死顔

[東京都 女性 元看護婦 53歳]

イラスト  30年あまり看護の仕事に携わり、多くの生命の終焉を目のあたりにした。人間の生き方は、死の直前にも個々の形で表情や言動に現われる。怒りや恐怖、諦め、甘え、羨望や期待などその一端であるが、死は一様にそれらの迷いからの解放であると思う。どの方も目を閉じてから一刻も経つと、穏やかな温顔で、安らかに旅立ってゆかれた。
 私が出会った患者さん「I子」さんを忘れることが出来ない。彼女は子宮癌で62歳で亡くなった。外国人の秘書をして生涯独身であったが、理智的なばかりでなく、目鼻だちも容姿も華やかな人であった。恵まれた環境での暮らしが身につき、平凡な日常の瑣末事には疎く、入院時にはふきんとタオルの違いも分からないような方であった。医師や看護婦の言葉に「ハイッ」と童女のように返事をして従った。
 ある日、親しくしていた隣室の女の方が亡くなり、彼女は最後のお別れを告げにその部屋を訪れた。薄化粧をして浴衣を着た仏さまに、彼女は「ビューティフル!」と声をかけて近ずき合掌した。それから私「死顔が気になっていたの。これで安心して眠れるわ。私の時もよろしくお願いします」と頭を下げた。
 彼女が息を引きとった時、私は約束通り、消毒薬を使わず彼女の愛用の香水を数適落したお湯で彼女の体を拭き清めた。削げた頬に含み綿を使い、瞼の下にも薄く綿を置いた。薄化粧して白い綸子の着物を着たI子さんは、ふくよかに若やいで、今にも起き上がってきそうであった。最後に両手の指にマニキュアをして、掌を合わせて数珠をかけた。この時、I子さんの唇が動いた。その声は確かにこう告げた。“Good luck!”


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