1993.08
死にまつわる意外な話

  暑い夏には涼しさをも求めて、ゆっくりとくつろぎたいもの。ところがなかなかそうはいかないのが現実です。今回の「デス・ウオッチング」では、肩のこらない死にまつわる古今東西のエピソードを集めてみました。こうしたモノが記憶に残り、涼しくなっていただければ幸いです。


死亡統計

●平均余命はどれだけ伸びたか

  寿命は伸びている。病気にかかりやすい幼年期を過ぎた15歳の男の平均余命、つまりあと何年生きたかの推定値。
ネアンデルタール人、33年。
青銅期時代、40年。
古代ギリシャ・ローマ時代、36年。
中世イギリス、49年。
1900年のアメリカ、60年。

   これらは発掘した人骨、墓碑、法的記録、人口調査による。歴史を通しての死因の第1位は伝染病。(資料1)

 

●18世紀アメリカの平均寿命

  ワシントンが初代の大統領になった1789年、アメリカ人の平均寿命は、男性が34.5歳、女性は36.5歳。なお1985年には男性71.2歳、女性78.2歳である。(資料 1)

 

●月の夜にはご用心

  マイアミの検視官デービス博士は暴力死の死亡時刻をコンピュータに入力していた。そのサンプル数は15年間で約1,900件。分析の結果、殺人事件の発生率は、満月の時が最も高いことが分かった。2番目は新月直後である。こうした事実が分かったものの、その因果関係については分からないという。(資料 14)

 

●寿命を予知する方法

  イギリスのリチャードソン博士が研究した寿命算定法は、よく人の寿命を予知することが出来るといわれていた。その方法は、4人の祖父と両親の年齢を合わせて、これを6で割るとその寿命となるものである。(資料 10)

 

●生命は発情期の5倍

  イギリス人ファラデーの説によると、およそ動物の生命はその発情期の5倍であるという。たとえばラクダは8歳で交尾をはじめるから40歳。ウマは5歳(寿命25歳)、ライオンは4歳(20歳)、イヌとネコは2歳(10歳)、ウサギは1歳(5歳)。人間は15、6歳を発情期とすれば、7、80歳までは生きられる勘定となる。(資料 10)

 

●原爆2発分の結核死者

  昭和25年5月29日づけの「天声人語」に、当時の結核の恐ろしさを訴える文章を載せている。「原爆よりももっと大量に日本人を死なせつつある結核がある。広島の死者は7万8000余だった。結核死亡者は昨年だけで13万8千数百人あった。一発のA爆弾による死者の約2倍が年々歳々結核で死んでいるのだ。(中略)現在150万人の結核患者がある。50人に1人、10世代に1人である。」なお翌26年には死亡数は9万人と減少して、死亡順位第1位の座を脳卒中などの脳血管損傷に譲った。



遭難捜索費

  東京在住の登山者が長野県白馬で遭難。遭難者が所属する山岳グループ10人と、地元のボランティア10人が1週間捜索をした場合の費用。

交通費 東京〜白馬(16万2400円)
宿泊費(36万円)
食費(21万円)
謝礼(日当=1万円×20人×7日=140万円)
ヘリコプター(55万9200×2時間=111万8400円)
合計 325万800円
(資料 21)

 


有名人の死に方

●伸びたショパンの葬儀

  1849年、作曲家ショパンが死んだ。彼は生きたまま埋葬されることが心配で、「解剖してから埋葬してくれ」と遺言をした。遺言通り遺体は解剖され、心臓は故国ポーランドに送られた。しかし13日間遺体のまま葬儀が行なわれなかった。その理由は、葬儀にはモーッアルトの「鎮魂曲」を頼むと言い残したのであるが、当時女性合唱が認められていなかったからである。しかし結局は教会が折れて女性合唱による葬儀が行なわれた。

 

●晒されたクロムェルの首

  イギリスの名誉革命の主役であるクロムウェルは1658年死亡し、盛大に葬儀が営まれた。しかしまもなく政治情勢が逆転し、彼の棺があばかれ、遺体はバラバラにされ、首は鉄棒の先に突き刺されて24年にわたってロンドンに晒された。ところが大嵐で彼の首は落ち、1710年ごろこの首が売り出された。

 

