1994.12 |
最近マスコミでも、葬儀についていろいろな報道がなされるようになった。それだけ一般の人々の葬儀に対する関心が高まったものとみえる。こうした関心は昔からあったようであるが、かって人は葬儀をどう考えていたかを、江戸時代の人々の著作から見てみたい。一つは真宗の考え方を伝えた『九十箇条制法』、一つは元祿時代の弔い状の手本となった『男重宝記』、一つは僧侶のための『律苑行事問弁』。次に当時の豪商の葬儀費用が記された『播磨屋中井家永代帳』、『塩沢風俗帳』などにみる葬儀風俗である。(なお文章は、適時省略した)
『九十箇条制法』は、浄土真宗の門徒、僧侶に対する掟や、浄土真宗の中興の祖である蓮如(1499没)の御文に見える掟などを集めたものである。書かれたのは今から約320年以上前の寛文8年(1668)である。そこから死に関するものを拾ってみた。当時の真宗の考え方がうかがえる。
香をたくと、香のある間は、火が燃えて煙が出る。人の口から息が出るのは、ちょうどこの煙のようなものである。煙が消えて冷たい灰となるのは、我々が火葬場の薪となり、最後に灰となるのを忘れないようにするためである。決して死者のために香をあげるのではない。
父母が死亡した場合には、50日の精進をする。
真宗の信者の一員が死亡した場合には、龕(仏像を安置する厨子、または遺体を入れる棺)を設置したり、幕を張ったりすることは真宗では定めていない。ただし世間のしきたりならば行ってもよろしい。これをしても死んで極楽に行くの妨げにはならない。
真宗の信者のなかに、病気になったら祈祷やお祓いをし、巫女や陰陽師に頼んで病人を癒すことがあるが、それは宗派の掟に背いている。いそいで門徒と相談することが大事である。
親が他の宗派で死んだ場合、子供は門徒でありながら、天台・真言など他の宗派で弔うことは、当宗派では大変に嫌っている。たとえ他宗で死んだとしても、後に救われることがある。
(註:浄土真宗は現在でも、葬儀の指示について、細かく指示を与えている寺院があるが、そうした伝統は当時からあったのである)
(資料『日本思想体系・蓮如』岩波書店)
『男重宝記』は元祿時代にベストセラーになった、マナーの本であるが、そこから弔い状の書き方をみてみよう。
天皇が死亡されたことを崩御という。 公方将軍の場合に他界、又は薨去(とも、逝去ともいう。長老・和尚を遷化とも入滅ともいう。庶民の場合には(上)遠行、(中)卒去・死去、(下)果つると書くべきである。
弔い状には、「以上」、「参る」、「人々御中」などとは書かない。封じ目に墨を付けず、「より」という字も書かない。要件がある場合にも弔い状の中にには書かず、別紙にて書く。
弔い状には、「猶々」、「重ねて」、「やがて」、「返すがえす」、「又」などと書かない。行数は7行、9行(奇数)に書く。薄墨で書く。
弔い状は、悔やみだけの文章で、短くさらりと書く。「御力落」と書くのは俗である。「御愁傷」と書く。
「香奠として鳥目(お金のこと)百疋(千文)、仏前に呈し候」などと書く。
(資料:『女重宝記・男重宝記』社会思想社)
この書物は、名古屋・八事にある真言宗・興正寺の妙龍(1705〜1786)が記したもの。妙龍は享保19年(1734)、徳川宗春の命を奉じて30の時に興正寺の第5世となり、以後批判精神にとんだ意見を述べている。この書は僧侶の質問に答える形式をとっている。
質問:さる大名がある寺に命じて、「僧侶は、葬儀の場に出かけて引導を渡すのは、父母や師長、僧徒の場合に限られる。その他の葬送については、行ってはならない。これは仏教徒としての定めであり、戒律として文章化されている」と。これはどの戒律に記されているのか。もしこの通りならば、僧侶は一般の人から葬儀を依頼されても、引導・焼香をしてはいけないのか。
