1990.01
往生伝今昔

  日本には、平安時代から明治時代に至るまで、「どうしたら苦しむことなく、死後極楽に行くことができるか」がとてつもない大きな問題としてあった。誰もがこれに悩み苦しみ、それに答えるべく「往生伝」というものが時代を超えて書き伝えられてきた。ここには、難しい仏教の教えではなく、実際に生きた人の最期の記録としての、極楽に行くためのハウツーがあった。今回のデスウオッチングでは、平安時代に編纂された「今昔物語集」から、明治時代の往生伝まで合計21人の死にざまを見ていきたいと思う。


●今昔物語集(平安時代末期)

第1話 人相見の忠告

  今は昔、雲林院に菩提講を始めた聖人がいた。もと九州の人で、名うての盗人だったが、捕えられて7度も牢にいれられた。7度目に捕えられたときには、とうとう「この度はこいつの足を切ってしまおう」という判決が出た。そこで男を賀茂川原に連行して、まさに足を切ろうとした。そこに一人の人相見が通りかかり、この盗人を見て処刑人に、「どうかわしに免じて、この人の足を切らないでくれ」と頼んだ。処刑人は、「こいつは名うての悪党で、今度は検非違使が集まり、足切りに決定されたのだ」と答えた。人相見は、「この男は必ず往生する相を備えている。だから、絶対に切ってはいけない」と言う。処刑人は、「これほどの悪人がなんで往生などするものか。訳のわからぬ相を見ることだ」と言って、かまわず切ろうとした。人相見はその切ろうとする足の上に座り、「この足の代わりにわしの足を切れ。必ず往生する人相のある者の足を切らせ、黙って見過ごしたら、後世の罪は免れないだろう」と言って大声で叫ぶので、処刑人たちは、検非違使の所に行き報告した。協議の結果、「あれほどの立派な人相見が言うことだから」と、足を切らずに男を追放することにした。
  その後、この盗人は強く道心を起こし、すぐさまもとどりを切って法師となった。そして、日夜阿弥陀の念仏を唱え、心から極楽に往生したいと願っていたが、雲林院にすむようになって、この菩提講を営むようになった。遂に命が終わるときになって、誠に人相見の言ったとおりに非常に尊い姿で息絶えた。「長年悪を好んで行なっていても、心を入れ替えて善に向ったなら、このように往生するものだ」と言って、人々は皆尊びあったという。

(巻22)

第2話 木の上での往生

  今は昔、摂津国豊島郡の滝の下に大きな松の木があった。その木の下で一人の修業僧が野宿していると、ちょうど8月十五夜のこと、月が非常に明るくあたりは静まりかえっていたが、突然空から妙なる調べと櫓の音が聞こえてきた。その時、この木の上で声がした。「私を迎えにおいでになったのでしょうか」。すると空のなかで「今夜は他の者を迎えるために別のところに行く。お前は来年の今夜迎えるはずだ」と答え、それ以外物音一つ聞こえなかった。やがて音楽は次第に遠ざかって行ってしまった。この木の下の修業僧は、初めて木の上に誰かいるのに気がつき、木の上の人にどなたかを尋ねた。すると木の上で、「今の櫓の音は阿弥陀様が衆生を極楽に運ぶ筏の音なのだ」と答えた。
  木の下の僧はこの言葉を聞いたが、他人に語らないまま、翌年の8月15日になった。その夜、そっと前の木の下に行き、昨年聞いた言葉を信じて待っていると、夜中になって、去年のように空に妙なる音楽が聞こえ、木の上の人を迎えて行ってしまった。僧はこれを見て、人々に語り伝えたという。

(第25)

