1988.09
死の人類学

日本人の霊魂観

  民俗学者の折口信夫は、タマはもともと体にはいったり出たりするものであったが、いつのまにかタマの入れものがタマとなり、タマの働き、作用がタマシイと呼ばれるようになったといいます。また古代にタマの良い部分はカミに、邪悪な部分はモノ(オニ)に分化したともいっています。
  古代人は長寿を保って死ねば、すぐに神となると考えられました。また反対に若死した者や、事故などで不慮の死を遂げた者は、忌むべき死者として冷ややかに取り扱われました。変死者は掘って埋めるとか、生き返ってたたりをしないためのましないとかが行なわれました。
八重山での風習に、子供が元気をなくしたりすると、「マブイ(魂)ごめ」の儀式を行ないました。これは麻糸を使い、子供の年だけの結び目を作り、輪にした麻糸のなかに魂を追い込む動作を繰り返し、そのあと麻糸を子供の首にかけるというものです。こうして外に出ていた魂は、再び子供のなかに戻り元気を取り戻すという儀式であります。

 

死の人類学

  歴史家フィリップ・アリエスは「死と歴史」という本のなかで、人間が死について抱く態度が、何時の時代にも同じというわけではなく、時代の変化にともなって移り変わっていることを証明しました。では、地理的な違いで「死」について抱く態度がどう異なるのでしょう? コロンブスの新大陸発見以来、今迄知られることのなかった国々の風俗、習慣が紹介され、そこでの風習が、表面的な差はあっても、共通する事柄も多く見出すことができました。今回は「死と人類学」と題し、死の6つのキーワードを取りあげてみました。

 

ミイラ

  ミイラと聞くとすぐに古代エジプトのミイラを思い起こしますが、実際にはその習慣は世界中にありました。ミイラ作りはもともと宗教上の信仰からきているもので、その主な目的は未来での救済にありました。死者は肉体を離れた後も、その肉体が元の姿をとどめている必要があったのです。古代エジプトでは、死後3千年たつと死者の魂が肉体を得て復活すると信じられていたのです。

 

最も有名なエジプトのミイラ

  ミイラは、肉体が腐敗するよりも早く、急激に乾燥することで出来上がります。死体の水分が半分以下になると細胞の増殖が阻止され、乾燥した風土は置かれた死体はミイラになりやすくなります。古代エジプトでは、これを人工的に作りあげていったのです。死体から脳や内臓を取り出し、香辛料を混ぜた炭酸ナトリウムに70日間漬けます。そのあと死体に、ゴムを充分は染み込ませた綿布の包帯を、頭から足にかけて巻きます。そしてこれを、人の形をした木の墓にしまい、墓室の壁に立てかけて保存しておくのです。

 

ヨーロッバの自然ミイラ

  ヨーロッパでは、キリスト教が死体のミイラ化を歓迎しておらず、また気候もミイラ作りに適しているとは言えません。しかし自然がミイラ作りに適していた所では、あちこちで自然ミイラが残されています。トゥルーズのドミニコ会修道院、およびフランシスコ会修道院の地下埋葬所にあるミイラは、鐘楼の上に死体を吊して作られたものであり、またボルドーのサンミッシェル塔のミイラは、風通しのよい、乾燥した地下で発見されたといいます。
  フランスでは16世紀末から17世紀初頭にかけて、近体の防腐保存が試みられました。しかし結果は芳しくなく、このことが古代エジプトのミイラ技術の高さを、再評価させることになったといいます。

 

日本のミイラ

  日本のミイラ作りの思想は、仏教思想の影響によるもので、中国の影響を受けています。中国では古くから、仏教徒はミイラになりました。これを「肉身」といい、ミイラになるために死ぬことを「入定」といいます。広東省の南華寺は慧能(えのう)のミイラがありますが、これは唐時代中期のもので、現存する最古のものといわれます。日本には20体以上のミイラが現存します。有名なものは平泉町中尊寺の藤原一族のミイラで、中尊寺の金色堂には、4体のミイラがまつられています。最も新しいミイラでは湯殿山で修行した仏海上人のミイラで、明治38年は入定しました。日本でのミイラ化の目的は、ミロク信仰との関係があり、僧侶としての自分も、ミロクとともに大衆を救おうと、ミロクの出現の時まで、ミイラとなって待ち続けるという信仰に裏付けられています。