答え:小乗仏教の戒律をあらわした『善見律』には、「旦那が僧侶に葬儀をお願いしても、行ってはならない。ただし僧侶が葬送の場で無常観(人のはかないことを瞑想する)を行うのであれば、それは修行になる。この場合ならば罪はない。」とある。
『資持』には、「他人の依頼でも、世情の為でも、僧侶は無常観を行う場合を除き、葬儀を送ってはならない。」
先の大名の考えは、こうした説にのっとったものである。しかし一概にそうした説にこだわるべきではない。もし人から、死者に引導を渡し、苦を取り去って成仏させてほしいと頼まれれば、行って引導を渡し死者の苦しみを取り去るべきである。『善見律』の意味は、ただ何の意味もないのに白衣を着て、葬儀に応じることを戒めたものである。そしてこれは小乗仏教の教えである。他人の依頼に応じて、大乗仏教の慈悲にかなう他人の苦を取り除こうとする心をもって、引導することとは大変に異なっている。
質問:葬儀の仕方は経典にどのように書かれているのか。
答え:義浄の『臨終方訣』によると、「もし死者を送る場合、遺体のあるところに行って、下座に座る。死者の右脇を下にして寝かせ、顔は日光に向け、その上座に高い座を敷いて様々な飾りをしつらえる。読経を請われたら僧侶は法座に昇り、(仏に代わって)死者のために『無常経』を読む。孝行な子供は悲しみを止め、泣くことをやめる。そこに集まった人々は皆、死者に心から焼香し散華をする。そして高座にある立派な経典を供養し、その香は僧侶にも捧げられる。焼香がすむと座って合掌し、敬う心をもって一心にお経を聞く。僧侶は一通り読経を勤めあげる。このお経を聞く者は、自分の命がはかないものであり、短い間に終わることを観じ、世間を離れて、悟りの世界に入ることを念じる。お経が終わると、再び散華・焼香して供養する。
また続いて僧侶に、呪文を唱えることを願う。僧は虫のいない清らかな水に呪文を37回唱え、それを死者の上に注ぐ。そして土にも呪文を37回唱えてそれを清め、死者の体の上にパラパラと散らす。こうして儀式が終わったあとは、希望により埋葬して卒塔婆を立てるか、火葬にする。あるいは死者を葬る場所に埋葬する。
この儀式の功徳と因縁の力によって、死者の多くの罪は消滅し、数々の仏様の前にあって大いなる功徳を受け、この上ない菩提を得ることになる。」以上が経典に書かれている。土に呪文をかけることは諸々の儀式経典にある。この呪文は梵字の地大を表し、法にかなっているので利益がすぐに現われる。
戒律を集めた聖典『有部毘奈耶』には、「葬送において僧侶は、『無常経』ならびに偈を唱え、呪文を唱える」とある。この説は美をつくし善をつくしている。これはインドの僧俗両方に通用する、好ましい葬送規則である。
これは即ち大乗仏教の、他者を救済するための素晴らしい技術である。『善見律』の自分のための小さな教えとは比較ができない。南山霊芝はこの教えを知らなかったのである。彼や大名の考えは、法を守るという真心から出たといっても、一を知って、その二のあることを知らないのである。他人を教化し救済するという、大乗仏教の法を忘れていることは残念なことである。南山霊芝すらこの教えを知らなかった。それだから一般の人が知らないのも当然かもしれない。
考えてみると、今の葬送では、子孫または親族は、死者のために焼香するが、その源はみなこの『臨終方訣』によっている。また土に呪文を唱え、その土を遺体に散らす方法は、仏教で普通に行われている方法である。必ず行うべきである。こうした加持土沙の方法は、『不空羂索観音経』ならびに『仏頂尊勝陀羅尼経』等に記されている。
