1996.02
江戸時代の死亡記事

  人命の尊さは、いくら口で語っても表現できるものでないし、単なる道徳論に終わってしまうのが関の山である。しかし人命が本当にはかなく尊いものと感じることは、人の死に直面したときであろう。また人の死をニュースで聞くときも衿をただされる思いがするものである。そんな訳で今回は死亡記事を取り上げた。それも江戸時代の。江戸時代後期の平均寿命は男子20.7歳、女子28.6歳といわれる。しかしこの低さは乳児や幼児死亡が全体の7割以上を占めていることが理由で、成人した者(21歳以上)の平均死亡年齢は男子61歳、女子60.1歳で、特別低い値とはいえない。当時話題となった死といえば、やはり殺人や情死である。


●主殺し

金貸し鉄五郎を深夜殺害

  文化13年(1816)3月29日夜、内肩鉄五郎宅へ何者かが忍び込み、鉄五郎(72)、妻(73)を殺害したあと、金を奪って逃走した。殺された鉄五郎は、元代官で多額の金を所蔵しており、日頃から高利で金を貸し、期限が来ると厳しく取り立てをしていたといい、犯人は借金をしていた者といわれる。しかしその後、食事もわずかしか施されなかった養子與八郎に疑いがかかり、取調べを受け、拷問にあい翌年4月獄死する。(「半日閑話」543頁)

 

●親殺し

母殺しの犯人の人相書

  安永6年(1777)6月15日、木挽町5丁目の歌舞伎役者坂田幸之介は、その母いちを絞め殺して逃走。人相書きが出される。「年齢23才。年齢より老けてみえる。越中富山生まれ。中背より少し高くやせ形。平顔で色白く少々赤みあり。頬骨出る。鼻は小さく鼻の先に疱瘡のあとあり。目は普通で黒目勝ち。唇は薄く、下唇前に出て歯は細く揃う。眉毛薄い。越中言葉で弁舌さわやか。その時の衣装は、木綿紺がすり縞反物、木綿の花色帯を締めている。」(同上517)

 

●夫殺し

2度目の夫殺しの果ては

  文政元年(1818)6月11日夜、青山原宿留守居同心の女房(40)は、かねてから用意した白かたびらと脚絆という格好で、眠っている主人(20)の蚊帳の中に入り、刀を主人の胸元を一刀突き。そのあと蚊帳をはい出て外の様子を伺っていたところ、主人は血のついた刀をもつ女に驚き、急いで外に逃げ出した。女は逃げ出す主人の背中から切り付け、殺害。この騒ぎを聞きつけた隣の大屋の妻(40余)は、刀をもった女を見、彼女の刀を取り上げ、近所の人々の協力で彼女を捕まえる。犯行の動機は、先年彼女は、先の夫を現主人と共謀して毒殺し、将来を約束した。しかし最近夫に愛人が出来、一向家にに寄り付かなくなったため、嫉妬のために凶行に及んだもの。(同上555)

 

●妻殺し

女房に恨みの刃

  寛延2年(1749)6月、下総国の藤兵衛の妻は、日頃より、夫の藤兵衛に対し夫を夫とも思わず悪口を言っていた。ある日藤兵衛が稲刈りから食事に帰って来たところ、藤兵衛をしかりつけた。藤兵衛がこれに口答えすると、「切れるなら切れ」というので、さすがの藤兵衛も脇差を取り出し、妻いらを切り殺し、自分も自害したが失敗する。そこにいらの母ならびに親類どもがあらわれ、「たとえ口答えしたとしても、切り殺すことは不届きである」として、藤兵衛を解死人(殺人罪)として訴えた。差図は、妻は夫に対して法外な態度をとっために、切り殺されたので、解死人にあたらないとして無罪となる。(刑名副律)

 

●妾殺し

両国油屋の妻、夫の妾を殺す

  明和6年(1769)5月23日、両国五十嵐という髪油の店の妻が、夫の愛妾に嫉妬してこれを殺害したあと、自害する。事件は大変に評判となり、堺町人形座で新浄瑠璃として取りあげられ人気となる。その題目は、「上総国本妻下総国忍妻 艶油恋の夜嵐」(「半日閑話」456)

 

