1999.09 |
土葬が中心だったアメリカで、火葬を推進している団体が北米火葬協会である。この協会の1998年8月の統計によると、アメリカの1997年の死亡者の23.59%が火葬を行い、前年の火葬率21.37%を更新した。この伸び率で計算すると、2010年には火葬率が33%を超えるという。
火葬場も1997年までの1年間に52ケ所増え、この率で続けば2010年には1、900ケ所となる見込みと言う。
1997年の火葬率の高い5つの州は、1位がネバダ州で61.11%、続いてアラスカ州の58.54%、ハワイ州が56.66%、ワシントン州が54.42%、そしてアリゾナ州が53.03%である。退職後転入してくる人が多いネバダ州では、火葬率が60%と高くなっている。また教育水準の高まりから、火葬が受入れやすくなっている。
火葬の低いところではウエストバージニア4.85%、ミシシッピー州4.96%、アラバマ州5.14%、ケンタッキー州6.25%、テネシー州6.67%となっている。
葬儀を安く行うために助け合う民間団体としてメモリアル協会がある。今日、50万人の人々が全米にある140のメモリアル協会に属し、彼らの80%以上が火葬を選択しているという。
1929年10月のウォール街で株の暴落が、世界恐慌の幕引きとなった。失業率は25%にもなり、農民たちを「弔いの共同組合」に誘った。葬儀や埋葬を共同で行い、遺族の負担を軽減したのである。葬儀共同組合は1929年にミネソタ州のニューウルムではじめられた。当時は土葬が行われていたので組合でも土葬であった。
1939年、シアトルで「人々のメモリアル協会」が誕生し、代表のフレッド・ショーター師は、会員に安くてシンプルな火葬を提供していった。1939年は第2次世界大戦が始まった年で、アメリカの火葬率はまだ2%〜3%という状態であった。その当時火葬は非宗教的と考えられ、カトリック教会が火葬禁止を解くまではそうした考え方が普通であった。数年のうちに彼の考えが国中に広まっていった。大平洋戦争が終了した翌年の1946年にはニューヨーク市に共同教会葬儀協会が設立された。
「メモリアル協会」は、「葬儀社は高い費用をとって埋葬することしか考えていない」として自分たちの役割を強調した。そして火葬率が増加して葬儀業界に大きな影響を与えると、業界内での競争は激しさを増していった。
消費者支援の新聞には毎年のように、地域の葬儀料金を取り上げ、料金の高い葬儀社を監視した。
そのため葬儀社でも料金を公示し、エンバーミングや棺での埋葬は必ずしも必要でないことを表示しなくてはならなくなった。高齢者の多くは、大きな影響力をもつ全米退職者協会(MRP)の勧めで、葬儀と埋葬の事前予約や事前支払いが普及していった。
ミッドフォード女史の『アメリカ人の死に方』が1963年に発売され、本書で葬儀料金などの高いことが指摘されたため、1時葬儀社はその対応に追われるようになる。こうした事情もあって1960年代後半、葬儀会館を経営していたトム・シェラードが、契約を結んでいるメモリアル協会の規則に疑問を感じ始めていた。それはメモリアル協会が、会員が必要としていない葬儀用品を販売して売り上げを上げようとしていたからである。メモルアル協会の安くてシンプルな葬儀を提供するという理念が崩れ始めていた。
業者が最低限必要と法律で定められていることは、死者を病院から火葬場に運び、焼いた遺骨を遺族のもとに届けることである。そこには葬儀をしなければならないという法律はないのである。そこでシェラードは、火葬のみを実施し葬儀を行わない「メモリアル協会」を作ることにし、協力者としてトム・ウェバーが参加した。
1971年2月、シェラードとウェバーの2人は、アメリカで初めての火葬協会を作った。カリフォルニア州サン・ディエゴに作られた「死の協会」は、テロフェーズ協会と命名された。初めは非営利のメモリアル協会であったが、暫くして営利団体として、葬儀なしのダイレクト火葬と散骨を行うようになった。
