1993.05 |
海外旅行は1990年に初めて1,000万人を突破し、それに伴って日本人の海外での事件・事故に巻き込まれる件数も増大している。外務省領事移住部邦人保護課が発表している「海外邦人関係援護統計」によると、1988年度に海外で日本人が関係した事件・事故は8,354件、9,771人で1万人近い日本人が被害にあっている。
この9,771人のうち、死亡したのは325人で、死亡原因は事故・災害によるものが152人(半数以上の69人が交通事故死)、犯罪による死亡者が22人、その他病気や自殺が151人となっている。
今回は海外における日本人の事故・犯罪被害について特集を組んでみた。
日本人が海外で死亡した場合、まずしなければならないのは遺体をどうするかである。処置方法としては現地で火葬するか、遺体を日本に運び国内で火葬をするかのいずれかである。費用を考えてみると、現地で火葬して遺骨を骨壷に入れて運ぶ方が安いと思うが、一つ問題がある。それは日本の法律では埋火葬許可証が発行されるためには、死亡届けが必要であるが、外国で死亡した場合にその国の在外公館に対して死亡届けが行なわれると、その書類が本籍地の市町村に送付されるのは、2週間から1ケ月要するので、その間遺族は遺体の処理が出来ないことになる。そのため、遺体をとりあえず国内に移送し、死亡者の本籍地又は届出人の所在地で死亡届を出した方が、埋火葬の手続きが早く行なわれることになる。
海外にいる日本人が死亡した場合、3ケ月以内にその届出を在外公館か、日本国内の市町村役場に届出なければならない。死亡届には、外国官憲作成の死亡登録証明書または医師の死亡診断書の原本とその日本語翻訳者名を明記した翻訳文を添付する必要がある。なお死亡した年月日には時間も記載することが必要である。
さて在外公館で死亡届けを出した場合、国内でも届出をすると2重の届けになるので受理されないので注意が必要である。(資料「海外安全ハンドブック90」トラベルジャーナル発行)
また海外の山岳遭難や海難で遺体が発見されなかった場合、原則として死亡届けは出来ないので、「失踪宣告」の手続きを行なうことになる。しかし、死亡の事実が確定的であることを証明する資料があれば、死亡届が受理されることがある。そのさいには、次の書類が必要である。
(1)山岳遭難の場合
○遭難現場に同行した者の遭難現認証明書
○遭難状況報告書
○捜索報告書(山岳警備隊等のもの)
○登山許可書等
○その他死亡の事実を立証する資料
それぞれ原本と和訳文の添付が必要
(2)海難の場合
○海難現認報告書
○海難状況報告
○捜索に当たった捜索報告書
○乗組員名簿又は乗客名簿
(資料「海外生活情報・ハンドブック」海外生活情報センター発行」)
韓国は台湾に次いで日本人観光客の多いところである。その韓国で日本人の観光客が被害にあったホテル火災がたびたび発生している。
昭和46年のソウル市のホテル天然閣の火災では、日本人10人を含む157人が死亡する大惨事が発生した。
昭和59年1月14日に起きた釜山市内のホテル火災では、死者35人うち日本人3名が含まれていた。火は午前7時15分頃、10階建ての大亜観光ホテルの4階サウナ室から出火し、たちまちのうちに9階まで燃え広がった。出火当時このホテルには日本人9人を含む115人が宿泊しており、多くの客が逃げ遅れ、約20人は屋上でヘリコプターの救助を受けた。火災当日の調べでは、日本人9人のうち3人が死亡、5人が負傷、一人が行方不明となり、負傷者は釜山市の病院に収容された。
日本人客は火元の4階から上に宿泊しており、6、7階に各一人、8階に4人、9階に3人である。このうち死亡したのは3名とも9階である。死亡した37人のうち、煙が原因で死亡した人が29人、飛び降り死が8人だった。被害を大きくした理由に、ホテルには警報機もなく消火栓も水が出ず役にたたなかったという。またホテルの従業員が火事を知ると、客の安全を無視して先を争って逃げ出したのも被害を大きくした理由である。生き延びた人の話では、ヘリコプターの降ろしたロープにつかまって助けられた人が多い。ちなみに韓国では火事、救急の電話は日本と同じ119番である。