第3話 地獄の火の車

  今は昔、殺生など罪深い行ないに明け暮れている男がいた。こんなある日ある人がこの男に、「罪をつくった者は必ず地獄に墮ちるぞ」と教えてやった。これを聞いた男はまるっきり信じようともせず、「とんでもないでたらめだ、何を根拠にそんなことを言うのか」と言って、ますます殺生を繰り返した。
  そのうち、この男は重い病に罹り、数日のうちに死に頻した。その時、この男に火の車が見えた。それを見て以来、病人はひどく恐怖の念にかられ、一人の偉い僧を招き、「私は長年にわたって罪を作ってまいりました。ある人が、『罪を作ったものは地獄に墮ちる』と言って注意をしてくれましたが、それはでたらめと思い、罪を重ねてまいりました。今死ぬときになって、目の前に火の車が私を迎えに来ています。とすれば、罪を作るものは地獄に墮ちるということは本当でした」と言って、長年の間、信じなかったことを後悔し、ひどく悲しんで泣いた。僧は枕元でこれを聞き、「お前は、罪を作ると地獄に墮ちるということを信じなかったが、今火の車を見て信じる気になったのか」と言う。病人はそうだと答えると、僧は、「それなら、阿弥陀の念仏を唱えれば必ず極楽に往生する、ということを信じなさい。これも仏様が、お教えになったものだ」と言う。病人はこれを聞いて、手を合わせて額にあて、「南無阿弥陀仏」と千度唱えた。すると僧は病人に、「火の車はまだ見えるか、どうだ」と言う。病人は「火の車は急に消えてしまいました。金色の大きな蓮華一葉が目の前に見えます」と言うや、そのまま息絶えた。そこで、僧は涙を流し、感激し尊んで帰って行ったという。

(第47)

 

●「現証往生伝」より(元文4年、1739年)

第4話 辞世の歌二句

  信士梅心は、徳島の人である。普段より連歌俳諧などの風流をたしなみ、生涯を健康に病気もせずに暮らしてきた。ある時、そばにあった懐紙に、「世は夢と見し間も夏の一夜かな。唱うれば心涼しや南無阿弥陀仏」と言う二句を書き、筆を置いて念仏し突然に亡くなった。時に亨保4年6月9日、82歳。

第5話 江戸土産の阿弥陀様

  信士玄光は丸屋庄兵衛の息子で、若いときから商売のために毎年江戸に出向いていた。あるとき増上寺に寄ったおり、そこで念仏を習い、それ以来念仏が日課となった。毎年京に上るときには、まず主人と父母とに対面し喜んだ。4月下旬主人に暇を願い、阿弥陀の像を買い江戸土産と称して父母に贈り、その時に念仏の尊いことを話した。5月に入って、両親に向かって、「私は今月15日には、必ず寿命が終わります。このことは、春よりわかっていたのですが、もう時期が近づいていますので話しました」と言う。両親はこれを聞いて信じることができず、単なる冗談と考えていた。信士は5月の初めに自分の法名を書き残し、命日も5月15日と書いた。病ということもなく、5月15日12時、頭北面西になって、称名を唱えながら眠るように死んでいった。39歳。

「随聞往生記」より(1785年)

第6話 浮世を離れての往生

  関超上人は、伊勢の国蓮華寺の主人である。俗性は浅野内匠頭の家臣吉田忠左衛門の甥である。四十七士が追福のため出家したこともあり(1702)自分も浮世の欲を離れ諸国を遍歴し、人里離れた山で念仏を納めていた。しかし様々な奇怪なこともあって、かって伊勢の越坂で念仏三昧を行なっていたときの師が、上人とともに同居することとなった。二人は横になることなく、あるいは一週間続けて念仏を唱えることも度重なった。安永5年(1777)8月10日、上人は沐浴して、白の服をまとい、西方に向かって正座して念仏を唱えながら亡くなられた。79歳。

 

●「近世淡海念仏往生伝」より(1825年)