●バーナード・ショーの葬儀

  イギリスの劇作家である彼の遺言に「わたしの葬儀には、人間たちの葬列を従えないでほしい。私の棺の後ろには、牛、羊、ブタ、ニワトリ、それに水槽に入れた魚たちに行列をつくらせてほしい。そしてこれらの動物たちには、彼らを愛した一人の人間を記念して、ことごとく白いスカーフをまとわせてほしい」とある。しかし葬儀の写真をみるかぎり、動物の会葬者はいないようであった。

 

●シェーンベルクの定められた死

  オーストリアの作曲家シェーンベルクは、1874年9月13日に生まれた。13は縁起の悪い数とされており、7と6をたすと13になるから、彼は76歳で死ぬと思い込んでいた。1951年、76歳になった年の7月13日の金曜日。その日が来ると彼は用心してベットから一歩も外に出なかった。そしてその日がいよいよ終わろうとする午後11時47分、彼は死亡した。(資料 2)

 

●カスター将軍の頭皮

  1876年6月、スウ族を背後から攻撃しろとの命令を受けた騎兵第7連隊のカスター中佐は、功をあせって本隊の行動開始を待たずに攻撃を開始した。インディアンの兵力が約3,500に対して、約10分の1の兵力であったカスター連隊は、完全に包囲されて全滅した。翌日テリー将軍が現場に到着したときには、頭皮をはがされたカスターの遺体と264名の遺体が横たわっていた。享年37歳。

 

●ダブルの柩を特注

  普通の寝棺ではなく、二人が並んで寝ることが出来るようにと特別注文を出し、死んだ女房を抱いて一緒に入り、一夜を共に過ごした男、桃中軒雲右エ門(資料 5)

 

●転落者の最期の言葉

  走る汽車から落ちて死んだのは琴の名手、宮城道雄。その最期の言葉が痛々しい。虫の息で「ミヤギミチオ、ミヤはお宮の宮、ギはお城のギ、ミチは道路の道、オは雄です」(資料 5)

 

●福沢諭吉の遺言

  諭吉は自伝で遺言書について触れている。「近来遺言も書きました。遺言のことについては、よく西洋の話にある主人の死んだあとで遺言書をあけてみてワット驚いたなんていうことは毎度聞いているが、私ははなはだ感服しない。死後に見せることを生前にいうことができないとはおかしい。ひっきょう西洋人が習慣に迷って馬鹿をしているのだ。おれはそんな馬鹿のまねはしないぞといって、家内子供に遺言の書き付けを見せて、この遺言書はこの引き出しに入っているから皆よくみておけ、また説が変われば書き換えてまた見せるから、よくみておいて、俺の死んだ後で争うような卑劣な事をするなよと申して笑っています」『福翁自伝』

 

●花火でサヨウナラ

  初代林屋正蔵は天保13年、63歳で死んだ。遺言通り火葬にすると棺桶に花火をしかけてあって人々を驚かせた。三遊亭円朝にもそんな話が残っている。(資料 5)*他にもいたようで。



こんな死に方したくない

●永代橋が落ちた

  1807年8月、祭の見物で賑わう永代橋が人々の重みで折れ落ちてしまった。橋の幅は7メートル、それが24メートルの区間、落ちたのである。泳げる人の何人かは助かったが、水死体として確認された犠牲者はおよそ400人。水の流れに流され水死した人は1,500人以上であるといわれる。

 

●八甲田山の死

  明治35年1月23日に起きた青森県の八甲田山「死の行軍」では199人が凍死する事態となった。当時の新聞によるとアイヌや猟犬5頭が捜索に参加。さらにセントバーナード犬が、飼い主とともに東京から応援にかけつけた。なお最後の遺体が発見されたのは5月27日になってからである。

 

●戦死者の歯

  南北戦争で戦死者の死体から歯を抜き取ってゆく奇妙な人たちがいた。この連中は歯を樽につめヨーロッパに送った。その頃入れ歯の技術が進歩し、ヨーロッパでは人間の歯の需要が多くなっていたのである。入れ歯はさまざまな材料によって造られたが、19世紀になって死体の歯を使うという方法が取られた。(資料 2)

 

●海に流れ出た棺

  1899年、俳優のコフマンはテキサス州の町の墓地に埋葬された。翌年9月集中豪雨が襲い、コフマンの棺は雨水で地中から洗い流され、そのままメキシコ湾に姿を消した。それから27年後、この棺桶がアメリカ東海岸に打ち上げられた。およそ4,000キロ漂流できたのも、棺の材質がカシの木だったからである。(資料 3)

 

