2000.12
有名人の葬儀

有名人の葬儀は一般庶民の葬儀とは大きく異なる。政治家の場合には、故人の名誉をより輝かしく讃える機会でもあり、また後継者の紹介の場ともなる。芸術家や俳優は自分らしい葬儀をすることが出来る。それはあらかじめ遺言が残してある場合に限られるのであるが。


国内

◆織田信長(1534〜1582)

天正10年(1582)6月2日。本能寺で明智光秀に奇襲された信長は、首を敵に渡すことを恐れて自害した。正式な葬儀は死後4カ月半の10月15日、秀吉の主宰により行なわれた。

6月13日、光秀を山崎の合戦で討ち滅ぼした秀吉は、柴野にある臨済宗大徳寺境内で法事をすることになった。10月初旬より17日までの法事のために、費用1万貫、ならびに精米千石が大徳寺の納所に渡された。

10月11日から転経(経文を転読すること)がはじまり、15日の葬儀では、大徳寺から火葬場の蓮台野に向けての葬列がクライマックスである。棺は金紗金欄によって包まれ、軒の欄干は宝珠を形取り、すべてに金銀がちりばめられた。棺には遺体の代わりに仏像が安置された。蓮台野の4つの門には白の綾約216米、中に火屋(火葬舎)が用意された。大徳寺から約1キロの間に1万余人の武士が警固に着いた。

葬儀に参加した僧は、臨済宗の五大寺をはじめ京都内外の諸宗、幾万人か知らずと「太閤記」に記されている。さて導師の偈のあと、秀吉と於次丸が共に焼香をした。こうして秀吉の力を示す葬儀は無事終わった。

◆徳川家康(1542〜1616)

元和2年(1616)1月21日発病して4月17日に世を去った。享年75歳。死因は胃癌という。遺体はいったん駿府の久能山に葬られたが、翌年下野の日光山に改葬された。

家康は亡くなる前に、「死後は遺体を静岡市東部の久能山に葬り、江戸増上寺にて法会を営み、参州(三河)大樹寺に霊牌を納めよ」と遺言した。

4月17日、午前10時頃死亡。遺命により、その夜に家康の柩を久能山に移した。町奉行や大工が先に山に登り、仮殿の設営を行なった。4月19日吉田流の唯一神道によって遺体を葬った。遺体を移す遷座の時には、全ての燈明を消し、散米、鏡、御幣を持ち、鈴を鳴らした。次に霊柩の行列である。弓、矢、盾、鉾を持った役人が続く。御遷座の式が終わって内陣に入るときにも儀式は続く。鏡を取って散米し、大麻(幣)でお祓いをしたあと、内陣に柩を納め、次に供物を供える。続いて三種の加持、祓いを行った後に祝詞を読む。こうして諸老臣参拝して式を終える。

4月22日将軍秀忠は久能山の神廟に詣でたが、その時、天海は崇伝に日光山に改葬することを主張した。そして翌年4月4日、霊柩は日光山の坐禅院に入り、8日に奥の院の巖窟中に安置された。

◆勝 海舟(1823〜1899)

政治家の勝海舟は、明治32年1月19日、風呂あがりにブランデーを飲み、脳溢血で意識を失い1月21日午後死亡。77才。

葬儀は1月25日午前9時に赤坂氷川町四番地の自邸を出棺。先頭は騎馬警部2名、次に海軍軍楽隊が「哀しみの譜」を演奏し、横須賀海兵団、水雷団など水兵による儀杖兵半大隊、ならびに第三聯隊の歩兵2中隊が従った。葬列は田町通りを赤坂表町に出て青山葬祭場へと向かった。

10時55分、柩は海軍楽隊が吹奏する音楽に導かれて青山葬祭場に到着。式は11時50分に終了した。午後1時棺は同所を出発し、荏原郡馬込村の新墓地に送られた。

◆福沢諭吉(1835〜1901)

