お葬式に参列すると、必ずいただく会葬御礼と引出物。引出物は故人が若くても、年配でも一様に毛布やバスマットにお茶か椎茸といった乾物がついている。「のし」をはずしてしまえば、どなたのお葬式でいただいた物なのか判らなくなる。
私が初めて遺族として経験したお葬式は、今年の4月。同居していた主人の父の葬式である。医者から「長くない」と言われていても、父の死は突然の事だったから、何の用意も無く、頭の中は真白だった。葬儀屋が飛んで来て、式場の準備、手配は素早く整い、業者の葬式のマニュアルは遺族たちの身の振り方までも指示してくれるのだから、全面的におまかせ状態になる。加えて私たちはどういう訳か「世間並み」と言うことに、安心したり、こだわったりする気持ちが強く、業者は呪文のように「皆さん、こうされてます」を連発する。その結果、父の葬式も「誰ソレさんの葬式」と変わらない内容の引出物を手渡す格好になった。
この引出物のおかげで、大切なものを失った気がする。仮に葬式のあとお礼に歩けば、家族の知らない父の話が聞けたかもしれない。家族の知らない弔問客から父の人となりを知ることができたかもしれないと、今でも後悔している。人それぞれ、様々に生きた人生の最期が「皆と同じ葬式」なんて寂しすぎると、夫を失った母などは「私の時には、お父ちゃんの好きやった暫まんじゅうとチューリップの花を引出物にしてや」などと言っている。
父を火葬場に送る時、主人が阪神タイガーズの「六甲おろし」をBGMに流した。業者は「あまり例がありませんけど…。」と、いい顔しなかったが、弔問客は「竹ちゃんは虎キチやったなぁ。今年は優勝やで!」と父を懐かしんでくれ、主人の友人たちも、「お父さん阪神ファンやったんか」と親しんでくれた。大切なのは、白いハトを飛ばす事でも豪華な祭壇を誇示する事でも無く、生きてきた故人の人柄を示すことなのかもしれない。
結局は、父の葬式を人並み、世間並みにしてしまった私たち家族だけど、この「六甲おろし」だけは、唯一父の意に叶ったろうと思っている。