1998.07 |
変死とは自然死ではなく犯罪に関係するかもしれない死亡をさすが、変死者を発見した人は、警察に届け出なければならない。東京都23区の平成7年度の死亡者数は5万7千人、うち監察医務院が死体検案した数は9千人を超えている。つまり東京では死者の6人に一人の割合で検視したことになる。検視の結果、病死が7割、残りは自殺、不慮の事故の順である。
平成7年の死因の順位は、 1位=悪性新生物(がん)、 2位=脳血管疾患、 3位=心疾患、 4位=肺炎、 5位=不慮の事故、 6位=老衰、 7位=自殺、
8位=肝疾患 と続く。
5位に属する不慮の事は、交通事故を初めとしてさまざまな原因があり、必ず検視が行われる。不慮の事故による死亡数は平成7年で4万5千人を超え、死亡者数順では、(1)交通事故、(2)転倒・転落、(3)溺死および溺水、(4)窒息、(5)煙および火災、(6)中毒の順である。
変死を世界に広げれば、それこそ際限がないだろう。ワルチンスキーの『20世紀』に「20の変死」があり、そのなかから、3つ取り上げた。
賃貸集金人のウイリアム・ショーチスと彼の妻がしばらく姿をみせないので、心配になった友人は、警察官と一緒に夫妻の家に行った。中に入ると、階段の下に死亡している妻と気絶している夫が発見された。検視の結果、夫婦が階段を登ったところ、先にいた大柄の妻が足を踏み外して転落し、その後にいた夫をまきぞいにしたらしい。妻は脳震盪で死亡、下にいた夫は妻の体重にはばまれて身動きがとれず、重体のまま3日間そのままの姿勢でいた。(1903.8.13)
イギリスはキングス・リィンに住む、アレックス・ミッチェル氏が笑い死をする。1975年、TVのコメディ番組をみていたアレックス氏は、おかしくて笑いが止まらなくなり、約30分笑い続けたあと心臓不全で死亡した。婦人のネッシーさんはTV局に「最後まで主人を笑わしてくれてありがとう」と手紙を書いた。
キリスト教では、信者に頭から水をかけて洗礼する儀式を行うが、宗派によっては川に行き、頭まで水につかることがある。これは洗礼者ヨハネがイエスを洗礼した儀礼に則ったものである。ジョン・エドワード・ブルーさんがマサシューセッツ州の湖で洗礼を受けていたとき、牧師ともども足を滑らせ、後向きに水中深く沈んでしまった。牧師は助かったがブルーさんは帰らぬ人となった。(1984.8.13)
アメリカで発売された『死者の大きな書』というコミック本がある。これは死刑からエンバーミングまで死にまつわる話を漫画で紹介したものであるが、それに、「奇妙な死」と題して72の死に方が取り上げられている。そのなかから3点紹介すると…。
有名なロック・グループ「シカゴ」のメンバーの1人であったテリー・カースは、ピストルに銃弾が入ってないものと勘違いして、自分の頭に向けて引き金を引いた。しかし実際には弾が入っており、死亡した。1978年のことである。
アメリカの南北戦争中(1861〜65)に、陸軍の軍人313名が日焼けが原因で死亡した。
フロリダにある野球場で、試合中に1塁から2塁ベースにかけて落雷が発生し、出場選手3人が死亡した。スポーツ中に落雷で死亡ることは、日本でも珍しくない。
福島から上京した主婦(26歳)が、整形外科医院で乳房の整形手術を受けたが、そのあと突然死亡するという事件が起きた。死亡した女性は1月末に整形手術を受けたが、効果が思わしくないので再度同病院でシリコン注射をうった。その直後から容態がおかしくなり、死亡したもの。死因は不明という。(1967.2.22)
島根医科大で日本初の生体肝臓移植手術を受けた山口県岩国市の1歳9ヵ月の幼児が、8月24日多臓器不全のため死亡した。父親の肝臓の一部を移植してから285日目のことである。ただしこれは、医療事故でも変死でもない。(1990.8.24)
