府の300名すべての役人が、その柩の周りで、手指を組むのではなく、掌を合わせて跪いていた。僧侶が祭壇の上のすべての蝋燭に灯を点し、香を焚き、鐘を鳴らして祈梼を行なう間、両側に並んだ他の40名ばかりの僧侶たちが、サンスクリット語で葬送の賦を唱え始めた。葬儀執行者と僧侶たちは白の喪服を纒っていた。 宗教儀式が終了すると、一人の僧侶が寺院の階段のところまで進んで、その手にしていた鳥籠をあけ、中に入れられていた一羽の白い鳩を放った。この象徴的な儀式の後、木棺は竹の綱で取り巻かれた。そして柩は竹竿に通され、それぞれの端を二人の日本人が、その寺院の傍らにある墓地に馳足で運んでいった。」(藤川徹訳)
これまで神社仏閣では女性の登山参拝が禁じられていたが、この禁制の廃止が布告された。
2月6日、島根県に地震があり死者105人を出した。このため死者には埋葬料が支払われ、傷者は仮病院を建て治療を施され、その他罹災者のために食料援助が行なわれた。
僧侶も妻帯肉食が自由となる(明治5年4月)
僧侶も妻帯肉食、及び髪を伸ばすことが自由となる。また法要の時以外には、一般の服の着用が認められる。
6月28日、葬儀に関する二つの布告が発せられた。一つは自葬を禁止して、今後は神式又は仏式で行なう。第2は神官の葬儀執行を認可したもの。「従来は神官は葬儀に関係しなかったが、今後は葬儀を依頼された場合、喪主を助けること」と定められた。
神葬祭を行なうにも埋葬地が必要のため、青山百人町ならびに渋谷羽根津村の両地を士民一般の葬地に定められた。
大阪府は昼間の火葬を禁止し、夜間の火葬のみを許可した。ただし葬送は昼夜いずれに行なってもよいとされる。
7月18日、火葬は今後禁止するとの太政官布告がある。その理由は、慶応3年に後光明天皇が死亡されたとき、京都の住民の魚商八兵衛という者が、天皇の遺骸を火葬することを痛み、公卿たちの協力を得て中止させたことがあるが、本令によって厳禁となった。
大阪府下千日は昔から火葬場であったが、火葬が行なわれなくなってからは、大阪府の四隅に埋葬所が設けられた。そこでこの地は不用の地となったが、気持ちが悪いといって民家を建てようとする人もいない。そこで最初に作られたのが、幽霊などを見せる見せ物小屋で、翌年1月1日開場した。
火葬解禁に応じて、火葬再開の願いが次々に出される。火葬時間は午後8時より10時まで。翌日の骨上げは、午前8時から午後3時までであった。火葬料金は上等は1円75銭、下等は75銭である。
小塚原の火葬場に西洋式の火葬炉が完成する。煉瓦の石蔵が3,000円。焼却機械が1,800円。この火葬場は、明治20年に日暮里に移転される。
コレラ伝染病が蔓延し、その取調べの都合もあり、当分の間はすべて死亡の者は、医師の診断書を添えて警視病院または所轄の分署に届け出が必要との布達がでる。
大阪の芸妓死体解剖を申し出る(明治11年5月)
大阪難波の芸妓若鶴は不治の病に罹り、自分が亡きあとに遺体を解剖して医学の役にたてて欲しいと遺言を言い残した。9日午前、彼女の死亡ののち、同日午後天王寺村の埋葬地へ野辺の送りをして、引導を終えたあと、かねてから準備した小屋へ死体を運び、病院長代理を始め、生徒100名ばかりの臨場のもとに、解剖が行なわれた。
青山の共葬墓地内に、外国人の埋葬地が定められ、それに伴い掃除人数名が増員された。
平民にも院殿大居士を認める(明治13年7月)
これまで寺の戒名に院殿又は大居士をつけるのは士分以上の有位の人であったが、これより平民でも国家に勲労があれば許されることとなる。
