1989.06
事故者と救援者の心理

死の地帯

  スイスの医師であるデュナンは7,500メートル以上の地帯を「死の地帯」と名づけている。高度7,000メートルに達すると、肉体に大きな変調が現れてくる。はじめに首に痛みを感じ、心臓は順応しきれなくなり膨張しはじめる。イタリア人の登山家メスナーは「死の地帯」のなかで、極限状態にある人間の意識についての自らの体験と、さまざまな同じような体験をした人達の記録をまとめ上げている。
  今回のデスウォッテングでは、登山での墜落など災害を体験した者や、それを救助する者の特異な体験を通て、死というものを考えてみたい。


死の瞬間には意識がはっきりとする

  メスナー自身の体験によると、極限状態にある人間の意識は鈍化することはなく、逆に意識が透明になるという。それは転落した人のさまざまな報告がそれを裏付けている。 よく聞く話に海で溺れた人間は、その瞬間にこれまでの人生を全てを一瞬のうちにパノラマを見るがごとく体験するという。この古くから伝わる意識の状態が、多くの登山者によって体験され記録されていたことが非常に面白いと思う。彼らは転落して死を意識した瞬間に、不安からの解放、走馬燈のように浮かぶ過去の人生、自分が肉体の外にあるという感覚などを体験する。
  岩から転落した人間は、その瞬間大変に恐ろしい体験をしているにちがいない。しかしいったん死がさけられないものと認識すると、その死が苦痛を伴うものというよりは、すばらしいものになるという。
  メスナーの友人の体験によると、グローセチンの北壁から墜落したとき、ほっと気持ちが楽になったそうである。別の友人の体験では、宙を飛んでいる最中に、子供の頃の記憶が鮮明に思い出され、自分がその子供自身だと思ったくらいだという。

 

死の瞬間に不安をばしない

遭難者のほとんどに、多少感じ方は違うであろうが、同一の精神状態が現れる。その特徴を次に上げる、

1. 痛みを感じない。
2. 小さな危険の際に感じる驚きや萎縮がない。
3. 不安や絶望がない。
4. 思考活動が活発で、頭の回転の早さは通常の何倍もある。
5. 素早く行動し、かつ正しく考えている。それに自分の過去が蘇るという体験が付け加わる。

 

転落者が最後に聞く音楽

  転落した人間は最後にたえなる音楽を聞くことも多いという。そしてどこかにたたきつけられた瞬間に、意識が消えるという。しかしそのとき痛みは感じなく、叩き付けられたときの音が聞こえるという。そういった意味では、五感のうちで聴覚がもっとも後まで残る器官といえる。苦痛もそのときには感じなく、治りかける過程で、痛みが蘇ってくるものらしい。転落者は手足を折ってはじめは何も気がつかない。立ち上がろうとして、それではじめて気がつくという。

 

転落者の体験

  「墜落している間、私は決して不快感を覚えなかった。空中で3、4回とんぼ返りを打ったことを覚えている。」(22メートル落ちた8歳のときの体験談)。
  登山者のジグリストは、ケルプシュドックの頂上から転落したときの模様を語っている。
「仰向けざまの転落は、人が普通考えるような、あるいは夢で見たような不安感を全然感じなかった。それどころか、わたしは空中を浮遊しながら、いとも快適に下に運ばれていく感じだった。落下中も意識は完全にはっきりしていた。苦痛も不安もなく、自分の状態と家族の将来を通常の早さではありえない早さで展望していた。よくいわれるように息が止まることなど一つもなく、雪に被われた岩棚にはげしく叩き付けられたときに、はじめて痛みもなく失神したのである。その前に手足にかき傷を負ったはずであるが、私はそれを感じなかった。こんな楽な気持ちのいい死はないのではないかと思った。もっとも、意識を回復した後は、違った感情を持ったが。」

(『死の地帯』43頁 山と渓谷社)

 

転落者の意識の3段階

  メスナーは転落の体験は、意識の3つの段階を通る説をたてている。まず第1は、転落の開始から危険を認識するまでの段階で、時間的にはほんの瞬間といえる。第2段階は危険認識から諦めまでの体験である。第3段階は死の認識から失神までである。痛みが意識にのばってくるのは、最初のもっとも大きな危険が去ったずっと後のことである。

 