●人柱になりたい

  オランダ人カロンが、すすんで人柱になる日本人のことを記している。
「日本の諸侯が城壁を築くとき、多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願い出ることがある。自ら志願して敷き殺された人の上に建てた壁は壊れないと信じられているからである。許可を得て礎の下に掘った穴のなかに横たわって重い石に潰される。ただしかかる志願者は、平素苦役に疲れた奴隷だから、望みのない世に永らえるより、死ぬほうがましと考えているのかも知れない」(資料 4)

 

●土左ェ門の言われ

  享保9年6月、深川八幡社地の相撲番付を見ると、成瀬川土左ェ門が前頭のはじめにある。思うに江戸の方言に、溺死した者を土左ェ門というのは、成る瀬川が肥大した者であるため、水死して全身が膨れた者を「土左ェ門の如し」といい、それが方言となったという。「近世奇跡考」(資料 7)

 

●殉死の分類法

  真言宗の僧侶によって書かれた『明良洪範』という本がある。その中にある老人の話として、殉死には「義腹」「論腹」「商腹」の三つがある、といっている。君臣の義にもとづき、純粋な気持ちからあの世への供をするのが義腹。これにたいして「あいつが殉死するならおれも負けてなるか」と、議論ずくで死ぬのが論腹。そして「わしが追腹を切れば、子孫は必ず新しい主君の引き立てをこうむって繁栄するだろう」と、ソロバンずくで切腹するのが商腹だという。(資料 19)

 

●切腹の作法

  伊勢貞丈の書いた切腹の作法に、「頭を打って死衣を受け、屏風を引き回して、死骸を人に見せないようにすべし。この時の屏風は表裏とも白張り白縁であるべし。」とある。また「装束は白衣で左前に合わせ、柿色の上下を着、帯も白なり。また畳は土色を用い、白縁に二畳用べし」とある。やはり白は死の色なのだ。

 

●首級との対面作法

  首実検とは、戦国時代戦いで取った敵の首級を調べることをいうが、その作法も色々とあった。『軍礼抄』に「首実検の場所はその所の寺などで行なうべし。首をご覧になる人は門の内、首をお目にかける人は門の外にあるべし。門もないところは、幕を張って、中を巻き上げて、内外の隔てを作るなり。」とある。ついでに首級のことを記すものを頸帳、首級を乗せる台を頸台、頸を納めるものを頸桶といった。(資料 7)

 

●梅毒の日本伝来

  慶長12年(1607)に書かれた『医学天正記』に唐瘡患者の記録がある。戦国の勇将にも、この病魔におそわれた人物が多いが、徳川家康の第2子結城秀康も、梅毒のため鼻が落ち、ついに落命した。三代将軍家光の時代に輸入された薬のなかに、梅毒薬が13万8000斤もあったという。いかに梅毒が蔓延していたかうかがえる。(資料 12)

 

●八丈島からの脱出

  柳田国男の本に、吉原の遊女が放火の罪で八丈島に流されたことが記されている。この豊菊という女は文政4年に送られ、島に25年いたあと、弘化2年の6月に抜舟した。そうして沖合で召し捕えられ11日目に死んでいる。宝禅という浄土宗の坊主、小普請組の幕士、その他34人の博徒がこの企てに加担し、発覚して半分は沖で死に、他の者は取調べ中に皆死んだという。(資料 11)



死の法律

●死のサイコロ

  ドイツの帝室博物館に「死のサイコロ」が陳列されている。これは17世紀中頃これによってある事件が解決したという代物である。ある少女が何者がによって殺害された。このとき2人の兵士が容疑者として逮捕された。2人とも白状しないので、ウイルヘルム公は、2人に2個のサイコロを振らせその数の少ない者を犯人とする方法を取った。
  最初に振ったラルフは2つとも6の目が出た。次の番のアルフレッドは絶対絶命、彼はサイコロを投げた。するとサイコロの1個は2つに割れた。一片は6を上にし、一片は1を上にしている。そして他の1個は6を示している。流石のラルフも神意の恐ろしさに肝を冷やし、自分が下手人であることを白状した。(資料 3)

 

●食人を無罪とする

  インドの古い聖法に、餓死に瀕した場合には、他人を殺してその肉を食べても、罪にならないとしている。「マヌの法」第10巻に、「アジガルタはその子を殺してこれを食べようとしたとしても、彼は餓死を免れようとして行なった行為であるから、罪によって汚されることはない」(105条)とある。(資料 3)

 

