1992.07
葬と死の由来

  物事にはすべて始まりがあるが、意外と知らないことが多い。しかし風俗習慣でいつ頃から始まったのかを知ることは大変に楽しいものである。今回は死と葬儀などに関連したテーマでその起源を探ってみた。


●位牌の起源

  位牌はもともと儒教を信仰する家で用いられたが、これを禅僧が宋代に中国からもたらし、仏教に転用されたとされている。臨済宗の僧の日記『空華日工集』、応安4年12月30日に「位牌、古にある無しなり、宋以来これあり」とある。また14世紀に書かれた『太平記』に、卓の上に祀られていた位牌の裏に、歌を書きつける話がある。

 

●諡(いみな)の始まり

  諡は天皇や将軍などの貴人の俗名を死後に避け、尊んであらたにつけた称号で、おくりなともいう。神宮皇后が百歳で崩御され、10月に陵に葬られたときに、「気長足姫命」というおくりなが奉られた。

 

●院号の始まり

  院号は天皇が譲位したのちの御所の呼称に起因するものであり、冷泉院より始まる。摂関家では九条兼家(1207)が死去したとき、「法興院」と称したことが始めてされている。院号殿は禅宗に帰依した足利尊氏(1305〜58)が「等持院殿仁山大居士」と称されたのが始めである。なお三代将軍足利義満の位牌の銘は「鹿苑院殿准三宮大相國天山大禅定門」と長い。
  なお明治13年7月に、これまで士以上の有位の者でしか認められなかった院殿または、大居士という戒名も平民にも認められるようになる。

 

●引導の始まり

  禅宗などでは葬式の時に導師が棺の前で引導を授けるが、その起源は炬火(たいまつ)をとって火葬にするのが儀式化したもの。これを下炬(あこ)というが、仏典では迦葉(かしょう)が釈迦をだびにするときに炬をとったとしるすと、『菩薩所胎経』に記されている。

 

●孟蘭盆の始まり

  日本での孟蘭盆会は、推古天皇の14年(606)にはじまり、この年より寺ごとに4月8日、7月15日に斎を設けた。斉明3年(657)7月15日に仮に須弥山の形をかたどって、飛鳥寺の西で、始めて孟蘭盆会が行なわれた。

 

●音楽葬の始まり

  音楽評論家でありオペラ研究家の伊庭孝が、昭和12年(1937)2月25日死亡したが、その時の葬儀に彼の友人たちによって音楽葬が行なわれた。これが日本での音楽葬の始まりである。

 

●戒名の始まり

  インドでは出家しても俗名のままだが、中国や日本では受戒して俗名を改めた。
『日本書紀』に588年、蘇我馬子は百済の僧たちに、受戒の法を請い、善信尼らを百済に発たせている。聖武天皇(701〜756)登壇受戒して勝満と称された。

 

●外国人墓

  唐人の墓は、長崎の宗福寺、興福寺等に埋葬されている。墓石の年代には乾隆2年(1737)などと中国の年号で刻まれている。明治13年6月青山の共葬基地内に外国人の埋葬地が定められた。

 

●過去帳の始まり

  檀信徒の死者の死亡年月日、俗名、戒名を記す過去帳は聖武天皇の頃は「点鬼簿」と呼ばれていた。
  日本での過去帳の始まりは、円仁(794〜858)で、結衆の名簿であった。

 

●火葬の始まり

  日本で最初に火葬が行なわれたのは文献上では『続日本紀』の文武天皇4年(7OO)の3月10日の条に、元興寺の僧道昭の遺体が飛鳥の粟原という所で火葬にされたとある。その2年後に、持統天皇が天皇で始めて火葬にされている。

 

●火葬所の始まり

  火葬場はかって三昧場と呼ばれ、五三昧は京都洛外の5ケ所の三昧所を指す。『平家物語』に墓所は、大和国、添上那、河上村、船若野の五三昧なり」とある。

 

