1998.03 |
最近の日本では、女性が遺言状を書くケースが増加している。残された有名人の遺書を見てみると、西洋では遺産についての細かい指示が記載され、一方日本では家訓や伝えたい事柄を残しておく事が多い。これは国民性なのか、それとも残すべき財産が少ないのか。それはさておき、単なる遺産分割を指示してあるだけの遺言書は魅力がない。しかし、これを残すことによって紛争が避けられるものなら、作っておいた方がよいだろう。
ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベル(1833〜96)は、ノーベル賞を創設したことで世界的に知られているが、その賞は彼の遺言にしたがって生まれたものである。つぎは、彼の遺言書のノーベル賞に関する部分である。
全財産はつぎの通り処理すること
遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、毎年その前年度に人類に最も貢献をした者に、その利子を賞金の形で与える。
右の利子は5等分し、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした者、化学の分野で最も重要な発見または改善をした者、生理学または医学の分野で最も重要な発見をした者、文学で最も傑出せる理想主義的傾向の作品を書いた者、諸国間の融和・常備軍の廃止もしくは削減・または和平会議の開催および推進に最も貢献せる者に、それぞれ一部を与えること。
右の賞は、候補者の国籍を問わず、最も賞すべき者に授与するのが自分の希望である。 1895年11月27日
ナポレオンの遺言書は、1821年8月15日、セント・ヘレナ島で書かれた。つぎはその最初の3か条である。
1. われはローマ教会の信徒として死す。50余年前、その胸に抱かれて生れたからである。
2. わたしの遺体はセーヌ河畔に葬ってほしい。わたしが深く愛するフランス国民の中にありたいからである。
3. わが最愛の妻マリー・ルイズは常にわたしに満足を与えて来た。そこで世を去るにあたって心からの愛情を捧げた。わが息子は未だ幼少のため、願わくば世のさまざまの誘惑に陥らないよう守りたまえ。
アメリカの紙幣にもなっている政治家、ベンジャミン・フランクリン(1706〜1790)は、遺言書に次の様に書いている。
握りの部分を、黄金で自由帽の形に細工したステッキを、わが友にして人類の友であるジョージ・ワシントンに贈る。もしこのステッキが王位を象徴するとしても、彼はそれに値し、それにふさわしい人物でもある。
アルゼンチンの実業家ホアン・ポトマーキは、1955年に死亡したが、彼の遺言書には、財産の一部を市の劇場に遺贈するとあった。ただしそれには条件が付いていた。
私は以前より俳優を希望していたが、才能がないため望みがかなわなかった。私は後年には市の実業界に重要な地位を占め、舞台に立つことは不可能となった。20万ペソ(500万円相当)を遣贈して基金とし、才能ある若き俳優に毎年奨学金を与えることとする。ただし、私の頭蓋骨を保存し、シェイクスピアの『ハムレット』を上演する際には、ヨリックの頭蓋骨として使用することを条件とする。
シェイクスピアの『ハムレット』には、王子ハムレットが墓場で道化師ヨリックの頭蓋骨を持って感慨にふける場面がある。ポトマーキは、死んでからその骸骨となって舞台に立つことを望んだのだ。
アメリカのジャーナリストであり新聞王のジョセフ・ピュリツアー(1847〜1911)は、1903年に文学とジャーナリズムに活躍した人に贈るピュリツアー賞を制定、またコロンビア大学にジャーナリズム講座を設立するために100万ドルを寄付した。彼は遺言のなかで、息子と子孫に対し次のお願いをしている。
「ワールド」という新聞を維持し完全なものとし、永続させる義務を申し付ける。この新聞を保持し発行するために、わたしは自分の健康と体力を犠牲にした。そこで単なる金儲けより高い動機から、これを公共機関として育成したわたしと同じ態度でその経営に臨んでほしい。
なお「ワールド」は彼の死後19年にして廃刊された。
ドイツの政治家ヒトラーは、1945年、自らその幕を閉じることになった。彼の遺言書には、ボルマン、ゲッベルス、そしてフォン・ビュローが証人として署名している。
