1988.12 |
「人は死んで土に帰る」といいます。しかし現在では、都市を中心に上地価格暴騰の影響を受けて、墓地を求めるのも楽ではなくなりました。今回の「デス・ウォッチング」では、現実ではむずかしい、せめて夢でと「何処は永眠したいか……」をまとめてみました。
男性(会社経営者)46才
フロリダにある会社が計画しているもので、値段は1人当たり2,500〜3,000ドル(約30万円以上)で請負うそうです。私は遺骨ではなく、遺体のまま宇宙のかなたに打ち上げてほしい。その時予算は10億円、遺産総額を全部それに費やしては気の毒だから、2分の1まではそれに当ててもよいと考えています。
もし土地に墓を建立するなら、古墳を作ります。先ず山を買い、それを削って作るのです。中は大理石を張り、遺体は冷凍保存か、最新式のエンバーミンクを施します。そして会社の重大な会議はそこで行なうようにします。そうしたら、後世の人間は、いつまでも私のことを覚えてくれます。そのようにして名誉を満足させるのです。生きているときよりも、死後のほうが人生ずっと長いですからね。
男性(会社役員)60才
私は母親の形見として、句集を編纂しようと思っています。亡父は写真が趣味でしたからそれがたくさん残っています。しかしそれを本にしょうとは、今のところ考えていません。それがあれば、私の娘や孫の代まで、おじいちやん、おばあちやんのことを、語り伝えてもらうことができます。私の家は一人娘で、もし養子が来なければ、私の娘は苗字が変わって、伊藤家はなくなるのでしょうか。現在一人息子、一人娘という家庭が多いと聞きますから、先祖をまつっていく場合、それぞれ両方の先祖をまつっていくことになるのでしょうか。私自身は残念なことに、自分の思い出となる作品は何もありません。
女性(主婦)30才
私が死んだら、遺体のまま海に放り投げてほしいと思います。しかし実際は火葬をするのがほとんどですから、お骨だけを海に返してもらってもいいです。どうしてこんなことを考えたかといいますと、ある日自分が崖から海に転落した夢を見たからです。海のなかはとても深くて暗く、そのうち自分が死んでいくのを感じました。自分の肉体は下に沈み、魂は海の中をすいすいと泳いでいくのです。それがとても気持の良い体験で、自分も死んだらそうしてほしいと考えたのです。でも実際は、自分が死んだら実家の墓に入るように頼んであります。そこには私の父と早く亡くなった姉の墓があり、その姉のそばに一緒に埋葬されることを願っています。
女性(主婦)56才
私は自分の墓はありますので、死後に住む場所について心配していません。それに、私のことや私の考えは、私の子供のなかに移してありますので、私が死んでもさみしくありません。私の思い出が私の知り合いの人たちに記憶され、「こんな人がいた」と話してくれれば、それだけで満足です。
男性 65才
私は二つの考えを持っています。一つは、個人的な心情として葬儀も墓も無くてもかまわないということです。しかし実際問題として、後に残された者の立場を考えるえてみると、人づき合いという点から言っても、非常に肩身の狭い思いをさせることになる。それではいけないので、あとのことは遺族の意思に任せたいと思う。
私がこういう考えを述べたからといって、決して死後の世界を信じていないというわけではありません。現時点ではあるとも、ないとも結論をよく出せないというのが本当でしょう。従って、私が死後の世界を信じるようになったら、またこの考え方も変わるかもしれません。しかしそれは今の段階では何とも言えません。私が死んだら父の墓に入れてほしいと妻に頼んであります。私は将来も墓というものはなくならないと思いますし、また私自身、無縁仏の墓には手を合わせるという気持は持っています。
女性(主婦)39才