9月3日の公布では「東京府の火葬場を現在の5ケ所に限る。場主は警視庁の許可を受け、火葬時間は午後8時から午前5時までの夜間。火葬を実施する者は、埋葬証書を確認した後で執行する」とある。
1月27日、内務省より今後神官は葬儀に関係することを禁ずるという通達を出す。
7月14日、「高知新聞」が発行禁止を命じられたため、「高知自由新聞」は愛友「高知新聞」の葬式執行の広告を出した。16日午後2時、忌中笠という編笠を被った社員が社旗を持って進み、続いて白の高提灯、香炉、蓮華のあと、編集長が新聞紙で貼った位牌を持って登場。「諸行無常寂滅為楽高知新聞の霊」と記した旗をたて、その後に配達人が棺を代る代る担い、記者・株主はいずれも麻の上下でその後を続き、さらに読者がこれに続いた。参加者数は、帳簿に記されているもので2727人。葬列は社主の持ち山を火葬場に見たてて、そこに棺をすえて読経を行なった。この日葬儀を見に集まった人出は幾万という。
横浜の医師が設立した「解剖社」は、金10円の謝礼で解剖用の遺体を購入すると広告。これに応じて死体を同社に送り、解剖するケースが少なくなかったという。
10月4日、「墓地および埋葬取締規則」が公布され、死体は死後24時間経過しなければ埋火葬できないと定められた。
東京大学医学部では、1月29日、谷中天王寺にて死体解剖の百体祭を執行して、解剖に関係した人は残らず参詣した。
2月7日、胃癌で死亡した三菱会社長岩崎弥太郎氏は、13日神葬式で葬儀を取り行なった。午後1時下谷茅町の邸を出棺後、北豊島郡染井村の新設の墓地に達した。その行列は巡査、騎馬などのあと、邦楽の奏者が続き、次に「従五位勲四等岩崎弥太郎之棺」と書いた旗を持つ者、造花、生花が300余り続いた。生花は白梅、桃の花。造花は牡丹、芍薬、かきつばたで、次に霊柩が進んだ。棺の周りには三菱の要人24名に護衛され、次に喪主、親戚、社員一同と続いた。この日の会葬者は3万人という。
さて霊柩の埋葬式は、墓地の前面に仮小屋が構えられ、墓地の周囲6,000坪の畑一面にむしろを二重に敷き詰められた。また会葬者には貴賎を問わず、西洋料理、日本料理で立食のもてなしがあり、この時の料理、菓子は6万人分という。しかしその8割が午後4時半には大方なくなり、また当日の葬儀に雇った人員は7万人近くいたという。
東京の葬儀社が1月4日に開店、神葬仏葬の極彩色の絵を門口に掲げたが、近所から正月早々縁起が悪いとの苦情が出る。後で仲裁が入り円満解決した。
岐阜市の金華山の麓にある自福寺境内に、一寺院が独力で近代的施設の火葬場を設立する。
上野公園は葬式の通行を禁じていたので、谷中の墓地に行くのに迂回して行かねばならなかった。そのため公園内に道を作り、葬式通行に便宜を計ることとなった。
11月13日の新聞に海外の火葬事情が紹介された。明治9年、火葬がイタリアで行なわれてから、火葬が西洋諸国に普及し始めた。アメリカではニューヨーク、サンフランシスコ、ボストンなどに火葬場が出来、それに反対の声もあがらない。火葬料は40ドル内外である。ドイツでは国の公の認可をとるため、2万3千人の署名が国会に提出された。スイスでは公共の費用が増加しないかぎり火葬を許可するとし、イタリアでは火葬社の社員が増加して、現在6千人以上となる。スェーデン、オランダ、イギリスではまだ顕著な動きがなく、フランスでは明治16年現在、伝染病死すら火葬を禁じているが、火葬は衛生上有効という見解が普及してきている。(註・この記事の翌年の明治20年にフランスで火葬が公認された)
日暮里村に新設の火葬場は、近村七ケ村の11名の総代人を選出し、許可取消の申請を警視庁、東京府、内務省に出す。
