交通事故の教えてくれたもの

[東京都 男性 会社役員 52歳]

イラスト  やがて20年も前の出来事である。私が以前に役員をしていた会社で、社員の運転する車が、働き盛りの男性をはね、即死させたのである。
 夜中にその一報を聞いた私は、社長に代って、被害者宅に駆けつけた。
 年老いたお母さんと小さな子供2人に囲まれた奥さんが、悄然として座っておられた。事件の一部始終を話し、心より当社の非を詫び、誠心誠意事後の処理に当る旨を伝えた。
 既に警察より連絡を受けておられたとはいえ、少しも取り乱されることもなく、お母さんが「うちの子が悪いんでしょう」と云って身の置き処のない私をかばって、逆に慰めて下さったのです。
 私はこの言葉を聞いた瞬間「このお母さんの為には何でもしなければ……」と心に誓ったのでした。
 そして葬儀。告別式で会葬者に親族代表の方があいさつの中で、加害者である筈の当社名をあげた。「会社の方には大変お世話になりました。厚くお礼申し上げます」と申されたのです。多分お母さんのご配慮だろうと思ったのですが、本当にどうしてよいのか途惑った事を今も鮮明に覚えています。
 後で判った事ですが、そのお母さんは、仏教に帰依し、宗教心の深い方だったのですが、もしあのとき「息子を返せ、人殺し」とでも云われたら……恐らくこちらも素直な気持で問題の解決は出来なかったでしょう。
 我が子の死に対する悲しみと諦感を越えて、他人への慈悲心にまで昇華された信心は、人を動かすに何にも勝るものでした。
 この寛容な心のお陰で、今は家族ぐるみのお付合を願う程になり、次男の方の結婚式にまでご招待にあずかり、その席上、スピーチで悲しい出来事の取り持つ「縁」を話し、お母さんの人間性をたたえた事でしたが、私はこの事故を通じて、貴重な言葉では表現出来ないものを学ばさせていただきました。


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