第7話 葬具の準備

  信士了雲は、近江の国の人で、俗名は治兵衛生。左官業を営み、日頃から正直者で言葉も少なく、殺生を嫌って蚤や蚊も殺すことも退けた。寛政2年3月、健康そうに見えるにもかかわらず、新町の葬具屋に出かけて、自分のために葬具一式こしらえてほしいと頼んだ。これを聞いた主人は、自分の葬儀道具を自分から求めるものは例がないと言って断った。治兵衛が無理に頼むと、店では代金を頂いておかないことには道具を作らないというので、金3分と1貫文を置き、「来月10日過ぎには取りに来るからそれまでは他言くださるな」と言って帰った。
  その後程なくして治兵衛は病床についた。4月13日は祭りで、11日には神輿もできるので、彼は起きてこれを見に出かけた。かくて13日の朝、息子の善次を呼び、自分はもう命がないから、死んだ後のことはこの手紙に書いてあるから、一家、親戚が揃ったおりに開くようにと遺言した。女房驚いて近くに寄ると、しばらく念仏を唱えていたが、そのまま眠るようにして絶命した。親類どもが寄り合ったところで書き付けを開いてみると、亡き後のことが詳しく記され、葬具まであつらえてあったのにには皆不思議なことだと感じた。61歳。

「新選念仏往生験記」より(1833)

第8話 養子の死

  浄誉信士は松坂の生まれで、加藤源兵衛の養子である。父母には孝行し、家業の暇には俳諧・茶道などをたしなんでいた。文化3年2月1日急に腹痛を起こしたが、医薬では治療ができなかった。同月末には、手足が冷え、気力を失って心ここにあらずというふうになった。そこで頭北面西し、右脇を下にして伏した。この間、念仏を唱え続けていた。同日夜2時、両親に向かい、「人の死期は定まりないといわれていますが、父母に先立って命を終わるのは不孝のいたりです。しかしこの定めは逃れませんので、永の別れとなります。」と言って、短冊を求め、筆にて

  あそびよきところ見ざしぬ法の桃

と書いて、それから夜の偈を唱え称名を唱え、笑顔のまま静かに死んでいった。

第9話 殺生を嫌った男

  居士摂心幽如、俗名奥田吉郎兵衛は一志雲郡の人である。その性質はまっすぐで慈悲心に溢れていた。42歳の夏の頃に病に伏し、医薬の効き目もなく困っていたとき、ある人が生きた鯉を食べれば、必ず病が治るといった。しかし吉郎兵衛は、「自分の命のために魚の命を取るのは不仁の甚だしいものである」と言ってこの鯉を川に放した。6月6日、予め死期の時を悟り、親類を招いて、死後のことまで詳しく遺言し、又浄土での再会を懇ろに約束した。8日の夜になって、臨終の行儀を整え、西に向かって座り、声だかに念仏を休むことなく唱えた。その夜も朝に近くなって、時が来たと言って、弟を呼び阿弥陀経を読経させ、自分もあとについて勤め終り、念仏数100回のあと「合掌にひるがおの露こぼすまじ」と口づさんで、合掌の手も乱さないまま、めでたく往生をとげた。

第10話 夢での知らせ

  釈光顕妙峰尼は、一志郡の円照寺俊諦の実母である。年頃になって浄土を願う志が強く、日頃から称名を唱えていた。年老いて病床に伏すようになってからは、以前にも増して称名を唱えるようになった。ある日俊諦が寺にいないときに、妙峰尼は隣家の老女を招き沐浴潔身して、衣服をあらため、臨終の用意などをしていた。しばらくして俊諦帰ってきてこれを知り、母に向かって「このようなことをしていては、ますます病気が重くなり、苦しみも増すばかり」と戒めた。母はこれに答えて、「別に煩わしいこともなし、ただ今にも往生するときの用心にと、このように準備をしていたまで」と言った。さてどんな因縁であるのか、死の2・3日前より絶えず見悶えを繰り返し、見ていても大変に辛いので、看病の人々も眉を顰めては、「果たして往生の時にはどのようになることであろう」と心を痛めていた。同日夕方にはその苦しそうな様子も和らぎ、枕を北に向け、面を西に向けて称名を唱え始めた。その夜隣家の信者を招いて、臨終及び死後のことまでを語ると、その人は死が近いと思ったのか、家にも帰らず、退いて次の間で仮眠しはじめた。そのうち前にも増して苦しそうな様子に、皆驚いていたが、やがて夜明け近くには苦しそうな様子もやんだ。そして称名を始めると、いつの間にかとなりに寝ていた信者が起きて、一緒に称名を唱え始めた。俊諦いぶかりながら、いつの間に来たのかと問うと「私の命が終わるとき、必ず起こすからと約束したが、夢の中に現われ、今こそ命終りなりと告げたので、目を覚ましたのである」と答えた。皆奇異の思いを抱いた。暫くして称名の声と共に、合掌のまま面に笑みを含み、静かに往生した。時に77歳。