福沢は1月末に脳出血を起こし、2月3日に死亡する。2月8日午前10時30分、導師が衆徒を引き連れ霊前に参拝し、偈を読誦し終わってから、遺族の焼香が始まった。昼になると霊柩を輿に納め、零時40分慶応義塾の生徒が先頭に立って進んだ。午後2時頃に山元町善福寺に葬列が到着。境内は雪のぬかるみが乾いていないので3千枚の蓆を敷かれた。本堂の上はすべて白布を敷詰め、式場の右を喪主席、次が婦人席。左は会葬者席とした。

諸僧の先導で霊柩が式場に到着すると、導師及び法主名代の焼香があり、次に「正信偈」が誦えられ、喪主を始め親戚その他の焼香が行なわれた。式終了は午後3時、そのあと霊柩は寺院を出発して5時に埋葬が終った。

◆中江兆民(1847〜1901)

明治の思想家の中江兆民は、明治34年12月13日午後7時半死亡。遺体は遺言によって大学病院で解剖された。中江は日頃より、死後葬式を営まずただちに荼毘にふするように遺言をしていたが、親戚友人は「告別式」を行なうことを提案して、17日午前9時自宅出棺、青山墓地において式が行なわれた。

式場には各政党員他、新聞記者など約1千名を参集して棺を迎え、場の正面に棺を安置し、まず葬儀係より開会の挨拶があり、続いて板垣退介の弔辞、続いて大石正己氏の演説が行なわれた。

式のあと棺は、世田谷区の落合火葬場で荼毘にふされた。中江兆民はルソーを日本に紹介したが、日本で初の告別式を行なった者として記憶にとどめておくに値する人物である。

◆石川啄木(1886〜1912)

歌人石川啄本は、明治45年4月13日、貧困のうちに肺結核で26歳で死んだ。啄本は父と妻に見守られながら息を引き取った。葬儀は友人の金田一京助らの手によって浅草の等光寺で行なわれた。

啄木の葬儀の模様について報道されたのは「東京朝日新聞」だけであった。それには次のように紹介された。

「社員故石川一氏(本名)の葬儀は、昨日午前10時浅草松清町なる等光寺(本願寺中)に於て執行された。途中葬列を廃して、未亡人せつ子や佐藤真一、土岐善麿、金田一京助其他の人々柩に付添い、予め同寺に参着。棺は狭い本堂に淋しくおかれた。やがて会葬者はポツポツ集まる。夏目漱石、森田草平(中略)それに本社員の誰彼を加えてわずか4、50名が淋しい顔を合わせた。人は少ないが心からの同情者のみである。

程なく導師土岐静師は3名の若い僧侶を具して淋しく読経する。おわって白衣の未亡人は可憐なる愛嬢京子を携えて焼香した。香煙の影に合掌せる母子の姿は多感なる詩人の柩と相対して淋しい人生の謎である。4、50名は等しく泣かされた。続いて一同の焼香も式は終わって棺は大遠忌のにぎにぎしい本願寺を5、6人の人に守られつつ、町屋の火葬場へ淋しくかつがれていった」

◆夏目漱石(1867〜1916)

大正5年12月9日、文豪夏目漱石は午後6時50分、息を引き取った。死因は胃潰瘍、50歳だった。10日午後1時半、遺体は生前の希望により、牛込の自宅から寝台車で医科大学病理解剖室に運ばれ、そこで解剖された。12日の明け方、遺体を見守っていた漱石の遺族、親戚、友人、門下生らは、午前6時半に改めて霊前を清めると、喪主はじめ未亡人、遺族は最後の別れを告げた。やがて白絹で覆われた棺の上には、花輪が供えられ、位牌を棺の前に安置された。

7時半より小石川の徳雲寺の役僧3名によって読経があげられ、焼香に移った。そして出棺の準備が整うと、第1の馬車に僧侶、次に棺を乗せた馬車、次に遺族、親族等6輛の馬車に分乗して、午前8時半夏目邸を出発した。棺車は9時半に、準備がととのっている青山齋場に到着。ただちに祭壇に安置して、その上に「夏目金之助之柩」と書かれた銘旗が掲げられた。位牌の前にはおびただしい供物や生花、花輪が飾られた。

