1993.03
アメリカの葬儀史

  1776年のアメリカの建国以来、およそ200年以上が経過したが、アメリカの葬儀史は、それ以前から始まっているといっていいでしょう。今回の特集は、日本に様々な影響を与えたアメリカ文化の中で、知る機会の少ない「葬儀の歴史」を扱います。アメリカの歴史で、葬儀がどのような過程を経て変化したのかをみていくことにします。


◆棺屋・馬車屋からスタート(1670〜1770)

  1678年頃から、棺に遺体を納めて埋葬するようになる。これ以前は遺体をそのまま埋葬した場合が多かった。1700年に入ると、馬車で遺体と遺族を運ぶようになる。1750年にはアメリカに入植した工芸職人が、棺の製作に携わるようになる。こうしたタンス職人が一般に「葬儀屋(アンダーテーカー:下請け)」と呼ばれるようになる。

 

◆棺の改良とクーラーの発明(1800〜1860)

  1800年当時、葬儀店は棺の製作と保管、及び遺体と遺族のために貸し馬車をする業務に限られていた。1812年には棺製作店とその小売店が成長した。さらに1820年には鉄製の棺が、埋葬と遺体の発掘から守るために開発された。のちにこれはボールト(棺ケース)に代わった。1824年、貸し馬車屋と葬儀屋が市の職業録に登録された。1834年にフランス語の「エンバーミングの歴史」が英語に翻訳され、専門家に利用されるようになる。1840年、霊柩用の馬車のデザインが、およそ15年おきに変化するようになる。新しさが新聞の広告などの宣伝文句に必要であったのである。  
  1843年、遺体保存のための冷凍クーラーが作られ、冷凍ボードに代わる。1860年代に入ると、葬儀業の役割が遺体の枕直し、納棺、墓までの搬送という範囲に落ち着いてきた。

 

◆南北戦争の死者を国立霊園に埋葬(1861)

  戦争勃発に伴って、死亡と埋葬が公に登記されるようになる、そして戦死者のために国立霊園が設けられる。この年の4月に始まった南北戦争は、4年後の65年4月まで続き、その間の戦死者は61万7000人といわれる。この戦争で戦死した遺体は、改めて陸軍の主計総督によって国立霊園に埋葬され直し、他は故郷に搬送された。この時エンバーミングの父と呼ばれたトーマス・ホームズ博士は、陸軍医療団によって依託を受け、多くの著名な軍人のエンバーミングを行なった。彼はワシントンにおいて一体100ドルで引受たが、その数は4,000体である。彼は戦後、幸運に見放され、自分の死に際してはエンバーミングをしないように希望した。
  ナッシュヴィル地区で政府のお抱え葬儀士であったコルネリウス氏は、南北戦争期間中に、兵士や雇人など3万3000体の埋葬や移送を行なったと述べている。そのうちエンバーミングを行なったのは3,000〜3,500体という。

 

◆リンカーン暗殺で葬儀列車(1865)

  大統領リンカーンが暗殺され、イリノイ州まで列車遺体を運ぶにあたって、防腐処置にブラウン博士とアレキサンダーが招かれた。

 

◆病院用救急車の登場(1866)

  初めて病院で救急車のサービスが開始された。シンシナティにあるジェネラル病院のことである。3年後にニューヨークのベルビュー病院でも救急車のサービスを始め、翌年の70年に1,400回の呼び出しを受けるほどのニーズがあった。

 

◆一部の葬儀店がエンバーミング(1870)

  葬儀店が葬儀のため遺体のエンバーミング(遺体処置)を行なうようになる。しかしまだ多くの葬儀屋は、遺体保存に氷を用いていた。大きな金属製の棺型の箱を用意し、そこにたくさんの氷のかけらを入れた。そして小さな丸い穴が遺体の顔の正面に開けられており、遺族はそこから遺体の顔を見るのである。しかし暑い日にはこうした方法では遺体防腐の効果が薄く、葬儀前に腐敗することもしばしばだった。

 

◆火葬場の登場(1876)

  アメリカで最初の火葬場が、ルモイーヌ博士によってワシントンに建設され、最初は博士自身が火葬となった。

 