第11話 臨終時の発心

  伊勢の国の幸助、若いときから相撲好きで、三瀬川と名乗っていたが、生まれつき邪険で、常に喧嘩口論が絶えなかった。あるとき蕎麦を食べている最中、突然に熱が出て、その苦しそうな様子はまるで、五逆の罪人の臨終に際して、地獄からの迎えの火車の出会ったようである。そこでその日の夕方、菩提寺の住職を招き、自分の罪を懺悔し、自分のごとき罪人でも助かる道はあるのかと尋ねた。僧侶は詳しく浄土経の中の教えを説き聞かせると、たちまち信心を起こし、浄衣を着て仏前に座り、合掌して声高に念仏を始めた。その力強いこと鉄でも貫くようである。翌朝8時になって、親しく仏国からの来迎を見ようと、しばしば空を見上げては、歓喜の色を表し、称名とともに、合掌の手も乱さないまま往生をとげた。時に41歳。

「尾陽往生伝」より(1868)

第12話 1日10回の念仏で往生

  童女香林、俗名幾代は名古屋の奈良屋の娘で、幼年より父母が教えた念仏を日課で10回唱えていた。亨保21年に重い疱瘡を患い、治らないとみるや両親は「念仏すれば極楽へ行ける」と言って念仏をさせた。ある日両親に向かって「只今地蔵が来て私の手を取り極楽へ導いてくれる」と言って喜んでいる。両親はなお念仏に励めと言えば、高い声で称名をしていたが、暫くして阿弥陀様が現われ極楽に引き合わせると語り、頻りに念仏を唱えながら息絶えた。死相うるわしく遺体は柔らかで、臭いもなかった。

第13話 酒のための往生

  意得功忍信士、俗名は喜兵衛、名古屋巾下の者なり。性質が正直な為、人の誘いを信じてよく念仏を唱えていた。常に酒を好み、一時病に伏して薬も思うように利かない頃、酒が飲みたいと言えば、その妻「もし酒が飲みたければ、ひたすら念仏を唱え、極楽に行ってそこの酒を飲んだらよい」と答えた。病人が笑って、浄土にどうして酒があるものか」といえば、妻は「如来の力でどうして酒がないことがあろう。それよりもまず往生が大事」と言う。そこで病人早く行きたい一心で念仏を唱え、23日過ぎて、夢の中で極楽へ行ってきたことを語り始めた。「いつの間にか八功徳池ともいうべき水際にいると、そこに菩薩がおり、ここは極楽かと聞くと、そうだという。ここには酒があるのかと問えば、「この池の水、皆酒なり、自分で汲んで飲んでみなさい」と言う。そこで一升ほど飲んでいい気持ちになったところで目が覚めた。妻これを聞いて「浄土にどうして酒があるの。先にあると言ったのは念仏を勧める方便」だと言えば、病人言う、疑うのならこの気をかげと、暫く息をつめて吹き出してみると、酒気室内に溢れた。妻も不思議に思い、如来の力に感激した。さて一両日、喜兵衛ますます休まずに念仏を唱え、何の苦もなくやすらかに往生をとげたという。

  「専念往生伝」より(1868年)