葬儀は午前10時から始まった。10時半になると、鎌倉円覚寺派管長以下、12名の式衆を従えて祭壇に昇り、読経が始まった。次いで朝日新聞社社長の弔辞朗読が行われた。次いで友人総代、門生有志の総代として弔詞を霊前に捧げ、さらに遺族、親族の焼香と続いた。式終了は午前11時であった。式後棺は落合火葬場に運ばれて火葬にされ、燒骨は小石川雑司ケ谷の夏目家墓地に葬られた。

◆三島由紀夫(1925〜1970)

昭和45年11月25日、作家の三島由紀夫は市ケ谷の陸上自衛隊駐屯地に乱入し、演説後割腹自殺をした。この死から61日後の昭和46年1月24日、東京築地の本願寺で本葬が行なわれた。正門には黒白の幕が張られ、建物の右わきに、三島由紀夫の遺影が、そしてその左右に14本の白い花輪が飾られた。葬儀開始時刻には参列者は8千人になった。

本堂に設けられた祭壇の正面に遺影。その前に「彰武院文鑑公威居士」と戒名が書かれた板が置かれた。その左右に白い菊でこしらえた大小7つの玉が、柏槙(びゃくしん)の葉で覆われた緑の壇に飾られている。白菊は全部で6千本使用された。

12時45分、祭壇に立てられた14本のローソクに、僧侶が火をともし、パイプオルガンによる宗教音楽が流れ始めた。楯の会一同75人も制服姿で、中央最後部に着席した。午後1時4分、青松寺の住職が入場し読経が始められる。葬儀の模様は境内にスピーカーを通して流された。

最初に舟橋聖一氏の弔辞、続いて作家の武田泰淳らの弔辞が続けられた。1時56分、瑶子未亡人の焼香。続いて川端葬儀委員長、故人の両親、弟の平岡千之氏夫妻が焼香を行なった。2時6分。参列者の焼香が始まる。2時半ころから、外にいた一般弔問客も献花に入場。葬儀は午後4時に終了した。

◆石原裕次郎(〜1987)

87年7月17日、細胞ガンで亡くなった裕次郎の密葬は19日自宅で行なわれ、本葬は8月11日、午後11時より東京・青山葬儀所で石原プロ、テイチクによる合同葬儀が行なわれた。

ファンの列は式開始1時間前には、葬儀所の周囲をめぐり青山墓地内まで続いた。そこで1時半と予定されていた献花開始が12時50分から行なわれた。赤レンガの正面ゲートをくぐると裕次郎の6メートルの全身像が飾られている。参加者には白菊が手渡される。一般の献花は、関係者の式場とは別に設置された。その祭壇は中央に特大の遺影、左右にも遺影が飾られている。献花は横に長く並んで行なうので、遺影が複数に置かれている。右端には裕次郎の愛車のベンツが陳列されている。テント張りのステージでは裕次郎のヒット曲が演奏された。

献花の帰り道に幅18メートルのメッセージボードが置かれ、そこに故人のための伝言をかくようになっている。その横には幅6メートルのアストロビジョンが置かれ、ありし日の裕次郎の姿が映し出された。式場内では曹洞宗本山・総持寺導師による葬儀が行なわれた。弔辞は宝酒造会長、テイチク社長、勝新太郎ら4人の弔辞のあと、葬儀委員長である俳優の渡哲也氏による挨拶がおこなわれた。そのあと、「夜霧よ今夜も有難う」などのヒット曲が流れる中を、喪主の妻まき子さん、親族らが次々と焼香した。なお会葬者の列は午後4時25分、終了宣言まで続いた。葬儀費用は1億5千万円という。


国 外

◆ナポレオン(1769〜1821)

ナポレオンは幽閉先のセント・ヘレナ島で1821年5月5日に死亡、52歳。3日後にナポレオンの遺体は、英国の近衛歩兵連隊によって、彼があらかじめ島の中での埋葬場所を指定していた場所に運ばれた。彼は戦歴を物語る軍服と三角帽子を被り、一斉射撃のもとに彼の墓に埋葬された。