200年来、小塚原に埋めてあった10余万の囚人のための大供養が行なわれた。当日の供養のために、式場の左右には来賓のための桟敷が設けられた。正午の号砲を合図に、天台宗他1,000人ほどの僧が供養塔の周囲を囲み読経が行なわれた。そのあと供物の餠菓子が集まった人に投げられた。この日、南は山谷より北は千住北組まで人があふれた。
民間の教育者と知られた新島襄は、1月23日大磯で死亡。翌24日遺体を京都に送り、27日同志社内で葬儀が行なわれた。礼拝堂の前に3千人収容の天幕が張られ、葬儀場とされた。葬列は午後12時自宅を出棺し、寺町通りを北に今出川通りを西に回って同志社に至る。棺を式場の正面に置き、「新島襄之墓」と書いた墓標をその右に立てた。前面には紳士席、左席を淑女席と区分けされており、式は2時頃まで続けられた。そのあと、会葬者は2列になって柩を若王寺の墓地まで送った。順序は先導、生花、生徒、卒業生、社員、教員、職員、旗、墓標、棺、牧師伝導師、諸総代、諸学校生徒、各教会員等である。
6月17日死去したドイツ皇帝フリードリッヒ3世の葬儀のため、西園寺公使は特派大使として出席。横浜では各国領事館はもちろん、停泊中の各国軍艦は半旗の凶礼をし、英国艦隊の旗艦は正午頃弔砲を放った。
陸軍は現役軍人等の死亡者にたいする会葬式を決定する。
1. 儀杖兵発差、
2. 弔銃斉発、
3. 総代会葬。
亀戸、砂村、桐ケ谷他計7ケ所の火葬場では、貧困者に対し1年間200名まで、無料で火葬を行なう旨を東京府庁に出願した。
1月11日皇后陛下崩御につき、歌舞音曲が停止された。営業に関しては15日間。また黒紗を左腕に巻いて弔意を表するため、黒紗は15日までに大小の呉服屋では、ほとんど売り尽くして、価格も暴騰した。
葬列が昼間挙行されるようになったのは、明治に入ってからのことである。山下重民は、この風潮を嘆く論説を「風俗画報」に掲載した。その要旨は、「葬礼は夜間に行なうべきものであって、日中に行なうものではない。現在日中に葬送をするのは、儀式の華麗さを誇示せんがためであって、遺体を入れた棺を日光にさらすことは、タブーを恐れない振舞いである。心ある者は必ず夜間に葬送すべきである。1には日光をはばかり、2には華麗を示す奢りをはぶき、3には古の法に従うことになるからである。」
1月21日死亡した海舟の葬儀が25日に行なわれた。午前9時赤坂の自宅を出棺、別荘のある馬込村に埋葬された。儀式は遺言により、「質素を旨とし、生花、造花、放鳥の寄贈を謝絶し、会葬者の弁当料、新聞の広告は一切廃してその費用を赤坂区内の貧民に与える」とのこと。なお葬儀当日は雪で、会葬者は2,000名。青山墓地の祭場左右の茶屋14軒を会葬者の休憩所にあて、さらに広場の左右両側に天幕を張って会葬者の休憩所にしたが、とても入り切れなかったという。
2月3日死去した福沢の葬儀は、同9日に行なわれた。福沢邸の前には机を1列に並べ、10数人の接客係に当たる。塾講堂を塾員外会葬者の休憩所、講堂後の教室を塾員の休憩所とした。そして前面庭と駐車場右の空地には、立て札を立てて、臨時駐車場とした。午前10時半、導師の偈の後焼香に移り、正午には棺を輿に収めた。同40分。鈴の音とともに葬列が始まった。
明治の思想家、中江兆民が13日死亡。新聞に「宗教的儀式を用いず、告別式を執行する」との広告を出す。これが告別式の始まりと言われる。
1月23日の陸軍青森歩兵連隊215人のうち、199人が凍死した事故から半年の7月24日、凍死者のための弔魂祭が行なわれた。午前9時よりの祭りには約5万人が参拝。午後は仏式の法要が営まれ、各宗の僧侶160名が参集した。
アメリカの葬儀雑誌「西洋の葬儀屋」に霊柩車の広告が登場。なおその2年後にはパリの自動車博覧会で、霊柩車が出展された。