●妊婦殺し

  貞享3年(1686)6月8日に行われたお裁きの1件。馬喰町の下人吉兵衛は、奉公先の娘はつと密通し、懐妊させる。吉兵衛はこのことを主人に知られることを恐れ、同業者の次兵衛に金1歩を渡して、堕胎薬の調合を依頼する。そして6月4日、この薬を飲んだはつは流産し、その後死亡。吉兵衛は同年8月9日、死刑となる。(御仕置裁許帳6)

 

●嬰児殺し防止策

  天明4年(1784)、村々は流行病のために多くの男女が死亡した。また親がその子を殺すという悪風俗が広がった。これも貧苦がもたらした所行であるためとして、寛政2年(1790)より、初産を除いて2人目より赤子育成の費用として、7夜過ぎに金2分、12か月目に又2分、都合1両づつ下された。このことを試みに5年間続けようとしたが、寛政9年に至ってまた増えて、7夜過ぎに1両、12か月目に1両。計2両づつ配給された。(羽林源公伝)

 

●心中

大河の心中で経費20両

  男女の心中を当時は「相対死」と呼んだ。この罪を犯した者は、男女ともその死体を埋葬することは許されなかった。2人のうち一方が生き残った場合には殺人罪として処刑され、2人とも生き残った場合には、3日間人目にさらされたうえで、非人の手下となることが決められていた。
  文化元年(1804)5月6日の夜、26、7の娘が、20才余りの男子と大河に身を投げて死亡する。いずれも桔梗縞の浴衣を着、緋ちりめんの帯で足と足とをくくりつけていたと言う。翌7日には船で見物する人が多く出た。娘は小梅村の名主の娘、男は百姓ともいう。または八丁堀あたりの者ともいう。ある人の話では、女は高輪引手茶屋鈴木という者の娘、男は近所のかんな台屋の息子で、妻子もちで妻は臨月という。高輪しがらきという茶屋に書き置きが残されていた。45日後に、元船の船頭の力をえて検使が行われ、遺体は霊厳寺に葬られた。その雑費は20両余りかかったという。(同上431)

 

●溺死

屋根に溺死人落ちる

  浅草堀田原堀筑後守屋敷に怪異な出来事があった。寛政12年(1800)4月7日の昼、屋敷の奥方の居間の屋根の上に物を投げる音がした。何事かと見にゆかせると、何日もたった溺死人で悪臭を発していた。漸々に取って寺に葬った。屋敷でもそのことを秘密にして人には語らないという。(「半日閑話」433)


永代橋落ちて多数死亡

  文化8年(1811)8月、深川八幡恒例の祭りの日、永代橋が大勢の見物客の重みで落ち、多数の人が水死した。橋は1時にかかった重量に耐えられずその半ばでたわみ水中に落下したが、後の群衆はそれに気づかずさらに渡ろうと進んだ。このとき一人の武士が、刀を抜いて頭上で振りかざしたため、多くの人は驚いて後に逃げ戻ったため、初めて前が開け橋が落ちたことを知り、川に落ちる被害から救われた人も多くいた。こうした雑踏のなかでは大声を出しても人の耳に入らず、数百人を押し戻すことは出来ないものであるが、一人の機転によって多くの人命が救われたのである。その時一命をとりとめた女性の話では、「橋が落ちたとき、多くの人々が滑り落ち、前にいた者は押されるようにして水中に没し、その下にある人は、人々の上に乗ったり、下になった人はその重みで溺死した」という。町奉行組同心小川某氏の話では、水死者152人、うち130人の遺体は引き取られ、7人は引取手なし。15人は引取られた後に死亡。また職業のわかった者のうち、22人は侍。2人は僧侶。15人は婦女という。また流されて行方不明になった死者の数は、検討がつかないという。(「甲子夜話」2-45)

 

●焼死

江戸の大火

  文政12年3月21日の火災について、『甲子夜話・続編』では、およそ60頁に渡ってその時の様子を記録している。大変に興味深い記録である。

  ・新川真木屋の老婆、火を避けるとき、金200両を懐中に入れ、陸路は行くことが出来ないため、舟に乗って川筋を逃れたが、その舟が焼け、老婆は金を懐にしたまま、水上で焚死。

  ・堺町中村屋の向かえにそば屋があり、その主人も行方不明。店の者が方々を尋ねたが手掛かりなし。その家の前に焼死人あり。遺体は衣類ともども焼け焦げ身元を知る手掛かりはない。よくよく見てみれば、その家の主人である。店の者は大変に驚いて、早々に引取り弔いをする。目の前に2日ほど置いてあっても(よもや主人と思わず)気に止めず、よそを探しまわっていた。混乱している様子がこれで察することが出来る。