事故にあった人でも山登りを続ける人が多い

  事故にあった人は、その一部の人が登山をやめるという。しかし事故にあった登山者で、その後登山を尻込みした人はわずか2.4%であるという。残りの97.6%のうち11%は、事故体験を克服することが困難であったと答えているが、この11%は全て軽い事故だったのである。
  ではどうして軽い事故の方が心に残るのだろう。それは重い事故であれば、自分が遭遇した危険を見ることがなかったためであり、小さな事故であれば、そのなりゆきや、状況の持つ恐ろしさに直接関与するからである。それと同じことが、転落事故の目撃者にもいえる。目撃者は事故に対し、事故の当人のように失神のような有効な手段がないため、事故の恐ろしさを丸ごと体験するのである。従ってその体験を克服するまでに何年もかかるという。

 

生き残った者の心理

  事故や災害からあやうく生き残った者は「自分だけは大丈夫」だという自信が失われる。これとは逆に「自分は死に直面したが、助かったのは何か自分には特別の運命がある」という気持ちになる。また一人だけ生き伸びた場合、自分は他人を犠牲にしたのだと感じる者もいる。こうした体験が心に傷を残す場合、どのように克服していくかが大きな問題となる。水害で生き残ったある男性が語っているように、このような人達は災害で死に遭遇したことで「自分が大物であることが初めて他人に解ってもらえた」心理になったりするという。

(『災告の襲うとき』B・ラファエル著、みすず書房)

  死との遭遇から生じる心の傷を回復させる手段として、自分の体験を記述したり、人に話してしまうことによって克服することがよくとられる方法である。また涙を流すことで、自分のなかにあるわだかまりを解消するということも大切である。
「男性は泣くことが恥ずかしい」という文化のなかで育った者は容易ではないかもしれない。

 

儀式も大きな力である

  特別な体験をして落ち着かない心を再びもとの形に戻す方法として儀式が用いられている。特別な儀式、記念式典、追悼行事を行い災害の苦難が公の形で認知されることで、自分の感情が整理されるのである。
  心の傷を受けた者は、これ以上の苦しみを受けたくないために、災害のことを考えたり、思い出したりすることを極力避けようとする。従ってその場合には、根本的に解決されているわけではないので、何年かたっても何かのはずみでそのことが思い出され、苦しみ自分の心の傷が癒されていなかったことを、あらためて思い知るということになる。

 

被害者の伝播

  災害の直接の被害にあった者の心理を知ることは大切なことであるが、それとともに、被害者の救出に当った人間のストレスも見逃せない。ドウダシクは、1970年ペルーで起った大地震の被災者を4つのグループに分けている。

1. 第一被災者者=災害の直接の被害者
2. 近接被災者−災害の結末によって直接・間接に被害を受けた者
3. 周辺被災者−被災地に家族や友人が住んでいる場合など、被災地と強い関係を持つ者
4. 進入被災者−被災地に救助活動などで入り込んで来た者

  ペルー大地震のさい、救援に駆けつけた国内外のボランティアたちが、現地の荒廃、いたるところに見られる被災者の惨状、瓦礫のなかで腐敗していく遺体の悪臭に加えて、宿泊設備や食糧の不足、劣悪な衛生状態、絶え間のない余震、病気と負傷の危険にどれほど苦しまねばならなかったかについては、ドウダシクが克明に記録している。「…多数の地元の救援者とともに大挙してやってきた外国からの救援者たちの多くが、被災症候群に冒されたことはまったく驚くには当らないことである。報告によると、救援者の中には適応不全、無力感、無気力、無感動の状態になる者が現れた。彼らはべ−ス・キャンプに留まって、ただ酒を飲んで眠ったり、トランプ遊びで過ごしたり、または惨状目を覆うばかりの被災現場での作業を免れるためなら、何でも結構とばかりに、機械的な単純作業に従事するものが多かった。」

(『災害の襲うとき』342)

 

被災者は本当に弱い者か

  古来からある通念に「被災者」は弱く、「救援者」は強いというものがある。従って被災者は、欲しくても欲しくなくても、与えられた援助は受け取らねばならないし、それに文句をいうことは出来ない立場にある。ラファエル女史は、世話を受けるかわりに、自立と苦情の権利を放棄した人の例を上げている。
  「有能で抜目のない商人J氏。56歳。台風災害で被災。軽症を負って他市の病院に収容された。これまで人に指示を与える立場にあったJ氏にとって、病院のお仕着せのパジャマを着せられ、看護婦達の指示に従うことが容易には出来なかった。被災時にメガネをなくしたのに、それがなくては字が読めないことを他人にいえないほどプライドが高かった。」

(同書347)

 