 

供犠(スケープゴート)

  宗教的な目的のために、人命を犠牲に捧げる風習は、世界中に見られるものです。
  古代イスラエルでは毎年購罪日には2頭の羊が準備され、1頭は神に捧げ、1頭は人々がその頭に手を置いて罪を告白し、その後荒野に追放したのです。古代アテネでは、羊のかわりに2人の無宿者を1年間、国費で養う風習がありました。穀物の取り入れの直前の、贖罪の祭になると、この2人を町中に引きずり回し、人々の罪や汚れを2人になすりつけて、最後に郊外に連れて行き、崖の上から突き落とすか、火あぶりにするのです。ギリシャの植民地マッサリアでは、町に疫病が流行ると、民衆は人身御供によって難を逃れようとしました。古代ローマでは紀元前97年に人身御供を禁止しました。それでも毎年5月15日の購罪の祭りには、橋の上から24個の等身大の藁人形を川に投じたといいます。

 

豊穣儀礼としての供犠

  アズテク族の人身御供は、四季の運行に関連があり、トウモロコシの種をまく時期には捕虜を月の神に捧げました。捕虜を木の櫓に縛り付け、矢でこれを狙い、流れた血で土地を肥沃にするというのです。
「心臓の犠牲」では犠牲者を石の上に仰向けに寝かせ、5人の祭司がこれを押え、6人目の祭司が黒曜石でその胸を裂き、心臓を切り取って太陽に捧げるのです。この儀式は1人ですんだためしはなく、犠牲者が何百メートルに及んだことがあるといいます。この犠牲者になる者たちは「神の肉」と呼ばれる幻覚キノコを食べて、その試練に臨んだのです。またアメリカでは新婚旅行の名所で有名なナイアガラの滝も、かっては毎年、収穫時には3人の乙女を犠牲にしており、それが1780年迄続けられていたといいます。

 

巨人の火祭り

  ケルト族は、5年ごとに行なわれる大祭に、神々に犠牲を捧げる罪人を養っていました。この犠牲者は多ければ多いほど繁栄が多くもたらされ、供えられる罪人が少ない場合には、不足を補うために戦争の捕虜が犠牲になりました。ある者は矢で、ある者は杭で殺されました。また木と草で編んだ巨大な像のなかに人間や家畜を入れ、これに火をつけるという残酷なこともしました。この古代ケルト人が行なった供犠の儀礼は、近代のヨーロッバの夏至の祭りにその名残を留めているのです。こうした人間の供犠は、かっては世界中に見られましたが、西洋人によるキリスト教思想の普及によって終りをとげたといってもよいでしょう。

 

墳墓

  弔という文字は、矢を弓につかえる形で、古代、葬は野原に捨てることであった。礼で、弓をはり矢をつがえて弔問するのは、鳥獣の害を除去するのである。(酉陽雑俎(ユウヨウザッソ)30巻)
  人類はさまざまな方法で死者を葬ってきましたが、同じ国においても、時代の変遷のなかでそれが移り変わってくることがわかります。墳は士を高くもった墓を指し、墓は墓碑を立てるが、埋葬する遺骸は地下にある平なものを指します。
  旧石器時代以来、最も広く行なわれているのが、穴を掘って遺体を埋める土葬です。埋葬にさいしては、遺体は樹皮、皮、藁に包んだり、木棺、土器棺、石棺に納めることが多いようです。墓室を地下に設け、上に墳丘を築く場合が一般的で、日本の古墳のように竪穴式石室で、墳丘を築き頂上から掘り下げて墓室を設けるのは珍しいといわれています。墓や外回りに巨石を用いた墓は、巨石墳と呼び、ヨーロッパ西部や、東アジア・インドにも似たものがあります。

 

殉葬の習慣

墓に死者だけでなく、人や家畜を埋葬する殉葬の習慣も世界中で多く見られます。古代エジプトの第一王朝の王墓には、女官275人、侍臣43人が殉葬されていました。イラクのウル王妃の墓には、入口に6人の男が、墓道には68人の女官が埋められていました。中国では殷の時代の墓に45人の殉葬者があり、それとは別に、埋葬にさいして200人以上の人が犠牲に捧げられています。ソヴィエトのスキタイにある墳墓には、22頭の馬が殉葬に捧げられていました。