第14話 死の前の極楽見物

  喜曾松は、三河の勘助の息子で、6歳の頃から父と共に朝夕には本尊前に座って念仏を日課としていた。10歳の頃より病気になり、医療を尽くしたが、その効果なく段々と病が重くなった。父が枕元に行けば、「悲しい悲しい」と言う。父はそんなに悲しければ、死ぬかも知れないから念仏を唱えなさいと言うと、童子は「死ぬのは嫌い、死ぬのは嫌」と言う。父また「そんなに死ぬのが嫌なら、いよいよ念仏をしなさい。念仏をすると死ぬことのない極楽に行ける。また念仏を唱えれば極楽に行って、悲しいことはなく、楽しいことばかりだ」と勧める。そこで童子は「そんなによいところなら行きたい」という気持ちになった。1週間ほどして童子は、手習いの師匠を呼んで下さい、と言うので看病の者はすぐに、師匠を連れてきた。童子は目を開いて「御師匠様、私は死ぬことのない極楽に参ります。今日はいとまごいを述べます。」言い終わると、目を閉じ念仏を唱え始めた。翌日童子は、苦痛の様子もなく眠るようにして息絶えた。この知らせを聞いた親類、隣家の人々は集まり童子の傍で念仏をしていると、死んだはずの童子目を開いて、尊い所を拝んできたと言う。父が訳を聞くと、阿弥陀様の所に行って来たという。そこにはきれいな蓮の花が咲いており、その花の上には子供たちが大勢遊んでいた。阿弥陀様が早く来いというので、すぐに行くと答えた。父が阿弥陀様のところにいつ行くのかと問うと、明日の4時と答えた。翌日4時、童子は念仏を唱えながら眠るようにして息絶えた。

第15話 百万遍

  江戸北本所御組屋敷の武士須藤所右衛門は、生まれてこの方仏教書を見たこともなく、浄土往生の気持ちもなかった。ある日、日頃の冷酒の毒気が体に回ったのか、医薬の術では治すことが難しい病になった。死の兆しが現われ、ただ死を待つのみとなった。彼の兄弟は集まって念仏を百万遍唱えることを勧めるが、所右衛門、自分は百万遍をして死ぬことは無用であるとしてこれを退けた。 同じ所に宗円という武士が、一緒に念仏を唱えてやろうということになり、これには所右衛門、大いに喜んで聞き入れた。さて、約束どおり宗円は4、5人誘って病床にやってきた。「人は病気になったら、死を待つ他はない。死んで身にそう宝は念仏の他はない。我等も念仏往生を願い朝夕に祈るが、寿命があれば70でも生きる。もっぱら念仏を唱えよ」と勧め、往生極楽の念仏を唱えて帰っていった。翌日明け方、右衛門は阿弥陀如来の来仰をおがもうと、病床から起き上がり、数回礼拝していると、傍にいた女房が、体に悪いという。それを聞き入れずに礼拝が終わって、南無阿弥陀仏と大声で三遍唱えてから、そのまま安眠するようにして息絶えた。

第16話 悪人往生

  信州更級郡の清兵衛は、若年の時江戸に出て生活していたが、性質が悪く人も3、4人殺害している。あるとあらゆる悪事を働いたが、発覚せず国元に帰った。しかし積み重なる悪事の報いと、酒の患いで苦しむ身となった。しかるに村人の中に念仏の信者に勧められ、日課に10遍程唱えるようになった。あるとき人に向かって、「吾は22日に死ぬなり」と公言した。諸人は何月かと尋ねると、月は知らないが22日なりと言う。10月頃より痛みに苦しみ、傍目にも苦しそうである。訪れる人には、自分は若いころから悪をなしてきたゆえ、これくらいの苦痛は数にも入らない。ありがたいことに極悪の行ないも懺悔しながら念仏を唱えれば、苦痛も和らぐといって喜んでいるのである。夜中でも念仏を唱え、その声は2、3丁も聞こえるほどである。20日より病苦が増し、22日に伯父が来て病を問うた。今日は22日だが、今月でなければよいがと言えば、いかにも今日である、今苦痛に耐えかねてものを言わずうつ向きに伏していたが、半時ほどして大きく嘆息して、「ようやく楽になった。かねてのとおり、今日只今往生なり」と言って、本尊の前に線香を立てさせ、西に向かって念仏すること20回、面に笑みを浮かべてそのまま息が絶えた。49歳。

