1987.10
ホスピス・末期患者への福音

『死をみとる医療』本格的に検討 厚生省が専門家会議を発足。

  患者の延命だけに専念しがちな病院で、寂しく人生の終末を迎えるよりも、尊厳なる死をむかえたい。あるいは自宅で死を迎えたいと望む人たちが増えてきているため、厚生省は、末期医療のあるべき姿を探る専門家会議を発足させ、7月31日に第1回の会議を開催した。この会議の参加者ば、医学者のほか、哲学者、法律家、ジャーナリストなど13人で構成されている。
  テーマとしては「末期患者を対象とする施設でのケアについて」「自宅での末期医療」「末期医療に対する教育」の3つが柱となる。話題の中心には、「ガンの末期患者に対する告知の問題」、「延命治療を諦めるさいの倫理の問題、本人や家族の同意の問題」が検討される。

(日本経済新聞、7月18日より)

 

国立病院にホスピス 末期ガン患者を看護

  末期ガンの患者と家族が一緒に生活して、安らかな最期を迎えてもらおうと、厚生省では9月より、国立療養所松戸病院に、国立医療機関として初の「ホスピス病棟」を開設する。
   ホスピスとは「死にゆく患者」特に末期ガン患者を対象とした施設のことで、患者の肉体的痛みの緩和。精神的苦痛や不安のケア。家族への精神的サポートなどを目的としている。欧米社会でホスピスが注目されはじめたのは、1960年代以降のことで、1967年にイギリスの女性医師、シシリー・ソンダース博士がロンドン郊外に「聖クリストファーホスピス」を設立したのが始めである。それ以降、病院や宗教団体、ボランティア団体などが運営するホスピスが、ターミナル・ケアの担い手として大きな役割を来たしている。(現在イギリスに約60、アメリカには約500のホスピスがある)

(日本経済新聞、8月5日より)

初の国立ホスピス 松戸に誕生

  日本では、戦前からキリスト精神による社会事業に挺身した、良谷川保氏の聖隷ホスピス。大阪の淀川キリスト教病院が有名であるが、国民性の違いもあって普及していないのが実情。以前よりその必要性を説かられている聖路加看護大学長の日野原博士の案も、その努力にもかかわらずいまだ実現されていない。
 こうしたなかで、厚生省では昭和59年度に松戸病院の松山院長を中心に、ガン患者のターミナルケアに関する研究班を作り、3年がかりでホスピス病棟の開設準備を進めて、来る9月に開設することになった。以上は日本経済新聞の概要であるが、中日新聞も8月14日付け夕刊にて「末期ガン患者に福音」初の国立ホスピス「松戸に来月開設」とほぼ同一の内容を報じている。ただし「現在の医療制度では、一般の入院治療に比べ保険の点数にならないことから、普及していなかった」と、普及の遅れの一端を医療制度にあるとしている。

 

死因のNO.1 ガンは不治の病か?

  今遅ればせながら、日本においてもホスピス開設がクローズアップされてきた。時代の要求する問題に、ややもすれば対応が遅れがちな行政官庁(厚生省)が、財政事情が厳しい現在、相当な財政負担を前堤とするホスピス創設に踏み切ったのは、どうしてだろうか?
  第1には、ガンが死亡原因の第1位になり、ますますこの数字が増大することが不可避な傾向であることである。そして2位、3位の脳出血、脳梗塞、心臓疾患と異なり、死に至るまでの期間に痛みが激しく、目をそむけるものがある。しかも必死の研究にもかかわらず、決定的な治療法は確立していない。ガン告知はまさに、「死の宣告」に等しい。ガン告知の是非が論ぜられるゆえんである。
  第2には老齢化が進み、全人口に高める老齢者の比率が、世界のトップに達することが明らかになった。これは死因の第1位のガンにかかる確率が高くなったことを示すことになり、各人はガンになる不安に怯えることになる。加齢とともにガンの暗雲が頭上に覆って来る感じである。ポックリ寺への参観が増大する一因である。

 

延命から安らかな死へ

  第3に、死を迎える場所が自宅から病院に移ってきたことがあげられる。その原因は医療技術の進歩とともに、治療設備のシステムが巨大化したことである。これは死を迎える人と、その家族の人の間に医療体制が割り込んでいることである。去り行く者と残された者との別離には、それにふさわしいものが希求されるのは当然であるが、病院、すくなくとも現在の病院は、それに応ずるものではない。
  第4には、病院側即ち医療する側の反省である。これは一言で言えば、日野原博士の「延命の医学から生命を与えるケアへ」である。近代医学の到達した水準でのハードとソフトの医療技術は、死に臨んでいる患者その周辺を、非人間的な医療設備と冷たい雰囲気に包むことになる場合が多い。これは人間的な感性のある、医療従事者には釈然としないものである。
  現代の医療理念「延命の医学」に対する反省が出てくるのは当然である。これが「不適当な延命治療の回避」といわれるものである。この事情を知る者が、ガンで死亡する場合、病院ではなく、自宅でと希望する主な理由である。しかしこのことは、現代の医療理念の根本的な変革である、懸命な延命努力に代わって「安らかな死を迎えるには、いかにすべきか」が前面に出てくるのである。
  患者とその周辺の人々からも、また医療従事者からも、従来の延命のみを目的とするのとは異なった、「人間らしい死」を迎えることができるシステムをもった医療施設『ホスピス』が希求されることになる。
  以上が、おそまきながら日本にも、ホスピスが創設されるに至った事情である。今後に残された問題が多いと思われるが、その一部について指摘したいと思う。

 

仏教的ホスピス

  欧米では、ホスピスの運営は殆ど民営で行なわれている。日本ではさまざまな事情のためこのことが非常に重要である)民間での運営では進まず、国家が乗り出してきたというのが実情であろう。元来キリスト教精神によるホスピスであるが、国営で運営される場合、その精神的支柱が重要であるだけに、日本の精神基盤が問われることになるではないだろうか?
  欧米のホスピスは、長いキリスト教の伝統のなかから出てきたものであるが、日本にも、仏教の伝統のなかには、主として浄土数のなかには、ホスピスの精神に通じる「臨終行儀」があった。仏教のなかからホスピスと同じ精神の、医療精神と医療設備が実現して来ることを期待したい。仏典「観無量寿経」の精神。「無量寿 -- 永遠の命を観想する心」は「死を観る心」によって、死を媒介にして永遠の命を得ることを教えているのではないだろうか?

〈月明〉

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