それから約20年後の1840年12月15日、彼の遺体が島から運ばれ、パリで華々しく葬儀が行われ、およそ60万人のフランス人が集まった。

16頭の馬に曳かれた霊柩車は、午後1時半にシャンゼリゼ通りに現われた。ナポレオンの柩覆いの四隅から垂れるひもを、元帥と将軍たちが握りしめている。霊柩車の4つの車輪の上に、3層の屋台が載っている。屋根の上には勝利の女神像にかつがれた柩が飾られている。この柩は象徴で、本物の柩は下段の安置室に納められている。

霊柩車の重さは1.3トンで、柩だけでも2500キロある。前後には万国旗が飾られている。

午後1時50分、霊柩車がアンバリッドの門の前に到着すると、水兵が柩をかつぎ、アンヴァリッド宮殿の中庭に入った。式典の準備が進められていたアンバリッド内の教会で、ベルトラン将軍は、皇帝の栄光にみちた剣を柩の上にささげ、グールゴー将軍が皇帝の帽子を柩の上に捧げた。モーツアルトの「レクイエム」が演奏された。午後3時、アンヴァリッドでの儀礼の終了を表わす礼砲が発射された。

◆ベートーヴェン(1770〜1827)

ベートーヴェンは1827年3月26日、夕方6時前に死亡した。葬儀は3月29日に荘厳に行なわれ、2万人の人が参加した。黒スペイン館には大勢の群衆が詰めかけ、アルザー通りにある三位一体教会までの葬列に道を開くために軍隊が動員された。葬列がアルザー通りに入ると、吹奏楽隊が作品26の「アレグロとメヌエット」から「葬送行進曲」が演奏された。教会内はローソクの炎で輝き、9人の司祭によりベートーヴェンの曲をザイフリートが編曲した「リベラ」が歌われた。

礼拝のあと、数百人の人々に守られて、棺はヴェリーング墓地に向かった。

葬列にはオーケストラの指揮者8人が墓地に付き添い、作曲家のシューベルトは、たいまつを掲げる人々の列に参加した。当時は墓地の中ではスピーチ等をしない習慣だったので、墓地の門のところで、俳優が詩人のグリルパルツァーの弔辞をよんだ。

4月3日にはアウグスチヌス派教会で葬儀が行なわれ、このときにはモーツアルトのレクイエムが歌われた。

◆リンカーン(1809〜1865)

1865年4月14日、第16代アメリカ大統領のリンカーンは、ワシントンの劇場で俳優のブースにピストルで射たれた。9時間後に死亡。

リンカーンの遺体はエンバーミング(防腐処置)がほどこされ、4月18日、19日の両日ホワイトハウスに安置された。この時2万5千人の人々が弔問に訪れた。4月21日、リンカーンの遺体は7輌編成の霊柩列車に乗せられ、葬儀が行われるニューヨークに向かった。

ニューヨークの大通りでは16頭の黒馬にひかれて葬儀車が登場。葬儀車のあとには、旗をもった会葬者が続いた。その数16万人。50万人の見物人がその行列を見るために集まった。葬列に楽隊が葬送行進曲を演奏し、1分おきに大砲の音が市中に轟いた。午後棺の蓋が閉ざされると、遺体を見られなかった大勢の人たちは列車に乗りこんで、葬送列車がとまる予定の各駅に向かった。

5月4日、葬列は6頭の黒馬にひかれて、オークリッジ共同墓地に埋葬された。

◆ドストエフスキー(1821〜1881)

1月28日、ロシアの文豪ドストエフスキーは、喀血して8時40分死亡。その夜ペテルブルク師範学校の学生が、ドフトエフスキーの法要に出席。法要のあと出棺のときと墓地での整理を依頼される。夜の11時まで、学生らの弔問客が大勢cラける。夫人は葬儀が行われるアレクサンドル大修道院より、好きな墓所を無料で進呈するとの申し出を受ける。

