1996.01
悲嘆の歴史

死と同居した西洋の伝統

  タブーとされる「死」も、末期の患者に病名を知らせ、終りの準備を行っていた時代があった。フランスの民俗学者であるアリエスは、「死をなじみ深く、身近で、和やかで、大して重要でないものとする昔の態度は、死がひどく恐ろしいもので、それをあえて口にすることも差し控えるようになっているわれわれの態度とは、あまりにも反対です。」といっている。
  現代では、死を間近かに迎えた本人や家族に対し、「死」は口に出来ないテーマであるが、そのように変化したのはそんな昔のことではないとアリエスは言っている。では「死」はいつ頃から恐ろしいものとして感じられるようになったのか。西洋では20世紀の中頃から、その変化が顕著になったといわれる。その理由は二つある。

 

死がタブーとなった理由

  アリエスによると、今世紀に入って人々は、「人生とは幸せであることが大切であり、死の苦しみや醜さは、幸せの生活を混乱させるもので、出来るならばそれを見せないでおきたい」(『死と歴史』70頁)と考えるようになったと言う。そうした考えを起こさせる原因の一つが、人が病院で死ぬようになり、死が(醜いもののように)人の目から覆い隠されていったためであると言っている。
  それ以前には、人は自分の寝室で死を迎え、死が近づくと、多くの人が彼の部屋に出入りして、最後の別れを述べたりした。しかし時代の変化につれ、死の指導権は本人から遺族へ、そして今日では医師と看護スタッフに移ったという。
  病院で末期患者を扱う医師たちに課せられた役割の一つは、生き残った遺族を混乱させないような形で、患者に死を迎えさせるようにすることである。一方遺族に対しても課せられた課題があった。それは、人前で悲しみや苦しみをあまり目立った形で表現しないことである。

 

日本の場合の「タブー」

  こうした状況は日本でも同じように起こっている。「死」は病院の一見清潔な医療機器の背後に隠され、家族は末期患者に病名や病気の進行状態を口にすることはタブーとされる。今日「死」や「葬儀」がタブーではなくなったのではなく、その実態は「死」が厚化粧して、安全で危険がないとされる場面で語られているにすぎないようである。
  では一見進歩と見えるこうした状態が、抱えている問題とは何であろうか。それは末期患者の場合、死を前にした苦悩を誰にも相談したり告白出来ないまま、悶々として死んでいくことである。またそれを看取る家族も、相手を気づかうがゆえに「死」の話題を避け、お互いに心を秘めたまま死を迎えることである。このため「末期患者」は、自分の本当にやりたいことや言い残したいことを秘めたまま死を迎えることになる。またそれを看取る家族も、自分の抱える悲しみや苦悩を押し隠したまま生きていくことになる。では日本人はいつ頃から、「死」や「悲嘆」をタブーとして秘めるようになったのだろうか。一つには西洋社会と同じく、人が病院で死ぬようになってからということが通説となっている。では昔はどうだったのだろう。

 

王朝時代から中世人の悲嘆

  平安前・中期の世相を描写した『源氏物語』には、当時流行していた末法思想が、仏教界のみならず一般思想界にも影響を及ぼしていた。 仏教は日本人に「死」について考えることを教えたが、またそれを克服する知恵も授けるはずであった。しかし、死後浄土に生まれるとされる死者ばかりではなく、生きていく者にも力を与えるものが必要であった。それは「和歌」というものであった。それでは当時の人々の日記から悲嘆と慰めについて見てみよう。

 

母の死

  それでも、母親が健在だった間はまだよかったが、その母も、久しく煩って、秋の初め頃、ついにはかなくなってしまった。全く途方に暮れた。この侘しさはたとえようもない。(中略)周囲の人たちは長い間、煩って亡くなった人のことは、今はもう甲斐ないことと諦めるにつけ、この私のうえをひどく気遣って、「このうえはどうしたらいいだろう。ああしてみては、こうしてみては」と、言いながら母の死を悲しむ涙にかさねて泣き惑うのだった。(円地文子訳)
  これは平安前期の右大将道綱の母が記した『かげろう日記』から取ったものである。時は964年。次の場面では、この母の一周忌を終えた時の心境を記録している。
  1年の忌みも明けたので、今は喪服を脱ぎ、鈍(にび)色のもの、はては扇に至るまで祓い清めながら、