  ・霊岸嶋に酒問屋の集まる茶屋がある。ここも焼けて、鎮火したあと灰燼をとりのぞいたあとに、井戸のなかに遺体が発見された。遺体を引き上げてみると、さらにその下にも遺体がある。このようにして14人まで引き上げた。火を避けるために井戸のなかに身を隠したのであろう。それが命取りとなった。

  ・材木町陶器屋の女将、2歳の子を懐に入れ、6歳の子の手を引いて、火の中を逃げていたが、群衆のなかにあって出ることもかなわず。やうやく群れのなかから抜け出て、やれやれと手にひいていた子をみると、腕ばかりでその体はなし。女将は大変に驚いて、心魂も消え失せ、驚きの余り、2歳の子を懐にしたまま川の中に身を投げて死亡。ほとんど戦場様相である。


身延山七面堂焼失で60人焼死

  安永4年10月11日の夜、甲州身延山七面堂が炎上。参籠の者60人程死亡する。(「半日閑話」493)

 

●喧嘩による殺人

町人を殺した武士、島流しに

  文政元年6月頃、松前奉行の家来の近藤斧介は、下谷辺りの往来で駕篭かきとぶちあたり、無礼を咎めたところ口論となる。斧介が刀を抜くと駕篭かきは駕篭を置いたまま退散。そこで斧介は駕篭に乗っていた町人を切り殺した。そこを辻番人が駆けつけたが、これも切り殺した。そののち斧助は捕縛され牢屋に預けられることとなった。この牢内名主は新入の者に金を要求し、金のない者にはてあらい仕打ちをしていたが、斧介が金のないのを知ると、悪口雑言をはいた。これに対し斧助は、自分より劣る者を仲間にして、牢内名主の股を引き裂くという非道な行為を行った。8月にこの男は、島流しとなる。(同上556)


酒屋の亭主足軽に殺される

  文化13年(1816)2月、麹町貝坂の酒屋に足軽風の男3人が酒を飲みに立ちよった。代金を置かずに帰ろうとするので、主人がそのうちの一人を捕まえて問い詰めた。男は刀を抜いて抵抗し、主人の肩を突いたため主人は即死する。店の手代がこの3人を取り押さえ、指を1本1本折って見せしめにする。この件により手代は遠島の刑となる。(同上542)


上野山下で侍の喧嘩

  文化7年(1810)5月4日朝、上野山下で同じ藩の侍が口論の末に刀を抜きあい、一人の左腕を切り落とした。切られた男は、まだ近辺の屋敷も戸が閉められていたので、茶飯屋の亀屋の店の者が、戸を開けたのを幸いに、店に入って倒れた。そして、「連れが向こうの水茶屋にいるので呼んでくれ」という。驚いた店の者が水茶屋に行くと、もう一人の武士が自分の咽を突こうとしてあやまってえらを切り、苦しんでいる。この様子を見た男は、慌てて帰りそれを告げた。これを聞いた侍は刀を持って店を出ると、右手で相手の首を打ち落とし、自分も倒れて死んだ。その日の夕暮れ、親類の者が来て、双方とも遺体を引き取った。2人とも死亡したので事ゆえなく、遊所からの帰りと想われる。2人は水道橋内松平壹岐守殿家来で、いずれも衣服相応で袴を着ていた。喧嘩の原因は不明という(同上433)


放蕩ご隠居、殺される

  文化13年、松平伯耆守は隠居の身でありながら放蕩三昧。吉原の仮宅へ毎夜徘徊するため、家老は家の恥を考えてたびたび忠告していたが聞き入れられない。そこで家老は覚悟を決め6月下旬再度注意をしたところ、伯耆守は大変に腹を立てて刀を取り、家老を殺そうと刀を抜いた。そこで家老も刀を抜いて対峙し、もみあった末相手を刺し殺し、生き残った家老はその場で切腹をした。(同上547)

 

