1990.04
映画スターの死

  映画俳優は、大衆の夢と期待をスクリーンのうえに実現させてくれるアイドルである。しかし彼らの生活はジャーナリズムに四六中見つめられ、プライベートが得られない職業でもある。今回の「デスウオッチング」では、内外の映画スターの死にざま。いつもはライトを浴びている彼らの、影の部分を見つめていきたい。


市川雷蔵(1969年7月17日死去、37才)

  眠狂四郎シリーズで有名な彼は、昭和29年大映に入り、37才でこの世を去るまでに154本の映画に出た。最後の出演作「博徒一代・血祭り不動」に出演したとき、すでに直腸ガンに犯され、立ち回りは吹き替えに頼らねばならなかった。新宿の朝日生命成人病研究所でこの世を去った。故人の遺志により、顔を覆った白布や布団を取り除かれなかった。髪は制癌剤のためにすっかり白くなり、手足は見る影もなくやせ衰えていたからである。戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。

 

エノケン(1970年1月7日死去、65才)

  日本の喜劇王といわれた榎本健一は、同じ浅草生まれの古川ロッパとともに、東宝喜劇の2本柱として、日本中を笑わせた。昭和27年地方巡業中に倒れ、慶応病院に入院。病名は特発脱疽で、膝から下を切断しなければならないと宣告された。しかし切断は右足のつま先だけで、再起した。10年後の昭和39年、脱疽が再発し大腿部から右足切断の手術を受ける運命となった。彼は首吊り自殺を計ったが未遂に終わった。そして義足をつけカンバックした。昭和44年12月末、全身に黄疸症状が現われた。元旦に病院に行き診察すると、重い肝硬変であった。彼は帰宅するつもりだったがそのまま入院を命じられた。肺炎を併発し、ほとんど苦しまずに息をひきとる。

 

森雅之(1973年10月7日死亡、62才)

  作家有島武郎の長男。戦後日本が生んだ最も知的な二枚目といわれる。映画「羅生門」「白痴」に出演。昭和48年6月、直腸ガンで自宅で倒れる。遺言は「死顔を人に見せてはいけない」であった。

 

田中絹代(1977年3月21日死亡、68才)

  山口県下関市生まれ。わが国の映画史上最大の女優といわれる。昭和13年「愛染かつら」で上原謙と共演、興行成績の新記録を作る。昭和52年1月、脳腫瘍で本郷の順天堂病院に入院。3月には箸が使えなくなり、手で食べた。最後には目が見えなくなり痰が咽につまり苦しみ、咽に穴を開けた。築地本願寺での葬儀にはファン2千人が集まり、焼香台に百円玉を置いていった。この金は遺骨とともに墓地に埋葬された。

 

田宮二郎(1978年12月28日死亡、43才)

  港区元麻布の自邸で散弾銃で自殺。ベッドに入り、足の指で引き金を引いたものらしく、弾は心臓部に直径3センチの穴をあけ即死。彼は死ぬ10カ月前に3億円の生命保険に入っており、生命保険は1年以内に自殺した場合、保険金は支払われないという規約があるが、彼の場合には欝病と認められ、保険金が支払われた。1月12日、青山齋場で行なわれた葬儀で勝新太郎が弔辞を述べた。
  「田宮、おれはお前なんか大嫌いだった。あっち向いたらこう、こっち向いたらああ、お前の死顔を見るのもいやだったんだ。”よーいスタート”、カチン、その後で芝居をする。そんな顔なんか見たくなかったんだ。と思って見たら、楽な、いい死顔しているじゃないか。おれは救われた。生きているとき、どうしてああいう顔をしていなかたんだ。」

 

嵐寛寿郎(1980年10月21日死亡、77才)

  昭和2年、24才の時の「鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子」に始まって、53才の時の「疾風!鞍馬天狗」まで40数本。生涯の出演映画は約500本。アラカンとして親しまれた。昭和55年夏、脳血栓で倒れ京都市西京区の自宅で療養、9月に心不全を起こし、10月21日午後再び発作を起こし死亡。

 

志村喬(1982年2月11日死亡、76才)

  「生きる」「七人の侍」などの黒沢映画で重厚な演技を見せ、日本映画史上の名優。昭和56年、前立腺肥大の手術を受けて以来経過がよくなく、その後肺気腫に冒された。翌年2月11日、新宿区の慶応病院で死亡。

 

片岡千恵蔵(1983年3月31日死亡、79才)

  昭和57年8月腎臓病の悪化で、東京都港区の慈恵会医大病院に入院。翌58年に入ると口もきけず「南無妙法蓮華経」などと書くようになり、一時は軽い散歩できたが、不帰の客となる。葬儀・告別式は東映京都撮影所葬として4月15日、東映撮影所で行なわれた。彼の最期を看取ったのは、名古屋の愛人であったが、遺骨は京都の太秦の自邸に送られている。

 

大川橋蔵(1984年12月7日死去)