  藤衣ながす涙の川水は 岸にもまさるものにぞありける。

  (今、喪服を祓い流すにあたって、とめどもなく流れる新たな涙の川は、岸にも溢れるほどで、着ていた時にも増して悲しいことだ) と思われ、つい泣きくずれてしまった。
  その後、相変らず、ものはかなく所在ないままに、琴の塵など払って弾くともなしに掻き鳴らしてみたりする。もう、喪の忌みも過ぎ、何事も帰らぬ過去となってしまったのに、それでも、母さえ生きていてくれたらと、切ない思いにさいなまれる。

 

乳母の死

  『更級日記』 は菅原孝標(たかすえ)の娘の日記で、1020年9月に13歳で筆を起し、1059年、夫橘俊通と死別した頃までが書かれている。この日記のなかにいくつもの悲嘆の場面が登場してくる。
  その春、疫病のために世の中が大層騒がしくて、まつさとのあたりの月を感慨深く眺めた乳母も、3月朔日に亡くなった。せんすべもなく悲しいので、物語を読みたい気持ちも起こらなくなってしまった。終日ひどく泣き暮らして外を眺めたところ、夕日がはなやかにさしているところへ、桜の花が残りなく散っている。
 
  散る花も又来む春は見もやせむ やがて別れし人ぞ恋しき
 
  (今散る花は又来年も見ることが出来るが、別れてしまった人は逢うすべもなく悲しい)

 

父の死

  平安初期の物語の『落窪物語』では、源大納言の死が扱われている。彼は大納言に格上げされて喜んだのも束の間、7人の子供たちに遺言を言い残し11月7日に死亡した。
  格別惜しいと思う齢でもない。そう考えながらも、そこは人情で、子供たち、女も男も寄り集まって哀惜される有様は見るもあわれであった。
  大将殿は、若君たちにつきそって、三条の邸におられたが、日々大納言邸に赴いた。身の汚れをはばかって、立ちながら哀痛しつつ、葬儀なども自分で世話するつもりであった(中略)
  大納言の邸では、亡くなって3日目に、日がよいというので埋葬した。大将殿の参列のお供には、四位、五位の人々がたくさん従って行った。忌中は、誰もみな、つねとちがった喪舎の低い建物に移り、正殿に高徳の僧侶があまた籠っていた。
  大将殿は毎日参られる。立ちながら人々に対面されて、いろいろの指示をした。女君は鈍色の濃い喪服をつけて、日々の精進のため、少し青ざめている様子があわれに見えるので、男君は悲しんで、
 
  なみだ川わが涙さへ落ちそひて
   君がたもとぞふちと見えける

  (あなたの涙に、私の涙さえも流れ添って、あなたの袂に涙の淵ができたようにみえる。)と言うと、女君、

  袖くたす涙の川の深ければ ふちの衣といふにぞありける

  (袖をくさらす涙の水底が深いから、ふち衣と人が言うのです)(小島政二郎訳)

  当時の貴族は、このように悲しみも、慰めも、歌という形に表わして、悲嘆を人生の一こまのなかに上手に織りなしていたのである。

 

『発心集』のなかの悲嘆

  『発心集』は鎌倉初期の仏教説話集。『方丈記』で有名な鴨長明(1155〜1216)が晩年の1216年頃編集したものである。


娘の死のあとを追って

  「ある女房、天王寺に参り、海に入る事」の話。これは大変に仲の良かった母娘が暮らしていたが、ある日、娘が母親に先だって亡くなってしまった。母親は娘の死を大変に悲しみ、女房の仲間も「さぞかし気を落としのことでしょう。無理もない」と慰めていた。
  などという間に、1年、2年ばかりが過ぎた。しかしその嘆きは少しも収まることがない。日月がたつほど増していくこともあるので、具合の悪いこともある。めでたい場面にも同じように涙を抑えて暮らしているので、人目について仕方がないようになった。そのあげく人からも、「彼女の態度こそ腑に落ちない。子が親より先に亡くなることは、今にはじまったことではない」と非難がましい口調でいう人も現われた。
  この女性はそのあと、四天王寺に参って三七日間念仏したあと、海に入った。当時は四天王寺の西門は極楽の東門に通ずるとされ、西門のわきの浜辺から入水することが流行した。仏教の西方浄土思想が人を死に追いやったという矛盾した価値観が行われていたが、そうした考え方は、次々と生まれる『往生伝』のなかでも評価され、この女性も無事往生したとして、その標しである紫の雲が現われたと結んでいる。


