私の両親は、ロンドンのイーストフィンチレイという所に住んでいる。今年の春休みは2カ月ほど、そこに滞在た。
これは2月のはじめの夕暮れに、住宅街の中のクレイトン・アベニューを一人で歩いていた時のことである。その日は肌寒い風が吹き、足早に家路へと急いでいると、黒塗りの霊枢車がそばをゆっくりとした速さで通りかかった。それは日本と違って非常にシンプルなもので、ロンドン名物の箱型のブラックタクシーを少し長くしたような形をしていた。
私はイギリスで霊柩車を見るのは初めてだったので、珍しく思い立ち止まって眺めていると、むこう側の通りに、60歳過ぎ位の品のよい老夫婦が、肩を寄せ合うようにして歩いてきた。2人は霊柩車をみると、ごく当然のように歩みを止め、おじいさんの方は、タータンチェックの帽子をそっととり、静かに十字をきった。おばあさんも十字をきると頭をうなだれた。ほんの数秒の間黙祷した後、2人は先ほどと変わらぬ足どりで去って行った。
見知らぬ人間の死に対して、心のこもった祈りを捧げていた老夫人の姿は、私に忘れられない印象を残した。このような行為こそ、人間愛にもとづく本当のマナーでないだろうか。