闘争の年月を通じて、私は結婚の責任を負うことは出来ないと信じていたが、今日わが生涯の終わりを目前にして、私は長年真の友情を誓いあった一人の女性をわが妻とすることに決意した。彼女は、私と運命をともにするため、自らの自由意思で、敵の包囲下にあるこの都市の私のもとにやってきたのである。彼女は私の妻として、自身の意思で私とともに死ぬことを選んだ。彼女の行動は、私が国民のために働いていた年月の間に、われわれ二人が犠牲にしたものを償ってくれるだろう。私の財産は、なんらかの価値あるものはすべて、わが党に寄贈し、党が存在せぬ場合は、国家に寄贈する。国家も消滅していた場合は、私がなんら指示を与える必要はない。
(中略)妻と私は、敗北や降伏の屈辱を免れるため、死を選択した。われわれ二人の遺体は、私がこの12年間、国家のために毎日の大部分を捧げて働いたこの場所で、直ちに火葬にしてもらいたい。
ハワイのカメハメハ王家の最後の王女バーニス・ビショップは40万エーカーを越える土地を相続したあと、遺言書に学校の設立・維持のための信託財産を残すように指示した。
私はハワイ諸島にカメハメハ学園と称する全寮制の学校を設立し、維持を目的に、その信託財産に当てるため、残余の私の動産および不動産のすべてを、下記の受託者とその相続人、権利譲受人に遺贈する。私は受託者に対し、信託財産から入る収入の2分の1を越えない範囲で、用地の買収、学校の建築、必要設備の購入に至当と判断する金額を支出するよう指示する。また、受託者が遺産の残余を、至当と考える方法で投資し、その年間収益で、教師の給与、建物の補修費、その他の臨時費を支出し、またその一部で、孤児その他の貧困学生の育英資金に当てるよう指示する。育英学生の選定については、純血あるいは混血のハワイ人を優先とする。
ワシントンDCに行くと必ず訪れる場所にスミソニアン博物館がある。この博物館はアメリカで最も由緒あるもので、その基礎はイギリス人の遺産による。
ジェームズ・スミスソン(1765〜1829)は、裕福なイギリスの科学者で、成人してからをヨーロッパで過ごし、一流の科学者たちと交わった。彼はイタリアのジェノァで死亡したが、アメリカには一度も訪れていないのに、全財産を甥のヘンリー・ジェームズ・ハンガーフォードに、次のような条件をつけて遺贈した。
ハンガーフォードが子供を残さずに死亡した場合、あるいは、子供が遺言を残さずに、または21歳に達する前に死亡した場合、相続した遺産は、ワシントンDCに、スミソニアン・インスティチューションを設立するため、アメリカにそっくり寄贈すること。
ハンガーフォードは、1835年、子供を残さずに死亡し、その金がアメリカに贈られた。そして1846年スミソニアン・インスティチューションが作られた。
浮世絵の「東海道五十三次」で有名な安藤広重(1797〜1858)は、61歳のときに流行したコレラにかかり、死を覚悟して遺書をしたためた。
居宅を売って久住殿の借金を返済してほしい。
本や道具類を売り払って現在の場所の立ち退きを、人に相談のうえ決めてほしい。何事も金次第であるが、その金がないので、どうとも自由次第の身であるので、どうぞ納まりよい方法を考えて下さい。絵の道具や下絵のたぐいは弟子たちに形見分けとしてやってほしい。撰舎とおりんにはあり合わせの着物を分け、重宣には長い間一緒であったので、脇差し二本のうち一本どちらでもやるつもりである。
山陰・山陽10ヵ国を治めた毛利元就(1497〜1571)は、還暦を迎えるにあたって、3人の息子に、協力して毛利家を繁栄させることを願って遺戒をしたためた。
私が11歳の時、猿掛城のふもとの屋敷にいた時、井上河内守光兼の所へ旅の僧が訪れ、念仏の講を催された。そのとき大方殿もその座に出席された。私も同様に伝授を願い、11歳の時以来、今日まで毎朝のように念呪の行を続けている。これは、朝日を拝み、念仏を十遍ずつ唱えるのであるが、この行によって、来世のことは申すまでもなく、現世においても霊験あらたかであると聞いている。また、私自身もこの先例にならって、今生の願いをお祈りしている。もし、こうした祈願が元就一身の守りとなればと考え、特別な事と思われるので、御三方においても、毎朝この拝みをおこなうのがよいかと思う。これは朝日か月のいずれを祈っても同じと思う。(毛利元就の遺戒12条)
