1999.04 |
葬儀・告別式が終了すると、次は火葬場での勤行、骨揚げしたあとの勤行、そしてそれ以後の追善供養が行われている。今回は葬儀後の法要がどんな意味をもっているか、そのあたりをみていきたい。
仏教では火葬のことを荼毘と呼ぶ関係から、火葬場での読経を荼毘諷経という。棺を火葬にする前に、位牌を安置し、線香とローソクを献じて、最後の別れを行う。この時に読まれる経典は、禅宗では主に「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」、「舎利礼文(しゃりらいもん)」である。僧侶がまず最初に焼香をしたあと、親族の人々が順に焼香する。こうして遺族の焼香が終ったあと、僧侶は再び正面に進んで回向の言葉を述べる。
「諷経する功徳は、新帰元(新しく死亡した)○○○○信士(戒名)に回向す。茶毘の次いで報地を荘厳せんことを…」の言葉を述べる。これは、お経をあげたこの利益は、新しく亡くなった○○にもたらされる。火葬のあと死者が到着する地が、仏法の光りで包まれていますことを…という意味である。
昔は夜間火葬したこともあり、骨あげは翌日に行われた。現代では火葬を始めてから2時間後には遺骨を拾う事が出来る。この場合にも僧侶による読経があった。このときの読経を取骨諷経という。荼毘の場合と同じく、「大悲心陀羅尼」を読誦し、回向を行う。
骨壷に遺骨を納めたあと、自宅に帰り、遺骨を祭壇に安置し、その前に位牌を置き、水、線香、生花、ローソクを供えたあとに読経をする。これを還骨勤行ともいう。葬儀当日に初七日法要を行う所では、この安位諷経が初七日法要に代わることになる。
遺骨を墓に納骨する時のお経。遺族の立ち会いのもとで、僧侶が読誦して回向する。
忌日は命日とも言い、父母などの死亡した日を意味する。亡くなられた先祖を供養し、精進料理をとり娯楽を慎む日である。忌日といっても、仏教では死を汚れと見ないので、死を忌むという考えはない。命日は、命過日といい、命がすぎ去つた日という意味である。
また命日を精進日とも言う。仏教の修行では一定期間肉食を絶って、与えられた行に専念することから、精進と言うが、祖先の忌日に生きものの肉を食わず、酒を断ち、菜食する事を精進日と考える人が多い。
祥月命日という言葉は、儒教の言葉からきている。儒教では、先祖が死亡して13月の祭を小祥忌(しょうしょうき)と言い、25月の祭を大祥忌と言う。また毎年の死亡月を祥月と言うようになったともいわれる。祥はめでたいという意味があるが、死者を祖廟に神としてまつるので吉祭なのである。5月5日に死亡すれば、毎年の5月が祥月、5月5日が祥月命日にあたる。
開蓮忌は、死後3日目に行う追善供養である。葬式は死亡後2日目か3日目に行われるから、葬式をすませたあと、すぐに開蓮忌の法事を行うことになる。現在では還骨勤行や初七日法要がそれにあたるのだろうか。従って最近ではこの言葉は聞かれない。開蓮忌法事の起源は、『釈氏要覧』下巻の雑記に「三目斎」の見出しで
「北人亡す 三日に必ず僧を招いて法事を行う。これを見王斎という」
にあるらしい。『冥報拾遺記』に、北斉の梁氏が死に臨んで、妻に召使や馬を殉死させよと遺言を残した。このため召使いが殉死したが、そのうちの一人が4日目に生き返り、あの世での体験を話した。冥土に行って主人が鎖につながれ苦しんでいるのを見たが、3日目に見ると、鎖から解かれていた。その訳をきくと、妻子者が死後3日目に僧を招き、読経をしたため、罪障は消滅し主人はいいところに生まれたという。この話から3日目の追善供養が始ったといわれる。
人が死亡してから、7日、14日、21日、28日、35日、42日、49日に当る日に追善供養の法事を行う習慣が今でも残されている。この7回の法要のうち、35日と49日目の追善が特に重視され、このどちらかに、忌明け法要として親族知人を集めて法要が行われる。
関西では七七日の追善供養は、7日目にしないで、6日目、13日目、20日目、27日目、34日目、41日目、48日目に行っている。これは逮夜(たいや)法要の名残りである。
死亡後七七日の追善供養は、『梵網経』39条の、「父母、兄弟、和尚、阿闍梨の死亡の日及び三七日、四・五七日ないし七七日にも、大乗の経律を講説すべし」とあることが根拠になっている。また、『地蔵菩薩本願経利益存亡品』第七には、父母の命が亡くなった日に追福修善して、死者を助けるべきことを説き、
「更に死後、七七日のあいだ、広く多くの善を造れば、諸々の衆生を永く悪趣(地獄界)を離れ、生を人天に得、勝妙の楽を受けしむ」
とある。つまり法要をすれば、亡くなった家族だけでなく、地獄で苦しんでいる多くの死者も助けることが出来ると言っている。七七日の追善供養の功徳については、いくつかの経典でも取り上げている。死後7日毎に7回の追善を行う考えは、中有の思想にある。
「中有」は「中陰」ともいい、死んでから次に再生するまでの間をいう。人が死んで次の生に入る間に追善供養を営み、出来るだけよいところに生まれさせてやりたいという願いから、追善供養を行うのである。