1月31日正午前、イサク大寺院唱歌隊が加わって短い祈祷をすませたあと、葬儀委員長の合図で出棺となった。待機していた輿に棺を乗せて修道院まで担いで行ったので、柩車は空車のままあとに従った。葬列の一団一団の間に唱歌隊が入った。学生達が棒で支えた大きな長い花輪が、棺を中心に故人と親しかった人たちや文壇の代表者たちを取り巻くようにして進んだ。野辺送りの人出は5万人を数え、沿道は大修道院の手前まで大変な人垣が出来た。

2月1日。日曜日。午前10時、ネフスキー大修道院聖霊礼拝堂で葬儀が営まれた。前日同様、礼拝堂にはとても入れず墓地も人で埋めつくされていた。礼拝堂では弔辞がいくつかあった。大勢の僧侶、教会合唱隊、修道僧が墓に向かい、墓前でも弔辞が述べられた。

◆ゴッホ(1853〜1890)

オランダ生まれの画家ゴッホは、90年7月27日オーベル・シュル・オアーズでピストル自殺を試みた。37歳であった。

葬儀は29日の午後2時半と決まった。村のカトリック教会の神父は、「自殺をした者には、教区民の葬儀馬車を使わせない」と言った。そのため川向こうの村から別の葬儀馬車を借る手配をするのに手間どった。神父は教会での葬式は駄目というので、フィンセントは宗教的な儀式なしで、広々とした麦畑に接した村はずれの共同墓地に埋葬されることになった。

弟のテオは、フィンセントがアトリエに使っていた階下の部屋を、告別式の会場にするため、絵を飾りつけた。部屋の中央の作業台の上に棺を安置した。棺の足元にはパレットと筆、戸外用のイーゼルと折り畳み椅子が置かれた。

翌7月30日、出棺は3時で、友人たちが棺を馬車に運んだ。テオは、すすり泣きを抑えることができなかった。葬列は故人の思い出を語りながらオーヴエールの坂道を上っていった。そこは小さいが新しい墓地で、まだ新しい墓石が点在している。棺が墓穴に下された、棺を埋葬したあと、ガシェ博士は弔辞を述べた。

◆トマス・エジソン(1847-1931)

発明王エジソンは、1931年10月18日午前3時過ぎに死亡した。葬儀はエジソン社の工場内で、社員とその家族だけで営まれた。身内だけの密葬が行なわれたあと、工場の門が開放され、5万人の市民が工場に入って彼に別れを告げた。

10月21日の朝、エジソンの遺体は屋敷に運び込まれた。午後3時から近親者だけの葬儀が行われた。オルガンとバイオリンで、エジソンが愛した2つの曲を演奏した。その後、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」の第1楽章とワーグナーの「夕星の歌」が演奏された。メソジスト派監督教会の牧師が、詩篇の第23篇「ダビデの賛歌」を朗読し、故人への神の加護を祈った。

ルイス・ペリー博士は、「彼は人類全体の友人でした」と弔辞を述べた。最後に「ナウ・ザ・デイ・イズ・オーバー」の曲が流れ、葬儀は終了した。墓地に向かう葬列に、およそ400人の人たちが見送った。

◆ガンジー(1869〜1948)

1948年1月30日ビルラ邸で銃弾に倒れた。78歳であった。ガンジーの遺体は真夜中過ぎに屋敷のテラスから降ろされた。部屋に棺を安置する前に、床に牛の糞を撒いた。そして死化粧をし遺体はカーディの屍衣を着せた。

1月31日午前11時過ぎ、棺は車に載せられた。そして8キロ先のヤムナ河畔にある火葬場ラージガートに向かうのである。遺体の上に赤と白の布をかけ、その上にインドの国旗をかけた。車は3軍の兵士250人が4本の長い麻綱で曳くことになった。将軍の合図とともに、葬列はビルラの屋敷を出発。ヤナム河までの道はすでにバラとジャスミンの花のじゅうたんでおおわれていた。道の至るところに何万という群衆が待っていた。インド空軍の戦闘機が空からバラの花びらを捲いていった。