息子の死を聞いて

  「勤操、栄好を憐れむ事」の話。僧の栄好は寺院の房内に歳老いた母親を住まわせ、毎日自分の食事の分から母に分け与えて暮らしていた。ある日、栄好は自分の命の短いことを知り、仲間の勤操に自分の死を隠して母親を養うようにお願いした。栄好の死後、勤操は栄好に代わって食事を提供した。ある日、母親は偶然に息子の死を知った。
  母親は、聞くとすぐに倒れふして、嘆き悲しんで「わが子ははかなく亡くなったのに、知らずにいたとは。明日の夕方にはわが子が来るだろうかと待っていたのに。今日の食事が遅いので不審に思わなかったら、わが子の死んだことにも気づかないでいた。」と言ってたちまちにして絶命した。
  悲しみがもたらすショックと絶望は人の命までも取ってしまうものなのである。


歌の力

  日本では昔から、和歌で自分の気持ちを表現する習慣をもっていた。鎌倉時代の歌人である藤原定家(1162〜1241)は、その母の死に際して次の歌をよんでいる。

  母身まかりにける秋、野分しける日、もとすみ侍ける所にまかりて  藤原定家朝臣

  たまゆらの 露も涙も とヽまらす
  なき人こふる やとの秋かせ


  鎌倉時代の仏教説和集『沙石集』(1283)のなかで、作者の無住一円は和歌の効用について述べている。「和歌の道を思いとくに、煩悩のために心が乱れ、動揺する心を抑え、苦しみを超えてもの静かな状態にする働きがある。また少ない言葉の中に心を言いあらわすことが出来る。心を不動にさせる惣持(そうじ)の意味がある。惣持とはいはば、真言陀羅尼なり」(五巻)
  このように、和歌は悲しみや苦しみの気持ちを型にはめて表現し、この過程で人の心を慰める作用があると述べている。こうした伝統は万葉集の時代から、戦前まで綿々と受け継がれてきたのであった。もっとも言うは易しで、実際にその時の心境を歌にすることは難しいかもしれない。民俗学者の柳田国男は言っている。
  「人は嘆きの最も切なるとき、すなわち古い友のしきりに慰めに来てくれる頃に、歌に心情を留めようとするから行きづまる。少なくとも誰でもいうような言葉で、わずかな部分をしか表白し得ずにしまうのである。」(『ささやかなる昔』)

 

江戸時代人の悲嘆

『説教集』のなかの悲嘆

  説教は人形じょうるりなどのあと、江戸時代の初めに劇場において盛んに上演された。伴奏に三味線を使い、その語りをあやつり人形で使って見せるものである。話しの筋は単純であるが、人な感動させるためにオーバーな勧善懲悪な展開が多いが、当時の人々にとっては大変リアルな娯楽であった。次にあげる『かるかや』『しんとく丸』『あいごの若』は、いずれも『説教集』のなかにある。(『新潮日本古典集成』)


母の死

  『かるかや』は、筑紫出身の僧苅萱(かるかや)の幼な子石童丸が、母を麓に残して女人禁制の高野山に父を訪ねる話。そこで偶然出逢ったかるかやは、父はすでに没したと偽って帰すが、その一方母は宿で死亡していた、
  (石童丸は)妻戸をきりりと押し開き、屏風を引きのけて見ると、あらいたわしや母上様は、北枕に西を向いて、往生遂げておわします。
  息子の石童丸は死骸にがばと抱きつき、これは夢かうつつか、夢ならばはや覚めよ、うつつならばとくと覚めよと、顔を母の顔に押当てて、「なうなう、いかに母上様。寄る辺もない山中に、石童丸は、誰かに預けておいて捨てていずこに行きたまう。行かねばならない死の道ならば、共に連れて行かずに、一人ここに残し置いて、憂き目を見させたまう」と、抱きついてはわっと泣き、押し動かしてはわっと泣き、流涕(りゅうてい)焦がれ、消え入るようにお泣きある。
  さてそのままでもいかないので、清い水を取り寄せ、開きもしない口を開け、小指に水をすくって、「今あげるこの水は、同じ冥土にいます重氏様が手向ける末期の水でござるぞ。よきに受取り成仏めされ。またいま参るこの水は、国元に残した姉の手向ける末期の水です。どうぞ受け取って成仏なされ。またいまさしあげるこの水は、これまでお供もうして、あって甲斐なき石童丸の手向けなり。よく受け取って成仏なさって下さい」ともだえ焦がれて泣きあげる。