自分が「あの世」に行ったらどうなるのか、土のなかにはいったら土に帰るのかしらということは考えます。ですから、死んだらどんな葬法がいいかは、考えたことがありません。ただ自分は暗い基のイメージは嫌いだから、公園のあるような明るい霊園のなかで、永眠したいと思います。そして子供たちもピクニック気分でお墓参りに来てくれたらよいと考えています。
私は仏壇には祖先がいる気がしませんが、墓にはなんとなく祖先がいるような気がします。ですから、まあ仏壇は電話で、お墓は実際に訪間して行くくらいの感じでしょうか。
男性(会社員)30才
私は少年時代に父をなくしたものですから、精神世界には若い頃からとても興味をもっていました。それは死んでから自分がどこに行くのか?はたして死後の世界はあるのか?という興味がありますが、自分がどんな墓にはいるかというようなことには興味がありません。また他人から供養されたいとも思ってはいません。
女性(家事)26才
私が死んだら、私にまつわる思い出を全てこの世界から消して死んでいきたいと思います。もっともそんなことはできませんが、私の知っている人もその人の心から、私のことを全て忘れてしまってほしいと思います。それが、私がこの世に未練を残さない方法でもあるのです。
男性(印刷業)40才
私が死んだら墓に入る。墓は家の近くにあるからそこに入れてほしい。死んでも意識が残り、現世から離れないといけないので、毎日新鮮な花と美しい音楽を聞いていたい。もちろん私が即座に極楽に行っていれば、遺族にそんな面倒をかけることはないが、なに分にも天国に行く自信がそんなにあるわけではない。したがってとりあえず49日間だけでも、毎日音楽(バッハ)と花を、中陰壇に飾ってほしい。なお遺影は葬儀用の大きいのではなく、せいぜい天地10センチもある、丸い額にカラー写真を入れ、位牌の横ほ並べ、それに花と音楽を供えるのである。位牌は果に金字ではなく、グレーに写植文字でスマートにしてほしい。これは難しそうだから、私が生きているうちに作っておいてもよい。
男性(教師)40才
私は火葬でも水葬でもなにでも構いません。また役に立つのであれば、自分の目や心臓を自由に使ってもらっても構わないと思っています。もちろん墓は、遺族がお参りするときになれば不自由するので墓のなかに祭ってもらいたいと思っています。
男性(大学講師)73才
自分はまだ自分の死を考えたことがないが、死について考えるような年でもないと思っている。妻に言われて「遺言」のことは考えなければと思ってはいます。もし死んだら先祖代々の基にはいることになると思います。
良源(912〜985)
平安時代の天台宗の僧である良源は「慈恵大師御遺告」のなかで、葬式や墓について言い残しています。
まず生前に墓地を決めておくこと。万一その前に死んだら北方の勝地にしてほしい。棺も生前に準備する。もし間に合わなければその日のうちに作って入棺させる。日の吉凶はいうべきではない。埋葬は必ず3日以内にする。また、石卒塔婆は生前に作り運んでおく。もし運ぶ前に死んだら、しばらく仮卒塔婆を立て、四十九日のうちに石卒塔婆を立てる。
法然(1133〜1212)
浄土宗の開祖である法然の死の年に、高弟一人が尋ねた。
「昔から先徳といわれる方には、皆遺跡がございます。上人は寺院をお立てになられませんでしたが、ご入滅の後は、何処をご遺跡といたしましょうか」
法然は
「私の遺跡はいたる所にみちみちている。思えば私の80年の生涯は、念仏を勧めることだけであった。とすれば、念仏の声のするところ、それがどこであろうと、全て私の遺跡である」
と答えたといいます。
親鸞(1173〜1262)
浄土真宗の開祖である親鷲は90才で目が見えなくなり、念仏を唱えながら、
「それが閉眼せば、賀茂河に入れて魚に与うべし」
「葬式は一番禁止すべきこと」
と遺言して大往生をとげました。
日蓮(1222〜1282)
1274年5月に身延の山中に入った日蓮は、死に関する書簡を多く書いています。波木井氏にあてた書面のなかに
「いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候。」
一遍(1269〜1289)
鎌倉時代の僧で時宗の開祖。一遍上人語録のなかで
「御趾をどのように定めるのか」
との問いに対し、
「跡なきを跡とす。世間の人の趾は土地財宝であり、執着の対象を跡とする。私の趾は一切衆生の念仏とするところなり」
と答えています。また
「わが門弟子におきては、葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨ててけだものに施すべし」
とのべています。
伊達政宗(1567〜1636)
初代仙台藩主、伊達政宗は幼少時天然痘で片目を失明しました。彼はそのハンディを克服して東北地方全域に版図を拡大しましたが、内心では最後まで隻眼を苦にしていました。そこで木像を作って忌日には香華を欠かさぬようにし、仏像は両眼にせよと厳命しています。
阿部忠秋(1602〜1675)
江戸幕府老中として家光、家綱を補佐した彼は、遺言に
「火葬にして、その骨灰をことごとく品川の沖に捨べし」
と言残しました。
本居宣長(1730〜1801)
江戸中期の国学者である彼は、自分の墓のデザインから、法事に関する指示まで残している。遺言書の墓碑の図解には「本居宣長之奥津紀」と書かれ、石碑の裏は何も書かないこと。碑の高さは四尺、台は一重で、花筒は無用であるといっています。塚の上には芝を伏せ、そこに山桜を植えてほしい。もし枯れることがあれば、植え替えてほしいと注意しています。
遺言書の終わりには、墓参りや法事に関する指示があります。毎月忌日には樹敬寺への墓参り、家の仏壇には位牌、精進の霊膳、その他のことはこれまで通り行なうこと。しかし毎月祥月には、年に一度でよいから墓詣りをし、雨天の場合にはその前後を見計らうことと指示が細かい。またこれとともに、家では座敷床に、像掛け物を掛け、いつも自分が使っていた机を置き、掛け物の正面には霊碑を立て、香はいらないが、季節の花を立て、灯ともし、膳を備える。料理は魚で、酒をつける。また、祥月には都合のいい日をきめて、家で歌会を開いてほしい、とあります。
高杉晋作(1839〜1867)
1863年騎兵隊を結成し、翌年12月、功山寺挙兵の直前、大庭伝七にあてて手紙を書いています。それによれば墓碑銘の指示など明らかに遺言と思われる文をつづり
「死後に基前にて芸妓御集め、三弦など御鳴らし御祭り下され候様頼み奉り候」
とあります。
森鴎外(1862〜1921)
明治時代の文豪。
「余は石見人森林太郎として死せんと欲す。宮内省、陸軍背縁故あれども、生死の別るる瞬間、あらゆる外形的取り扱いを辞す。森林太郎として死せんとす。墓は森林太郎の外一字もほるべからず。」
正岡子規(1867〜1902)
俳人の正岡子規は『死後』のなかで、自分の遺体をどう処置したらよいかを語っています。
初めに当時、最もポピュラーだった土葬ですが、
「余り感心した葬り方ではない。」
と書いています。それは
「寝棺の中に自分が仰向けになっておると考えて見たまえ、棺はゴリゴリゴリドンと下に落ちる。施主が一鍬入れたのであろう。土の魂が一つ二つ自分の顔の上の所に落ちて来たような音がする。」
そして最後に皆で上を踏み固める。
「もう生き返ってもだめだ、いくら声を出しても聞こえるものではない。」
また土葬はいかにも
「窮屈とも何ともいいようが無い」
といっています。
では火葬はどうでしょう。火葬は
「夜になると皆を一緒に蒸焼きにしてしまうのじゃそうな。」
「手でも足でも片っぱしから焼いてしまうというなら痛くても思い切りがいいが、蒸し焼きと来ては息の詰まるような、苦しくても声の出せぬような変な嫌な感じがある」
といっています。
では水葬はどうか。彼は泳ぎを知らないので
「水葬になった暁にはガブガブと水を飲みはしないかと先ずそれが心配でならぬ」