質問:中国の禅師の伝記を集めた『伝灯録』17「南嶽玄泰上座」の遺偈に「剃髪は不要で、澡浴は必要なし。」とある。また「閑居編」34の「孤山智円法師」の遺嘱(生前の依頼)にも、「私が死んだあと剃髪も澡浴も必要ない。浴衣を着せて納棺すればよろしい」とある。この二人の師の臨終作法は全く簡単である。今もしこれに見習ったならば「戒律」に反するのではないだろうか。
答え:新旧の戒律を集めた経典には、臨終の際、剃髪沐浴について説明している文章は見あたらない。従って剃髪沐浴は、その人の希望に従って行うのがいい。特にさし障りがあるわけではない。
『僧祇律』のなかで、修行者の陳如が林の中で死亡した。牛飼いがこれを見つけて荼毘にし、その遺品を王様に献じた。遺品の価値はわずかに五銭であった。この行者は侍者がいなかったので、剃髪沐浴をすることも出来なかった。当時の多くの行者はみなこのようであった。落ちぶれた境涯とはいえ、うらやましいことである。先の二人の禅師は、この流れを追ったものではないだろうか。もし処理を簡単にすることを希望する者は、この方法を真似ることも良いだろう。門人や弟子が多くある人は、遺言によって髪を清め、体を清めることも可能だからである。このような経典に説明のないことについては余りこだわらないのがよい。
質問:火葬と土葬とはどちらが優れているのか。
答え:いずれも皆よいと思う。釈迦の場合には火葬を行っている。末代の弟子がこれに則るのは当然である。しかし、人それぞれ好きな方法で葬儀を取り行ってどうして悪いことがあるだろう。唐の『高僧伝』に、僧善が病気になって云うには、「私の死後、こわれた物の他は燃してはいけない。私の遺体はかめの中に座らせ、これを埋めてほしい」と言い残している。これもまた一理ある。孤山智円は生前、山を掘ってあらかじめ陶器を埋め、遺体をそのなかに納めるように遺言しておいたことも、僧善に則ったといえる。これは「閑居編」にある。また欽山の国一禅師も、かめの中に亡骸を納めたことが『宋僧伝』に伝えられている。略式の処理を好む者は見習うことも可能である。
中国にはムシロ葬、裸葬があった。僧侶には関係ないかもしれないが、知らなくてはならないであろう。前漢の梁の伯鸞の父が北地で死亡した。伯鸞は幼かったが、特に乱世のこともあり、ムシロに巻いて葬ったと、『後漢書』73にある。これは乱世で貧困の為である。前漢の楊王孫は、死に際してその子供に命じて言った。「私は裸葬をもって土に帰ることを望む」と。「必ず私の指示通りに行って欲しい。死んだら布袋に入れ、それを地中7尺に入れ、下ろすときにその袋を足から引き抜いて遺体を直接土に納めよ」と。詳しくは『前漢書』67にある。これは世の人々がこぞって奢り、厚く葬ることを戒めたものであるが、大変に変わった方法と言えるだろう。
質問:今どきの葬送には、必ず白い幡や白い天蓋を作って威儀を保つことを常としている。また徳の高い人の場合には、必ず碑銘を立てて名誉としている。これは戒律に違反することはないだろうか。
答え:インドの風習では葬送の時、香や花、幡や鼓で送ることは「有部毘奈耶頌」に記してある。しかし碑銘を立てて徳を賛えることは見あたらないようである。これは中国の文化が生んだ様式で、すでに定着してしまった事柄である。どうして戒律に反することがあろうか。時に準じて施設してもよいものである。
中国では僧侶の葬送の時、幡や天蓋を使うことが伝えられている。『高僧伝』智首律師の章に、「貞観9年4月22日卒。多くの役人に葬儀の準備の勅令が下される。諸寺や門学では競って白幡を引き、諸街の道にあふれた。門学ともに高碑を立て、弘福寺の門に彫りつけた。」同じく玄宛律師の章に、「貞観10年12月7日卒。幡や天蓋が交互に進み、香や花が空に乱れた。従者は雲のごとく数万人が満ちあふれた。宗正卿李伯は、塔所に碑を立てた。」同じく玄弉三蔵の章には、「葬儀の日を聞いた僧尼は、幡や蓋をもって送り、白蓋、白幡が空に浮かんだ」とある。