博多商人の島井宗室(1539〜1619)が、養子徳左衛門にあてて残したもの。彼は本能寺の変の夜に信長に茶会に招かれ本能寺に泊まっていた。火が本堂にまわったが無事脱出している。
一、朝ははやばやと起き、日が暮れればすぐに床につくように心がけよ。さしたる仕事もないのに灯油を使うのは無駄なことである。また用もないのに夜歩きしたり、他人の所に長居をするのは昼夜とも無用である。さらに、さしせまった用事は一刻も延ばすことなくすぐに済ませてしまうように。それを後でやるとか、明日にしょうなどと考えてはならぬ。時を移さずすぐにすませることである。
この遺訓は17条からなり、宗室はこれを養子徳左衛門から誓詞をとり、おのおの棺のなかに入れたという。
下野烏山の城主板倉重矩(1617〜1673)が、あと取りの重道にあてた遺言。
あなたは生まれつき飾りけがなく、真面目でありすぎて、素直でないところがある。そこで、よく人と親しみ、意見を聞き、下々の者までねんごろに言葉をかけ、自分に話しやすいように心がけ、身の上話をさせ、その人の才能を知るべきである。
家老や自分の気に入る者だけをひいきにしたり、自分の縁者をとりもち、本人に合わぬ役につけ、欲におぼれ贈物を好むような家老は、逆心同様に心得ること。そのような場合、自分にも私欲があれば、身をほろぼす敵と思い知るべきである。世間の主人は、このことをわきまえず、家に長く仕える者、あるいは家柄のよい者の子であるからと、当人に相応しくない役目に取りたて、同じように奉公をさせながらひいきの心によって使うため、下の者にこれを知られ、奉公を怠る者が多い。もっぱら、人をよく見て使うことが肝要である。
秀頼は、秀吉が57歳のときにもうけた子供で、当時6歳であった。秀吉の名前の後、五大老の家康、筑前、輝元、景勝、秀家が証人として記されている。これは現在でいう「緊急遺言」といえる。
秀頼が無事に成長するようにこの書き付けの衆としてお頼み申す。これ以外には何事も思い残すことはないので。
8月5日 秀吉
明智光秀が敗戦の4日前に細川藤孝にあてて書かれた手紙。遺書というよりも勧誘の手紙であるが、絶筆となった。
一、(細川)御父子とも、信長の死をいたんでもとどりを切られたそうだが、いたし方もないことである。自分も一度は腹も立ったがよく考えてみると当然と思った。しかしこうなった以上は、わたしに味方してもらいたい。
一、御父子に進上すべき国として、内々摂津(津の国)をと考えながら上京をお待ちしている。しかし但馬、若狭を望まれるなれば、それもまたお望み通りにする。
一、わたしが今度このような大事をあえて敢行したのは、婿の忠興などをひきたてたいためであって、さらに目的があるわけではない。ここ五十日か百日のうちには近畿を平定するから、それからは十五郎や与一郎などに天下を譲り、隠居するつもりでいる。
徳川秀忠の御子姓であった山口重克は、大阪夏の陣(1615)に加わる前に、妻に遺書を残している。それは細かな指示を与えている。
一、そなたの古い着物にかびがはえないように、解き放して、時々干すなどして、何事も油断のないように。
一、どこか財布に50文入っているから、そなたの方で使って下さい。
一、猫を目の前に置いて、よく飯、水を与えて養って下さい。
一、子供には2日に一度ずつ湯あびをさせ、八日から十日に一度は髪を洗い、毎日髪をゆうようにしてほしい。きたない遊びはさせないように。
(また自分が死んだあとには再婚を勧めている。)
一、その方のこと、似つかわしいところがあれば再婚してほしい。二人のこどものためにも、無理にでも縁につき、その助けによって子供を育ててほしい。男の身分にはかまわないが、心の頼もしい人を選んで、縁についてほしい。
無敵の剣豪であり、『五輪書』の著者の宮本武蔵(1584〜1645)は、死の7日前に「独行道」と題した一種の遺書を残している。
一、世々の道をそむく事なし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろずに依怙(えこ)の心なし