 

墓地の位置

  中国の墓地は「周礼」の説によれば、貴族から庶民まで公共の墓地が用意され、そこに埋葬されるようになっていました。しかし戦国末からは家族単位の墓地に分散するようになりました。個々の墓地の選定にあたっては、慎重に占われたようです。そしてのちに、墓地の位置と子孫の繁栄を結びつける風水説が生れました。前に水が流れ、後ろに山を控えた地形が理想とされました。

 

日本の墓

  一般庶民の埋葬地は前代より河川敷や海浜などに設けられ、遺体は遺棄されていました。西暦842年には、京都の鴨河原にある頭骸5,500余を焼いたことが記録に残されています。850年の記録では、貴族の墳墓の上に卒塔婆が立てられたとあります。しかしこれは死者の魂をまつるためのものではありません。
  平安中期になって、初めてまつるための卒塔婆が立てられたました。これ以後盛んになってきた浄土教と舎利信仰によって、人骨に人格を認める動きが出たからです。空也(900頃〜970頃)は鳥野辺に葬送された遺骸を集めて火葬に付し、南無阿弥陀仏と唱えました。さらに平安末期には、埋葬地に石製や木製の卒塔婆を立てることが一般的となりました。また火葬骨や爪髪を木製の五輪塔に納め、高野山の奥の院へ納める風習も生れました。何れにしろ石碑が全国的に普及したのは明治時代にはいってからのことです。

 

墓碑

  墓碑は死者の名や没年、生前の業績等を記して墓に立てるもので、墓標は死者の埋葬場所を表示するものといわれています。死者を埋葬した上に石を置いたり立てたりすることは、旧石器時代以来見られ、埋葬地を明らかにするとともに、死者の霊を鎮めるために立てられたと考えられます。
  古代エジプトでは、第一王朝の王墓の名を記した墓碑を立て、ギリシャやエトルリアでは死者の像を浮き彫りにした大理石を立てています。中国では、後漢の時代から墓のかたわらに碑を立て、同じ頃に墓誌を墓のなかに納めることも始められました。唐代にはいってからは、墓塔が立てられるようになりました。
  日本では、「喪葬令」に「およそ墓は皆碑を立てよ。具官姓名之墓と記せと定められ、7世紀から9世紀にかけて墓碑が立てられました。

 

古代ギリシヤ・ローマの墓碑銘

  墓碑銘は普通、墓石に刻まれた銘文を言います。古代ギリシャでは紀元前700年頃から、ローマでは前200年頃から作られ、詩文、散文の形で残された古代の墓碑銘は、ギリシャ語のものが数万編、ラテン語のものが数十万編残っているといわれています。ギリシャ語の碑銘は、個人の名前だけを記したもの、あるいは「誰それここに眠る」といった簡潔なものから、詩文の措辞や詩的連想が次第に顕著のものとなり、故人その人に呼びかけたり、故人の最後の言葉などが、碑銘に刻まれるようになりました。このような碑銘は社会のあらゆる階層のものがあり、また烏や犬などの動物の墓碑銘すら残っています。また古典期のアッティカの墓碑には、死者とともに生者の姿が一緒は刻まれているものがあります。生者と死者がともに語りあっている姿は、とても感動的です。

 

中国起源の墓誌

  墓誌はもともと、中国の文章のジャンルの一つで、墓のなかに埋め、時代が移っても、墓の主が誰かわかるために書いたものです。普通、死者の伝記を書いた散文の序と、死者を記念する韻文の銘からなっています。刻される材料は、地中でも保存可能なようほ、石や金属が一般的です。南北朝時代(5、6世紀)、南朝では石の墓碑を禁じましたが、北朝では正方形の石に刻し、その上に石の蓋で覆うようになりました。墓誌は日本では7世紀から8世紀にかけて行なわれましたが、それ以後は見られなくなりました。古代の墓誌は現在16例が残されており、そのうち半分は奈良県で出土しています。

 

