2000.09 |
死は人間にとって避けられない現実である。そしてこの死には悲しみが常についてまわる。悲嘆を伴う死には2つある、それは自分の死と愛する者の死である。
自分の死と家族の死による悲嘆では本質的にその質が異なる。自分の死での悲嘆は死によって途切れるが、家族の死は、死によって始まるといってよい。
「死」は見つめることが出来ないが、死という現実と、自分の悲しみの心は見つめることが出来る。日本にも悲嘆の研究が紹介されて久しい。
その結果、悲嘆についての意識もたかまってきた。しかしまだまだ医療側や遺族の悲嘆に対する一般の配慮は十分とは言えない。悲嘆は余りにも重い課題であるので、誰もそれにかかわりたくないのが実情である。
1965年、エリザベス・キューブラー・ロスがアメリカ国内で約200人の臨死患者とインタビューし、それらを『死ぬ瞬間』にまとめた。この研究で最も注目されたのは、臨死患者が死にいたるまでの心理過程に5つの段階があるという点であった。この説はあまりにも有名であり、そのためにさまざまな物議をかもしたのも事実である。ここでもう一度彼女の説のおさらいをしてみたい。
・第1段階/否認
死の告知を受けると、ほとんどの臨死患者が「違う、それは真実ではない」と反応する。何かの間違いであり、死の事実を受け入れるなどとんでもないことだと否定する。
・第2段階/怒り
もはや死の可能性が否認できなくなると、怒り、憤り、羨望、恨みなどの感情があらわれる。見るものすべてが怒りの源となる。
・第3段階/取り引き
ひょっとすると、自分の死を先へのばせるかもしれないと考える段階である。自分が良いことをすれば、神が褒美に癌を治してくれるかも知れないなどと考える。
・第4段階/抑うつ
もはや自分の死を否認できなくなり、衰弱が加わってくると、喪失感が強くなってく
る。抑うつはこの喪失感の一部でもある。
・第5段階/受容
痛みは去り、闘争は終わりと感じる。疲れきり、衰弱し、短く間隔をおいて眠る状態となる。ここではほとんどの感情がなくなってしまっている。
このキューブラー・ロスの段階説には数々の批判があらわれた。たとえば5つの心理段階をすべて経験する患者は全体の何パーセントいるのか。また最後の受容段階を迎えずに死んだ患者の場合はどう考えるのか?これらの点が明らかでないという。
また患者が各段階を順に経過するとは考えられないし、ある時は長く、ある時は短いとしか言えないではないかという。
実際、すべての人がこの順番で心理的変化を体験するわけではないだろう。しかし誰もが目を背けていた悲嘆の過程を聞き出し、分類した功績は貴重といえる。人は死を予告されたあとにも絶望するのではなく、死を受容していくことが出来るということを知るだけでも一つの指針となる。またこのロスの段階説は死にゆく人だけではなく、遺族の心理的変化にもあてはまるのである。
悲嘆の種類はさまざまであり、悲しみにある同じ遺族でも、毎日違う心理状態にある。ペレッツは『喪失への反応』で、家族の死を体験した人の心理を次のように分類している。
家族の死の知らせを受けた時、遺族は深い悩みと嘆き、強い悲しみとはげしい後悔を感じ。ショックと無感覚に近い状態になる。さらにこれは現実ではないと思い込んだりする。故人に対する罪悪感と、故人に対する怒りの感情が同時に存在する。こうした状態はいずれも「正常な」悲嘆に属する。こうした心理は遺族の誰にも見られるもので、個人差はあるがやがて回復していくものである。
死が実際に起きる以前に感じる悲嘆。症状の悪化や医師からあと半年などと死が予告される時、死は避けられない現実として実感され、死が起きたときと同じように悲嘆を経験する。これが先取りされた悲嘆である。
これは遺族はもちろん末期患者も味わう感情である。 この2つはだれもが体験するであろう悲嘆であるが、次はより個性的な悲嘆といえるものである。
家族が死亡した後、数週間あるいは数カ月も悲嘆がないケース。家族と何年も交流がない場合は、悲嘆が少ない場合があるが、実際に一緒に暮らしていた家族が亡くなった場合でも、悲しみを感じない場合がある。それは悲しみが余りに強くてそれがうまく表現出来ないとか、あるいは自分がみっともないところを見せまいとしてそれを抑える場合がある。
故人に対し愛憎の感情を持っていた人は、故人に対する愛と憎しみの感情をあからさまに表現することを恐れているために、悲嘆の感情をあらわさないか、あるいはこの感情を感じない傾向にある。
また、故人と密接に関連している日である命日や誕生日などに、突然悲しくなるというケースがあり、これは「記念日反応」とも呼ばれている。
悲しみの表現には、故人の部屋を生きていたままの状態にしているケースがある。これは死を認めたくない心理のあらわれであり、慢性的な悲嘆の一つである。それは悲嘆に対する防衛であって、慢性的なうつ状態とは異なったものと考えられるという。
愛する人の死によって何ごとにも興味を失い、何をするにも精気がなく、なげやりになっている。うつ状態の人は、日ごとに悲観的になり、落ち込みがひどくなる。