事故は続いて起こるとよくいうが、この時も続いてバス事故が起きている。それは昭和59年9月9日パキスタンで起きたバス転落事故と、3日後に起きた韓国でのバス転落事故である。
パキスタンで起きたバス事故は、「シルクロード」ツアー中の日本人13人らが乗った観光バスで、午後6時50分頃カラコルム・ハイウェーで転落、日本人4人が死亡、3人が重軽傷を負って現地ギルギットの病院に入院した。重症者の1人は頭を強く打って意識不明の重体。事故原因は、片側一車線の曲がりくねった道路でパンク、バスは2、3回道路上で転がったが運よく谷底に転落せず助かった。死亡した東京都立川市の主婦(56歳)ら4人の遺体は、現地をたってイスラムバードに向かい、11日午後にラウルピンジの陸軍病院に到着。日本からは12家族15人。これにツアーを主催した日通航空の国際旅行部課長ら3人と僧侶1人の計21人が、11日午後4時成田発のパキスタン航空で現地に向かい、飛行機を乗り継いで12日午前、イスラムバードに到着した。このうち死亡した遺族はラワルビンジの陸軍病院に向かい遺体と対面した。また怪我をしてギルギット病院に入院していた人たち(重体患者は除く)もイスラムバードに向かい空港で家族と対面した。
9月12日午前10時40分頃、韓国の京釜高速道路で、韓国ツアーの日本人27人と韓国人乗務員、ガイド3人を乗せた観光バスが道路わきの水田に転落、1人が死亡28人がけがをした。ツアーは日旅サービスが募集した「釜山、慶州、ソウル4日の旅」で11日に福岡を出発、3泊4日の予定だった。12日は釜山市内の観光を終えて、釜山とソウルを結ぶ高速道路を慶州に向けて北上中の出来事であった。日本人団体客は60歳前後の年配者ばかりで、事故原因は運転手の居眠り運転とみられる。
飛行機事故は一度に大量の人名が失うので、記憶に焼きついているものである。インド洋上で日本人47人を乗せて墜落したジャンボもその一つである。昭和62年11月27日午前4時、南アフリカ航空の台北発モーリシャス経由ヨハネスブルグ行きのボーイング747がモーリシャス沖での海上で墜落。この飛行機には日本水産トロール部の38人の漁船員等計48人の日本人が乗っていた。消息を断ってから約半日後に、捜索活動中の水上飛行機など3機のパイロットが機体の破片を確認した。29日夜明けとともに本格的捜索が行なわれ、当日5人の遺体を発見。しかし遺体の損傷が激しく身元確認は困難であった。
外務省はモーリシャスに現地の対策本部を設置。一方南ア航空日本事務所では、29日に日本人乗客の家族ら約140人を現地に運ぶことに決定した。しかし現地の情報や、家族が現地入りする方法についての問い合わせに対して、「新しい情報はほとんど入っていない」として、事務所につめかけた水産会社や関係者をいらいらさせた。そのこともあって渡航の便や宿泊先の手配などほとんど日水側が行なうという状態だった。また遠隔地家族の宿泊先となった北九州の日水船員ホームには、29日夜までに25家族93人が集まった。午後3時には会議室で事故の情報、渡航手続きについての説明が行なわれた。そこでも家族から「連絡が不十分」「チャーター機は飛ばせないのか」などの質問が出た。一方外務省は身元確認に役立てるため、法医学の権威である鈴木和男東京歯科大教授に現地入りを要請した。
12月5日午後、モーリシャス主催の合同追悼式がモーリシャス大学で開かれた。合同追悼式にはモーリシャスのカトリック、プロテスタント、ヒンズー、イスラム、仏教の各代表がそれぞれの儀式にのっとった祈りをささげ、犠牲者を慰霊した。しかし日本人遺族の間では、当初遺体確認ができていないことなどから、追悼式への反発があったが、山口大使からの要請を受けて大部分が参列した。また鈴木教授によると、12月5日までに回収された遺体の中には、日本人はいなかった。