  映画で活躍したのは昭和30年から10年くらいで、それ以後舞台とテレビで強い人気を獲得した。テレビの「銭形平次」シリーズは昭和41年5月から59年4月まで、約18年、888回を数えギネスブックにも記録された。番組が終わった昭和59年の11月に入院。病名は結腸がんで、すでに肝臓に転移していた。12月4日、突然「俺の命はあと3日だ」といって、そのとおりとなった。棺には十手と投げ銭が入れられた。

 

ヴァレンチノ(1926年8月23日死亡、31才)

  スクリーンの永遠の恋人、ルドルフ・ヴァレンチノはニュヨークのポリクリニック病院で死亡した。公式発表の死因は、虫垂炎手術後に併発した腹膜炎によるものとされた。ヴァレンチノ死亡の知らせを聞いた2人の女性が、病院で自殺を計った。ロンドンでは彼の写真の前で服毒自殺を計った。ヴァレンチノの遺体がニュヨークのキャンベル葬儀社に安置されると、最後の別れを告げようと、10万人以上のファンが押し寄せて暴徒と化した。彼の遺体は西部へ移送され、ハリウッド記念公園墓地に埋葬された。全米ラジオ局から追悼歌が流された。

 

ジェームス・ディーン(1955年9月30日死亡、24才)

  1955年、「エデンの東」の成功で一躍有名となった。そのあと「理由なき反抗」「ジャイアンツ」の映画に出演。愛用のポルシェに乗ってサリナスの自動車レースに出場するため、130キロのスピードで運転中横から来たセダンと衝突。即死。この灰色のポルシェは彼が数日前、7,000ドルで購入したばかりであった。

 

ジェラール・フィリップ(1959年11月25日死亡)

  「肉体の悪魔」「パルムの僧院」などフランス映画で人気のあった。彼は胃癌のため胃の切除手術を受けた。病名は知らされていなかった。彼は退院を許され、近づく死を知らぬまま、自邸で妻のアンヌと最後の生活を過ごす。

 

ゲーリー・クーパー(1961年5月11日死亡)

  1961年は、彼が映画生活35年を記念する年で89本の映画に出演した。しかしその前年の12月、夫人は夫が前立腺ガンに冒され、すでに転移していることを知らされていた。彼が自分の病名を知ったのは、61年の3月、医者から告知される。彼は医者の自宅に電話して「先生は私に事実を告げたことで憂鬱になっているのではありませんか。しかし私は感謝しています。教えてくださってありがとう」。彼が重態におちいると全世界から見舞のメッセージが届いた。5月4日、彼は新聞に感謝の言葉をのせた。「私はすべて神の意志であることを信じています。皆様からのお便りのおかげで、心の安らぎを得ています」

 

マリリン・モンロー(1962年8月5日死亡、36才)

  モンローほどその死について取りざたされた人も珍しい。最後の言葉は死の前日、俳優ピーター・ローフォードからの夕食会の招待の電話で、夕食会には出られないと答えた後、「夫人にさよならと伝えて頂戴、大統領にもさよならと伝えて、あなたにもさよならをいうわ」8月5日午前3時半、看護婦はマリリンの部屋を確かめに行くと、彼女は電話の受話器を握ったまま死んでいた。36才。解剖の結果、死因は全臓器鬱血で、これは睡眠薬による死を物語っていた。葬儀はハリウッド近郊のウエストウッドで行なわれた。500人の会葬と数人の俳優が招かれ、記者は禁じられたモンローの演技指導を行なったリー・ストラスバーグが弔辞を述べた。
「彼女の人生で、貧しい少女が惨めな環境から一つの神話を築きあげた。全世界のために、彼女は永遠の女性のシンボルとなった」
   なお翌年11月ダラスでケネディ大統領が暗殺されている。

 

ジェーン・マンスフィールド(1967年6月29日死亡、34才)

  アメリカの代表的グラマー女優。6月28日午後11時、ミッシピィーのディナークラブのショーを終えて友人とマネージャーと3人の彼女の子をを乗せてニューオルリンズに向かった。翌日の昼のテレビ番組に出演するための強行軍である。午前2時25分、道路は霧のため見通しが悪かったが、スピードを弛めなかった。前を走っているトレーラに気づくのが遅く、車はその後ろに突っ込んでいった。車の屋根は切り取られ前座席に座っていた3人は即死。マンスフィールドの首は飛んだ。

 

ヴィヴィアン・リー(1967年7月7日死亡、53才)

  1939年、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ役でアカデミー主演女優賞を受賞、彼女は26才であった。翌年、弁護士の夫と離婚して、俳優のローレンス・オリヴィェと再婚。彼女は躁鬱症であり、また戦争中から肺結核を患っていた。抑欝状態になるとだらしなくなり、物を食べなくなり、睡眠薬を飲んで自殺を計ったりする。1960年離婚し、1967年、結核は両肺に広がり、絶対安静を告げられる。7月7日、彼女はベッドから床に転がり落ちて死んだ。死因は喀血した血で窒息したのである。

 

ジュディ.ガーランド(1969年6月22日死亡、47才)