  『あいごの若』では13才の息子を前にして、母親の亡くなる場面である。
  今ひとしおのお嘆きは、若君さまにてとどめたり。「なう母上様。だれとてもだれとても、無常は逃れがたけれど、今の別れはやりきれません。どうしても行かねばならない道ならば、我をも連れて行きたまえ。」と、流涕焦がれ泣きたまう。されどもかなわぬことなれば、御台所(奥方)の御死骸、野辺に送らせたまいける。無常の煙となしたまう。


妻の死

  『しんとく丸』は継母の讒言(ざんげん)で、父信吉に家を追われた俊徳丸が、盲目の弱法師となって天王寺をさまよう話。ここでは妻の死を前にした信吉と俊徳丸の場面、
  信吉、この由ご覧じて、御台(妻)の死骸にいだきつき、「これは夢かうつつかや、うつつの今の別れかや。今一度、物憂きこの世に生きていて下され」と嘆きたまう。しんとく丸も母の死骸にいだきつき、「これは夢かうつつかや。うつつの今の何とてか、年にも足らないそれがしを、誰に預け置いて母は先立ちたまうぞや。どうしても行かねばならない道ならば、我をも連れて行きたまえ」と、抱きついて、わっと泣き、押し動かし、顔と顔と面添えて、流涕焦がれて嘆かるる。
  この三つのいずれにも泣く場面では、「流涕(りゅうてい)焦がれ泣きたまう」という台詞が使われていて面白い。また死の場面には医者がおらず、家族との水いらずのやり取りがなされている。こうした状況のなかでは、「死」がお互いにとって秘すべきタブーなどということが起こりえないのである。


父の死

  俳人の小林一茶(1763〜1827) は、1801年4月、信州の郷里で父親が熱病に倒れた時から、翌年5月の死亡後の初七日までの間を、『父の終焉日記』に記録している。
  「…いまわの時を待つのみの心の苦しみ悲しみを、天神地祇もあわれみもなく、夜はほがらかに明かかり、午前6時頃、眠るごとくに息たえさせたまいけり。あわれ空しき屍にとりつき、夢ならば早く醒めよかし、夢にせよ、うつつにせよ、闇に灯りを失える心地して、世に頼みなき曙なりけり。
  …誰しも一度は行く道なれど、父の命の昨日今日とは知らざるけるも愚かなり。一昨日迄は、父といどみあいいさかわれし人達も、屍にとりつき、涙はらはらと流して、称名の声も曇りがちになるは、さしも偕老同穴のちぎりの未だつきせざりしとは、今こそ思い知られたり。(4月20日)」
  通夜、葬儀のあと、23日には骨上げがおこなわれる。
  「…けさの暁は別れかなしき白骨を拾う。喜怒哀楽はあざなえる縄の如く、別るる世の中、今さら驚くべき事にはあらねど、今までは父を頼みに故郷へは来つれ、今より後は誰を力にながらうべき、心を引きさるる妻子もなく、する墨の水の泡よりも淡く、風の前のちりよりも軽き身一つの境涯なれど、ただ切れがたきは玉の緒なりき。
  生き残る我にかゝるや草の露
  昼は人々より集い、力を添う物語などに、しばし悲しみを忘るるに似たり。夜は人々もおおかたもどりて、灯火の明きにつけても、病床のほとりのなつかしく、あからさまに寝たまいし父の目覚むるのを待つ心地して、悩みたまう顔は目をはなれず、呼びたまう声は耳の底に残りて、まどろめば夢に見え、醒むれば面影に立ち添う」(4月23日)