●心中の始まり

  男女の共同自殺の最初は、天和3年(1683)遊女となじみ客との情死である。それ以後心中は流行し、亨保7年(1722)幕府は心中の禁令を出すに至った。また心中浄瑠璃を厳禁し、心中という字は「忠」という字になるから不埒であるとして「相対死」と改称させた。これは大岡越前守の発意である。禁令には「相対死した遺体は捨てて弔いは禁止され、一方だけ死亡した場合には、生存者は下手人(殺人犯)とされ、双方が生存の時には、3日間日本橋に晒したうえ非人の手下とする」(資料 16)

 

●日本での決闘罪

  日本では、1889年に「決闘罪に関する件」という法律が作られた。これによると、決闘を行なった者は2年以上、5年以下の懲役。決闘によって人を殺傷した者は、刑法の各本条(殺人罪・傷害罪の規定)に照らして処断するとある。昭和10年から29年までの統計では、決闘罪によって有罪になったのは、昭和27年に2人、29年に3人である。



こんなお葬式

●目を開いて魂見物

  ローマ人は遺体を火葬にするとき、死者が自分の魂が天にのぼるのを見えるようにと、遺体の目を開いておいた。(資料 6)

 

●西洋式お剃刀の儀

  ロシアの皇帝は、臨終に臨んで、終油の秘跡とともに剃髪を受ける習わしであった。そして修道僧のいでたちで埋葬された。(資料 6)

 

●死者を安置する方角

  カトリック教会は、埋葬した遺体の方角を定めることに関しては、概して知られていないが、その配慮はなされてきた。すなわち遺体は祭壇の方向に向くべきである。言い換えれば、足を祭壇の方へ向け、顔は出来れば祭壇を見つめるようにすることである。教会から離れたところにある墓地では、死者は足を東の方向に向けて置かれる。しかし神父に対してはその位置は逆である。(資料 6)

 

●猫の死亡通知

  「吾輩は猫である」のモデルとなった黒猫が明治41年9月に死亡した。漱石は友人知己にあてて次の死亡通知を出した。「辱知猫儀久々病気の処、療養あい叶わず、昨夜いつの間にか、裏の物置の上のヘッツイの上にて逝去致しそうろう。埋葬の儀は車屋を頼み、箱詰めにて裏の庭先にて執行つかまつりそうろう。但し、主人三四郎執筆中につき、御会葬には及び申さずそうろう」



死刑さまざま

●州ごとの死刑のメニュー

  アメリカでは死刑の方法が州によって異なっている。毒物注射を採用する州が17と最も多く、電気椅子が15、毒ガスによるもの8、以下絞首刑、銃殺の順となっている。(資料 8)

 

●電気椅子の誕生

  ニューヨーク州のオーバーン刑務所で、1890年初めて電流による処刑が行なわれた。1回目の電圧は2,000ボルト、約15秒間続けられたあと、500ボルトに下げられ、再び2,000ボルトに上げられ、約3分で終わる。そのあと立会の医師によって死亡が確認されると、死体は隣室に移されて解剖される。(資料 9)

 

●大統領を殺した男の末路

  1901年9月、マッキンレー大統領は、バッファローで開かれた汎アメリカ博覧会の会場でレオン・ショルゴシュの隠し持っていた拳銃によって胸と腹を射たれた。ショルゴシュはその場で逮捕されたが、大統領は1週間後に死亡した。犯人は裁判で死刑を宣告され、翌月電気椅子で刑を執行された。このあとさらに棺のなかに硫酸を注いで死体を溶かした。(資料 13)

 

●日本の死刑制度

  日本では死刑の執行は監獄内の刑場で行なわれる。法務大臣が死刑の執行を命じたときには、5日以内に執行する。死刑の受刑者数は、明治15年から34年までの平均が70.35人。太平洋戦争中(1942〜45)も11、15、29、9人と少ないが行なわれた。明治32年から昭和30年の57年間で一番死刑の多い年は大正4年の94人、最も少ない年はその前年の大正3年の5人である。ちなみに大正3年は第一次大戦の勃発した年である。

 

●二・二六事件の被告の処刑

  二・二六事件のに起きた事件の判決は、その年の7月5日に言い渡された。一週間後の7月12日午前7時より、渋谷区の陸軍衛戌刑務所の刑場で、叛乱罪で死刑を宣告された15人の銃殺刑が行なわれた。三八式歩兵銃の照準は囚人の前額部に合わせられ、最初に眉間を狙って射つ。その一発で絶命しないときは心臓部を狙う。遺骸引き取りの通知を受けた15家族は、刑務所側の指示に従って霊柩車を準備し、遺体を受け取った後火葬場へと向かった。(資料 20)