被災者の苦しみをどう受け取るか

  救援者は被害者と接触して、彼らの苦しみをじかに感じたり、被災者の状態に同情しながら、どうしようもできない自分に無力感を感じたりする。以上はラファエル女史自身の体験である。
  惨事のあと3日目の夜のこと、眠れないままに、遺体安置所で接した遺族の人々に、これからかかってくる圧力的な悲嘆の重圧を、自分の心の中で実感していたことを、はっきりと記憶している。この人達全員の個人的カウンセリングに当ることはとても無理なこと、また遺族の大半が住む郊外地区までカウンセリングに出向く機会も限られていることが判っていた。この人達の悲嘆が複雑かつ痛切であること、そしてそれを軽減する見込みがあるのに、全員にそうしてあげることが出来ないことを思い知らされた。心にのしかかる重い負担とともに、痛切な悲哀と喪失感を感じていた。

(同368)

 

感情のシャット・アウト

  被災者が自分のストレスに対して、さまざまの手を打つように、救援者もそれ相応の手段をとるものである。家族や仲間は、救援者のストレスを克服する大きな手助けとなる。また同じ体験をした者同志による交流も大きな力になる。
  自分達が体験したことを話合い、考えたりしあうことで、自分の与えられた役割を充分にこなしたという意識を持つことが大事である。これとは反対に、「自分は何もできなかった」といったマイナス感情を持つ場合には、その人間の自信を回復させるために教育が必要となる。
  ラファエル女史は、「救援者の働きがうまく働くためには、当初は自分の感情を遮断することが必要であるかもしれない、」と語っている。
  「遺体の確認作業に当るものは、あとになって苦痛と悲嘆を経験するにしても、自分の職務を果たすためには、一時的に遺体を[非人間視]する必要が生じよう。この感情のシャット・アウトは、数多くの災害救援者について報告されている。」

(同372)

 

災害によるストレスの本当の顔

  災害を体験した直後の人間の約25%が呆然自失など平常とは異なる反応をするという。台風災害でダーウィン市を立ち退いた58%の人が、立ち退き後1週間以内に「患者と判定しうるレベル」のストレスが見られたという。被災後10週間を経過した後では41%にまで減少した。スリランカでの台風災害の調査でも、当初被災者の70%に見られた不安感が、4週間後には47%に減少している。

 

列車事故での後遺症

  最近では少なくなった列車事故であるが、このときの精神的衝撃を調査した資料は、そんなに多くない。
「二人の子の父であるA氏は、衝突事故を起こした車両の1輌目にいた。軽い傷を負って車内に閉じ込められていたが、結局自力で脱出した。衝突のショックで、パニック状態になったものの、やがて自発的かつ冷静に状況判断が出来、損壊した車輌の中から這い出すことが出来たのである。片腕に軽い裂傷を負っていたが、痛みはなく、負傷に気がつかないでいたので、血が吹き出しているのを見てショックを受けた。その場に座り込むと恐怖感が押し寄せてきた。動悸が激しくなり、汗が吹きだし、手が震え、嘔吐した。
  その後数日間は繰り返し恐怖感に襲われた。そのため再び通勤列車に乗ることが恐くて出来なくなり、このため職場に復帰できなかった。事故の記憶が頭からはなれず、自分ではどうしようもない無力感に圧倒され続けた。事故を思い出させることや、事故のことを尋ねそうな人は全て避けたいのだが、その一方で自分の体験を話したい衝動に繰り返し駆られた。車輌内に閉じ込められたことのショックが悪夢となって再現し、眠りを妨げられ、事故のときにはあげなかった悲鳴をあげながら目を覚ますのだった。だが最初の数週間はひどかった悪夢もパニック感も次第におさまってきた。
  まず仲間が職場まで車で乗せていったり、ついで毎朝列車に乗るよう駅まで同行するうちにA氏の苦しみは徐々に除かれていった。A氏の妻は夫に共感できるタイプの人だったし、友人、仲間達との会話が支えと励ましになった。職場での実務に復帰したことと、思ったり感じたりしたことを自由に表現することで対処しようとする本人自身の努力が立ち直りに役立ったのである。列車がガタンと停車したり、大きな衝突音が聞こえたりすると、一時的なぶりかえしがあったものの、A氏の症状は3カ月以内にほとんど治まってしまった。そして今回の体験が結局は自分を強くし、家庭生活の大切さを気づかせてくれたこと、また総じて積極的に対処したことが良かったことを感得したのである。

(同285)

  「災害で生き残りえたことは、再生つまり死を免れて新たな生命を授かったことを象徴する。生きていることを証として、人間同志の親密さと暖かさが求められ、…社会の再生が、未来への確信へとつながるのである。」

(『災害が襲うとき』ラファエル著、石丸正訳 みすず書房)

 

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