●忌服の始まり

  近親が死去した場合、一定の期間喪に服することを忌服というが、「服」は喪服を着ることを意味している。この忌服のはじまりは、天武元年(672)3月18日、前年の12月3日に崩御した天智天皇の死を告知する場面で始めて登場する。「日本書紀」によると、「朝廷は阿曇連稲敷を筑紫につかわして、天皇の死を郭務宋らに告げた。郭務宋らはことごとく喪服を着て、三度挙哀(声を挙げて哀悼を表す)をし、東に向かって拝んだ」とある。
  近代では、明治7年に大政官布告により「服忌令」が定められたが、これは武家の制を採用し、貞享元年(1684)の服忌令を改正した元禄6年(1693)の制、並びに元文元年(1736)増補したものを定めた。

 

●経かたびらの由来

  死者に経が書いてある衣を着せるのは、真言密教の経典によるものである。『不空 索神変真言経』(707〜709年唐の菩堤流支訳)に、「もしこの亡者のその身分死骸衣服に従って真言をなさば、身形映着して即ち解脱を得、所苦の身を拾ててただちに浄土に生ぜん」とある。

 

●供物拝辞の始まり

  明治23年12月25日、国語学者の大槻文彦の妻の死亡広告が「東京日日」新聞に掲載された。それによると、「造花ご寄贈の儀は平にお控え下さるべく侯」とある。

 

●劇団葬の始まり

  昭和3年12月25日のクリスマスの夜、心臓麻痺で倒れた新劇運動の小山内薫(1881〜1928)に対して、築地小劇場では劇団葬が行なわれた。

 

●献体の始まり

  明治11年5月、大坂の芸妓が自ら死体解剖を申し出た。岡沢貞一郎が解剖。心斎橋の病院長代理他生徒百名が臨場した。
   医学の実習のため解剖用の遺体を登録する献体の会は、昭和30年(1955)9月に結成された。これを東京大学白菊会といい、文部省の基準では解剖体は医学生2人について一体必要であるとされる。

 

●ゴルフクラブの副葬

  最後の将軍、徳川慶喜の七男である慶久が大正11年38歳で死亡した。この人はゴルフが得意だったので、納棺の時に故人が好きだった品物を入れようという意見がもちあがった。しかし前例がないということで家令が反対するので、兄弟たちは「兄弟だけで最後のお別れをしたいからその間遠慮してくれ」といって、内緒でクラブを棺のなかに入れたのである。

 

●香典の始め

  足利義春の死(1550年)を記した『高松院殿穴太記』に「穴太の御所(喪所)へは、所々より、香冥を参らせらる」という記事がある。『播磨屋中井家永代帳』の明和2年(1765)5月20日の記録には、「九品院へ御袋様御新造様御香奠」とある。

 

●高野山納骨の始まり

  『兵範記』仁平3年(1153)12月8日の記事に、「今夕御室(覚法法親王)をご葬送。夜に入り嵯峨野ご門に移しその西の林の中に葬り、法橋寛深はお骨をかけ高野山に登り、塔のなかに納めた」とある。

 

●告別式の始まり

  明治34年、自由民権指導者の中江兆民が12月13日、咽喉ガンのため55歳で死亡した。葬儀は遺言により一切宗教上の儀式を用いなく、青山葬儀場において告別式を執行した。葬場の正面に棺を安置し、葬儀係の挨拶、板垣退助の弔辞、大石正巳の演説が行なわれた。

 

●散骨の始まり

  承和7年(840)5月、淳和天皇は皇太子に、人は死ねば魂は天に帰り、墓だけが空しく残り、鬼がそれについてたたりをするから、自分の骨は粉にして散くことを命じている。天皇の死後、遺言通り山城國の物集村で火葬した後、骨を砕いて大原野西山嶺の上にまいた。(続日本後紀)

 

●寺院の始まり

  552年、百済の聖明王は、欽明天皇に釈迦像を献じた。天皇はこの像を蘇我稲目に祀ることを命じた。稲目は喜んで大和の家に安置し、無垢原の家を捨てて寺とした。日本の寺のはしまりであるが、仏教式建築ではない。

 

●自粛(普請鳴物停止)