ヤナム河畔では煉瓦で組んだ薪の山が築かれており、数十万人の信者が集まっていた。ガンジーの遺体が息子と子姪たちに担がれ、そして白檀の薪の上に安置した。ラムダス・ガンディーは僧侶が経典を唱える間、薪の周りを5回回った。そして松明を薪の山に投げた。この瞬間集まっていた百万人の群衆が声を上げた。ガンジーの遺骨は火葬後12日目に川のなかに流した。

◆アインシュタイン(1879〜1955)

ドイツ生まれの理論物理学者のアインシュタインは、1955年4月17日午前1時15分、プリンストン病院で息を引き取った。76才。

彼の死のニュースは翌朝8時に発表された。同じ日の午後2時、遺体はプリンストンにある葬儀場に運ばれた。そのあとトレントンのエウィング火葬場に移され、親しかった12人が集まり短い葬儀を行った。

ゲーテがシラーに捧げた賛辞の一節をオットー・ネーサンが読み、そのあと午後4時10分、遺体は荼毘にふされた。遺骨は散骨されたが、そこに参拝者が訪れることを防ぐために、場所は公表されていない。近くの川に撒かれたという。彼の墓は作られていない。当時アメリカでは土葬が中心であったため、こうした遺体処置の方法が取られたのは、あらかじめアインシュタインの強い希望があったためである。

◆ジェームズ・ディーン(1931〜1955)

1955年9月30日、午後5時45分、ポルシェを運転していたジェームズ・ディーンは、カルフォルニア州サンルイス・オビスポの交差点で事故にあい、首の骨を折って死亡した。24歳であった。

10月4日夜10時17分、遺体を乗せた飛行機は故郷のインディアナ空港に着陸、棺は移送車に乗せてハント葬儀場へと向かった。ここで6日の夜まで遺体が安置された。10月8日に行われた葬儀には、故郷フェアモントの人々が多く押し寄せた。フェアモント・フレンド派教会には600人しか収容出来ないので、残りの2千5百人は教会前に集まった。教会の外にスピーカーを用意して、ミサの様子を外に伝えた。当日午後2時少し前、棺を乗せた霊柩車が教会に到着した。ジミーの高校時代の友人が棺を式場に運んだ。蓋を閉ざしたままの棺が壇上に安置され、ミサが始まった。2人の牧師は最後の言葉を贈って式を終えた。ミサのあと、会葬者はそのまま公園墓地に移って埋葬に立ち合った。

◆マリリン・モンロー(1926〜1962)

女優マリリン・モンローは、1962年8月5日、睡眠薬自殺を図った(36歳)8月8日、ロサンゼルス市のウエストウッド教会で彼女の葬儀が行われた。葬儀は、マリリンの異父妹のバーニス・ミラクルの許可を得て、マリリンの3番目の夫デイマジオと、マリリンのマネージャーだったイネズ・メルスンがとりしきった。主催者側は、わずか20数名のごく内輪の者しか葬儀に招待しなかった。

スターや有名人の参列は、ディマジオによって拒絶された。見物人が教会を遠巻きにしている。入口の前には報道関係者やカメラマンが詰めかけた。式が始まり、リー・ストラスバーグの弔辞。ついで無宗派教会の牧師による告別の辞。そしてパイプ・オルガンが、彼女の愛したメロディ『虹の彼方に』を演奏して短い葬儀は終了した。
会葬者は順に花束を棺の足元に捧げた。マリリンは棺に横たわり、手には薔薇の花を握っていた。棺は教会を出発してウエストウッド・メモリアルパークに向かい、壁面式の霊廟に収められた。

◆ケネディ(1917〜1963)

1963年11月22日(金)午後12時30分、ダラス市内をパレード中のケネディ大統領は、首と頭に銃弾を受けた。死亡時刻は午後1時。遺体は同日、ワシントンのベセスダ海軍病院に移されて、検死とエンバーミング(防腐処置)がなされた。