9月13日死去した市川団十郎の葬儀が20日。青山共同墓地にて行なわれた。当日は生憎の雨天にもかかわらず、葬列には5千人が参加。葬儀は自宅で、午前9時、棺前祭を行ない、正午出棺。棺は総桧で御葉牡丹の金具を打ち、玉垣鳥居にしめ縄を引き渡し、そのなかに寝棺がある。青山墓地に到着したのは午後2時過ぎ、そこで伊藤博文の弔文を俳優川上音二郎が代読。午後4時には埋葬式が終了する。
6月15日、玄海灘で戦死をとげた635名の陸軍公葬が、8月21日、青山練兵場で行なわれた。午前8時40分、青山練兵場に635名の霊柩が到着。斎場は中央に東向きに設けられ、奏とともに霊柩祭壇に安置されるとまず供饌(きょうせん)を行ない、誄詞(るいし)捧読、弔辞等のあと、各宗35派僧侶(約300名)の読経、及び神道13教派神官(約150名)の祭文朗読等が行なわれた。そのあと儀杖兵の一斉射撃を3発し、続いて喪主、遺族会葬者順次玉串を捧げ式を終えた。各霊柩は午後1時、青山墓地に送られて埋棺式を行なったあと、埋葬された。
佐世保海軍病院で死亡した軍艦リューリック号の乗組員4名の葬儀が、20日海軍神葬式で行なわれた。佐世保より4名の遺体は、それぞれ二重の杉厚板の棺に収め、ロシア国旗で覆い、ロシア人の墓地を管理する悟真寺に運ばれた。本堂正面の祭壇に棺を安置した後、祭主は他の神官をともなって祭壇に進み、棺前祭を行ない、長文の祝詞(のりと)を朗読したあと玉串を捧げた。坂本艦長は、「母国のために最期まで勇敢に戦い、ついに名誉の戦死をなせるロシア国兵士の霊を弔う」旨の指令長官の弔辞を代読した。
10月26日、ハルビンで暗殺された伊藤博文の国葬が11月4日、行なわれた。午前7時、柩前祭が行なわれる。午前8時、霊柩は官邸を出て、日比谷の祭場に向かう。日比谷公園の祭場は、早朝より清掃され、広場を2区に画して、南方半分を祭場とし、北半分を会葬者の控え所とした。祭場には黒白の鯨幕を2重に引き回し、幄舎に対する幕の中央に祭壇を設け、会葬者控え所には4個の幕舎を設けた。広場の入り口には会葬者名刺受付所を設け、午前8時頃から到着する会葬者に対した。葬列は午前10時過ぎに到着し、霊柩を正面壇上に安置。午後零時20分、霊柩は馬車に移されて、大井町の墓地に至り、埋葬式を行なう。終了は午後4時。
11月11日に死亡した川上音二郎の遺骸は、桧の棺に収められて大阪帝国座に安置された。通夜は帝国座で17日夜営まれた。これより先、霊柩を収めた舞台の花御堂には花輪、花束が飾られ、棺の前には「源宗院音如大仙居士」の位牌が安置。翌午前9時半、導師その他、14ケ寺の僧侶が到着。午前10時半、楽僧の楽が収まると、白綾で包まれた棺が、花御堂を降ろされて正面入り口に運ばれ、竹輿に収められた。前には川上の子供が「霊位」を持ち、後からは喪服の貞奴が続いた。ちょうど棺が帝国座を出た時、先供が新町橋に到着していた。
何と言っても近頃にない葬儀とあって、見物人は朝の7時から場所を取っているから、時間と共に道は身動きが出来ず、2階から顔を出す者、屋根に乗って見物している者もいた。ようやく葬列は一心寺に到着。造り供養、花車、白張提灯ついで棺が入った。本堂正面には供花、供果が飾られ、式は午後1時、奏楽と共に開始された。導師は観無量寿経を唱え、退散楽を奏して式は終わり、遺体は午後8時、梅田発の列車で郷里の博多に送られた。
7月30日、明治天皇崩御。59歳。大喪の日程は大正元年8月7日に発表された。大喪の期日は3日間で、9月13日夜 青山練兵場にて御大喪式挙行。9月14日 京都府桃山御陵御埋棺式。9月15日 跡始末御祭典。こうして時代は大正に入った。