1989.10
モンテーニュの「死の教科書」

  フランス人モンテーニュは、1572年から約20年間にわたって『エッセィ』を書き続けた。その内容は「哲学の勉強は死ぬことの用意」だというわけで、「死」が主要なテーマとなっている。今からおよそ400年前、日本でいうと信長が将軍義昭を追放して、室町幕府が滅亡した頃(1573)に当たる。昨今「死」が書籍のテーマを賑わせているが、モンテーニュが語ったことを、今の時代が超えているかどうか知っていただくために、このテーマを選んでみた。


●死を容易と思う人たち

  庶民でも、普通の死ばかりでなく、非常な困難な死に直面しても、生まれつき単純なためか、全く平然として、何ら変わった態度を見せない者もたくさんいる。 ある男は絞首台に引かれていく途中で 「この道を通っては行けない。借金のある商人に見つかって、襟首を捕まえられる恐れがあるから」 と冗談を言ったという。ある男は、懺悔聴聞僧から、 「お前は今日、わが主と晩餐を共にするだろう」 といわれると、
「あなたが自分で行くがいい。私は断食中だから」 と言った。 ある男が絞首台に昇ったところヘ、皆が一人の女を連れてきて、 「この女と結婚するなら命は助けてやる」と言った。男はちょっと女を見ていたが、びっこであることに気づいて「俺を縛ってくれ、あいつはびっこだ」と言った。

(1の14「幸、不幸の味は大部分、我々の考え方による」)

●死の準備教育

  足をしっかり踏まえて死を受けとめ、これと戦うことを学ぼう。そしてまず手始めに、最大の強みを敵から奪うために、普通とは逆の道を取ろう。死から珍しさを取り除こう。死に親しみ、馴れ、しばしば死を念頭に置こう。いつも死を想像し、しかもあらゆる様相において思い描こう。馬がつまづいた時にも、瓦が落ちてきたときにも「これが死であったら」ととっさに反芻しよう。お祭やお祝い事の最中にも、我等の境遇を思い起こさせるこの繰り返しを常に口づさもう。そして喜びにうつつを抜かし、こうした喜びが如何に多くの死に狙われているかを忘れないようにしよう。
  古代エジプト人は祝宴の投中や、御馳走の合間に、会食者への警告として、人間のミイラを持ってきた。死はどこで我々を待っているかもわからない。あらかじめの死を考えておくことは、自由を考えることである。死の習得は、我々をあらゆる隷属と拘束から開放する。

(1の20「哲学を極めることは死ぬことを学ぶこと」)

●別れの準備

  私が死ぬ前にしなければならないことを完成しようと思うならば、例えそれが1時間ですむことであっても、いくら暇があっても足りないように思える。我々は事情が許すかぎり、いつでも靴をはいて出かける用意をしていなければならない。特にその時には、自分のこと以外には何も用事がないようにしておかねばならない。なぜなら、死ぬときになれば余計なことを考えなくても、なすべきことが充分にあるだろうから。ある者は死によって輝かしい勝利が途中で中断されることを嘆き、ある者は娘を嫁がせないうちに、あるいは子供の教育を見てやれないうちに死ぬことを嘆く。
  私はありがたいことに、いつでも何も哀惜せずに、死ねるような気持になっている。もっとも命だけは別で、それを失うことが私の心を重くするのはなんとも仕方がない。私は全ての絆から解放されている。私自身を除いて、皆に半はお別れしている。

(同上)

●死の教育に意味がある訳

  皆は私にいうかも知れない「死の事実は想像を超えているから、どんな見事な学問だって、いざその場に臨めば何の役にも立たない」と。何でも勝手にいわせておけ。だが、あらかじめ考えておくことは、確かに利益をもたらすものだ。それに少なくとも、動揺や身震いもせずにそこまで行けるということは、些細なことではない。あっという間の急激な死なら、それを恐れている暇がない。しかし穏やかな死ならば、病気の経過につれて、いつの間にか生を軽視していることに気がつく。熱病にかかっているときよりも健康でいるときのほうが、死の決意を消化するのにずっと手間がかかる。私は人生の喜びを楽しむことが出来なくなるにつれ、生に対して執着がなくなったから、以前よりも死をこわがらずに見つめることができる。

(同上)

●死は自然が助けてくれる

  シザーは歳をとった兵士が路上で「死を賜りたい」と願い出たのに対し、そのよぼよぼな姿を見て
「お前はそれでも生きているつもりか」と冗談を言った。もしいっぺんでそんな状態になったとしたら、我々はそのような変化に耐えられないだろう。しかし自然の手に導かれて、緩やかに、感じられないほどの坂道を、一段一段下っていくうちに、自然は我々をこの惨めな状態にすべり込ませ、慣らしてくれるのである。