11月23日(土)午前4時34分、遺体は病院からホワイトハウスに到着。棺は7人で運ばれ、ホワイトハウスのイースト・ルームに安置された。

11月24日(日)近親者のための最後のミサのあと、ホワイトハウスから、大統領の棺を乗せた砲車が、追悼式の行なわれる国会議事堂へと行進した。行進の先頭はドラムと銃剣を携えた水兵が進み、そのあと教会関係者、参謀長、大統領付武官、棺を乗せた砲車、大統領旗、葬送用軍馬、柩隊、ケネディ未亡人を乗せたリムジン。そのあとに親族と子供たちを乗せた9台の車、報道陣、最後列に隊列を組んだ警官と3台の自動車が続いた。国会議事堂に到着すると、円形広間では大統領の追悼演説に続いて、ジョンソン新大統領が棺に紅白のカーネーションの花輪を捧げた。追悼式は14分で終わり、そのあと円形広間は大統領にお別れを告げる一般の人々に開放された。夜中の12時迄に10万人の人が別れを告げた。

11月25日(月)午前11時、棺は議事堂を出発。葬列はホワイトハウスを経てセント・マシューズ教会まで徒歩で行き、鎮魂ミサのあとアーリントン墓地に埋葬された。この間は6マイル以上である。

◆ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)

マッカーサーは1964年4月5日、ワシントンの陸軍病院で死亡した。84才であった。

4月7日(火)早朝、将軍の遺体はパークアベニューの東にある第七連隊兵器庫ビルの迎賓室に安置された。午前10時、最後のお別れの会場にマッカーサー夫人が入った。一般市民の最後の別れは午後11時15分まで続き、3万5千人の人が参加した。

4月8日(水)市民と士官学校生徒の最後の別れの行進が行われた。棺は砲車に置かれ、ワシントン行きの特別列車が待つペンシルバニア駅までの2.5マイルを行進するのである。この式典で2千4百人の士官学校生徒が英雄の死に敬意を払った。楽団は、『将軍行進曲』を演奏した。列車は約4時間でワシントンに到着した。棺は列車から棺車にと移された。棺は黒の霊柩車に乗せ、大統領や遺族がリムジーンに乗って続いた。

午後2時、車の列はホワイトハウスの周りを旋回し、それから行列のスタート地点であるコンスチチューション通りに向かった。そして棺は砲車に移された。

葬式パレードは午後2時30分に開始され、葬列は国会議事堂に到着した。国会議事堂の外では19発の弔砲が発射され、棺が議事堂に運びこまれた。そのあと彼の故郷のノーフォークにおいても告別式が行われた。

◆ブルース・リー(1940〜1973)

カンフー映画『燃えよドラゴン』の主演で一躍有名となった香港の映画スター、ブルース・リーは、1973年7月15日、香港のクィーン・エリザベス病院で死亡した。32歳であった。

彼の葬儀は香港とシアトル(ワシントン州)で2回行われた。最初の葬儀は香港の友人とファンのためで、2度目のそれは内輪のものであった。

彼は中国服を来て棺に納められた。葬儀は香港の九龍殯儀舘(葬儀場)で仏式で行われた。式場には遺族や友人、映画関係者がおおぜい列席していた。儀式が開始したときには棺はなく、祭壇にはリボンをかけた遺影が安置され、生花が飾られ、「芸海星沈」(芸術の海にスターが沈む)という幟りが張られていた。遺影の前には3本の線香と2本のローソクが飾られ、弔問者は3度づつ礼をして最後の別れを告げ、中央ホールに戻って着席した。

楽団は伝統的な葬儀の曲を演奏した。式の途中で遺体が納められた棺が運びこまれ、祭壇近くに置かれた。棺の蓋は開かれたが、表面は遺体を保護するガラスで覆われていた。葬儀場の前にはおよそ2万5千人の人々が集まってきていた。 葬儀が終わって数日後、遺体は妻とともにシアトルに帰った。シアトルでの葬儀は、親戚・友人ら100人が列席した。音楽は故人が好きだった最近の曲が選ばれた。棺は陰陽の象徴である白、黄、赤の花で覆われていた。葬儀には、スティーブ・マックイーン、ジェームズ・コバーンなどが参列し、棺を担った。そのあと棺は、ワシントン湖を見下ろすレーク・ヴュー墓地に埋葬された。

◆毛沢東(1893〜1976)