◆エンバーミング学校登場(1878)

  エンバーミングの学校が初めて開設された。4つの薬品会社が合同で作ったもので、そこでエンバーミング液が販売された。学校といってもニ・3日の実習程度でレベルは低かった。エンバーミングは南北戦争の間は盛んに行なわれたが、戦争が終わって、その需要は少なくなった。そこで薬品メーカーがエンバーミングの普及に勤めたのである。

 

◆葬儀齋場が都市部に登場(1880)

  この年、アメリカの人口は5,000万人をやや上回る程度であった。都市部の人口は約28%で、まだ農業国のイメージが強いが、20年後には都市部への人口集中が始まり、40%にのぼった。1880年代から葬儀専用の齋場が現われ始めた。当時ほとんどの葬儀は自宅で行なわれ、残りは教会で行なわれていた。初期の齋場は、個人の邸宅や店を改造したもので、客間(パーラー)に遺体を安置して、自宅葬の雰囲気を残した。しかしまだ75%の葬儀屋は他の職業を兼用していた。

 

◆◆第1回全国葬儀士大会開催(1882)

  会長のアレン・ダーフィ氏はこの大会で、「早急なる社員教育の充実に努力したい」と語った。葬祭業の歴史は教育による質の向上の歴史であった。

 

◆葬儀電車の登場(1890)

  遺体、遺族、供花などの運搬に葬儀電車が利用され、90年代から20世紀初頭まで使用された。多くの市で利用され、大霊園まで定期的に運転された。

 

◆万博で霊柩車が登場(1893)

  シカゴの万国博覧会で、約1トンもある巨大な霊柩馬車が展示された。これは8頭の馬に引かれるように設計されており、大変豪華なものであった。この霊柩車は得に依頼主があったわけではないが博覧会が終わった後に、たまたま暗殺されたシカゴ市長の葬儀に用いられた。

 

◆エンバーミングの免許制度始まる(1894)

  バージニア州で初めてエンバーマーの免許が導入される。翌年ペンシルバニア州で初めて葬儀士の免許が発行される。1952年には48の州でエンバーマーの免許書が発行される。1990年代には44州が1免許システムを導入、5州が2免許(葬儀士とエンバーマー)。免許資格は一州は4年生大学プラス1〜3年の実習等、州によって基準が異なる。

 

◆アメリカ・スペイン戦争が遺体移送を発達させる(1898)

  キューバを舞台にしたアメリカ・スペイン戦争で、アメリカ民間エンバーマーの一団は、キューバとプエリト・リコにある遺体を掘り起こし、アメリカに移送した。翌年、陸軍は747の棺を運び、合計で1,222遺体がアメリカに帰った。そのうち64%の身元が確認された。この確認技術の向上によって、墓地での遺体登録が正確となった。(*1-86)

 

◆電機救急車の登場(1900)

  自動車メーカーがニューヨークの病院のために、電機で動く救急車を開発した。この車は32キロ毎にバッテリーを充電しなければならなかった。

 

◆霊柩車の登場(1905)

  エンジンで走る霊柩車が登場する。また救急車が葬儀店によって提供されるようになる。20世紀に入ってからも全米のあらゆる町で、葬儀士による怪我人や病人の搬送が行なわれた。こうした業務を行なうようになった理由として、
(1)葬儀士は地域での危険に対応するのに慣れている。
(2)葬儀士は医師に次いで解剖学や生理学に通じている。
(3)齋場では24時間、スタッフが待機している。
(4)地域で搬送用の車を持っている唯一の場所。
このような理由から、救急サービスが葬儀社の欠くべからざるものとなった。何か事故が起こると、葬儀社は怪我人を病院に運ぶことを、1980年まで続けてきたのである。

 

◆すぐに普及しない霊柩車(1909)

  この年2つのメーカーが、葬儀用霊柩車や乗合自動車を製造した。しかしすぐには普及しなかった。その理由に、馬車に比べて料金が3〜4倍したこと、馬車と速度が変わらない、自動車で葬列すると何か急かされているような気持ちがするなどがあげられる。しかし1910から20年代の間に、葬儀関連の車が馬車から自動車に取って変わった。

 