愛児の死

  お路は、滝沢馬琴の息子の嫁として、1827年3月、22才の時に滝沢家に嫁いだ。7年目にして夫を亡くし、そして1848年11月、馬琴の死を看取った。そのときのお路の日記には、「六日暁、寅の刻に、端然として御臨終遊ばされ候、年八十二」とある。
  翌年10月9日、病弱な息子の太郎が死亡した。この時、さしもの気丈夫のお路も筆を取ることが出来なかった。お路は10月22日、ようやく筆を取り、9日の事柄を書き記した。
  「今朝5時過ぎより太郎煩悶はなはだしき。母・悌三郎・おさち等色々手当致しそうろえども、その甲斐もなく、ついに巳の上刻、息絶えたり。時に享年22才。それより家内愁傷おおかたならず、混雑いうべくもあらず。…
  つぶさに記したく思えども、9日以後、愁傷腸を断つ心地して、筆を取ることも厭わしく、後のためにと日記しるさんと筆取りそろえば、胸のみふたがり、一字も書くことかなわず。それゆえに久しく打ち捨ておきし程に、9日以後人の出入りも多く、忘れしゆえに省きて記さず。心中察すべし。」
  それから14日後の11月6日、この日は馬琴の一周忌、そして太郎の四七日にあたる。この日の日記には、
  「今日太郎四七日、祖孫打ち続きかかる嘆きもあることやと、一人愁いやるかたなく、しばし涙にむせかえりつる事、察すべし。読経終り。…今晩九時、枕につくといえども、太郎の事のみ胸にたえず、落涙止む時なく、実その身も忘るるほどの事なり。」

 

現代人の悲嘆

  人は家族の死に直面したとき、どんな反応をし、どんな覚悟をするのだろうか。それを書き残した物で公にされているものは多くない。親子や親友の間での書簡で行なわれることもある。


母の死

  画家の岡本太郎が、フランス留学中の昭和11年2月、父の岡本一平から母かの子の訃報を受け取った。次は太郎が父に書き送った返事である。
  あの電文を受け取った日は全くひどい打撃を受けました。
  しかし、それから出来るだけ強く、お母さんが、ほんとうに何処かに立派に生きつつあるということを信じることに努めました。事実今はそんな気持ちになっていて、大分心がやわらぎました。ただし初めの衝撃があまり強かったので10日を経った今日迄、肉体的にすっかり参ってしまっています。
  今日あたりはそれでもどうやら元気が出て来ましたから安心して下さい。
  はじめの3日間は打ちのめされたようになって床についたまま、眠りつづけてしまいました。目が覚めてお母さんの「死」を考えると、うそのようでもあり、又とても、恐ろしいことのようであり、変な気持でいると、突然涙にむせんでしまったりしました。少し用事で外出しようとして、5分間も外を歩くと、もう、腰がぬけたようにへばってしまって、アトリエに引きかえし床につくとそのまま又ぐっすりと寝込んでしまいました。
  死の直後から半年間に11通の往復書簡がかわされ、その間に二人の心が徐々に癒されていった。この手紙は岡本太郎の「母の手紙」の末尾に集録されている。


夫の死

  次はガンを看取った妻の印象をつづったものである。資料は『ガン病棟の99日』。ジャーナリストの児玉隆也氏は昭和49年12月に入院し、死の1カ月前に『ガン病棟の99日』を書き上げている。次は、同じ書物に含まれている児玉正子夫人の手記から取ったものである。
  部屋に夫と私だけが残された。なにか叫べば聞こえるのではないか、眼を醒ましてくれるのではないか。私は夫の耳元で叫んだ。どうして、こんなに早く死んじゃったの。あなた。あなた!
  しかし、夜中だから隣の人の迷惑になる、あまり取り乱してもとへんに冷静になってしまった。そうすると、今度は恐くなってきた。だんだん冷たくなってくる。冷たくなってからはさわるのが恐ろしかった。
  無我夢中で、義姉からもらったお経を2回も繰り返し唱えた。そのうち少し落ち着いてきた。
  このように、病院は個室と言えども公の場なのである。最後に『更級日記』から夫を亡くした作者の言葉を引用。
  人々は皆よそに別れすんで、元の家には自分一人が心細く悲しいありさまで、久しく便りをくれない人に、

  繁りゆく蓬が露にそぼちつつ ひとにとはれぬねをのみぞ泣く

  (誰も訪れてくれないので、よもぎが繁ってゆくのですが、私はその露に濡れながら、声をたてて泣いてばかりおります)

 

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