事故よりおよそ1カ月後の12月23日午後1時より、北九州市小倉北区の北九州会館で日本水産の社葬が行なわれた。白菊に包まれた祭壇には38人の遺影とインド洋の海水を染み込ませた位牌が並べられ、遺族関係者ら約1,000人が参列して冥福を祈った。
昭和49年3月3日のトルコ航空機事故は、日本人乗客48名、総計344名を乗せてパリのオルリ空港を離陸、そしてパリの北東50キロの地点のエルムノンヴィルの森に墜落した。この事故について記した鯖田豊之の『生きる権利・死ぬ権利』によって遺族の動きを見てみたい。
国際民間条約の取り決めにより、民間航空機の事故の場合、救援・調査は事故発生国の政府に限られている。そこでフランス政府は、犠牲者を出した関係国に「遺族の事故現場訪問はひかえてほしい」と申し入れた。これに対して日本側は、事故現場に出掛けて遺体と対面し、遺骨と遺品を引き取りたいことを訴えた。フランスは当日から翌日にかけて、遺体及び遺品の回収に努め、遺品は現地西北のサンリスの古い教会に集められ、遺体はパリ監察医務院に収容された。そして日本大使館には「遺体は身元確認がすむまで引き渡しは出来ないし、対面も許されない」とした。
帝国ホテル内に事故対策本部がおかれ、日本人犠牲者の遺族86人がパリに出発、現地時間の5日夕方に到着した。この中に長龍寺住職が参加していた。一行は日本大使館近くのホテルに宿泊し、そこで大使館員からの説明を聞いた後、翌日墜落現場と遺体のある救援本部に出発した。現場では市長の案内で現場に作られた祭壇に花束を捧げ、そのあとサンリスの教会で遺品の山を見た。午後3時、パリ監察医務院にいき、領事、医師等が遺体公示室にガラス越しにストレッチャーに乗せられた遺体の肉片と対面した。翌日日本大使館の講堂で、医師が遺族に遺体の状態などについて説明した。
8日には日本大使館で合同慰霊祭りが行なわれ、遺骨がわりに現場の土を持ち帰ることした。しかし外国の土は「植物防疫法」により持ち込み禁止であるため、例外処置を取り、あらかじめ殺菌、消毒をして一行よりも早く11キロの土を日本に輸送した。その後、日本人遺体48体のうち33体が確認され5月9日、チエの墓地で追悼式が行なわれた。「祭典新聞」昭和58年5月号によると、「各国の遺族の信奉する宗教の司祭が横列に並びキリスト教20分、仏教10分、回教10分、ユダヤ教5分、ギリシャ正教5分、ヒンズー教5分とそれぞれ聖典を読誦した」とある。その後遺体は遺族の希望によって火葬にされ、15人の未確認遺体も火葬にされて15遺族に分骨された。
大韓航空機がソ連領空を侵犯して日本人乗客が死亡した事件が2つ起きている。1つは昭和58年9月1日、サハリン上空で追撃されて269人(内日本人28人)が死亡した事件である。
もう一つはその5年前の昭和53年4月21日、パリ発ソウル行きの大韓航空機が北極圏を飛行中、領空を侵犯したとしてソ連領内のムルマンスク南方に強制着陸させられた事件である。この飛行機には日本人50人を含む113人が乗っていた。ソ連機からの発砲で、日本人乗客と韓国人の2人が死亡、重軽傷者13人を出した。不時着地点からはヘリコプターが日本人乗客をケミ市内の公会堂へと運んだ。
一方大韓航空のチャーターした救援機は22日、ムルマンスクに向けてベルリンを出発、ムルマンスクで乗員・乗客を乗せて23日早朝ヘルシンキに到着した。負傷者はヘルシンキ市内の病院に収容された。また機体からは2つの棺が降ろされ、ヘルシンキ大学の遺体安置所で、死亡した菅野さんの遺体確認が同乗していた弟さんによってなされた。
同日、大韓航空機の救援機は乗客と遺体を乗せて、ヘルシンキを出発。途中アンカレッジに経由した。この間前夜にアンカレッジに到着していた菅野さんの家族は、遺体との対面を申し入れた。しかし遺体はブリキの棺に詰められ貨物室に保管されているため対面をあきらめ、同機で東京に向かった。
飛行機は24日午後、事件から80時間後に羽田に到着した。ここで菅野さんの遺体は空港内の国際貨物倉庫へ運ばれ、遺族と対面した。そのあと遺体は倉庫近くの検疫所で警視庁係官立会のもとで検視を受け、翌25日、東京都監察医務院で行政解剖が行なわれた。死因は出血多量。左ヒジの外側から内側にかけて銃弾が貫通しており、左胸部内、肝臓の裏側から機体の破片とみられる金属片が発見された。大韓航空は事件から1ケ月後の5月24日までに、死者・負傷者を除く一般乗客に見舞金を支払った。見舞金は日本人52人にそれぞれ30万円である。