こうした事業の背景に、法律の改正もみのがせない。カルフォルニア州では、1965年に遺灰を航空機から海上にまくことが合法化された。5年後の70年には、船上からの散布も許可された。ただし遺灰の散布は、海岸から3マイル沖で、遺族には、その日付、時間、緯度、経度を記した「遺灰散布証明書」が渡される。
テロフェーズ協会が行うサービスは単純である。入会金は10ドル。死亡したら火葬し、そのあとの遺灰は散骨されるか、壷又は箱に納めて遺族に返却するだけである。その費用は255ドル(約3万円)。これまでの葬儀費用は、棺代だけでも800〜900ドルかかっていたことから、いかに安くすむかがわかるであろう。
最初のうち作業は2人だけで行った。ワゴン車で病院に遺体を引き取りに行き、サンディエゴ郊外にある冷凍庫のある遺体安置所に運ぶ。そのあと火葬場に遺体を運ぶのである。
しかし地域の葬儀社はサンディゴの火葬場に圧力をかけ、テロフェーズ協会の遺体を火葬できないようにした。そこでテロフェーズ協会では裁判を起こし、その結果勝訴した。テロフェーズ協会は、依頼があれば遺灰をバラ園や個人が選択した場所に散骨するサービスも行うようになった。また1970年代後半より、海での散骨サービスも始めた。
協会は非営利団体であったが、やがて営利団体となった。しかし協会名はそのままで、会費も徴収した。その後同じような営利団体の火葬協会は何百と増加した。
テロフェーズ協会は、費用の安さを武器にPR活動を続けた。病院や大学にも出かけ、火葬の利点を語った。
火葬は土葬よりも現代的で、衛生的で、葬儀社を必要としない。火葬をすれば、葬儀費用や埋葬費用が節約できると訴えた。こうした活動も功を奏して、マスコミもテロフェーズ協会の活動を紙面に取り上げるようになった。しかしこれにカルフォルニア州の葬儀業界は黙っていなかった。そこで彼らはテロフェーズ協会をなんとか業界から追放できないかと考えたのである。
規制委員会と州葬儀協会は、テロフェーズ協会を無免許で葬儀サービスを実施しているとして告訴した。カルフォルニアの法律では、火葬には免許をもつ葬儀ディレクターが立会わなければならないのである。テロフェーズ協会は葬儀社からも訴訟を受けた。テロフェーズ協会はその後もいくつもの訴えを受けたが、閉鎖することなく、1977年には年間3、000件の火葬と22、000人の会員を獲得するまでになった。
テロフェーズ協会が発足してから2年後の1973年、火葬協会はテロフェーズ協会をモデルにサンフランシスコにネプチューン協会を作った。ネプチューン協会を有名にしたのは海での散骨である。創業者のチャールス・デニングは、1976年頃から、彼がヨットから散骨している写真が新聞に掲載されるようになって、散骨の普及につながった。ネプチューン協会の会費は20ドル、ヨットでゴールデンゲートから行う散骨費用は395ドル。ただし親族が立会わない場合であれば85ドルと安い。1977年後半に10ケ所の事務所を開設した。
現在4つの独立したネプチューン協会があり、およそ50万人の会員がいる。
インターネットの「ネプチーュン協会」のホームページよると、これまでに7万件の遺体を扱い、1988年からは事前販売を始めている。サービスまでの手順は
1.協会が病院から遺体搬送する。その際に遺体は火葬容器に納められる。
1.火葬が行われるまでは、遺体は冷凍庫に保管される。
1.協会で死亡診断書、火葬許可書の手配をする。そして死亡診断書は州の保健所で手続きの代行をする。
1.支払いは火葬前に行う。
1.火葬は死後、5日から7日目に行われる。
1.火葬後の遺骨はネプチューン協会の事務所に骨壷に納められて渡され、そのあと散骨されるか霊園に埋葬されるのである。