追善法事は、一七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百ケ日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、(二十五回忌)、二十七回忌、三十三回忌、五十年忌、と追善する期日が定まっている。一七日から七七日までは普通に追忌と言い、一周忌からは年忌と言っている。一周忌の法事は死亡日が満一年目にめぐって来た日で、平成元年5月5日に死亡したとすれば翌年の5月5日が一周忌である。三回忌は満二年目である。
百カ日(卒哭忌)と一周忌(小祥忌)と三回忌(大祥忌)の三つは、儒教の礼法を仏教に取り入れたものである。中国では父母が亡くなると痛哭(つうこく)するのが礼儀である。『礼記』に「士は三ケ月、太夫は五ケ月、諸侯は七ケ月にして痛哭し卒わるを卒哭と言う」とある。百ケ日の忌日を士の卒哭忌である3ケ月をとったものである。
一周忌と三回忌は、『礼記』にある、「親死亡して13ケ月の祭を小祥と言い、25月の祭を大祥と言う」からきたものである。祥とは幸いの意味で、それまで身につけていた凶服を脱ぎ、吉服に着替える。この二つの祭を仏教に取り入れ、一周忌、三回忌とした。宋代に書かれた『佛祖統記』二十四に、
「百日、小祥、大祥、はすべて仏事として行う。儒教によるものとはいえ、よく釈門奉厳の福を修す、どうして信じないでおられようか。」とある。ただし、七年忌以後の年忌は、日本で始められたものである。
七七日までの法要のあとに、百日忌と一周忌と三回忌を加えた10の法要を十王供といい、中国でも唐の時代から行われていた。この十王供は『十王経』が根拠になり、死後冥界の10人の裁判官を巡るに際して、その十王を供養するものである。この場合、
初七日 泰広王
二七日 初江王
三七日 宋帝王
四七日 五官王
五七日 閻羅王(俗にいう閻魔王)
六七日 変成王
七七日 大山王
百ケ日 平等王
一周忌 都市王
三回忌 五道転輪王
この10の王の前を通って、それぞれの審判を受けるのである。しかし遺族が追悼供養をすることで、冥界では供養が行われたかを確認し、それが事実であれば死者の罪は許され、いいところに生まれることができるという。しかしこの『十王経』の場合は、四十九日を過ぎてもまだ、行き先が決まらない死者がいるということから、仏教以外の民間信仰が取り入れられて作り上げられた経典ということができる。
百カ日のあとは、一年、三年、七年などの年忌法要が営まれる。次は追善忌日と年忌の名称である。最初は忌日、次はそれを救う十三佛であり、最後は忌の名称である。
初七日 | 不動明王 | 所願忌 |
二七日 | 釈迦如来 | 以芳忌 |
三七日 | 文殊菩薩 | 洒水忌 |
四七日 | 普賢菩薩 | 阿况忌 |
五七日(三十五日) | 地蔵菩薩 | 小練忌 |
六七日 | 弥勒菩薩 | 檀弘忌 |
七七日(四十九日) | 薬師如来 | 大練忌 |
百ケ日 | 観世音菩薩 | 卒哭忌(そつこくき) |
一周忌 | 勢至菩薩 | 小祥忌(しょうしょうき) |
三回忌 | 阿弥陀如来 | 大祥忌(だいしょうき) |
七回忌 | 阿しゅく如来 | 休広忌(きゅうこうき |
十三回忌 | 大日如来 | 称名忌(しょうみょうき) |
十七回忌 | 慈明忌(じみょうき) | |
二十三回忌 | 思実忌(しじつき) | |
二十五回忌 | 大士忌(だいしき) | |
二十七回忌 | ||
三十三回忌 | 虚空菩薩 | 消浄本然忌(しょうじょうほんねんき) |
五十回忌 | 阿円忌(あえんき) |
忌明け法要は七七日だが、地域によっては五七日に行うところがある。その理由は、『十王経』によると、三十五日目が閻魔大王にあたり、そこで徹底的な結論が下されると信じられることと、一方その日に救う側にある菩薩が地蔵菩薩であることから、それに対する信仰があるからである。もっと俗っぽい理由としては、日が3カ月にわたる場合には、3月越しになり、身につくことを嫌って三十五日に法要を行うとする説がある。
七七日忌から一周忌までの追善法要は、奈良時代にはすでに行われていた。もっともそれは貴族の間のことで、一般庶民には縁のないものである。一周忌のことを当時「御はて」と言い、それ以降の供養は行わなかったことを示している。三回忌、十三回忌、三十三回忌の法要は、鎌倉時代に入ってから行われるようになった。
死者の冥福を祈るために供養を行うのは、どこに根拠があるのだろう。先に取り上げた『梵網経』に、「もし父母兄弟死亡の日、法師に依頼して菩薩の戒経律の講議をして死者を助ければ、死者は諸々の仏を見るようになって人・天上に生まれることができる」という。
