1989.12
遺体確認

  「家族から戦死者を出す悲しみは、おそらくに日本人もアメリカ人も変わることはあるまい。その悲しみのさなかに、人のものかどうかさえわからない骨壷をもらうのと、国旗につつまれた立派な棺に入れられ、しかも身元確認の証拠書類がつけられた遺体を受けとるのと、遺族の気持ちははたして同じだといえるのだろうか。」(埴原和郎『骨を読む』17頁)
  第二次世界大戦及び戦後、日本やアメリカでは、戦争で死亡した遺体をどのように取り扱ったのか。これは遺体に対する尊厳の問題であると同時に、数多くの遺体確認の処理技術の問題でもある。今日では、ジャンボジェット機に代表されるように、航空機事故によって、大量の人命が一時に失うことが珍しくなくなっている。そうした場合、遺体確認のための技術的な問題が再び、戦争のない現代でもクローズアップされてくる。今回のデス・ウオッチングでは、戦時下に於ける遺体の身元確認と、航空機事故の際の遺体確認の過程とを見てみたいと思う。

  アメリカ軍の組織にAGRS(米軍墓地登録部隊)がある。この部隊の任務は、戦死体の処理や本国送還にあたる。その中にCIU(中央個人識別班)という部門が設けられており、主に爆撃で体が吹っ飛んだり、腐乱してほとんど身元がわからない遺体の身元を確認する任務を行なうものである。朝鮮戦争( 1950〜53)の時期に、米軍小倉基地でこの作業に従事していた日本人がいた。彼は当時東大人類学科の学生で、この間の事情を『骨を読む』(中央公論社)のなかで詳しくまとめている。なぜ人類学者が遺体確認の現場に必要な理由は、遺体が腐敗して骨だけになっている場合、最後のよりどころとなる骨から身元を割り出す技術が求められるからである。また骨に対する専門的な知識を持つだけではなく、遺族に対して遺体確認の権威者が必要だったのである。そうした意味で彼が選ばれたのである。
  基地で遺体確認作業に従事するのは、軍に雇われた民間のエンバーマー(エンバーミング資格者)のプロたちである。遺体を鑑定する作業台では記録係りを含め、3人のチームが従事する。まず戦場から運ばれてきた仮棺の蓋が開けられる。死体は当然のこと、ひどい状態になっており、大部分が虫に食い荒らされている。そこで、まず殺虫剤と脱臭剤とをかねた薬剤が遺体に散布される。次に死体の状態によって違うが、レントゲン室に運び、体内に入った弾丸や骨折の場所・程度などを検査する。撮影が完了すると遺体は再び解剖台に戻され、衣服をとって裸にする。この時、肉はほとんど腐敗しており、どろどろになった内蔵が悪臭と共に流れ出てくる事はざらであるという。

 

個人識別の第一歩

  腐敗のあまり進んでいない死体の場合は、まず虫を取り除いてから、指紋を取り、皮膚の色、髪の色などを記録する。また軍隊のの認識票を付けていれば、証拠として保管される。骨から身元を確認する場合、全身で200個以上もある骨を、一つ一つ頭から順に並べていき、そして足りない骨を印していくのである。また他人の骨が混ざり込んでいる場合には、別の骨として保管しておかなければならない。作業手順として並べる際に、骨の大きさ、骨質、色、筋肉に付着する粗面の状態を考慮しながら並べていく。骨を人体の形に並べるにはコツがあって、経験のない人間なら多少解剖学の知識があったとしてもまず不可能である。それにはまず最初に、腰にあたる左右の寛骨と、中央の仙骨とを組み合わせて骨盤をつくる。この三つの骨の関節面は複雑な形をしているため、個体が違えば絶対に合わないと言う。骨盤ができたら、脊椎骨を下から順に並べていくのである。一番上の第一勁椎は別名環椎ともいい、火葬場で咽仏として拾うものである。しかし本当の咽仏は、強い火で焼くと跡形もなくなってしまうという。

 

歯の記録

  歯による身元確認は、もっともよく使われている。歯科医はまず死体の歯の記録を取る。歯並び、虫歯、金属冠や入れ歯などの状態をデンタル・チャートに細かく記録するのである。

 