ネプチューン協会は、いくつもの火葬パッケージを用意している。遺体を火葬した後、段ボールケースに納めるまでのサービス。火葬後、ネプチューン協会の豪華ヨットからの散骨。散骨を好まない人には、納骨のオプションがある。花壇への埋骨、納骨棚での納骨などの種類がある。また火葬前の葬儀の実施も行っている。はじめは葬儀社と対立する形で火葬サービスを実施していたが、その後遺灰の納骨、散骨、そして葬儀とサービス内容を追加していったのである。
散骨が一般に普及する前にそのきっかけを与えた男がいた。ビル・ゴーベンは1975年、彼の船仲間がガンで死んだとき、遺言に従ってはじめて散骨を行った。散骨は故人がよく出かけたシアトルとハワイ諸島の間の海域で行った。これがマスコミに取り上げられ、散骨は1つのロマンとなった。
そのあとテロフェーズ協会とネプチューン協会は散骨を普及させたが、ゴーベンも遺族たちから散骨の依頼を受けるようになった。
アメリカでは、遺体を火葬する場合に、必ずしも棺を使用する必要はないと決められている。しかし火葬場には、可燃性で耐久性のある遺体容器が用意され、これに遺体を納めて焼いている。
アメリカでは火葬する前に葬儀を行わず、そのまま火葬することをダイレクト火葬といっている。しかし、この方法は、葬儀社としても利益が出ないので、遺族にいろいろな商品を提案しているのが実情である。そこで、アメリカ連邦商業調査委員会(FTC)の葬儀規則では、葬儀ディレクターがダイレクト火葬をする際の規則を定めている。それには、
(1)ダイレクト火葬では、棺が必要であると法で定められていないことを明示する。
(2)ダイレクト火葬では、棺以外の代用容器を使用できることを明示する。
1988年に332,000件の火葬が行われ、そのうち75%の25万件が、見苦しくない遺体容器を使用せずに火葬されている。つまり布や簡単なケースで焼かれていることになる。
多くの火葬場では、容器なしのまま届けられた遺体の場合、ほとんどの火葬場では、覆いのあるケースを用意している。もし段ボール箱で遺体搬送した場合、遺体の下に木製トレーを敷いて安定性を保たせている。
火葬容器は、作業者に対する衛生面や安全面を保証するため、強度と品位が保たれたものが標準とされている。また殆どの棺メーカーは、火葬に適した棺を開発している。ただしファイバーグラスやプラスチックが含まれている棺は、燃やすと有毒ガスを発生させたり、炉をつまらせて爆発させる危険があるので禁止されている。
火葬場によっては、金属棺も許可している。金属の棺は炎に耐え、一般の火葬のように棺の残骸と遺灰とをよりわけなくてもすむからという。ただし金属棺を使う場合は、蓋を開けたままにし、金属の棺を処分する費用を別に徴収しているようである。しかし多くの火葬場では、金属棺は炉の壁面を傷つけやすいからという理由で使用に反対している。
しかしこちらでは箸で収骨するという作業もなく高温で遺体を焼けるために、ダイオキシンの問題は比較的少ない。
火葬後の遺灰は、遺体の6%が無機物として燃え残るものである。北米火葬協会では、大人の遺灰は3ポンド(1.3キロ)から9ポンド(4キロ)といい、他の説では平均男性は7.4ポンド、女性は5.8ポンドという。
火葬場では遺灰をそのまま遺族に渡したり、細かく砕いたものを渡している。イギリスでは一般に遺骨は粉砕するが、アメリカでは、散骨を予定しない限りは粉砕していない。
最近の火葬場では電気処理装置を使って遺骨を砂糖粒程に細かくすることができる。そのため、遺骨は比較的小さなケースに納まってしまうのである。
遺体は焼いてしまったら、誰のものかもうわからない。そこでほとんどの火葬場は、焼く前から遺灰になるまでの間、身元を確認しながら作業を進めている。燃えないステンレスのタグを遺体につけたり、遺体を納めた火葬炉にタグをつけて確認している。また間違いがおこならないように、同じ火葬炉で1体以上を焼くことを禁じている。
それでも遺灰の取り違えが起こるケースがある。日本のように火葬に立会っている訳ではないので、取り違えがあってもそのまま通ってしまうが、間違えが確認されて裁判沙汰になることもある。