  天皇の大喪の時に「自粛」という言葉がはやったが、こうした自粛は、江戸時代から始まった。「徳川禁令考」によると、延宝8年(1680)第108代後水尾天皇崩御にさいして、町中での見せ物、普請(建築)等停止すべしという禁令が出された。「何にてもものさわがしい事ないように、町中裏々まで、残ることなく守るように」とのことである。こうした停止令は慶応3年(1867)、121代考明天皇崩御にさいしても、「普請鳴物停止」の触れ書きが出ている。なお停止期間は、お触れが出された1月4日から百ケ日法要のすむ4月14日までである。

 

●辞世の始まり

  この世に別れを告げる時に残す詩歌で、これが盛んになったのは平安後期からである。寿永3年(1182)7月、平家の一族が安徳天皇を擁して都落ちしたさいに、平薩摩忠度が途中から引き返して藤原俊成の許を訪れ、「さざなみや志賀の都は荒れにしをむかしながらの山桜かな」の辞世を残している。

 

●自葬の禁止

  明治5年6月28日自葬が禁止され、これ以後の葬儀は神官または僧侶に依頼することが決められた。自葬とは自分の信じるところによって行なう葬儀で、江戸時代の神道、儒教はともに自葬であって、喪主以下の人々が神道、儒教の式次第に則って行なった。

 

●死体解剖の始まり

  江戸時代の医家の山脇東洋(1705〜61)は、宝暦4年(1714)2月7日、京都所司代の許可を得て4人の男の死体を解剖する。これが日本最初の医学解剖で、その1ケ月後に解剖慰霊祭を行なった。明治に入って明治2年(1869)解剖に関する法律が出来、それには「病者の請願あるは死後解剖を許す」とある。ホルマリンによる遺体の長期保存が可能になったのは19OO年頃である。

 

●死亡広吉の始まり

  新聞の死亡広吉の始まりは、明治6年l月14日『日新真事誌』紙上の広告である。内容は死亡告知と葬儀の案内で、「本日12日の朝外務少補上野景範の父上野景賢病死せられ、来る15日午後第一時築地仲通り同氏邸宅より出棺、芝伊更子大円寺へ葬送あい成り筈につき同氏友人等の為にこれを報告す 上野氏友人」とある。

 

●儒葬の始まり

  儒葬とは儒教の礼によって行なう葬儀であるが、12世紀の儒学者、朱子が編纂した「朱子家礼」が、日本の儒葬の基になっている。儒葬を日本で最初に行なったのは土佐の野中良継で、慶安4年(1651)6月に、その生母の葬儀を儒葬で行なった。ついで林羅山は明暦2年(1656)3月に母荒川氏の儒葬を行なっている。

 

●殉死の始まり

  君主の死に際して、臣下が後をおって命を捧げることをいう。「日本書紀」の中で、第11代の垂仁天皇の28年10月、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。「遺体は築坂に葬ったが、このとき近習の者を集めて、全員生きたままで、陵のまわりに埋めたてた。日を経ても死なないため、昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき、犬や鳥がそれを食べた」とある。このなかで殉死は古い習慣であるといっているので、これ以前に行なわれていたことが分かる。

 

●心中の始まり

  男女の心中の最初は天和3年(1683)、遊女市の丞となじみ客の長右衛門との情死である。近松も『心中刃は氷の朔日』のなかで「誰が初めしこの契り、音に聞きしは生玉のそれが初めのだい市の丞」と述べている。大阪で流行を続けた心中が江戸に飛び火したので、幕府は享保7年(1722)心中禁止令を出すに至った。

 

●神葬の始まり

  日本に仏教が到来してから、天皇の葬儀も仏式で行なわれるようになり、それは明治になるまで続いた。その間神葬で行なわれたものに、徳川家康の葬儀がある。明治5年6月28日、政府は自葬を禁止し、神葬または僧侶に依頼して葬儀を行なうことを定めた。これより一般での神葬祭が行なわれるようになった。

 