富山県新湊市八幡町の鍛治さん(71歳)が自宅で死んでいるのを、訪れた養子夫婦が発見。検視の結果、死後9ヵ月たっており、死因は心臓麻痺とみられる。一人暮らしの人口の増加で、死後何日もたってから発見されるケースが増えている。(1970.10.3)
すし詰めの国鉄阪和線の、通勤客同士が喧嘩、電車から降りた直後殴られた人が頭を打って死亡した。喧嘩の理由は背中を押されたのでかっとしたという。(1963.6.28)
炎天下、車のなかに寝ていた1歳児が熱射病で死亡した。家族は親子4人で熱海の後楽園に遊びに来ていたが、1歳の次男が昼食後に居眠りをしはじめたので、車の後部座席に寝かせて、親子3人でプールに泳ぎに行ったもの。1時間後に戻ってきた時には様子がおかしいので救急車で運んだが、すでに死亡していた。最近ではパチンコ店の駐車場に駐車中の車内に残された幼児が死亡するケースが増えている。(1969.8.5)
栃木県小山市遊園地で、アルバイトの高校生がジェットコースターにはねられ、全身打撲で死亡する。アメリカでは毎年遊園地で平均7人が死亡するというデータがある。(1971.8.18)
山口県宇部市の藤黒さん(95歳)は、商売の種物セールスのためにバイクを運転中、乗用車と衝突、頭を強く打って死亡した。(1973.8.19)高齢者が運転中に突然意識を失い、死亡するケースも増えている。
京都競馬場のレース中に、馬が接触して次々と転倒、この事故で騎手が一人死亡、馬一頭も即死した。昭和29年に中央競馬会が発足してからレース中の死亡事故は、この時が14件目。(1977.11.5)
神奈川県平塚市で、小学1年生の男子が15連発打ち上げ花火で遊んでいるうちに、最後の火薬が自分の左胸に命中して死亡。(1978.7.23)
神奈川県警察署の巡査(20歳)が、女ともだちのアパートで短銃で遊んでいるうちに実弾が発射、弾にあたった女性は即死した。男は西部劇のように引き金に指をつっこんで回して、革ケースに納めようとしたところ暴発したもの。(1978.12.27)
大阪市城東区の市道で、会社員がゴルフクラブを素振りした際に、通りかかった主婦の腹部に直撃。約2時間後に外傷性ショックで死亡。会社員は過失致死の疑いで逮捕された。(1986.5.9)
元旦から2日にかけて東京、神奈川などでモチをのどにつまらせて17人が窒息死をする。前年は27人で多少減った。多くが高齢者である。(1987.1.2)
大阪市に住む高校1年生の河田君(16歳)が、夏休みにカルフォルニア州レイク・エルシノ町でスカイダイビング訓練中に墜落死をとげた。高度4,000メートルから降下したが、パラシュートが開かなかった。(1987.5.15)
東京都港区六本木のディスコ「トゥリア」で、重さが2トン近い照明装置が突然落下。下で踊っていた男女17人が下敷きになり、男性1人女性2人が死亡。(1988.1.5)
名古屋市の白鳥センチュリーイベントホールで行われたプロボクシングで、TKO負けした勝又ミノル選手(20歳)が、試合後、意識不明となり収容先の病院で死亡した。日本ボクシングコミッションによると、試合が原因で死亡した選手は、コミッション設立以来勝又選手で19人目という。また野球でも、投球が頭にあたって死亡した事故もある。(1991.12.2)
三重県志摩町の水産加工場の一角にあるコンクリート製の冷蔵庫の中で、中学生2人が死亡しているのが発見された。警察の調べで、冷蔵庫はなかからもあけられるが、庫内は真っ暗なため操作がわからなかったらしい。死因は脱水症で、死後約3日と推定された。冷蔵庫における事故は多く、翌63年4月には熊本県阿蘇郡で4人の幼稚園児が冷蔵庫のなかで窒息死するという事故が起きている。(1962.8.25)
