1988.10 |
日本人は古来より歌を愛し、歌とともに生きてきました。万葉集のなかには、亡くなった人を追悼する〈挽歌〉が263首あります。これは万葉集の全体の5.8%にあたるといいます。この挽歌は本来、野辺送りのときに柩の車を引きつつうたう歌であり、中国では西暦前202年の葬送歌が残されています。こうした古い伝統が日本に伝えられ、万葉集の分類に影響を与えたといわれています。
挽歌の起源は葬儀において呪的、儀礼的な意味を持つものと考えられます。つまり死者の魂を呼び戻したり、死者の魂をなだめるために詠んだと考えられます。平安朝以後には挽歌は〈哀傷歌〉と呼ばれるようになりました。
人の死が悲しいのは何時の時代にも変わりません。そしてこの悲しみを歌に託して、今日までずっと歌いつがれてきました。今回の『デスウオッチング』では、日本の伝統に伝えられてきたこうした挽歌、哀傷歌のほんの一部をまとめ、死にともなう悲しみを、どのように美しく表現したかを見ていこうと思います。
奈良時代の日本最古の歌集。20巻。巻第三
昨日こそ君はありしか 思わぬに浜松が上の雲にたなびく
(ほんに、昨日は龍麻呂は生きていたのだ。それに思いがけなくも、今日は火葬せられて、海岸の松原の上の雲として掛っていることだ)
何時しかと待つらむ妹に たまづさの言だに告げず去にし君
(いつ帰って来ることか、国で待っているだろうと思われる細君に、たよりの言葉も告げないで、逝ってしまった君よ)
人もなき空しき家は草枕 旅にまさりて苦しかりけり
(人もいないがらんどうになった家は、旅より耐え難いものだ)
妹として二人たつし吾が山斎は 小高く繁くなつにけるかも
(妻と二人で造った自分の前栽は、木が高くみっしりと枝が伸びたことであるよ)
吾妹が植えし梅の木見る毎に 心むせつつ涙し流る
(死んだ妻が植えた梅の木を見るたびに、抑えようとしても辛抱できないで、心底から涙が出ることだ)
今よりは秋風へさむく吹きなむを 如何にか独り長き夜を寝む
(これからは秋風が冷たく吹いてくるだろうに、ただ独りどうして、長い夜を寝ようか)
世の中し常かくのみとかつ知れど 痛き心は忍びかねつも
(世の中は、いつもこのようになると、薄々は知っていたけれど、それでも辛い心は辛抱しかねることだ)
佐保山にたなびく霞見る毎に 妹を思いて泣かぬ日はなし
(佐保山にかかっている霞を見る度ごとに、そこに埋めてあるいとしい人を思い出して、泣かぬ日はない)
鏡なす吾が見し君を阿婆の野の 花橘の玉に拾いつ
(鏡のようにいつも見ていた君であるのに、この阿婆の野の
秋橘を、薬玉に貫くために拾うように、手に拾うた。つまり火葬した骨を拾った)
秋津野のかくれば朝まきし 君が思ほえて嘆きは止まず
(秋津野の話を人がしだすと、あの朝、灰を撒いて風葬したあの人のことが思われて、嘆息が止まない)
秋津打に朝いる雲の失せぬれぱ 昨日も今日も亡き人思ゆ
(秋津野にかかっている雲は、火葬の煙である。その煙が消えてしまうと、この世の形は失われてしまうのだ。昨日も今日も死んだ人が思い出される)
わが国最初の勅選和歌集。20巻。905年頃撰進巻第十六 哀傷歌
なく涙雨とふら南わたりがは 水まさりなばかへつくるがに
(わが涙が雨と降ってほしい。三途の河がそのために水がまさったなら、渡れずに帰ってくるがために)
あすしらぬ我身ど思えど 暮れぬまのけふは人こそ悲しかりけれ
(明日の命も知れない我身だけれど、暮れない間の今日は亡くなった人がただただ悲しい)
ふぢ衣はつるる糸はわび人の 涙の玉のをどぞなりける
(藤衣のほつれてくる糸は、嘆きに沈んでいる自分の涙の玉を、貫らぬき通す緒となった)
すみぞめの君がたもとは雲なれや たえず涙の雨とのみふる
(墨染めの君が喪服のたもとは、雨を含む黒雲なのだろうか。そこから絶えず、涙が雨のように降る)
ついにゆく道とはかねてききしかど、きのうけふとは思はざりしを
(死ということは前から知っていたが、昨日今日のこととは、思ってみなかった)
鎌倉初期の第八勅選集。20巻。所収1,978首 巻第八 哀傷歌
桜散る春の末には成りにけり あままも知らぬ眺めせしまに
(桜の散る春の終になってしまった。晴れ間もなく長雨の続いている間に。また涙の乾く間もない、嘆きに沈んでいた間に)
立ちのばる煙をだにも見るベきに 霞にまがう春のあけばの
(立ち上る火葬の煙だけでもせめて見たいのに、霞にまぎれて見えない、この春の曙)
よそなれどおなじ心ぞかようベき 誰も思いの一つならねば