◆葬儀士資格の登場(1915)

  全国葬儀士協会(NFDA)の会議で、資格を得た葬儀士だけが、葬儀を指揮する権限があることで意見の一致をみる。

 

◆齋場のほとんどが救急サービスを行なう(1917)

  第一次世界大戦後、齋場は救急サービスを拡大し始めた。葬儀士は赤十字で訓練した人を雇ったり、特別の車(ステーション・ワゴン、リムジーン、救急車と霊柩車の兼用車、および専用救急車)に酸素や添え木などを積んだ。1930年には、齋場のおよそ9割以上が、救急自動車のサービスを行なった。

 

◆齋場での葬儀が増大(1920)

  自宅での葬儀が減少する。多くの住宅やアパートは遺体とのお別れや、葬儀には狭いことがその理由である。1925年には、多くの葬儀社は葬儀用の教会施設や齋場を持つようになる。

 

◆葬儀費用の国家負担(1923)

  葬儀のための資金のない退役軍人の為に、100ドルが支給されることになる。

 

◆ロスアンジェルスのフォーレストローン霊園が、敷地内における葬儀の許可書を発行する(1932)

  この年、ネブラスカ州の葬儀社が、葬儀社で最初に空の救急便を行なった。

 

◆葬儀保険が開発(1939)

  第二次世界大戦が始まる。この年葬儀保険が開発される。保険金は葬儀にかかった費用が支払われるもの。

・メモリアル・ソサエテイ(追悼協会)が発足。この協会は非営利団体で、葬儀を経済的に行なうなどの援助を目的としている。この組織は1960年台に全国的な規模に拡大し、71年にはカナダ支部が出来、80年には全米で193都市に拡大した。

 

◆全国葬儀士協会が公に認知される(1945)

  第二次大戦の米軍の死者、約30万人。

 

◆この年の葬儀料金(1948)

  全米葬儀士協会は、平均的葬儀料金を527ドルと発表する。

 

◆葬儀PR映画の製作(1949)

  全国葬儀士協会はPR映画を製作した。タイトルは「葬儀ーアメリカ人の暮らしの一領域」で、内容は葬儀の歴史と葬儀の準備を扱ったもので、協会の総会において試写された。

 

◆朝鮮戦争で米軍の死者は3万3000人(1950)

  戦闘が終結した1953年7月、およそ2万6000体のうち、2万3000体以上の遺体が朝鮮から(日本でもエンバーミングを行なった)本国に帰還した。2年後には全戦死者の97%である3万体の遺体の身元が確認され、本国に帰された。遺体の3%(身元不明を含む)はホノルルにある国立霊園に埋葬された。

 

◆齋場数は6000人に1戸(1950)

  全国葬儀士協会の調べでは、アメリカ全土にある齋場数は約2万3800。当時人口は1億4700万人で、6,000人に1齋場という割合である。この年の死亡者数は130万7000人で、1齋場当たり平均55人の死亡者ということになる。1945年の調査で、年間取り扱い数が50体以下の齋場が43%、50から100が32%、100から175件が16%という。

 

◆事前葬儀プランの販売(1952)

  中西部で葬儀と埋葬の事前プランと販売が、霊園と提携した業者によって行なわれるようになる。事前葬儀信託法が提出され、ほとんどの州で成立する。この事前葬儀の潮流は増大して、1980年にはおよそ葬儀の2%が、事前にプランされたもので行なわれるようになる。

 

◆葬儀社による救急サービスの減少(1958)

  死はいつ訪れるかも知れない。そこでほとんどの葬儀社は24時間体制を取り、救急自動車とスタッフを揃えていた。しかしそうしたサービスが年々減少し、この年からおよそ20年後の1980年までに、救急自動車によるサービスが59%から7%に減少した。この理由として、救急自動車に装備する設備が普及して、それを取り揃えるために大変経費がかかり、また独自に救急自動車を運営する制度が整ったことがあげられる。

 

◆巨大葬儀社の登場(1962)

  サウザーンキャピタル社が、ヒューストンで多角的葬儀会社を経営する。1969年、サービス・コーポレーション・インターナショナルと社名変更。

 

◆「アメリカ人の死に方」が大衆の葬儀の関心をあおる(1963)