●腹いせ殺人

銃砲による殺人で死刑

  文政元年(1818)7月14日頃、松平左京太夫の臣、栗西市之丞は、鉄砲で青山同心町借地の植木屋の娘ときを殺傷。ただちに逮捕され鈴か森で死刑となる。栗西市之丞はかねてより植木屋の娘ときと交際をしていたが、そのことを藩主に知れ、江戸づめを解かれる。そこで男は女に国元に誘うが、辺鄙なところは嫌といって同意しなかった。そこで市之丞は鉄砲を取り出し、玉と石を込めて女を射ったところ、石は筒に残り、玉は女の腹に命中し苦しんで死亡。取調べに対して、「その女は畜生同然の者であるので、刀を用いるのは汚れるため、猛獣のつもりで鉄砲を使った」とのこと。犯人の首がさらしてある鈴か森の捨て札には、ご法度の武器を使用した罪のみが罪上に上げられ、婦人の死については記されていないという。(同上530)

 

●切腹

家老、責任を取って切腹

  安永4年2月18日頃、大家の奥家老、堺町の茶屋の2階にて切腹。これは、市村座芝居見物に奥方が行かれる用意に、桟敷を予約しておいたのであるが、その日になって桟敷がふさがっており、言い訳が出来ないために切腹したもの。(同上491)

 

●疫病

疫病流行に人参の配給

  安永元年(1772)に流行した疫病が年を越し、春より夏に至って死亡者が多く発生した。品川新宿の内計は800人。6月3、4日頃、疫病流行の対策として江戸町々に、残らず一町につき人参五両ずつ、公より配給された。(同上479)


麻疹(はしか)流行で幼児の死

  享和2年(1802)、春より夏にかけて風が海内に吹き荒れた。その翌年の春から秋にかけて、糠瘡が天下一斉に流行する。(「麻疹約説」)。春2、3月頃から麻疹が流行。この麻疹によって死亡した者は10人に1人で、それも他の疾患が伴うかあるいは疹(出来物)のあと保護しなかった場合であって、発疹のみでは死なない。ただ出生したての乳児が感染した場合には死を免れることは出来なかった。妊婦は疹熱のために堕胎した。この年の夏から秋にかけて多くの小児が葬られた。皆疹のちの症状である。今年は例によって小児の死亡、傷産するものは幾千万人。(「夢の代」)4月から江戸は麻疹が流行し、貴賎を問わず、皆この病気に感染した。


コレラの流行

  安政5年(1858)6月下旬、東海道筋より暴瀉病がはやり初め、近国一円に広がって、この病に犯されて、九死に一生を保つものはまれであった。大江戸は7月の上旬、赤坂辺りに始まり、霊岸島辺りにも多く発生して、日をへずしてあちこちに移っていき、8月上旬から中旬に至ってこの病が倍々と盛んになって、死亡者の多いところでは1町に百余人。少ないところで560人出た。葬礼の棺が、昼夜を問わず大通りや小道に連なっていた。「コロリ流行記」

 

●過労死

川井越前守死去で落書

  安永4年10月20日、勘定奉行川井越前守死去。49才。同氏は8月中より田安家老役を兼務し、その手当てとして千俵を受け取っていた。(死因は過労であろう)それについての落書

  兼役(倹約)は、身を絶やす(田安)べき前表(千俵)か、四十九(始終苦)にして死ぬは川井(可愛)や

  (「半日閑話」490)

 

●凍死

寒気到来で死者多数

  安永3年(1774)この年の冬は寒気甚だしく、河川も凍りついて船の通行にも影響が出た。代官伊奈氏は命じられて、河川の氷を流す作業を行った。利根川では小舟に乗った4名が寒さのために死亡した。この冬は雪は少なく、2度ばかり少し降った程度である。(同上487)

 

●病死

役者市川中車死亡で未曾有の会葬者

  安永6年7月3日、役者の市川八百蔵中車死去。都中の者が会葬に参列し、その数数千人。古来俳優の者が死亡してもこのようなことはなかった。法号実応中車真解浄土という。(同上517)

 

●墜落死

少女井戸へ墜落

  文政元年6月14日、山王祭りの夜、さる旗本この祭りに娘を連れて行ったが、人込みのなかではぐれて行方不明となる。色々と手を尽くしたが遂に発見出来なかった。7月2日になり、空き家になっている隣家が、伸び切った庭の草刈りをしていると、子供の下駄が出てきた。そこで翌日その下駄をもって見せにいくと、確かに娘のもの。そこで下駄のあったところに行くと、そばに古井戸があった。そこで井戸掘り人を呼び中を探させたところ、中から少女の死体があがった。懐の中にはほうづきがあり、少女は古井戸のそばにあったほうづきを取ろうとして誤って中に転落したものと思われる。(同上557)