中国の最高指導者であった毛沢東元主席は、1976年9月9日午前、82歳で死亡した。9月11日より17日までの7日間は、人民大会堂において弔問式、毛主席の遺体との別れが行われた。18日午後3時からは、天安門広場において盛大な追悼大会を開催。この模様はテレビによって中継放送された。

9月11日朝、人民大会堂において1週間にわたる弔問式が始まった。この日、人民大会堂には党中央委員、政府役員、労働者、農民、兵士代表からなる数万人が弔問に訪れ、堂内に安置された主席の遺体に別れをした。 弔問式は午前9時頃から始まり、参列者の列は天安門広場から大会堂北側の正面にと続いた。黒の縁取りをした正面からは、葬送曲が流れた。この会堂には5千人が収容出来るが、9時過ぎから入場した代表者などの列が際限なく続いた。

初日の弔問は午後11時過ぎに終了。この日だけでも弔問者は5万人を超え、夜には天安門広場には、弔問者を乗せた数百台のバスで埋まった。

毛主席の遺体は、人民大会堂1階にある大ホールの一つに、ガラスケースに入れられて安置された。遺体のそばには、江青夫人ら遺族の花束と追悼の言葉が置かれた。

大ホール正面には「偉大なる領しゅう、導きの師、毛沢東主席は永遠に不滅」の巨大な横断幕が掲げられ、その下には党、政府首脳をはじめ、党、政府など全国からの数百の花輪で飾られた。弔問者たちの列は、遺体の右側の足の方から「へ」の字状に主席の頭を回り、遺体に別れを告げ左側から退出した。

18日午後3時より行われた式典は国歌とインタナショナル吹奏に始まった。王洪文副主席が司会し、3分間の黙とう。続いて華国鋒首相が追悼演説を行い、全員が天安門上の毛主席の遺影に3回礼拝、最後に東方紅のメロディーを演奏して大会は30分間で終了した。

◆エルビス・プレスリー(1935〜1977)

1977年8月16日午後、ロックの王様エルビス・プレスリーが、テネシー州メンフィスのグレースランドにある彼の豪邸内の浴室で、パジャマ姿で倒れているところを発見された。42歳であった。

8月17日の午後、プレスリーの遺体と一般市民との最後のお別れの場が設けられた。プレスリーは銀でおおわれた棺に白のスーツで納められた。邸のまわりにはおよそ8万人の哀悼者が囲み、悲しみと熱気から12人が気絶した。遺体を一目見ようと家に入った3万人が、興奮状態になった。彼らはすすり泣いて最後の悲しみを訴えた。

翌8月18日、徹夜の350人を含め、5千人前後のファンが豪邸を取り巻いた。この日に密葬が行われた。夕刻、何千人の人々がメンフィスの通りを並ぶ中を、警官のオートバイに先導された白のリムジンの先陣が、プレスリーの葬列の車を導いた。16台の白のリムジーンの行列が、共同墓地であるフォレスト・ヒルズに向かった。墓地にもファンが待ち受けており、敷地にはギターと猟犬の形に生花が飾られていた。

◆ジョン・ウェイン(1907〜1979)

西部劇映画のヒーローのジョン・ウェインが、ガンのために1979年6月11日午後、カルフォルニア大学病院で死去した。72歳。

 葬儀は長男のマイケルが取り仕切った。遺体には24時間ガードマンがつき、葬儀業者のジョゼフ・オコナーは死を口外しないと誓わされた。遺体は病院からラグナヒルズ霊安室に運ばれ、夜遅く死亡が発表された。

葬儀は6月15日、ニューポート・ビーチの教会でカトリック式で行われた。しかし一般には葬儀の時間や場所は秘密にされた。葬儀に参列した者は、身内と故人と特に親しかった友人だけで、記者や映画関係者などは招待されなかった。

葬儀のあと、遺体はパシフイック・ビュー・メモリアル・パークに埋葬された。埋葬に際しては、あらかじめ墓穴が2つ掘られて一方に棺が納められた。そして関係者がそこを離れたあと、棺を覆っていた供花が空の墓穴に埋められた。このように埋葬した棺の場所を秘密にした

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