(同上)

●死が恐ろしいと思える条件

  「戦争で体験する死が、家の中で体験する死よりもはるかに恐ろしくないのはなぜだろうか。また、死は常に一つであるのに、百姓や卑しい境遇の人々の方にずっと多くの落ち着きが見られるのはなぜだろう」と考えてみた。私は、死そのものよりも、死の周りを取り巻いている人々の恐ろしげな顔つきや、ものものしい儀式が恐怖を生むのだと本当に思っている。そこにはいつものがらっと変わった暮らしぶりが見られる。母や妻や子供の泣声、びっくり仰天した人たちの訪問。あおざめた顔色と、泣きはらして付き添う召使い。陽のささない部屋、医者と僧侶に取り巻かれた病人の枕辺。つまりまわりにあるものは、全て恐怖と戦懐ばかりである。病人はすでに土中に埋められたも同然である。子供は友だちでさえ、仮面をつけたのを見れば怖がる。我々もそれと同じである。人からも、物からも、仮面を取り除かねばならぬ。仮面を取ってみれば、その下にはつい先日、身分の卑しい下男下女が、何の恐れもなく甘受したのと同じ死を見いだすだけである。

(同上)

●異常な死とは何か

  人は生まれつき災害にさらされており、自ら期待する寿命をいつ中断されるかも知れない。老哀の果てに力つきて死ぬのを期待し、これを寿命の終局だと思うのは、何と虫のよい夢であろう。というのは、あらゆる死のうちでこれほど珍しい、普通でない死に方はないからである。我々は老衰による死だけを自然の死と呼んでいる。まるで高いところから落ちて首の骨を折ったり、難破して溺死したり、ペストに罹って死んたりすることが、自然に反するとでもいうかのようだ。いや、我々の普通の状態は、これからの不幸に会わせないとでもいうかのようだ。こんな言葉にいい気になってはいけない。むしろ、一般的で普通で、誰にもあることを自然と呼ぶべきであろう。老衰で死ぬことは、珍しい変わった、異常な死であり、それだけ他の死よりも不自然な死である。

(1の57「年令について」)

●死の実習

  死は一度しか経験できない。死に臨むときは、誰もが皆初心者なのである。古代には、時間の使い方の非常にうまい人たちがいて、死ぬときにさえ、死の味を味わおうと努め、心を緊張させ、生から死への移り変わりがどんなものかを知ろうとした。だが彼らとてそこから戻って来て、報告したわけではない。
  ローマの貴族ユリウスは、カリグラ帝に死刑の宣告を受け、いよいよ獄卒の手にかかろうという時、友人に心の状態を尋ねられ、「私は今、気持ちを整え、全力を緊張させてあっという間に過ぎる死の瞬間に、果して精神の引越しをいくらかでも少しでも認めることが出来るかどうか、見届けようとしている。そしてそれについて何かを知ったら、出来れば戻ってきて、知らせてやりたいと考えているところだ」と答えた。この人は死ぬときまで哲学したばかりではなく、死そのもののなかで哲学している。けれども、いくらか死に馴れ、死を経験する何らかの方法はあるように思う。我々も死についての完全とまではゆかなくても、せめて無益でないような、自分を強くし、落ち着かせるような経験を持つことは出来る。城内に踏み込むことはできなくても、せめてこれを眺め、その通路に出入りすることは出来る。

(2の6「実習について」)

●事故による体験

  私の心に刻み付けられた死の思い出は、私に死の姿と観念を、まざまざと見せてくれ、いくらか死と仲良しにしてくれた。ようやく目が見えだしたが、視力は非常にぼんやりして弱く、光以外には見分けることが出来なかった。精神の機能は肉体が回復するつれて正気を取り戻していった。私は自分が血まみれになっているのに気がついた。胴衣が吐いた血で汚れていたからである。投初に浮かんだ考えは「頭に一発火縄銃をくったな」ということだった。私は自分の命がもはや、唇の先に引っ掛かっているにすぎないように思って、この命を外に押し出すのを手伝うかのように、じっと目を閉じながら、ぐったりと力が抜けて、そのまま消え入る自分に、快感を味わっていた。もっともそれは私の心の表面に浮かんだ一つであって、他の想像と同じように弱く、徴かなものであった。だが本当にそこには不快感がないばかりか、とろとろと眠りに落ち込んでゆくときに感ずるあの心地良ささえ混じっていた。

(モンテーニュの落馬での体験。同上)

