私は若いとき、こんな詩を書いている。
俺の葬式には来んでくれ
死はなんと言っても敗北だ
俺の家族が死んでも
葬式には来んでくれ
俺は敗北などを見られたくない。
しかし私も年をとり、父の葬式、母の葬式をやり、叔父の葬式に行き、友の葬式に行き、段々と考えが変わってきた。大物の死にさいして行われる派手な葬式外交ではないが、我々庶民も現代においては、忙しさ、個人主義その他もろもろの理由からか、親族一同が一斉に顔を合わせる機会は、葬式のときぐらいしかなくなってしまった。死の通知を受けなかった人も、AからBへ、BからCへの連絡で駆けつけてくる。思いがけず顔を合わせた面々が、10年ぶり以上の会合に、すっかり変わった顔を見合わせ、驚き、懐かしがり、昔を語り、故人を偲びあう。
まさに一族の絆をぐーんと感ずるのである。まさに深い友情の絆をぐーんと感ずるのである。あゝ、実に素晴らしい。葬式、これは是非、出来る限り盛大にやってもらいたい、と思うようになったのです。葬式、これは当事者にとって、悲しみの深い中、大事な事だし、前から思っても非常に気の重いセレモニーですが、現在はプロの方の手厚い援助を受けることが出来るので、随分とやさしく出来ます。人生の一つのけじめとして「葬式は出来る範囲で盛大にやるべし」と、私はここに心境の変化を敗北主義からの脱出ととらえつつ、皆さんに勧めたい。
マイナス思考からプラス思考へ、長い年月をかけて、私も一つの勉強をしました。