納棺作業

  個人識別作業の終わった死体は、次に防腐処理が行なわれる。まず香料が全身にまかれる。それは茶褐色の液体である。その次は粉状のフォルマリンで死体をすっかり包んでしまう。骨だけの死体は、個の粉末をふりかける。天ぷらのたねをメリケン粉でまぶすのと同じ要領であるという。軟部が多く残っている遺体には、腹部にメスを入れ、香料を注入した後でフォルマリン末をたくさん投げ込む。この防腐処理がすむと、死体をガーゼでぐるぐる巻にする。骨しかなければ人間の形に骨を並べ、それを包む。その上から白の大きなシーツで全身を覆い、大きなピンで方々を留める。さらにその上に、毛布で包むのである。こうして厳重に包んでから金属の棺に収める。たとえ1個の頭蓋骨、1本の骨しか残っていなくともこの立派な棺に収め、10本以上のネジで留められる。この棺はさらに四角いジュラルミン製のコンテナーに収められ、その上から長さが2メートル半もあるアメリカ国旗が被せられる。ジュラルミンの箱の外側に、姓名、階級、認識番号が記入され、移送されるまでの間、遺体安置所に収められるのである。

 


航空機事故の遺体確認

  1985年8月12日6時12分、羽田空港を飛び立つた日本航空123便は、群馬県の御巣鷹山に墜落した。乗り合わせた乗員・乗客は524名、うち520名が命をなくした。8月12日の事故から50日間に、上野村と藤岡市に派遣された日航社員の延べ人数は1万7千人。遺族関係者の総数は3,000名。準備された棺の数は800。このうち使用された棺は675。事故後、49日までにかかった経費は、宿泊費が約4億円。バス、ハイヤーのチャーター料金が3億円。藤岡市周辺で行なわれた火葬・葬儀代金が2億円であるという。

 

遺体確認のためのプロ

  8 12日夜、群馬県警察医会の理事2名が、検視体制相談のために県警察本部に呼び出された。1名は歯科医、もう1名は胃腸科医である。2人は県警から、警察医師会所属の医師たちに待機するよう電話で要請をした。当初2人は、1人で5人の遺体を検視するとして、およそ100人の医師を確保すればよいと考えていた。群馬県の医師会は14の地区医師会によって構成されているが、事故のあった地域に近い医師会会長宅にも、藤岡警察署の巡査部長から検視依頼があった。

 

遺体安置と遺族による確認

  124人乗りの日航ジャンボ機は、翌13日早朝無残な形で発見された。長野県佐久群の総合センターには、安否を気遣う家族約350人がバス7台と乗用車で駆けつけた。同日午後11時過ぎ、4人の生存が葬作中の県警レンジャー隊員によって発見された。ジャンボ機の機体は御巣高山の南東山中に2、3キロにわたって散乱、機体の主要部分は3ケ所に分散し、遺体捜索の難しさをものがたっている。同日消防庁の日航事故災害対策連絡室は、長野、群馬、埼玉3県の消防所員に、救助に出動できる体制を整えるよう要請した。乗客の家族、関係者は墜落現場に近い群馬県藤岡市内の小学校体育館など6ケ所へ次々と駆けつけた。早朝、バス7台で小海町に到着したが、再び藤岡市に取って返した家族約350人を含め、午後には約2千名に膨れ上がった。市の対策本部が氷水を用意したが飲む人もいなかったという。家族たちはその夜は、近郊の旅館などに泊まり、14日朝、再び体育館などに集合した。
  14日は午前5時から警官、自衛隊員が遺体の収容作業を開始した。現場の部隊責任者は約3千人を動員した前日の捜索活動で、生存者の救出・捜索活動を打ち切り、遺体の本格的な収容に着手、正午現在で170人の遺体を発見、うち94体を収容した。
  墜落現場から遺体はヘリコプターで第一小学校に運ばれる。ヘリが舞い降りる度に毛布にくるまれた遺体が次々に運び出され、新しい棺に納められた。長さ1メートルにも満たない小さな棺には子供の遺体が納められた。このあと身元確認可能なものは市民体育館に運び、検視の後、持ち物や体の特徴を事情徴収した資料と照合。該当者が判明し次第、市内4ケ所に待機している家族を電話で呼び出し、別室で遺体を確認させるのである。損傷の激しい部分遺体は工業高校と女子高校の体育館に安置され、確認のすんだものから順次藤岡高校に移された。家族の控え場所の一つである、第二小学校の体育館では、14ケ所のホテルに分れて一夜をあかした800人近い遺族が集まり、遺体確認を前にイライラしていた。