平成2年8月11日午前、浜松から社員旅行で中国観光に出掛けた1行が、ヘリコプターで万里の長城遊覧中に墜落した。このヘリには日本人乗客18人を含む24人が乗っており、15人が現場で死亡した。へりに乗っていた日本人乗客は、浜松市にある会社・取引先ら17人で、日本人死者は10人。事故にあった家族42人と会社社員4名は、12日午前7時、JR浜松駅発の新幹線で出発、途中パスポート配給手続きのために静岡で途中下車したあと、午後2時55分の中国国際航空機で成田を出発した。午後6時15分北京についた一行は、午後10時から北京第三病院と中日友好病院で遺体確認が行なわれた。北京第三病院に安置された9遺体のうち、7遺体が確認された。しかし残りの3遺体については損傷が激しく判別がつかなかった。
外務省では遺体確認のため、東京歯科大の2人を14日夜にに北京に派遣し歯型鑑定を行ない、日本人乗客全員の身元を確認した。
13日午後、日本人遺族約20人は墜落現場を訪れた。現場は北京市内のホテルから北西へ約100キロ、バスで1時間のところである。遺族の乗るバスは午後1時15分、ふもとの山道に到着。花束を手に雨でぬかるんだ山間部を約3キロ登り、1時間以上もかかって現場にたどりついた。
遺体の帰還方法について遺族と日本大使館が話し合った結果、3家族が北京での火葬を望み、6家族が遺体のままの搬送を希望した。そして15日夕、生存者と遺族40名は遺体・遺骨とともに中国民航のチャーター便で名古屋空港に到着。現地で荼毘にふされた2人の遺骨は骨箱に納められ遺族に抱えられてタラップをおり、5人の遺体を納めた棺は、機体後部から降ろされ、搬送車に移された。
その後遺体を乗せた車5台は、午後8時30分過ぎ、浜松市内の葬儀会社へ到着。遺体はここで葬儀用の棺に納め変えられたあと、遺族と一緒にそれぞれの自宅にと戻った。
列車事故で思い出すのは、昭和63年3月24日、上海で起きた高知学芸高校の修学旅行生の乗った事故である。一行193人を乗せた列車は別の列車と衝突、引率の教諭と生徒27人が死亡した。この年中国に修学旅行に出た高校は45校1,1419人、この事故の影響により翌年には8校、3,550人と減少している。事故は日本時間午後3時に発生、無事だった先生と生徒120人は上海市内のホテルに待機した。193人の内訳は生徒179人、教師9人、医師、カメラマン各1人、添乗員3人。負傷者の37人が7つの病院に収容された。また高知学芸高校の教員と生徒の家族156人を乗せた日航チャーター便は、25日夜上海入りし、負傷者の家族は病院へ、遺族は市内の竜華火葬場へ駆け付け、27遺体と対面した。なお遺体は日本総領事館の要請で、損害のひどい遺体はできるだけ、対面できる姿にするように心掛けたという。
このチャーター便は無事だった生徒128人、教員2人、生徒家族15人、交通公社職員1人を乗せて同日午後10時過ぎに高知空港に到着した。空港内では母親ら関係者他、300人を越す報道陣が詰め掛けた。
外務省は25日、負傷して上海市内の病院に入院中の高校生を援護するために、日本人医師3名を派遣することに決め、26日午前成田を出発した。
26日朝、遺族ら約80人は列車事故現場に訪れた。午前10時、マイクロバス5台に分乗した遺族らは現場に到着すると、日本から持参した花束や菓子を持って、線路脇に転がる車両に駆け寄り、花を供えて合掌した。現場では中国鉄道局関係者から謝罪の言葉を述べた。27人の遺体のうち、遺体の損傷の激しい3人の遺族は上海で荼毘にすることを希望、このため3人の遺体は26日午後6時竜華火葬場で仮通夜が行なわれ、日本から派遣された僧侶の読経をすませたあと、荼毘にふした。竜華火葬場は上海中心街から西南の方角にあり、中国革命の烈士の墓が近くにある。