質問:葬儀についての遺言は必ず守るものですか。
答え:「私が死んだら竹で編んだむしろに巻いて淵に沈めよ」。あるいは、「遺体を松の下にさらして鳥獣の餌にせよ。葬儀をすることなかれ。碑銘を立てることなかれ」と遺言する人もある。人の心はそれぞれ異なるので、その人の希望にそって行えばよい。又師の遺言に「遺体を外に捨てよ」とあっても、弟子はその通りに行うことが出来ず、葬儀を取りつくろうことが多い。これも又世間の礼法の姿である。出世孝行の一つのあり方である。あえてこだわることはない。時に従い、所に応じて変更しても構わない。
質問:「僧は下衣で遺体を覆い葬送する。袈裟を埋葬する必要はない」などの説が『事鈔』などにはあるが、僧侶を裸のまま埋葬するのは行きすぎではないか。
答え:『有部尼陀那』の2章に、「ある僧侶が病気で死亡した。人々は衣を取り去り、死体をさらしたまま葬送した。俗人はこれを見て変に思った。仏は「裸のままでなく、袴や覆で身をおおって葬送せよ」と言った。これを聞いた僧侶たちは、彼らの好みの衣で覆った。仏は「好みの衣を用いてはいけない」と言った。これを聞いた僧侶たちは、今度は破れた衣をもって覆った。仏は「好きでも嫌いでもない衣で遺体を覆いなさい」と言った。
ここには、遺体を覆う衣について明瞭な考えがある。そこには、遺体を覆う衣を埋葬してはいけないという説はない。もし埋めることが罪ならば、「五部律」にその注意があるが、実際には規則がないので埋めてもかまわない。そして、当今の行事にあるように、死体を沐浴させたあと、かたびらもしくは着物を着せ、その上に袴および着物を着せて棺に入れて埋葬するべきである。たとえ火葬にするといっても、衣を焼くことは罪ではないのである。
昨今、多くの宗派の信者は少しも戒律を知らないようである。前もってあら布の袈裟を用意して「涅槃衣」と名付け、自分の遺体にその衣を着せて納棺するように遺言するという、とても法にかなったと思える者も多くいるのである。もし火葬にすれば袈裟を燃す罪となると考えることは、おかしいではないか。
また新しい死者を入れた棺桶を仏堂の内に担ぎ入れて葬式を行うことが、世の中の流儀になっている。しかし、250戒のなかに「塔下擔死戒」という戒律があり、死体を担って塔の軒下を通ることを禁じている。ましてや、遺体を仏殿の内に入れて仏前を汚すことは許されないことである。善悪を忘れた末世というべきである。
(資料:『日本大蔵経』巻71)
葬儀でもっとも気にかかることは、葬儀にどのくらい費用がかかったかの明細である。これを記録しておくと、次回の葬儀に大変に参考になる。こうした記録が江戸時代にもあった。以下はその抜粋である。
明和2年(1765)5月20日午後4時頃、ご隠居死去。法名号将光院誓誉寿円法尼。葬礼は同月22日朝出棺。浅草誓願寺本堂において、方丈により引導。出僧8人。九品院での湯灌後に行列。
○費用内訳
(一)誓願寺方丈様ならびに本堂での諸費用 金四両八匁(以下略)
(一)九品院へ葬礼の節のお布施 金一両二分(以下略)
(一)九品院へ七日より一九日までの仕切雑用 金二分
(次に葬儀に必要な費用内容を、金額を省略して順にあげる。)
七日払いの施し物、九品院へ七日寺参り、調菜諸雑用、同所へお袋様・ご新造様のご香奠、浄見寺様へご焼香礼、同寺に七日逮夜お布施、寿円様への院号代、棺掛けむく代、まんじゅう八百、道心(13歳以上で仏門に入った者)に当日より七日まで念仏を勤めていただいたお布施、半紙本堂にて使用、九品院へ葬礼の日の諸用代勝手へ払う、棺掛け麻衣代、葬礼道具品々小買い物代、わらじその他品々、千住火葬場諸費用、七日逮夜までのご法事諸色費用、石塔修理代、寺内に小遣い、葬礼と七日のかご代、総額しめて23両2分。