 

遺体安置

  遺体確認が行なわれる市民体育館中にはビニール・シートが敷きつめられ、衡立で三つに仕切られた。入り口左手に、遺体を受付る机、遺族から事情聴取するテーブル、検視医師たちの登録受付、検視を終えた遺体の検案書を書くコーナーがある。通路をはさんで右側は、検視のすんだ遺体を再び棺に納める場所である。棺には白の覆いがかけられ、その上に死者が着ていた衣服や歯の特徴を書いた紙が貼ってある。そして体育館の残りの半分が検視場所に当てられている。検視スペースは2畳ほどで、通路の両側に11ずつ並んでいる。通路には歯科用のレントゲンカメラが2台置かれた。線香と悪臭のするむし暑い体育館のなかで、警察官2、300人、150人を超す医師や看護婦が立ち働いた。遺族は、日本航空が一遺族に一人ずつつけた世話役に連れられて、身内の遺体確認に来た。
  遺体は体育館に運ばれると、入り口近くの遺体受付で番号が打たれた。完全遺体は1から順に番号がつき、離断遺体には一つ一つ「リー1」「リー2」と番号が付けられた。毛布にくるまれた遺体に番号が付けられた後、検視スペースに運ばれた。検視する医師は内科と外科がペアになった。歯医者は、歯がある遺体が運ばれるときに参加した。検視には長い時間がかかった。写真撮影の後は、身長・胸囲などの測定があり、角膜の混濁、口や鼻の粘膜の乾燥、直腸温などの死体現象の観察が続く。また墜落時にできた損傷部の長さや深さが測定され記録された。擦り傷や裂症は無数にあったので、遺体表面の観察だけでも大変な作業である。心臓があれば注射器で血を抜き取り、血液判定に回す。1体の検視には、およそ2時間かかった。

 

死体検案書

  検視の後、医師たちは「死体検案書」の作成を行なう。これがないと、たとえ遺体の身元がわかっていても、遺族は引き取って火葬にすることができないし、戸籍から抹することもできない。しかし検視が終わっても身元がわからない場合には、氏名欄には、鉛筆で遺体番号を書いた。死体検案書は、戸籍窓口や火葬場への提出用などに、3通作成されることになっていた。次に手足などの離断遺体については、「検案証明書」が発行される。
  初日の14日に墜落現場から回収された遺体は、完全遺体が111、部分遺体が161である。その日に搬送された遺体は、その日のうちに検視するという方針で作業を行なったので、作業が完了したのは深夜2時半であった。検視の方法については、身元確認に役立ちそうな歯や、手術あとに重点を置くことになり、検案書に一律にゴム印を押したり、カーボンコピーで作成することは遺族に事務的な印象を能えるということで、禁じられた。

 

480人超す遺体確認

  遺体確認作業は15日未明まで藤岡市民体育館で続けられ、480体の遺体が確認され、うち67人の身元が判明した。検視を受けた遺体は121人にのぼった。損傷の激しい遺体が多いため収拾作業は難航し、雨のため午後4時25分で打ち切られた。身元が判明した乗客の遺族は、大半が遺体を自宅に連れ帰った。

 

ウジとの戦い

  墜落現場から3、4日たって収容された遺体のほとんどの遺体にウジが発生した。ウジの大きさで、死後時間を推定することができるという。夏場ならイエバエが産卵した直後にウジになり、2日で7ミリ、5日で12ミリになると言う。体育館に運ばれたウジは大きく成長し、毛布を開くと、肉塊にウジがびっしりとたかっていた。検視2日目は、明け方の4時半まで、翌16日は深夜2時半まで続いた。
  遺体についたウジを払うのは看護婦の仕事だった。大きな瓶に入った殺虫剤をかけ、刷毛やほうきでウジを取っていく。肉の中に食い込んだウジは、ピンセットでつまみ出すのである。こうしてバケツに一杯になったウジは、体育館の排水口から下水に流された。
  検視がすんだ遺体は、外科医が損傷部を縫うのである。頭が砕けたり、手足のない遺体には包帯を巻いて隠した。又看護婦の中には、遺体のひげを剃ったり、頬紅を付けたりしたが、身元確認のため、死化粧はわからないくらいに薄くした。検視を終えた遺体は次に棺に納められ、遺体確認に来た遺族と対面するのである。