大阪市枚方市出口の淀川堤防で、無線誘導の模型飛行機が、近くに駐車していた乗用車のなかに飛び込み、乗っていた幼女に当たって死亡した。(1970.5.31)
沖縄県与那国島沖で地元の漁師糸数繁さん(81歳)が、かかったカジキと格闘中に海中に引き込まれて死亡した。彼は巨大カジキを追う漁師を描いたドキュメンタリー映画「老人と海」の主人公になったというカジキの名人。映画は沖縄で上映中であった。ヘミングウェイの作品『老人と海』もマカジキ捕りを職としていたが、命までは取られなかった。(1990.7.29)
東京発大阪行きの日航旅客機フォッカー3型が鈴鹿山脈を飛行中に、乗客の須山さん(27歳)がトイレの窓から飛び降り自殺をした。動機はホステスに失恋したためという。(1931.3.6)
同じ様な事件は1958年1月にも起きている。大分発岩国行の全日空機のダグラスDC3が、山口県大島郡上空を飛行中、乗客の一人(31歳)が乗降口のドアを開けて飛び降り自殺をした。なお彼は新婚旅行の途中であった。
東京荒川区のバーで、客の一人が「自殺する」といって爆弾の入った包みをもってトイレに入った。爆弾は爆発し、本人は死亡、店内にいた客は重傷を負った。自殺の動機は男が店のママに相手にされず、そのはらいせに死んだものと思われる。(1964.12.1)
68年10月、香川県の主婦が、スーパーから一枚のチョコを万引きしたと疑われたことを苦に、自宅で長男と長女を刺し殺し、自分も自殺を図った。しかし死にきれず殺人罪で起訴されていた。その翌年3月に父親と心中を図った。警察の調べでは父親が娘を殺し、あとから自分で首を吊った模様。(1967.3.1)
千葉県阿房郡に住む高校1年生から、毎日新聞社に一通の遺書が届いた。それには「死後の世界の存在を確認するために死んでみることにしました」とかかれていた。新聞社はすぐに手配をしたが、千葉県富津市金谷の鋸山山頂から飛び降り自殺をしたあとだった。(1973.4.17)
1月7日に亡くなられた昭和天皇のあとを追って、午後1時すぎに和歌山県の男性87歳が首を吊って自殺。茨城県の元海軍少尉76歳も自殺する。明治天皇が亡くなられたときには乃木大将が殉死したが、これが最後の殉死となるだろう。(1989.1.7)
ゴルフ場で落雷死する事件は珍しくない。73年には7月に佐倉市の佐倉ゴルフ場で、会社員の歯の金冠に落雷して死亡した。翌8月には日光市の日光カントリークラブで、会社員2名が死亡している。(1973.8.3)
北海道襟裳岬でマイカー9台が猛吹雪に埋り立ち往生。このため4人が排気ガスの中毒で死亡している。(1980.1.3)
茨城県竜ケ崎市のパチンコ店「ベリー・ハッピーピー」で、スナック従業員19歳が「スリー・セブン」を出し、興奮のあまり急性心不全で間もなく死亡。彼は前日未明まで働いて一睡もしていなかったという。(1983.11.13)
北海道帯広市にある国体スケート会場の調整コースで、静岡県の男子スピードスケート選手(44歳)がレース後突然に倒れ、病院に運ばれて死亡した。同選手は予選3組を1位でゴールインしたあと、調整滑走中に倒れたもの。(1989.1.29)
革新的な舞踊の世界を切り開いたアメリカの女流舞踊家のダンカンは、1927年9月14日、ニースで乗っていたオープンカーの後輪に長いスカーフがからまり即死した。車が発進した途端、車輪がスカーフを巻き込み、ひっぱられたダンカンは車の脇から放り出され、首の骨を折って死亡した。(50歳)