『心地観経』には、「福利諸功徳を勤修すれば、その男女の追勝福をもって、大いなる光明が地獄を照らし、光の中に深妙の音を演説して、父母を開悟し発意させることができる」という。また『往生十方往生経』では、「命を終えた人は、中陰にあってはその身は小児のようであって、罪福がまだ定まってはいない。そこで福を修して死者の十方無量の刹土に生まれるようにと願うべし。この功徳を受けて必ず往生するだろう」とある。
鎌倉時代に活躍した日蓮(1222 〜1282)は、十三回忌に『南無妙法蓮華経』の文字を書いた卒塔婆を立てた人の話を聞き、「『南無妙法蓮華経』の七字を表せば、…過去の父母も、その卒塔婆の功徳により、天の日月のごとく浄土を照らし、孝養の人並に妻子は現世に寿命を120年保つことができ、死後には父母とともに霊山浄土に行くことができる」といっている。
浄土真宗の開祖である親鸞(1173〜1262)の語録『歎異鈔』に、「親鸞は、父母の孝養のために一遍でも念仏をしたことはない」とある。しかし浄土真宗では、追善供養をしないということはない。先に亡くなった人の年忌の日を縁として、仏恩報謝の勤めをするのである。
逆修は、生前に自分の死後の供養を行うことで、予修ともいう。最近はあまりこれが実施されているのを聞かないが、平安時代からすでに行われていたのである。最近では、少子化によって自分の死後の供養を心配している人も多いが、永代供養の他にこの逆修という方法も一考に値するのではないだろうか。
この逆修は、経典によると、死後に行う追善供養の7倍の効力があるという。『地蔵菩薩本願経』に、「もし男女が生きているうちに善きことを行わずに、罪を作った場合には、死後にその遺族によって追福を行うとも、その効力は7分の1を得るのみである。そして7分の6の功徳は生きている者にもたらされるのである。しかし、生きているうちに自らのために供養すれば、7分の7すべての功徳が得られるのである。」
では逆修をどのように行うのであるか。
自分がまだ生きているので、命日は分かっていない。しかしあらかじめ、初七日から三十三回忌までの十三仏事の日取りがきめられており、その日に法要を行うのである。
初七日法要を1月16日に、二七日を2月28日にと毎月1回のペースで法要を行い、11月は2度行い、最後の三十三回忌は12月13日に実施する。こうして自分の13回の供養を、1年ですませることができる。これをすませておくことで、かっては出陣に臨む武士も、死後の愁いもなく戦えたのである。
永代供養は、死後永代にわたって供養することである。また永代経は永代読経のことで、これは特定の故人や家に対する永代経と、春と秋に行う行事としての永代経がある。この供養はいつ頃から始められたかはわからないが、江戸時代中頃には行事としての永代経が行われていたようである。
最近では墓を購入するときに、管理料と永代供養料を支払うことがあるが、「永代」はいつ迄をさすのかは定かではない。三十三回忌を弔いあげとすれば、永代とは三十三回忌までという意味にもとれる。そういう意味では、きちっと年忌法要をしている家では永代経は必要ないことになる。しかし大乗仏教では、自分よりも他人を幸せにすることに力を尽くすので、そうした意味では、永代供養は祖先を含むすべての人々に対して、永久に勤めると考えればよいだろう。
死者に対する十三年忌以上、十七年・二十五年・五十年・百年などの遠い年忌法会。次は最近行われた宗祖などの御遠忌である。
平成8年9月30日(月)午後5時30分、比叡山延暦寺 根本中堂前広場特設会場で行われた。 催事タイトルは「天台大師報恩の夕べ」テーマは「天台大師1400年大遠忌法会」式次第は、
プロローグ:三国僧侶入場
1.開会のご挨拶
2.祝辞
3.法話 天台寺住職、瀬戸内寂聴先生
4.天台声明奉納
5.韓国舞踊奉納
6.中国の古典楽と和歌の奉納
エピローグ:三国僧侶による平和へのメッセージ
1998年(平成10年)は、浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如上人五百回御遠忌にあたり、各寺院で行事が行われたが、西本願寺では3月14日より、10期100日間にわたり厳修された蓮如上人五百回遠忌法要は、11月13日のご満座法要(法要の最終日)にて修了した。
平成14年(西暦2002)は、曹洞宗を開いた道元禅師が亡くなられてから750年目にあたる。この大遠忌奉修は宗門挙げての大報恩行で、既に宗門では着々と準備を進めている。
日蓮大聖人の遠忌報恩法要が、昭和56年10月25日、大阪にある七宝寺山で厳修された。
法要次第:総代の開会の辞、御宝前に献茶・献菓・献膳・献香・献燈・献華、献花、天童祭文、御宝前法楽荘厳の修法。敬白文、遠忌記念事業の報告。総代の謝辞。
最近の追悼式は、一周忌とか三回忌などという仏式にはこだわらない形も増えている。その理由として、複数の人が亡くなっている場合は宗派が同一でないことがあげられる。また公が主催する追悼式も宗教葬でないことがあるので、やはり三回忌とか七回忌などにはこだわらず、百周年などの数字が用いられる。