家族の死を味わい、悲しみと内省的な生活を送るかわりに、これまで以上に他人と積極的な関係を結ぶようになるケース。あるいは故人に代わる人物を求める。また、仕事にうちこんだり、旅行や趣味に熱中する。これらは精神分析的には「行動化」と考えることができる。人を励ます場合、死の思い出から遠ざけるために気分転換させることが多い。
以上は悲嘆のいくつかの反応を心理学的にアプローチしたものといえるが、どれも異常と名づける必要はない。自分が命の次に大切にしていたものを失って、これまでと違った行動に出るようになったからといって異常とはいえないだろう。
先取りされた悲嘆は、家族と末期患者の両方が体験するものである。ただし両方とも死とともに終る。そして遺族の方は、死によってあたらめて悲嘆が始まる。
家族が体験する先取りされた悲嘆と死の悲嘆の違いを、アルドリッチは『先取りした悲嘆』のなかで次のように区別している。
(1)ふつうの悲嘆は永く続くが、先取りした悲嘆は死とともに終結する。
(2)先取りした悲嘆は加速的に、短期間のうちに発達していく。
(3)故人に愛憎を感じていた人は、先取りされた悲嘆では対象となる人が早く死んだらよい、と感じることがある。
しかし多くの場合、この感情は長く続くことはない。
臨死患者の中にも、「私はまだ死にたくない。彼に替わってもらいたい」、「あの人たちを残して行くのはいやだ。みんなも一緒に死んでもらいたい」と感じることは普通に見られる。こうした心理は通常抑えられているが、絶望状態にあると容易に抑えられなくなるのである。
悲嘆は自分の置かれた状況を確認するために、同じような境遇にあるグループの人の話を聞いたり、あるいはそこで自分の体験を話したりしていくことで癒されることがある。こうしたグループはアメリカにはいくつもあり、日本にもそうした研究を取り入れて実際に活動が行われている。
ハリエット・シフは『悲哀を生き抜く』で、サポート・グループが行うミーティングの方法を紹介している。
1. 参加者が、「死」について考えていることを自由に話しあう。
2. 死の「否認」と葬儀について話し合う。悲嘆の第1段階に否認が起こるということを理解する。
(ここではキューブラー・ロスの第1段階説が取り入れられている。)
3. 「怒り」の感情について話し合う。(同じくロスの第2段階説が取り入れられている。)
誰に怒りが向けられていたかをリストアップし、怒りの意味について考える。ただし、どのような人もそれぞれいいところを持っているという事実を確認することが必要である。
4. 宗教が果たす意味について考える。
5. 悲嘆者の誰もが罪悪感を経験する。しかし、その罪悪感は必要以上の思い込みである場合が多い。そこで、罪悪感を客観的に眺めることをテーマとする。
6. うつ状態には、不眠、緊張、自責などの状態が伴うが、どれがもっとも強かったかを話し合う。
7. 無力感にさいなまれている人に対するアプローチ。
8. 悲嘆の最終コースである受容。死の受け入れについて話し合う。
これを見る限り、悲嘆によってもたらされる心理的変化を、客観的に理解することが中心となっている。
また末期患者自身をサポートするグループもアメリカにはたくさんある。最近の映画『ファイトクラブ』では、様々な病いのサポートグループを渡り歩く主人公が登場していた。
人に「死を教育する」ことは誰も出来るものではないという謙虚な立場から、「死の教育」ではなく「死の研究」とする意見がある。いずれにしろ、他人の死は無関心でいられるが、自分の死は避けることが出来ない。そこで死について、自分がどのように考えているかを知る手がかりとなる調査がある。これはアンケートとしても使用できる。これにはいろいろな質問が考えられるが、次はその一例である。
・祖父母
・両親
・兄弟姉妹
・親戚
・友人知人
・有名人
・ペット
・私の計画や目的がすべて終わりになる
・末期のプロセスが苦しい
・死後に何が起こるか不安である
・今後どんな体験も出来なくなる
・私の家族を養えなくなる
・好きな友人にあえなくなる
・人生の終わり
・死後の人生の始まり
・霊魂が宇宙の意識に帰ること
・無
・永遠の眠り
・静かで尊厳に満ちた死
・仕事中の急死
・ライフワークをなし遂げた後の死
・悲劇的で激烈な死
・突然死
・家族に看取られての死
以上は、実際に死に直面した人への質問ではなく、将来そうした事態への心理的ウォーミングアップという程度のものである。この他、あらかじめ必要であると思われることは、自分が死の病になったときに告知してほしいか、ほしくないかを家族に言っておくことである。それを知らせておかないと、病人を心配させないように、秘められることが多い。それから尊厳死宣言ではないが、自分が末期になったときにどのように取り扱ってほしいかも、もし自分に希望があれば健康なうちに家族や医師に話しておくことが賢明といえる。