●死からの回復

  私が自分の家に近づいたとき、すでに私の落馬のことが知らされていて、家の者たちが、こういう場合に普通叫ぶような叫び声をあげて迎えに駆けつけた。(中略)その間、私の気分は本当に、きわめて穏やかで静かだった。他人のためにも、自分のためにも悲しくなかった。けだるさと極度の衰弱があるだけで、苦痛は少しもなかった。あのまま死んだら、嘘でなく、実に幸福な死であったろう。やっと正気に返って、力を取り戻したとき、それは2、3時間後だったが、いっぺんに痛みにとらえられたような気がした。落馬したときに、手足の至る所に打僕を受けていたからである。もしも私がここから次の教訓をくみ取らなかったとしたら、この些細な事故の話は全く空虚なものであったろう。事実、私は、死に馴れるためには、死に近づくしかないということを悟ったのである。

(同上)

●他人の死の観察

  死は人の生涯においてもっとも注目すべき行為であるが、他人が死ぬときに示す落ち着きを判断するには、次のことを銘記しなければならない。即ち「人はなかなか死期に達したとは思わないものだ」ということである。これが自分の最期だと覚悟して死ぬ人はほとんどいない。またその時ほど、はかない望みに欺かれることもない。その望みが絶えずこうささやく。
「他の人はもっと病気が重かったが死ななかった。お前は人が思うほど、見込がなくはない。それにいざという時に、神様がいろんな奇跡をお示しになる」と。
  我々は余りに自分を重大なものと自惚れるからこう考えるのである。自分が死んでしまえば、世界が何らかの損害をこうむり、我々の状態に心を動かすように思うのである。

(2の13「他人の死を判断することについて」)

●安楽死の勧め

  ローマの富豪アッテイクスは、病気にかかったので、婿のアグリッパと友人を呼んで、「自分はこれまで病気を直そうとしても無益なことを思い知ったし、生命を延ばそうとしてすることは、すべて苦痛を延ばし増大させることであることを思い知ったから、今度は生命と苦痛の両方を終えようと決心した」と言った。そこで自殺をするために断食を選んだところ、はからずも病気が治り、死のうとして取った方法で病気が回復した。医師や友人たちはこの幸運を祝い、彼とともに喜びあったが、それが思い違いであったことがわかった。というのは、それでも彼の意見を翻させることが出来なかったからである。彼は、いずれは超えねばならぬ通路だし、せっかくここまで来たのだから、改めて出直すことはない、と言って聞かなかった。彼は死を心ゆくまで知ったあとで、死と会うことに平気だったばかりでなく、熱中した。
  哲学者のクレアンテスの話はこれとよく似ている。彼は、歯茎が腫れて腐ったため、医者から厳しい断食を命じられた。2日間断食すると、大変良くなって医師からも治ったからいつもの生活に戻ってよいと言われた。ところが衰弱の中ですでにある快感を味わっていたので、いまさら後に下がるまいと決心して、すでに十分進んできた道をそのまま突っ走った。

(同上)

●気を紛らす事態

  激戦の最中に、武器を手にして死ぬ人は、死を味わっていない。死を感じも考えもせずに、戦間の激しさに心を奪われているのである。私の知っているある貴族が、決闘の最中に転倒して、自分でも敵から9回か10回、剣で突かれたように感じ、並居る人々も口々に「魂の救いをお祈りしなさい」と叫んだが、彼があとで私に語るところによると、その声は耳に聞こえたが、そのために少しも動揺することはなく、ただ危地を脱して仕返しをすることしか考えていなかったそうである。

(3の4「気をまぎらすことについて」)


●悲しみからの逃避

  私はかって、自分の性格から、非常な悲しみに打たれたことがある。しかも、激しい以上に当然な悲しみだった。もしもその時、自分だけの力に頼っていたら、おそらくまいってしまったであろう。だが、それを紛らすために、強烈な気分転換を必要としたので、わざと努めて、恋をあさった。それには私の若さも手伝った。恋は私を慰め、友を失った悲しみから救ってくれた。ほかの場合もこれと同じで、つらい考えに捉えられた時は、それを征服するよりも変える方が近道だと思う。そのつらい考えに、反対の考えでなくとも、少なくとも別種の考えを置き換えるのである。変化は常に気分を軽くし、溶かし、散らしくれる。私はそれと戦うことが出来なければ、それから逃げる。

(同上)

●無くならない悲しみ

  賢者は臨終の床にある友人を25年後も、1年後とほとんど遣わずに思い浮かべる。エピクロスによると、そこには何の違いもないそうである。なぜなら、悲しみは、前から覚悟していようが、年を経て古くなろうが、軽くなるものではないと考えているからである。けれどもこの悲しみの感情も、多くの他の考え事に次々と横切られるうちには、しまいに哀えて弱ってくる。

(同上)