遺族の手許に帰った遺灰は、その後自宅に置くか、骨壷に入れられた後、納骨堂にあずけるか、散骨されるという方法が考えられる。
どこに散骨してもよいという訳ではないが、遺灰が自然環境に悪いという指摘はない。このため、遺骨の処置は家族が行っても問題はないということになり、それによって事件も起こることも少ない。では遺骨はどこに行くのか?わかっていることは、アメリカの遺骨の50%以上は、納骨堂や墓に納められてはいないことである。多くの人は自宅に安置する他、郵送で散骨会社に送ったり、霊園に送ったりしている。
郵便で遺骨を送るのは大丈夫かと思われるが、アメリカの法律では問題がないようである。しかし配送会社がすべて扱っているという訳でもないようである。
こうした郵送の他、多くの人々は自分たちで遺灰を持参して飛行機に乗り、散骨に出かける。アメリカでは遺灰をもって飛行機に搭乗しても問題は起きていない。
遺灰は思い出の湖や、有名な公園、山上や海にまかれるケースが多い。近代火葬が始まった1887年には、ピッツバーグで死んだ男が、生前中に蒸気船の船長に散骨を依頼しておき、死後約束通りに大西洋に遺灰が撒かれた。
最近では散骨業者は遺族や聖職者を同伴で、散骨場所を撮影したり、散骨の状況(海抜、風速、海域)を記録したものを遺族に送っている。
北米火葬協会によると、散骨を制限しているのは2つの州だけで、カリフォルニア州では住宅地、ワシントン州では散骨する際の遺骨の細かさを規定している。空からの散骨の場合、遺骨を直径8分の1インチ以下に砕くことが必要である。
カリフォルニア州では、空からの散骨の禁止を訴えた人がいたことから、散骨業者が認可制となり、住宅地での散骨は禁じられている。
葬儀業界では、散骨が普及することで墓や納骨堂の売り上げが減少することを危惧している。そのため火葬協会加盟店のなかには霊園を開発し、散骨霊園として売り出している業者がある。霊園内の散骨スペースに撒いた場合には、散骨の記念板を取り付けるというサービスを行っている。
北米火葬協会では、骨壷や納骨堂の他にも追悼用品を販売している。
火葬場は段ボール箱などに遺灰を入れて遺族に配送している。よく出る骨壷は175から300立方インチで、大人の遺骨を納めるのに十分の大きさである。
英国では家族が遺灰を撒いたバラ園に集まって追悼式を行う。家族が死者を追悼するためにバラの木の根元に故人の名前の記念板をつける費用は100ポンドで、これは10年間有効という。レンタルの再契約は可能である。このサービスはアメリカにも登場し、日本の過去帳のように「思い出の書」に故人の名前を書き残す方法もある。そこに散骨した死者の名前と死亡日を記入し、記念日にはその頁を開いて追悼するのである。
火葬が増えれば、これまでの葬儀会館を経営する葬儀社もそれを黙って見過ごしている訳にはいかないのは当然の反応である。そこで葬儀社でも火葬の取扱いをせざるえなくなっている。また、葬儀の「個人化」「追悼化」に対応することも考えている。「個人化」とは、伝統的な葬儀から個性的な葬儀にと変化していくことを指し、「追悼化」とは、遺体なしで葬儀を行うことさす。つまり火葬の増大によって葬儀なしのダイレクト火葬が増加したため、火葬後の「追悼」を行って儀式そのものを形は違うが継続させていこうという働きかけである。
日本はアメリカと違って火葬が中心とはいえ、宗教や風習が異なることから、アメリカからの影響が直接あらわれることは考えにくい。それでも散骨は欧米で行われていたものが、日本で取り入れられたということがいえる。また霊園のなかに散骨スペースを設けたりすることも今後出現することが考えられる。葬儀の「個人化」と「追悼化」もありえないものではない。現在は世界中の情報が同時に伝達される時代であるため、日本と、アメリカの間にある境界が分断され、いいものは抵抗なく取り入れられていくことが考えられるだろう。