最近、アメリカから紹介される「癒し」の思想を、浅い考えであると発言する記事を読んだ。その主旨は、死の機会は、人間のはかなさ、この世のうつろいやすさを知る貴重な機会であり、これを体験することによって、人の痛みを知り、かつ世の中の執着を離れるための機会となる。したがってこのような時に、心理学的に安易に癒してしまうことは、仏教的に考えて残念であるというような主旨であったと思う。
もちろん医師は癒したくない人まで、癒そうとはしていない。また癒しと仏教的思想とは矛盾するものではないと思う。たしかにアメリカと日本では、民族的、習慣的違いが多く見られるので、アメリカの方法をそのまま取り入れることは、どの分野においてもむずかしい点がある。しかし日本は外国から取り入れ、日本的に改良して来た実績がある。それは仏教思想にしても同じで、時間とともに完全に消化されて外国にはどこにも見られないほどの独自な発展を遂げてきている。
悲嘆についての著書を多くもつグロルマンは『愛する人をなくした時』のはじめに、「死別の悲しみを癒すためのの指針」を書いている。
(1)どのような感情もすべて受け入れる。
(2)感情を外に表わす。
(3)悲しみが、一夜にして癒えるなどとは思わない。
(4)わが子とともに悲しみを癒そう。
(5)孤独の世界へ逃げるのは、悲しみを癒す間違った方法。
(6)友人は大切な存在。
(7)自助グループ(支援組織)の力を借りて自分や他の人を助けよう。
(8)カウンセリングを受けることも、悲しみを癒すのに役に立つ。
(9)自分を大切に。
(10)愛する人との死別という苦しい体験を、意味ある体験に変えるよう努力しよう。
これを読んでどう感じるであろう。たとえば(2)の感情を外に表わすことはどうだろう。これを葬式の場面で行うことは本人を含め、みっともないと考える人もいる。感情を表せない人はどうだろう。癒せないことで悲しみを背負っていく人もいる。以上のの指針を日本的に受け入れるためにはどうしたらよいかを考えてみよう。
(1)どのような感情もすべて受け入れる。
否定的な感情でも受け入れるのは、禅の心の動きを観察する作業にも通じ理解しやすい。
(2)感情を外に表わす。
これは日本的ではない。もちろんあらわす人はそのままあらわせる。また感情を表すということよりも、心にあることを人に話すということが大切である。
(3)悲しみが、一夜にして癒えるなどとは思わない。
悲しみが何日続くかは個人差がある。しかしその人が悲しみをどうしたいのかが大切だと思う。悲しみを続けたいのか、あるいは悲しみを断ち切って死んだ人のことを早く忘れたいのか。それによっても対処の仕方が異なってくる。
(4)わが子とともに悲しみを癒そう。
悲しみは大人だけのものではない。そして、親はこどもの心をサポートしなければならない立場にある。そうした観点から、親はこどもの感情表現のモデルになることが大切だろう。
(5)孤独の世界へ逃げるのは、悲しみを癒す間違った方法。
孤独の世界に逃げれば、癒せないというのは、外に発散することで癒されるという信念に基づいている。しかし癒す(ヒーリング)の語源は、聖なるものに触れるという意味があるり、苦しみの意味を考えることによって、宗教心が芽生えたりする機会ともなることを忘れてはならない。
(6)友人は大切な存在。
自分の不安を整理するためには、自分の悩みを打ちあける友人が必要であるという観点からのアドバイスであろう。
(7)自助グループ(支援組織)の力を借りて自分や他の人を助ける。
同じ体験をもったもの同志の体験を聞くことによって、自分だけが特殊な境遇に置かれているという孤立感をやわらげることが可能である。
(8)カウンセリングを受けることも、悲しみを癒すのに役に立つ。
カウンセリングは、専門家のノウハウとその経験から、クライアント(患者ではなく、お客様というニュアンスがある)の悩みを引き出し、癒しの最短距離を教えてくれる。しかし日本ではカウンセリングを受ける習慣がないため、制度的にも問題を抱えている。
(9)自分を大切に。
自暴自棄になるなということなのか、自分を甘やかすなということなのか。命を救えなかったとしても、そのことで自分を責めないことが必要である。
(10)愛する人との死別という苦しい体験を、意味ある体験に変えるよう努力しよう。
苦しい体験から何かの教訓を引き出すということは、日本人の下手な部分である。何ごとも忘れることがうまいのが日本人である。死者を供養し、故人の遺志を引き継ぐことによって、自分を納得させることができるだろう。
日本の風土のなかで、これまでにつちかった伝統を現代に生かしていく視点がますます必要となるだろう。
悲嘆から平安にアドバイスを説いたものにエックハルト・トールの『今の力』(1999年)がある。この本のなかで作者は、起きた現実を受けいれない限り、苦しみは治まることはないという。しかしこの現実を受け入れようとしても、それに抵抗する心があって、それがまた新たな苦しみを生んでいるのである。
そこで外にある現実を受け入れられないのであれば、内なる苦しんでいる心を受け入れようというのである。その孤独で不安にみちた心を観察し、それを受け入れるならば、その心は深い平安に変ぼうする時期が訪れるという。