翌27日、生徒27人の遺体及び遺骨は、迎えの家族らとともに上海から直行の日航チャーター機で午後2時高知に到着した。空港ロビーには正午過ぎから生徒、関係者ら約200人他400人近い報道陣が押し掛けた。
棺に納められた遺体と遺骨は、空港ビル西側の貨物ターミナル前で寝台車に乗せられて並べられ、学校主催の「お別れ式」が行なわれた。約50人の遺族と、参列した約2,500人の生徒、関係者を前に校長は「ご両親にとっては最愛の子供であった生徒を失ったことは、痛恨の極みであり、校長として地に伏して大罪を謝すのみです」とのべた。このあと、遺体はそれぞれの自宅に帰り通夜が営まれた。校長はそれぞれに営まれた通夜に参列した。
なお翌28日、27人の犠牲者のうち、11人の葬儀がそれぞれの自宅で行なわれた。残る犠牲者の葬儀は、31日までに順次行なわれ、「学校葬」は上海の病院に入院中の生徒が帰国してから行なうことに決定した。この最後の負傷者は4月2日に帰国、日本側の事故対策本部も同日解散した。
事故で死亡した27人の合同慰霊式は、2カ月たった5月29日に、高知県県民体育館で行なわれた。遺族をはじめ全校生徒他約4,000人が参列。なお参列者には「追悼の辞」と「おもかげ」の小冊子が渡された。「追悼の辞」は式次第とあいさつ、慰霊の言葉を掲載したもので、「おもかげ」は犠牲者一人一人の写真と略歴、そして両親の感想が添えられたものである。
長尾三郎編の『サハラに死す』(講談社文庫)には、サハラ砂漠の探検中に命を落とした上温湯隆さん(22歳)の死亡と、その後の遺骨収拾の模様が記されている。
上温湯さんの遺体は1975年5月29日、マリ共和国メナカ地区で遊牧民によって発見された。そして遺体解剖は6月6日に行なわれた。
6月七日、セネガルから外務省に公電が届いた。
「さる5月29日マリ国北部の砂漠において、在ナイジェリア大使館発行の旅券を所有する日本人が渇死し、遺体保存が不可能なため、マリ当局によりメナカに埋葬された旨連絡をよこした同人の氏名、テレックスのくずれが多く不明につき、マリ外務省に照会すると共に、在ナイジェリア大使館に対しても旅券事項の詳細につき調査中。とりあえず。了。外務大臣殿 荒木大使」
再び荒木大使より外務省に公電が入った。それには「マリ国外務省に対し、本人の『死亡証明書』の発行を依頼すると共に、
(1)同人の死亡より発見に至った状況の詳細
(2)遺留品の有無及びその内容、保管状況
(3)遺体の火葬及び遺骨の移送の可能性」等
の問い合わせを行なったが、7月19日現在何の回答も得ていないというものだった。母親も外務省から連絡を受けたが、遺体の持ち出しは絶望的で、遭難地点にヘリコプターで接近することも難しいとのことだった。9月12日、外務省から母親の元に現地で作成された公文書が届けられた。その文書は6月3日付けの「死体発見に関する司法調書」と医師の死亡診断書だった。
それから9年目の1984年6月2日、広木カメラマンが村人の協力を得て遺骨を発掘した。ついで現地警察が保管していたカメラなどの遺品も母親の委任状を見せて引き取った。持ち帰った骨箱は10キロ以上もある重さだった。それは現地で荼毘せず、骨のまま収集したからである。そして6月19日、火葬場で骨が焼かれ、そのあと告別式が営まれた。
昭和49.10.17(韓国ソウル市)ニュー南山観光ホテルで、8階建のうち4、5階が全燃。日本人4人を含む19人死亡。
昭和57.12.29(韓国大 市)琴湖観光ホテル6階建て全焼。日本人4人を含む10人死亡。
昭和62.6.26/フィリッピン・ルソン島のバギオ南東の山中にフィリッピン航空ホーカーシドレー748が墜落。日本人7人を含む50人が死亡。
平成2.11.21/タイ国内線バンコク航空ダッシュ8型がサムイ島着陸寸前に墜落。日本人5人を含む38人が死亡。
遺骨がわりに現場の土を持ち帰ることした。しかし外国の土は「植物防疫法」により持ち込み禁止であるため、例外処置を取り、あらかじめ殺菌、消毒をして一行よりも早く11キロの土を日本に輸送した。(トルコ航空機事故)