  ミッドフォード女史の「アメリカ人の死に方」が発売され、本書で葬儀料金などの高いことが指摘されたため、一時葬儀社はその対応に手をやく。

・「鉄道ストライキに際しての遺体移送は飛行機で」と全国選抜葬儀士連盟(NSM)が提案した。飛行機の搬送料金も、葬儀社が数多く利用することで、鉄道よりも安いのである」と述べている。

 

◆葬儀料金20年間で3倍(1964)

  この年の平均の葬儀料金は棺代を含めて、826ドル、10年後の74年は1,288ドル、さらに84年には2,516ドルと20年間に約3倍上昇している。なお棺だけを取り上げてみると、64年は165ドル、74年は237ドル、84年は430ドルである。

 

◆ベトナム戦争で遺体処理班が活躍(1965)

  この年、アメリカは多くの軍隊をベトナムに送り、その数19万人に達した。アメリカ政府は戦死者の本国送還に力を入れ、発見された遺体のほとんどが国内に戻った。その期間はほとんどが死後10日以内に行なわれた。陸軍は国内の葬儀社と契約を結び、遺体処置その他の準備に協力を要請した。

 

◆遺灰空から散布合法に(1965)

  カルフォルニア州で、遺灰を航空機から海上にまくことが合法化された。5年後の70年には、船上からの散布も許可された。遺灰の散布は、海岸から3マイル沖で、遺族には、その日付、時間、緯度、経度を記した「遺灰散布証明書」が渡される。

 

◆黒人葬儀士が市長に(1966)

  44歳の黒人の葬儀社経営者のヘンリー氏が、オハイオ州スプリングフィールド市の市長に立候補する。黒人で米国大都市の市長を引受た最初の人物ということになる。
・ソルトレーク市にあるモルモン教が、初めてその葬儀の習慣を公にした。モルモン教は1893年に創立された宗教団体で、250万人(当時)の信者数を誇り、日本でもその活動はおなじみである。

 

◆遺体の冷凍保存元年(1967)

  ロサンジェルスのベッドフォード博士の遺体が、遺言に従って冷凍保存された。これが冷凍保存協会で冷凍にされた第1号である。博士は遺言書に「冷凍保存カプセルの費用4,200ドル、ベッフォード生物冷凍学研究財団設立に20万ドルを残す」とした。

 

◆献体が合法化(1968)

  解剖用の献体行為が統一州法によって認められる。その数は増大して1979年に154の組織が、合計1万体の献体を受けた。しかし研究にはこれ以上の献体数が必要とされているという。なお葬儀を行なった後に献体出来ることを、ほとんどの医学校で認めている。

 

◆「死の瞬間」がベストセラー(1969)

  末期患者が死を迎えるに際して、体験する心の変化を5段階に分けて発表したキューブラー・ロス女史の「死の瞬間」が評判となる。

 

◆霊園兼葬儀社増大(1974)

  アメリカの法律では葬儀業者が霊園を経営してはいけないが、少なくとも霊園と葬祭場と遺体安置が組み合わされている施設が85ケ所ある。この数はその後も増え、1981年には174となる。これらはアメリカ霊園協会に属している。

・アメリカで最初のホスピス協会が、コネチカット州ニューヘブンで誕生。イギリスのホスピスと異なるのは、患者用のベッドはなく、すべてホームケアを中心に行なう点である。80年末には、米国内のホスピス数はおよそ1,700ケ所である。

 

◆海外からの遺体返還は高価で伸び悩む(1979)

  生命保険が大切なのは、例えばアメリカ人がヨーロッパに旅行し、その途中で死亡した場合に、その遺体の移送コストが大変に高いことがあげられる。例えば、この年にスウェーデンで63人のアメリカ人が死亡したが、そのうち17の遺体しか本国に帰らなかった。その理由は航空運賃が一体あたり約4,700ドルかかるという。これがスイスからだと5,000ドル以上、モスクワからだと3,000ドルという。ユーゴスラビアで死亡したアメリカ人は40人、遺体返還が4体。費用は4,000ドル(NFDA.80.11)これが現地で火葬して、遺灰を本国に送る場合も同じように高い。カップルが殺され現地で火葬した場合、2人で4,000ドルという。(2-377)