「風と共に去りぬ」の原作者であるミッチェルは、1941年8月、夫とともに映画館に行く途中、タクシー運転手の車に跳ねられ、5日目に死亡した。彼女は交通事故で死ぬことを予告していた。(48歳)
映画『風と共に去りぬ』でアシュレイ役をこなしたハワードは、1943年6月1日、リスボン発イギリス行の旅客機に乗りこんでいたが、6機のドイツ軍戦闘機の攻撃にあい死亡した。(50歳)
名曲「ムーンライトセレナーデ」で有名なミラーは、1944年12月15日、飛行機事故で死亡。イングランドの飛行場からパリ行の9人乗りノースマン機に乗り込んでいたが、ドイツ空爆から帰る英国空軍の爆撃機が落とした爆弾の爆風を受けて墜落、行方不明となった。(40歳)
映画「エデンの東」の成功で一躍有名となったディーンは、1955年9月30日午後、愛用のポルシェに乗ってサリナスの自動車レースに出場するため、130キロのスピードで運転中だった。交差点で横から来たセダンと衝突して即死。この灰色のポルシェは、彼が数日前に7千ドルで購入したばかりであった。24才
1961年4月に人工衛星で地球を回ったガガーリンは、1968年3月27日、訓練飛行中にモスクワの北東80キロの森に墜落死亡した。高度5,600メートル付近を飛び、滑走路に向かって降下中、大型軍用ジェット機がニアミスしたため、激しい気流が起こり機体を立て直すことに失敗したもの。
アメリカのグラマー女優として騒がれた彼女は、1967年6月28日午後11時、ミシシッピーのディナークラブでのショーを終えたあと、友人とマネージャーと3人の彼女の子を乗せてニューオルリンズに向かった。午前2時25分、ハイウェーはトラックが撒いた殺虫剤のため見通しが悪かった。運転手は前を徐行するトレーラに気づくのが遅く、彼女の乗る車はその後ろに突っ込んだ。車の屋根は切り取られ前座席に座っていた3人は即死。マンスフィールドの首は飛んだ。34才。
映画「裏窓」「上流社会」に出演、1956年にモナコ王妃となる。1982年9月13日の朝、コートダジュールの別荘から、娘のステファニー王女を同乗して、モナコに帰る途中40メートルの崖下に転落。グレース王妃病院に運ばれたが、翌14日午後死亡。検視の結果、グレース王妃が運転中、脳溢血を起こしたのが事故の原因だと発表。52才。
ナチス・ドイツ空軍の指揮者であったゲーリングは、1946年10月2日のニュルンベルク裁判で、15日以内の絞首刑を宣告された。死刑の前日の10月15日夜、彼はスキンクリームの中に隠しもっていた青酸カリのアンプルをかみ砕いて飲み自殺した。遺体は火葬にされ谷に捨てられた。(53歳)
ノーベル賞作家のヘミングウェイは、1961年7月2日、2連発銃を額に向けて発射した。彼の父も1928年に拳銃自殺している。(61歳)
1969年8月5日午前3時半、ロサンゼルスのブレントウッド地区の自宅のベッドで、電話の受話器を握ったまま死んでいるのを発見された。解剖の結果、死因は全臓器鬱血で、睡眠薬の過剰投与による死と断定された。(36歳)
アメリカ初の女性ロックスターである彼女は、1970年10月4日午前1時40分に、宿泊先のロサンゼルスのランドマーク・ホテルの部屋の床に倒れているのを発見された。検視の結果、ヘロインのうちすぎにより死亡と断定。彼女は火葬にされ、遺灰は飛行機でまかれた。(27歳)
死後も人気が落ちない歌手プレスリー。彼は1977年8月16日、東海岸にツアーに出発する予定だった。午前4時に起きてラケットボールをし、午前6時に部屋に戻った。午後2時、プレスリーは床に倒れているのを発見された。死因は不整脈で、血中から催眠薬やモルヒネなどが検出された。(42歳)