(離れているが、きっと同じ心が通っていることです。貴方も私も悲しみは一つだけでなく、人の身の上も思っているので)
さらでだに露けき嵯峨の野辺にきて 昔の跡にしおれぬるかな
(ただでさえ露っぱいならわしの嵯峨野に来て、亡き人の昔を偲ばせる跡で、涙に袖もしおれたことよ)
たまゆらの露も涙もとどまらず 亡き人こうる宿の秋風
(わずかの間のもろい露も、わが涙も、共に留まらずさかんにこぼれる。亡き人を偲んで恋慕う宿に吹く、秋風のために)
亡き人のかたみの雲やしいれるらん 夕べの雨に色は見えねど
(火葬の煙が亡き人の形見となった。その雲が今は時雨となってこぼれてくるのだろうか。夕方の雨に紛れ、その様子は見えないが)
てすさびのはかなきあととみしかども ながき形見と成りにけるかな
(手慰みの筆の跡と思って見ていたけれど、永久の形見と成ってしまった)
みな底にちぢの光はうつれども 昔の影は見えずぞありける
(水底には、数かぎりない光は映ってるが、亡き人の姿は見えないことだ)
物をのみ思い寝覚めの枕には 涙かからぬあかつきぞなき
(亡き父のことばかりを思って寝る、その寝覚めの枕には、涙のかからない明け方はない)
尋ねきていかに哀れとながむらん あとなき山の嶺の白雪
(尋ね来て、どのように身に泌みて眺めるのでしょう。その人は死んで、残すものもなくなった高野の山の、その嶺の白雪を火葬の煙かと思って)
あるはなくなきは数そう世の中に あわれいづれの日まで歎かん
(生きている人は亡くなり、亡くなった人は数を加える、この世のなかに、私はいつの日まで生きて歎くのであろう)
鎌倉初期。西行の歌集。二巻。歌数1,569首
いかでわれ今宵の月を身にそえて 死出の山路の人を照らさん
(何とかして自分は、今宵の月を身にそえて、死出の山路を越えていく人を照らしたいものだ)
もろともに眺め眺めて秋の月 ひとつにならんことぞ悲しき
(一緒に秋ごとに月を眺め、悟りに達しょうと願ってきたが、上人が死に、一人で仰がねばならぬようになるのは、悲しいことである)
限りなく悲しかりけり鳥辺山 亡きを送りて帰る心は
(鳥辺山に亡き人を送り、火葬にして帰ってくる心は、この上もなく悲しいことである)
送りおきて帰りし野辺の朝露を 袖に移すは涙なりけり
(袖が濡れたのは、墓所の帰りの野辺の朝露のためと思ったが、実は涙のせいであった)
船岡の裾野の塚の数添えて 昔の人に君をなしつる
(船岡の墓所に、新しい墓を添えて、あなたを故人のなかに入れてしまったことである)
桜花散り散りになる木の下に 名残りを惜しむうぐいすの声
(散るのを惜しんで桜の木の下で鳴くうぐいすの声は、桜が散るように別れていく人々に、名残りを惜しんでいるように聞こえる)
返し 小将脩憲
散る花はまた来ん春も咲きぬべし 別れはいつか巡りあふべき
(散っている桜の花はまた来年咲くでしょう、しかし死別した母には再びあうことはできないでしょう)
あわれしる空も心のありければ 涙に雨をそふるなりけり
(空もあわれを知る心があるので、別れの涙に添えて、雨まで降らせている)
西行が極楽往生を遂げたあと、都にいた歌人たちは涙を流さない人はなかった。中でも、左近中将定家は菩提院の三位中将のもとに、西行の死を告げた手紙の奥に記す
望月の頃はたがわぬ空なれど 消えけむ雲の行方悲しも
(釈迦と同じ2月15日ごろ死にたいという願いどおりあの人は空のかなたに旅立たれたが、残された私は消え去った魂の行方を悲しく思っています)『西行物語』
負うところ少なからざる君なりと さみしみつつも香を焚き継ぐ
なき人の今日は七日になりぬらむ 遇ふ人もあふ人もみな旅びと
やつぎ早に煙草をすひし人なりし いのちもかくぞ燃えつくしけむ
白布をとりて目守ればありし日の あつしままにて言をのらさぬ
かけ衣にあかつき近き風吹けば 吾が子は生きてうごくかと思う
よくなりて食べんといいし果の実は 山と盛りたり位牌の前に
床の向きかへてわづかに庭前の さくら見せたり病むわが妻に
臨終のその日もかそかにほほえみし 妻をうずむる墓石の下に
子らのこととぎれとぎれに言いのこす 夫のいまはの面うつくしき
母が遺体車に移しまいらせて「面会謝絶」の紙はぎにけり
意誌なき夫みとりつ子らにしらす 手紙書きつぎ朝あけそめぬ
雪ふかきこの道をゆきて帰らざる 子の声のごどけふも吹雪ける
さようならと言ふを追ひ打ち閉す柩 花の中にみ顔消え去る
死ぬるなと言ひて手をとれば つぶりたる妻の眼より涙垂れたり
またかくるテープ回りて亡き母が 笑いくづるる箇所に近づく
亡き母の足袋が箪笥に小さし
(資料:講談社『昭和万葉集』より)