 

◆女性の葬儀業界進出と火葬の増大(1980)

  葬儀に女性の進出が目覚ましくなり、80年台の葬儀士免許取得者のうち、2%が女性となる。また80年までに目覚ましく変化を見せたのは、火葬率の増大である。60年には死亡者の3.5%だった火葬率が、80年には10%となった。その多くが西洋岸で、火葬場も226から563に増えた。ほとんどの火葬は、葬儀を終えてから行なうが、法律に規定されている火葬許可時間になるやいなや、葬儀を行なわずに火葬する数も増えている。

・フルトンの調査によると「死]に関する本は1960年にはおよそ110冊しか発行されなかったが、この年には580冊が発行された。75年から80年の5年間に2,200冊が発行され、死はタブーの座から転落した。(*1-387)

 

◆エイズが葬祭界のテーマに(1983)

  エイズがマスコミに登場し、葬儀社に大きなインパクトを与えた。その対応策が葬儀士協会のテーマとなる。

 

◆エンバーミング業界の売上(1984)

  アメリカのエンバーミング用薬品製造メーカーは約30社あり、この年の年間売上は1,500万ドルである。

 

◆宇宙葬は新時代の幕開けか(1985)

  アメリカ運輸省は火葬した灰をカプセルに詰めて宇宙にまく?ことを許可する。この計画をした企業はフロリダ州のセレスティス・グループで、打ち上げ費用が約1,500万ドルで、遺灰5,000人分で割ると、1人当たり約75万円になるという。しかし10年以上も経過するのに、これが打ち上げられたという話は聞かないのはどうしてだろう?

・この年の棺業界を見てみると、年間187万ケースが販売され、売上高は7億2700万ドル、前年の売上6億7200万に対して8%伸びている。アメリカでは100の遺体に対し90の棺が販売されるというが、アメリカのこの年の死亡者数は約208万人。

 

◆空の遺体移送年間5万体(1987)

  アメリカの航空会社は遺体移送サービスにしのぎを削っている。この年、5万体が空輸された。デルタ航空会社では、16人の専門スタッフが24時間体制で、このサービスに取り組んでいる。(*5-88.8)

・この年アメリカの年間死亡者数は212万3000人で、前年比で約1.8万人増加した。この数字は今までにない最高記録である。(「アメリカの霊園」90.1)

 

◆ドライブ・スルー齋場の登場(1989)

  シカゴの葬儀社がドライブスルーの齋場を作り人気を集めている。2月23日付けの「シカゴ・ジャーナル」によると、車に乗ったままで記帳からテレビモニターに映される遺体と対面するまでが、可能であるという。手続きは、会葬者が車を止めてスピーカーボタンを押す、すると係員が「どなたにお合いしたいですか」と質問する。「ジョンさんです」と答えると、係員がジョンさんの遺体をテレビカメラで映しだすのである。そのあと、会葬者名簿に記帳するのである。

・この年の葬儀料金は棺込みで平均3,100ドル、棺料金は平均539ドルである。(1ドル150円で計算すると、それぞれ46.5万円と8万円)

 

◆エイズ撲滅に貢献(1990)

  全国葬儀士協会はエイズ撲滅に大きく貢献したとして、全国エイズ局より賞状が贈られた。その授与式は12月2日、ワシントンの世界エイズデイの式典の一環として行なわれた。授与した会長は「我々は会員ともども、エイズ教育と撲滅努力してきましたが、この努力が理解されて大変にうれしい」と語った。(5-92.1)

・北米火葬協会(CANA)は、アメリカの火葬率を発表した。それによると、90年は17.0%。そのうちカルフォルニアは40.4%と群を抜いている。また2000年には25.1%、2010年には32%を超すと予測している。

 

出典

(1)The History of Amerian Funeral Directing/Habenstein 1981
(2)Funeral Service/H.Raether 1990
(3) The Amerian Funeral/L.Bowman 1959
(4) The Amerian Way of Death/J.Mitford 1963
(5)雑誌Amerian Funeral Director

 

Copyright (C) 1996 SEKISE, Inc.