第17話 肉食から精進へ

  伊勢の国の長兵衛は菩提を求める心はなかったが、病にかかってから52歳で出家した。しかし仏道に励む様子もなく、常に肉を食らうという悪僧であった。58歳の9月より、重病になり姉の円寿尼が懇ろに勧めてから、日課に念仏を始めるようになった。ある日姉が、そなたは肉が好きであったが、この念仏には、肉食しても差し障りがないないので、欲しければ料理してくると言えば、念仏の間は食わないほうがいい、隣家の焼きものの臭いも、うっとおしいという。大した変わりようである。さて正月になって、念仏のおかげで来る2月15日には往生遂るという。姉はそなたのような生ぐさ坊主が何を言うといえば、「私のような極悪人でも助かる念仏なれば間違いない」と答えた。さて2月14日の朝、今日は必ず往生するので、仏壇を掃除し花を供え、親の位牌を出してと願い通りにさせ、大いに喜んだあと念仏を続けた。日没の頃になって鉦を打ち鳴らし回向をした後、そのまま息絶えた。死相は笑みを含み、歓喜の様子であった。亨年59歳。

第18話 自分の葬具作り

  越前中川村の次郎右衛門は、農家で忙しい身であったが、若いときより仏教を信じ、念仏を怠らなかった。68歳の頃から日課三万遍を続け、命が終わる3年前より葬式の道具をこしらえ、蔵に隠しておいた。天保12年10月27日の夜、9時にこの蔵に入って、歌6首を書き残し、縄を首にかけて、西方に向かい、端座合掌して大往生を遂げた。縄を首にかけたのは身が傾かないためで、病はなかった。歌に、「この裟婆の五濁悪世にいるよりも、急ぎまいらん阿弥陀の浄土へ」があった。歌の道は知らない人であったが、このような歌を残したのを見聞きして、人々は驚きと共に賛えない人はなかったという。

「明治往生伝」より(1883年)

第19話 予告された死

  相州足柄上郡に武右衛門という人がいた。その性質はまっすぐで、壮年の頃より念仏を始めた。明治15年4月隣村へ用事があって行く途中、変な僧侶に出会い、「汝近いうちに極楽に行くので、早く帰って心支度をせよ」と言った。これを聞いた武右衛門は直ちに家に帰り、自分の持ち物を整理し、翌日には葬具、経かたびら、脚当、ずた袋などを用意し、また数珠、御守りなど残らずずた袋に入れておいた。次の日は終日無言で過ごし、次の日は終日念仏をして死の来るのを待った。あくる日、座敷に入って布団を敷かせ、頭北面西に伏して、小声で念仏を唱えながら息絶えた。その姿が釈迦の涅槃像に異ならないと、人々は驚いたようすである。時は明治15年4月、亨年75歳。

第20話 用意のよい死

  島田駅四丁目の浅田賢治郎の母ふさは、常に仏教を信じ、行ない正しい老婆であるが、風邪と病で寝込んだ。息子の賢治郎は種々医療を尽くしたが、老体に効果もみえず、明治15年8月半ばに、病人は来る28日に往生すると言った。そのように危篤には見えなかったが、27日の夜賢治郎を呼んで言った。「かねがね言っているように明日は往生の日、ついては仏壇の下に仕舞ってある箱をとってこいと言う。いわれるままに持って来ると、その中に葬儀に着るせがれの無紋の上下、娘3人が用いる白無垢、他に金150円を取りだし、これにて葬儀の万事を整えよと、賢治郎の前に差し出した。せがれを始め、母の用意のいいのに驚いた。翌日、端座合掌し、「はてぬれば間もなく我は西へ行く 阿弥陀の浄土に住ぞ嬉しき」と辞世の句を残してめでたく往生を遂げた。76歳

 

●「三河往生験記」より(1885年)

第21話 彼岸の死

  幡豆郡松木嶋村の勇助は、若いころより川船乗りを職としていた。平生は念仏をするようにもみえなかった。万延元年7月24日発病し、治療を勧めるのに、薬を飲むことを嫌い、我は彼岸中に往生を遂ることは兼ねてからの願いだったので、医薬は必要ない、しかし我のごとき悪人が彼岸中に往生することは覚束ないことであるが、出来れば中日に往生の用意をしたいと告げた。葬式用の草鞋は前もって用意して2階にあるものを使い、また見舞に訪れる人には、世間話をせずただ、往生のための念仏を唱えて欲しいと語った。不思議なことに8月9日の彼岸中日朝。称名終え苦痛なく往生した。

 

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