(註:このように大変細かい内訳を記録している。特に印象に残るのは、葬列の順序が人の名前を記入して記録されており、その順列は血縁関係や交友関係の上下を示す表として見ることが出来る)
(資料:『播磨屋中井家永代帳』国立資料館編・東京大学出版会)
江戸時代の記録をみると、葬儀の風俗は、最近まで行われていた方法とほとんど変化がないことがわかる。ここに取り上げた『塩沢風俗帳』は、1842年に記されたものであり、最近までそれが続いていたことがわかる。従って現在の葬儀の変化は、いかに大きなものであるかがわかる。
人が死亡したら、親族どもが寄りあって、財産に応じて葬式の相談等を行ったあと、菩提寺に知らせ、その他告知を行う。それにより一人二人と手伝う人が集まる。
24時間過ぎて沐浴させたあと桶(棺)に入れる。また木綿の袋を桶にかぶせることもある。身元のよい者は板で天蓋のような形を作り、これを桶の上に覆うこともある。板あるいは藁で龍頭を作り、紙の幡などを作って野辺送りの支度をする。当郡は火葬にするため、昼夜とも日隠しのためにあしで庵のようなものをこしらえ、まわりに白木綿で天を白く覆う。身分が低い者はこうしたことは出来ないし、また追善供養も身分に応じて行う。親類や手伝いを行った者には斎という飯の振る舞いがある。
悔やみに行く者はお香代として百文、50文、25文位をそれぞれに持参する。特別懇意にしている者は白米1、2升、ローソク、野菜など香代に添えて夫婦ともに悔やみをする。3日目には寺参りとして、菩提寺に参り、施物は金堂分により段々で、2百文、3百文くらいまで身分に応じて出す。また弔いをする者は帯着物を着て、の餅を寺に持参する。また一七日(初七日)まで、毎夜親類をはじめ人々が集まり、特に親類は団子、ぼた餅を持参して仏前に供え、一同仏名を唱えて回向をする。それが終わると、それぞれが持参した品を分配し、煎茶を出して人々に給仕をする。(資料:芳賀登『葬儀の歴史』引用より)
人は死んでから仏壇に祭られ、そして33年の弔いあげがすむと、その死者は完全に清められて始めて家の神様として祭りあげられるという伝統が日本にはある。それを書きしるしたものの一つが『御子神記事』である。書かれた年代ははっきりしないが、資料は『古事類苑』礼式部二より抜粋した。
先祖を御子神として祭るは、神職の家の外にも先規に従って祭っている家筋がある。死亡した時には旦那寺に行って、「亡き父○○については、先例にしたがって、のちに神として祭るので、過去帳に記入しないでほしい」と申しておく。また当時それを断らなかった場合には、3年あるいは7年忌の法事の時に、今日から神に祭るので、過去帳の名前を消してほしいと断り、位牌を墓所に捨てる。(過去帳にある法名を消し、位牌を捨てなければ神とならないと言い伝えられている)。
それからは11月の氏神祭りの日(その他の神祭日には行わず、11月に限る)に神事をすませて、これからは○○を神として祭るという名目で、その子孫をや村の長にあたる人を招いて神事を行う。(この祭事については省略するが、神楽を舞い、死者の霊を下ろして神座に移す儀式を行う)
家により所によっては神祭りの時、神楽を行わず、12月の大晦日に、その嫡家に子孫を集め、鏡餅や洗米、神酒を供えて、御子神の神事とする言い伝えもある。
槙野山の奧、奥の内村などでは、家ごとに神に祭っている。もっともこれは25年、33年忌を寺にて勤めあげ、それより祭り始めることもあり、50年忌にして始めて祭るということもある。