 

家族二人で確認へ

  身元が確認されず藤岡工業高校体育館に仮安置されている遺体は137体に達し、群馬県警は16日、確認のすんでいない約400の家族に、一家族から一人出てもらい確認してもらう事にした。遺族も世話役が付き添っていれば、棺に収められた未確認の部分遺体の検分ができるようになった。のである。遺族は体育館の入口で、手袋とマスクとタオルが渡される。棺の蓋には紙と札が貼ってあり、緑の札は男、赤は女と色分けしてある。紙には遺体の特徴が記してあり、もしやと思う棺は、警官に言って開けてもらうのである。
  17日、確認遺体はようやく200を超えた。毎日新聞が身元確認の決め手の調査を実施。決め手として多かったのは(1)顔(2)着衣(3)運転免許書の順である。また男性の場合は運転免許書やカードが多く、逆に女性は顔や指輪が多いなど男女ではっきり差があった。17日未明までに身元がわかった220体を見ると、顔が4分の1で最も多く、以下着衣、免許書、歯型、搭乗券の順。変わったところでは駐車券や診察券、保険証などもあった。

(毎日新聞8月17日夕)

 

待てない遺族ら次々山に

  17日、「現場に供養を」と、3、4時間かけて事故現場まで歩いて辿り着く家族が相次ぎ、線香の煙があちこちで上がった。その数約20人。夜になって事故以来初めて激しい雨となり、遺体遺品の流失を防ぐため、シート被せなどの作業が行なわれた。事故から7日目の18日は、初七日にあたり、遺族の一部は肉親の眠る山中に入り、慰霊の花や線香を手向け、捜索の自衛隊員も現場で慰霊祭を取り行なった。
  30日夜藤岡工業高、藤岡女子高の体育館に安置されていた163棺が、搬出され、市民体育館1ケ所に集められた。この日移されたのは、いずれも身元のわからない手足や歯の一部などの部分遺体の納められた棺である。確認作業が終わった午後7時から、日航の下請け会社の職員約80人が両校の体育館から棺を次次と霊柩車に積み、計20台でピストン輸送し、合計239棺が市民体育館に集められた。これら部分遺体は損傷や腐敗が激しいため、冷却処理などをして長期保存を行なう。事故から4か月、二人を残して518体の遺体が確認された。

 

歯科医の活躍

  指紋や足紋、所持品による身元の確認が行き詰まった後、最後によりどころになるのは、歯と骨による識別である。歯は指紋同様、一人一人違った形をしていることと、年令が推定することができる。ここに数人の歯科のカルテやレントゲン写真があれば、死後のレントゲン写真と重ね合わせて、完璧に身元を割りだすことができる。検視が始まってすぐ、歯科医たちは乗客・乗員の歯科カルテとレントゲン写真の提出を依頼した。その結果、遺族が持参したり、郵送されたり、また各地の県警察の窓口に届けられた。この検視作業に従事していた歯科医師の服部さん(58)が、事故対策の心労から、15日午後心不全で死亡するという悲しい出来事があった。また遺体には歯が3本しかないものや、全くないものもあり難航を重ねたという。しかしたった1本の歯が決め手で身元がわかった原田さん(38)の場合もあった。こうした努力で、事故から1か月過ぎるころには、身元確認がすんでいない遺体は10体ほどになった。それでも体育館に安置された棺は150近くあった。9月29日、101の棺に整理された遺体が、前橋市の県警察本部機動センターに移された。
  11月下旬に東京歯科大学法学教室に、最後の身元確認作業に協力の依頼が県警察本部から届いた。この時点で、二人を残し558名の身元が確認されていた。
  12月20日、午前10時。群馬県前橋市のスポーツセンターで最後の出棺式が行なわれ、65の棺が並べられた。それが身元不明のまま火葬にされることになった4百数十の遺体の最後の姿である。

 

資料:毎日新聞紙面、吉岡忍著『墜落の夏』新潮社他

 

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