 

●誤殺

女房を誤って切殺す

  万治3年(1660)6月27日、湯島四丁目の太兵衛の家に泥棒が侵入。物音に女房が気づいて、太兵衛に知らせ起こした。賊はこの間に表から逃げ出したが、裏の戸口に女房が立っていたので、太兵衛はこれを賊と勘違いして切り殺した。太兵衛は取調べの上、入牢。同年10月死罪となる。(「御仕置裁許帳」4)


オランダ船の祝砲日本人を誤殺

  文政元年(1818)11月9日、長崎港停泊中のオランダ船が国王子誕生を祝って祝砲を2発射った。大砲の弾は丁度そのそばにいたオランダ人ヨオセフスミット、水夫源助、喜三郎の乗った小舟にあたり、うち喜三郎が行方不明となった。長崎奉行は死亡した喜三郎に法事料として銀200目、家族扶助米として3斗俵20俵を贈った。(長崎犯科帳)

 

●過失致死

猟銃で人を射殺

  秩父郡上吉田村の百姓万右衛門が、猪狩りに行き、畑に猪を追い詰めた。持っていた鉄砲の弾が近くの岩に当り、それが跳ね返って三乃丞という者にあたった。三乃丞はその傷によって死亡。万右衛門は解死人(殺人犯)であるが、三乃丞がまだ息のある間に、親族が確かめたところ、日頃から恨みをかっていたわけでもなく、不慮の怪我であったため、死亡したとはいえ、御仕置には及ばないとの考えを明らかにした。そこで鉄砲を射つときは十分に取り扱いに注意しなければならないが、それを怠ったための事故として、追放となった。(「公裁秘録」)


子供の遊びで死亡

  武州東葛西領鎌田村半助(13歳)は、与助という者と遊んでいるとき、半助の持っていた小刀が余助にあたり、その傷が元で死亡した。親の藤右衛門は解死人(殺人)免除の出願をしたため、解死人とはならなかった。ただし親藤右衛門の家に百日押込という判決が申し渡された。(公裁秘録」)

 

●病者遺棄

  寛文(1664)4年7月、桶町一丁目弥兵衛は、兄の半左衛門が長く患っているため、この兄を夜8時過ぎ頃に両国橋に連れていき、橋の上から川に突き落とした。これを猟師が目撃していたため、弥兵衛は捕えられ取調べを受けたあと、5日間橋において晒し、9月11日浅草で獄門(死刑)となる。

 

●死体遺棄

  貞亨5年(1688)長崎は榎津町の髪結い職人市右衛門は、同業の市郎兵衛が宿もなく病気になったのに同情して自宅に引き取って看病していた。しかし病気が長引いて世話をすることも出来なくなった。そこで病人の兄・古心が大音寺の僧侶ということを聞き、病人を車に乗せて寺まで引いて行った。しかし当の兄から面倒を見ることは出来ないと断られ、しかたなく再び病人を連れて帰る途中死亡する。その知らせを古心もって行くと、何の返事もないので、葬儀を出す費用もないので、こっそりと一ノ瀬墓地に遺体を運び、そこに放置しておいた。この咎めにより、市右衛門と古心の両名は長崎10里四方の追放となる。(長崎犯科帳)

 

●生前葬儀のはしり

  熊本の城下の山手に成道寺という禅宗の寺院がある。この寺の檀下の由緒ある家老職にある人は、日頃から仏教に帰依しており、ある日住職に「人生1度は野辺送りに逢うものである。私の命ある間に葬礼をしてほしい」と願い、棺はもとより、葬列につきものの幡燈、香花の類まですべての用意を整えた。そして自分は、死後の白衣を着て棺の中に入り、寺院で和尚から引導を受け、棺前の読経をつつがなく終了、埋葬される所で棺から帰還した。その後、「吾はすでに死せり。そののち真に死せば仏法によるべからず」と言い残し、葬送の時には、出陣のごとき格好をし、従者もすべて鎧を身に着け、旗、槍、弓、鉄砲を携えて行列し、本人も甲冑を着けて葬られた。(甲子夜話89)

 

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