といっています。
「水を飲まぬとした所で体が海藻の中にひっかかっていると、色々の魚が来て顔ともいわず胴といわずチクチクとつつきまわっては心持が悪くて仕方がない」
といいます。
今一つはミイラがあります。これも
「自分が人形になってしまうのも面白くない」
そうです。また
「浅草の見世物にでも出されたらまことに情けない」
と言っています。では何もないかというとそうではありません。
「どれもこれなら具合のいいという死にようもないので、なろう事なら星にでもなって見たいと思うようになる。」
この翌年子規は死にました。彼の遺体は小さな早桶に入れられ、二人の人夫にがつがれて埋葬されました。
クラントル(前4世紀)
ギリシャの哲学者。弟子のアルケシラオスが、死後どこに埋葬して欲しいかと尋ねると、彼は劇作家エウリピデスの一句を引用して答えました。
「われわれの友である、大地の胸の中に置いてくれるとよい。」
荘子(前370頃〜 前285頃)
中国の哲学者。師のために立派な葬儀をしようと集まった弟子にたいして
「私は棺のかわりに、空と大地を、宝石のかわりに太陽と月と星を、そして行列のかわりに自然の全てをもつであろう」
それを聞いた弟子たちは
「師の遺体を埋葬しないで、けものの餌食にすることはできません」
と抗議しました。荘子はそれに答えて
「けものほ食われないとしても、そのかわり地の中で、蟻どもが私の遺体をむさばり食うことになるではないか」
と答えたそうです。
エドワードー世(1239〜1307)
スコットランド王。進軍中病に倒れ、息子のエドワード2世に言いました。
「スコットランドを征服するまで、私を埋葬してはならない。軍を勝利に導くため、進軍していく各地に私の骨を運んでくれ。また私の心臓は聖地に運んでくれ。」
ジョンソン博士(1709〜1784)
イギリスの文人。彼は死ぬ3日前に遺言執行者に
「自分はどこに埋葬されるのだろう」
と尋ねました。そして
「疑いもなくウェストミンスター寺院に埋葬されます」
と聞き満足した様子をしました。予想通り、彼の遺骸は有名な建物のなかに納めらたのです。
サド侯爵(1740〜1814)
フランス文学史の中で、特異な位置をしめるサド侯爵は、今なお悪名をとどろかせている。彼の遺言書は死の8年前に書かれたものです。
「いかなる事情があろうとも、私の遺体を解剖することを禁ずる。遺体は木造の棺に納められ、私が死んだ部屋に48時間、棺に釘を打たない状態で放置する。遺体は荷車によって私の土地に運び、墓穴の蓋を閉めたらそのうえに樫の実をまき、私の墓のあとが地表から隠れるようにしてほしい。私の記憶が人類から消し去られることを望む」
しかし遺体解剖の意志は守られたが、その他は守らせず、遺体はシャラントン病院付属の墓地に、カトリック教会の方式にしたがって埋葬されました。
エンゲルス(1820〜1895)
マルクスよりも12年長生きしたエンゲルスは、咽喉ガンで倒れました。彼は遺言で
「死骸を火葬にして、灰を川に捨ててくれ。」
といいました。その言葉どおり、火葬にされた彼の灰は、イーストボーン川に投じられました。
D・モリス(1923〜)
『裸のサル』の作者で有名なモリスは、死後の世界を信じてはいません。だから自分の遺体を犬舎の餌に捧げたいといったアベブリィ卿を弁護し、自分も
「遺体を火葬や埋葬にして、価値のあるタンパク質が無駄にされることに関心がある」
といっています。また
「出来るならば、古代遺跡のあるアベプリィサークルに埋葬してほしい。そこは子供時代からの魔法の場所だったからです。新石器時代にどのようにしてあんな巨石を運び、遺跡を作りあげたのかがいまだ謎になっており、それにとても関心をもっています。」
新石器時代の人々は一般に、遺体を彼らの住居の床板の下に埋葬し、そして開いた穴から遺体を見守っていたのです。
(サンデータイムズ87.6.14より)