 

●人の肝売ります

  江戸時代に死刑囚を斬る職業を代々専門に行なっていた、首切浅右ェ門として有名な山田浅右ェ門の平河町の邸では、内職に浅山丸という肺病の薬を金2分で売っていた。それは切った罪人の体温があるうちにミゾオチあたりを切開き、胆嚢を引き出して切り離し、胆汁が漏れないように切り口を糸で縛って陰干しし、これでケシ粒ほどの丸薬を作ったものという。なお浅右ェ門は夜寝ると首のバケモノに襲われるというので、女性に三味線を弾かせて夜を明かし、明け方からようやく眠ったという。(資料 10)

 

●女の悪あがき

  斬首執行人は男の首を斬るよりも女の首を斬るのを嫌がった。男は臆病の振る舞いは恥と考え、恐怖していても痩せ我慢をする。しかし女の場合、動物本能に立ち戻って全身で恐怖を表現し、恥も外聞もなく泣きわめいて、最後まで斬られまいと必死に狂いまわるので、斬り損じの確率が高くなる。そこで女の首を斬るのを嫌がった。明治12年1月、市ケ谷監獄署内で首切り浅右ェ門は高橋お伝の首を斬ったが、この時にもお伝が暴れたため2度手元が狂い、3度目に押し切りにして首を斬った。なお斬首刑は明治15年に廃止された。(資料 18)

 

●死刑囚の死装束と念仏

  江戸時代の「牢獄秘録」に、死刑囚の有様が描かれている。それによると「牢内にて死罪になるべき者は、かねがね心得て、白布にて脚半など用意しておくなり。もっとも牢内に白木綿、糸、針などは入れそうろう事ゆえ、この用意ができるなり」とある。また「牢内に仕置きものがあるときは、その夕方より牢内一同に、題目を唱える事なり」とある。ただし念仏はタブーである。説明によれば、念仏では往生してしまうが、題目ならば、日蓮上人が由井ケ浜で題目を上げて死刑を免れた故事があるので、その縁起をかついでのことのようである。(資料 17)

 

●処刑場から700体のドクロが

  京都三条通り千本西へ入る旧土築という薮地は、明治以前に罪人を処刑した所で、斬罪に処せられた首を埋めた穴があった。明治18年3月、そのドクロを近くの墓に移そうと掘り出したところ、700あまりのドクロが埋められていた。安政年間、京都の東奉行だった関和泉守は、首奉行とあだなされ、在職中1,518人を処刑にしたという。このドクロはその時のものであるに違いない。



自殺の話

●自殺者は厳罰に処す

  キリスト教の普及している国では、かって自殺者に対して厳しい処置が取られた。「イギリスでは、10世紀にエドガー王がみずから公布した教会法において、自殺者を盗賊や暗殺者や各種の犯罪者と同列においている。自殺者の死体に棒を突き通して道の上を引きずりまわし、なんの葬儀もせずに大道に埋めるという慣行が1823年まで行なわれていた。今日でも、埋葬は別の所で行なわれている。」(資料 15)

 

●経済危機が自殺を招く

  ウィーンでは、1873年に金融危機が起こり、74年にはそれが頂点に達した。と同時に、ただちに自殺の数がはねあがった。1872年に141であったのが、73年には153となり、74年には216まで達した。これは、72年に比べて53%増、73年に比べて41%増にあたる。(資料 15)



資料

1.「アシモフの雑学コレクション」
2.加藤秀俊「一年諸事雑記帳」
3.穂積陳重「法窓夜話」
4.雑誌「歴史読本」
5.永六輔「芸人その世界」
6.サバチエ「死の辞典」
7.「古事類苑」
8.雑誌「法律のひろば」(90.8)
9.レーダー「死刑物語」
10.日置昌一「ものしり事典」
11.柳田国男集
12.立川昭二「日本人の病歴」
13.ウイルソン「殺人百科」
14.リーバー「月の魔力」
15.デュルケーム「自殺論」
16.大原健士郎「心中考」
17.「刑罪珍書集」
18.綱淵謙錠「歴史と人生と」
19.同「往く人来る人」
20.澤地久枝「妻たちの二・二六事件」
21.雑誌「ダカーポ」(91.9.4)

 

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