  16才の時、ミュージカル映画「オズの魔法使い」で主役の少女を演じ、アカデミー特別賞を受賞。しかし彼女も5度の結婚、睡眠薬の常用という幸福とはいえない特異な人生を送った。1969年、彼女は5番目の夫(35才のニューヨークのディスコの支配人)とロンドンに住んでいた。彼女はその年の初めまでは、ロンドンのサパークラブのショーに出演していた。6月22日、日曜日の午前10時、ニューヨークの彼女の友人からの電話で夫は目が覚めた。しかし彼女はベッドにいなかった。浴室に声を掛けたが返事がなかった。鍵は内から掛けられていた。そこで夫は浴室の窓から中を見るため、家の屋根に登った。そこで彼は、うつ伏せになっている彼女を発見した。医者は死因を誤って睡眠薬を多量に飲んだためと言っている。しかし娘のライザ・ミネリは母の死を自殺であると思っている。

 

ブルース・リー(1973年7月20日死亡、32才)

  映画「ドラゴンへの道」は1973年、ワーナー映画が国際的に最も成功した映画の一つである。ブルース・リーは5作目の映画「死亡遊技」の映画が半分完成した時点で死亡した。32才の時である。彼の死は、公式発表では、ホンコンにある女優ベティのアパートで、シナリオを打ち合わせ中、彼は突然頭痛を訴え、沈痛剤を与えたという。そしてその夜、彼は病院で死亡したという。検視によると、リーは沈痛剤のアレルギー反応の結果、脳浮腫(脳が膨れる)になったという。しかしファンはこの死因に疑いを持ち、様々な憶測が乱れ飛んだ。例えば健康管理のための食事療法が原因であるとか、彼が映画の中で、空手の秘密を明かしたために殺された
  など。ホンコンでの葬儀には3万人の群衆が集まり、第2回目の静かな葬儀がアメリカのシアトルで行なわれた。この葬儀にはスティーブ・マックイーンも参列している。

 

チャーリー・チャップリン(1977年12月25日死亡、88才)

  喜劇の天才チャップリンは、映画界に入って4年目には100万ドルを稼ぐようになる。しかし政治観のために63才(1952年)で国外追放にあい、それ以後スイスに定住するようになる。彼は88才で老衰で死んだ。翌年3月1日夜、彼の遺体は棺ごと罰から盗まれて消えていたのが発見されたが、後に帰されたという。

 

ジョン・ウェイン(1979年6月11日死亡、72才)

 「駅馬車」「黄色いリボン」で有名なこの西部劇の王者は、1964年9月、左肺全部と右肺の一部を切除した。それから13年後の4月には心臓の手術を受けた。翌79年1月には胃癌の手術を受けた。この時は9時間半にわたる大手術であった。しかし4月のアカデミー賞受賞式には贈呈者として出席している。翌5月1日、腸閉塞の手術を受け、ガンが全身に広がっていることが明らかになった。6月に入って沈痛剤で苦痛を抑えていたが、死ぬ前には意識をもって子供達の顔を見たいからといって、最後の24時間は薬を断り、子供達に見守られながら息を引き取った。彼の遺作である「ラストシューティスト」はガンを宣告されたガンマンの最後の7日間の物語である。

 

イングリット・バーグマン(1982年8月29日死亡、67才)

  映画「カサブランカ」「誰がために鐘は鳴る」などで有名なスウェーデン生まれのバーグマンは1974年、59才の時、ロンドンで乳ガンの手術を受け、片方の乳房を切除した。4年後の1978年、ベルイマン監督の「秋のソナタ」の撮影後に、もう一方の乳房を切除された。亡くなる年の1月には、ガンと闘って死んだイスラエルの元首相ゴルダ・メイアに扮した。彼女は67才の誕生日の翌晩死んだ。親しい友人たちに誕生パーティーをすると言い張ったが、実現できなかった。

 

グレース・ケリー(1982年9月14日死亡、52才)

  映画「裏窓」「上流社会」などに出演。1956年、27才の時にモナコ王妃となる。1982年9月13日の朝、コートダジュールの別荘から、娘のステファニー王女を同乗して、モナコに帰る途中40メートルの崖下に転落。彼女たちはグレース王妃病院に運ばれたが、意識を回復することなく14日午後10時半に死亡。検視の医師は、グレース王妃が運転中、脳溢血を起こしたのが事故の原因だと発表。

 

ジョニー・ワイズミュラー(1984年1月21日死亡、79才)

  28才から43才まで、合計12本のターザン映画に出演したが、ターザン以外ではパットせず引退。7年にも及ぶ心臓病の闘病生活の後、メキシコのアカプルコにある養老福祉病院で死亡。翌日アカプルコ郊外の墓地に埋葬される。棺の上に砂がばらまかれたとき、ターザンの叫び声のテープを流し、会葬者を驚かせた。

 

オーソン・ウェルズ(1985年10月10日死亡、70才)

  映画「市民ケーン」を26才のときに監督主演している。1985年10月10日、ハリウッドの自宅のベッドで死亡。死因は糖尿病による心臓発作。同じ日に映画やミュージカルでおなじみのユル・ブリンナーが肺ガンで死んでいる。

 

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