哀悼

  服喪、あるいは哀悼のしるしとして髪を切ったり、体に色を塗ったり自分の体を傷つけるする習俗は決して珍しいものではありません。ユーラシアとポリネシアでは王侯や夫の死にさいし、臣下や妻が殉死の代用として髪を切ったり、欠歯をしたりします。
  日本でも646年の「薄葬の詔」に、殉死や死者のために髪を切り、股を刺して哀悼の意を表すことの禁止する文章がみられ、こうした習慣のあったことを示しています。ハワイ王国のカメハメハ二世の王母が死去したさいに、埋葬の2、3日後、多勢の酋長が舌に墨をするために集まりました。このとき王妃もみなと一緒に舌に入れ墨をしていました。丁度そこに居合わせた人が痛いかと聞くと、「とても痛いわ、でも、私の愛情のほうがもっと大きいの」と答えたといいます。肉体を傷付けることは、哀悼の表現として号泣よりもはるかに効果があるといえます。

 

死者を涙で弔う風習

  「対島に泊まりで大いになき、築紫に至りてまた大いになく。難波に泊まりてみな素服を着て、ことごとく貢ぎ物を捧げ、また種々の楽器を整え、難波より京に至るまで、あるいはなきいさち、あるいは歌舞して、ついにもがり宮に参会した」(日本書紀)
  これは允恭天皇が亡くなったときに、それを伝え聞いた新羅の王が、80人からなる弔使団を使わしたときの様子を記したものです。韓国の伝統習慣では葬送のさいに、全身を使って泣き、葬式をすませたあとには近親者はどっと疲れがで、悲しみを超越してしまうといいます。(『白の葬送』金両基より)
  また韓国では卒哭祭というものがあります。それは死後3か月を過ぎたら、今迄随時に泣いていたのを止める祭りです。しかし朝、夕に霊前に御飯を供えて泣くことは続けられるそうです。

 

招魂儀礼としての泣き女

  沖縄でも弔問に来た女性はみな泣くという風習がありました。墓に行く葬列では、部落内を通過するときには特に大声をあげて泣いたようです。しかしこの風習も村の話し合いで、殆ど見られなくなっています。
  日本では『古事記』の中に泣き女の記事が出てきます。死者の周辺で声を上げて泣く行為は、魂呼びと類似した死者蘇生の呪術と言われています。こうした風習も仏教の浸透とともに姿を消していき、泣き女を職業とする人も江戸時代の文書に残されていますが、それ以後殆ど失われたといってよいでしょう。

 

霊魂

  霊魂は普通個人の肉体や精神活動をつかさどる独立した人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在とされています。
  古代ギリシャでは霊魂について、気息霊、陰影霊などの生霊の観念はもっていたものの、死後にそれが継続するとはっきり信じられていたわけではありません。古代ローマ人も霊魂は対する関心は薄く、それでも死者の祭りは行なわれ、5月には無名の幽霊を祭るレムリア祭が行なわれていました。ローマの哲学者キケロは、善人の魂は死後昇天するとしるしましたが、一般には魂は死後消滅すると考えられたようです。
  古代エジプト人は肉体に宿る霊魂の存在を信じており、死後肉体を離れた魂は、昼間は地下の世界や砂漠をさ迷い、夜や危険な時になると肉体は帰ってくると信じられていました。したがって彼らにとって、ミイラは必需品だったわけです。また王様の魂は天に上って行くと考えられましたが、庶民の魂も裁きによっては天国に行くことが可能でした。

 

未開人の霊魂観

  ヒューロン・インディアンは、霊魂には頭も体も手足もあると考えていました。エスキモー人は霊魂は人間と同じ格好をしているが、もっと希薄な状態であると信じています。ヌートウカ・インディアンによれば、霊魂は小さな人間の格好をしており、それが脳天に座っていると考えられています。マレー人は、親指くらいの大きさで、容姿や体形は肉体とそっくりであると考えています。
  そして睡眠や病気などの場合一時的に、死んだときには永久に肉体から離れると考えています。
  ニアス島民は生れる前にどれだけの長さ、重さの霊魂が望みかを問われ、希望の大きさの霊魂が与えられるといいます。パンジャブ地方の人々は、生前その肉体を飾ったイレズミと同じ模様をつけて天に上ると信じられています。(金枝篇より)

 

Copyright (C) 1996 SEKISE, Inc.