●哀れを誘う原因

  プルタークでさえ、死んだ娘のおかしい身振りを思いだして懐かしがっている。別れの挨拶、あるしぐさ、ある特別の可愛らしさ、遺言の思い出などが我々を悲しませる。シーザーの衣服は、彼の死をさほどにも悲しまなかったローマの全市民の心を動かした。耳を聾するほどに口々に名前を呼ぶ声、例えば「ああ、可哀想なご主人様」とか、「我が偉大なる女よ」とか、「ああ、大事なお父様」、「可愛い娘よ」とかいう胸を刺す繰り言も子細にみれば、唯の言葉と音の嘆きにすぎないことがわかる。言葉と抑揚とが心を打つのである。ちょうど説教者の興奮が彼らの理論以上に聴衆を打ち、屠殺される家畜の哀れな声が我々を打つようなものである。ところが、その事柄の本質と実質のはうは、考察も洞察もされないのである。

(同上)

●私の希望する死に方

  もしも、生まれた土地以外の場所で死ぬことを恐れるなら、また、家族の者から離れては安心して死ねないと考えるなら、フランス国外へは出ていかれないだろう。だが、私は人と違っている。死はどこにおいても、私には同じである。だが、もし選べるものなら、床の中よりも馬の上で、家の外で、家族の者たちから離れたところで死にたい。友人たちに別れを告げるのは、慰めよりもむしろ胸をかきむしられる思いがする。私は世間の儀礼の義務などは喜んで忘れる。実際、友情の義務の中で、これが唯一の不快なことである。
  また、あの物々しい永別の言葉も忘れたいものである。なるほど皆にそばにいてもらうことには、いくらかの利益があるかも知れないが、そこには不快なことも生じてくる。私は瀕死の病人が、いかにもみじめに、一杯の人に囲まれているのを何度も見た。この人の集りが彼を窒息させるのである。平穏のなかに死なせてやることは、彼らから見れば義務に反することであり、愛情が薄く、世話が足りない証拠である。だから、ある者は瀕死の病人の日を、ある者は耳を、ある者は口をうるさがらせる。
  瀕死の病人の心は、友人たちの悲嘆を聞けば、おそらく憐愍で締めつけられるだろうし、ほかの連中の見せかけのごまかしの泣声を聞けば憤慨で締めつけられるであろう。常々、感じやすかった人が弱ってくれば、ますます感じやすくなる。こういう大事な瀬戸際には病人の気持ちに合った優しい手が必要なので、その手でもってちょうど病人のひりひりする所をさすってやらなければならない。それが出来なければ全然手を触れないことだ。この世に生まれるために産婆が必要なら、この世から出ていくときにはなおさら賢い男が必要である。こういう賢い友は、こういう場合のために、どんなに高い代価を支払っても買うべきであろう。

(同上)

●死を共にする者の会

  各人は色々な死に方の中に、多少の選択の余地を持っているから、さらに一歩進めて、死のあらゆる苦しみから免れた死に方を見いだすように努めようではないか。例えば、アントニーとクレオパトラの「死を共にする者の会」の会員のように、死を快適なものにさえ出来ないだろうか。哲学や宗教から生まれる、激しい模範的な死には触れないでおく。愚か者にふさわしい死と、賢者にふさわしい死がある以上、この中間にふさわしい死を探そうではないか。

(3の9「空虚について」)

●自然は死の教師

  大抵の人にとって死の準備は、死そのものよりも苦痛だったことは確かである。死が目前にあるという感しは、我々を、どうしても避けられないものは、避けまいという咄瑳の決心で元気づけることがある。昔、多くの剣士たちは、始めはこわごわ戦ったが、後には敵の剣に咽を差し伸ベ、敵を促しながら、勇敢に死を飲み下した。だが死を将来に待ち受けることはゆったりした強さを、従ってなかなか得がたい強さを必要とする。あなた方は死に方など知らなくとも、少しも心配することはない。自然が、その場で余すところ無く十分に教えてくれるであろう。あなた方のために、正確にその努めを果たしてくれるだろう。そんなことに気を病む必要はない。

(3の12「人相について」)

●老齢の恩恵

  神様から少しずつ生命を取り上げられてもらえる人々は、恩恵に浴している人々である。これこそ老齢の唯一の恩恵である。この最後に来る死はそれだけ無害なものであろう。この死は、その人間の半分か4分の1しか殺さないからである。今も私の歯が1本、痛みも苦労もなく抜け落ちたところである。これがその歯の自然の寿命だったのだ。私の存在のこの部分もその他の多くの部分もすでに死んでいる。また、私の盛りの頃に技も活発で第1位を占めていたあの部分も半分死にかけている。私はこうして溶けて、私から抜け出て行くのである。

(3の13「経験について」)

資料

『エセー』モンテーニュ著、岩波文庫(全6巻)

 

Copyright (C) 1996 SEKISE, Inc.