(途中略)
一、仏神は貴し仏神をたのまず
一、身を捨ても名利はすてず
一、常に兵法の道をはなれず
江戸時代の庶民は遺書など書かなかったのではないかと思うが、さにあらず。実はみんな書いていたのである。それは今日の法律のように遺産分割の基準が定められていたわけではないので、逆に遺書を残して事前に問題の起こるのを防いだのである。
慶安4年(1651)の「町中跡式の定め」に次のような規定がある。
一、町中跡式は、生存中に遺言状を作成する。諸親類、名主、五人組が立ち合い、町年寄3人が帳簿につける。
一、また存命でも病気をして書置きが出来ない場合には、諸親類や組の者が立ち合って、病人に言って書置きをするようにする。
もし書き置きがないままに亡くなった場合には、親類や町の者が立ち合って相続手続きを行った。
井原西鶴の『万の文反故』という小説に、
「将又甚六郎は臨終となったが、生前に確かに自筆で書置きを残したあと、年寄五人組に証人として加判をたのんだ。死後一七日過ぎてから蔵を開き、親類中が立ち合ってこれを確かめると、それぞれが取り分をわたしてほしいとの意見が出た。そこで目録の通り書き記して、あなた様にもこの飛脚にて所務分(指定された財産)を送りました。どうぞお受取りください」とある。
江戸中期の国学者である本居宣長(1730〜1801)は大変に几帳面な性格で、それが遺言のなかにもあらわれている。普通の遺言書では、家督や財産の指示が中心だが、彼の場合葬儀と墓についての細かい指示を残している。次は自分の墓についての指示である。
一、墓地7尺四方、真ん中を少し後へ寄せて塚を築くように。そのうえに桜の木を植えるように。塚の前には石碑を建てること。塚の高さは三四尺ばかり。芝を植え土を固くして崩れないようにする。のちのち、もし崩れているところがあれば、ときどき見回って直しておく。植える桜の種類は山桜の花のよいのを選んで植えてほしい。
伊能忠敬(1745〜1818)は、江戸に出て当時の天文の第一人者である高橋至時に測量を学んだ。51歳の時である。それから72歳までの17年間に、測量のため3万5千キロを歩いた。彼は病の床で次のような遺言を残した。
「余のよく日本測量の大事業をなすを得たるは、まったく先師高橋先生のたまものなれば、よろしく先生の墓側に葬り、もって謝恩の意を表すべし」
彼は、遺言通り下谷源空寺の高橋至時の墓の隣に納められた。
海軍軍人佐久間勉(1879〜1910)は、1910年初の国産潜水艇の一隻の艇長として乗り込み、呉に向かう途中で沈没、全員死亡した。残された遺品のなかに艇長の手帳があり39頁にわたって言葉が残されていた。
「小官の不注意により陛下の艦を沈め部下を殺す、誠に申し訳無し、されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着に事を処せり…謹んで陛下に申す、我が部下の遺族をして窮する者無からしめ給わらん事を、我が念頭にかかるものこれあるのみ」
(ひらがなの部分、原文カタカナ)
明治後期の画家青木繁(1882〜1911)は故郷の久留米に帰り、窮乏のなかで生活を送った。死の4か月前に書いた手紙のなかに、
「当地にて焼き残りたる骨灰はついでの節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めてくだされたく、小生は山のさみしき頂きより、思い出多き筑紫平野を眺めてこの世の怨恨と憤まんと呪そとを捨てて、静かに永遠の平安なる眠りにつくべきそうろう。」
とある。
日本人登山家のパイオニア辻村伊助(1886〜1923)は、38才の時に関東大震災で死亡した。焼けあとから発見された彼の遺書には、
「遺骨または灰をなるべく保存せざること。万一遺灰を保存するときは、ごく小量に留め、適当の時期に、スイス国内高山の頂きに埋めるか、あるいはいずれかのクレバスに投ずること」とある。なお遺骨は比叡山延暦寺に納められた。
雑誌『文芸春秋』の生みの親で、作家の菊池寛(1888〜1948)は、新年を迎えるたびに遺書を書き直していたという。そのなかの一節
「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。」