●頭北面西の由来

  死者の頭を北に向けるという習慣は、釈迦が涅槃に入った時の姿を模したといわれており、『臨終方決』『涅槃経後分』『増一阿含経』に載っている。『増一阿含経』では「仏、阿難に告げる。わが滅度のあと、仏法は北天竺(北インド)にあるべし。この因縁をもっての故に、座を敷くに北回きにせしむ」とある。なお儒教の経典の『礼記』でも北向きを教えており、日本では『栄華物語』のなかで藤原道長(1027)が遺体を北向きにされたことが記されている。

 

●生前の死亡広吉

  江戸時代の西洋画の先覚者である司馬江漢は、76歳の文化10年(1812)8月に、チラシに自画像入りの辞世を刷って友人に配付した。その内容は「江漢先生老衰して画を求めるものありといえども描かず、蘭学天文あるいは奇器を好むことも倦み、ただ老荘のごときを楽しむ。
  去年は吉野の花を見、それよりして京にとどまること1年、今春東都に帰り、先ごろ上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟となり、遂に大悟して死にけり、万物生死を同じくして無物にまた帰る者は、しばらく集まるの形なり…」しかし翌年には蘇生通知を友人宛てに送っている。
  新聞に載った死亡広告としては、作家の斉藤緑雨が、明治37年(1904)4月に肺患のため親友の馬場に依頼して口述で自分の死亡広告を書いてもらった。
「僕本日を以て目出度く死去候間この段広告つかまつり候なり、4月13日 斉藤賢」この広告は死亡すると同時に掲載になった。

 

●施餓鬼の始まり

  施餓鬼法要は障害をなす餓鬼に対して施す法会で、その典拠は『救抜焔口餓鬼陀羅尼』である。中国に施餓鬼経典が紹介されたのは唐代(618〜907)で、日本では平安時代に天台・真言宗の僧侶によって紹介された。明恵上人伝記に「上人それより施餓鬼法をぞ毎夕修し給いける」とある。

 

●石棺の始まり

  石で棺をつくることを伊志岐(いしき)というが、第11代垂仁天皇の32年に、皇后が死去す。このとき和泉の人が石棺を作って献上した。天皇はこれをほめて石作りの大連公の姓を与える。石棺は天皇及び皇親以外は用いなかった。そして第36代考徳天皇(596〜654)の時に臣下の棺は木を使用し、漆を塗るべしと定められる。また645年、石作大連公の石作部を監督することをやめ、喪事があれば朝延が工人に石棺を作らせるようになる。

 

●石碑の始まり

  石碑は功を石に刻んで後世に伝えるものだが、第21代雄略天皇の時代に、小子部栖軽という者がいた。天皇は栖軽の功績を賛えて墓を作り、その上に碑を立て功績を刻んだ。これが日本で墓上に碑を立てる始まりである。

 

●葬儀社の始まり

  明治6年9月に東京神田美倉橋辺りで貸車業を営んでいた上林某が葬送用の人力車19輛を作ったのが始めという。

 

●卒塔婆の始まり

  卒塔婆は遺体や焼骨を供養するためのもので、長い板に5つの刻みを入れ、戒名を入れたものである。『日本紀略』の康保4年(967)に「5畿内並びに伊賀・伊勢国等26ケ国、卒塔婆6千基を立てるべし。宣旨下され高さ7尺、径8寸、天皇御悩みによるなり」とある。

 

●尊厳死協会の始まり

  日本で安楽死問題を始めて紹介したのは、公法学者の市村光恵博士で、明治39年(1906)『医師の権利義務』のなかで「安死術の如きも決して医術に属することなし。安死術とは臨終に際し非常に苦痛に悩む患者をして苦痛なくして早く死せしむる術をいう」とある。昭和51年、日本安楽死協会が設立され、昭和58年に日本尊厳死協会と改称された。

 

●中陰供養の始まり

  人が死んで次の生を受けるまでの四十九日間を中陰といい、この間七日ごとに供養を行う。この供養は仏典の『梵網経』『地蔵菩薩本願経』などにある。『梵網経』には「父母兄弟…亡滅の日、及び三七日ないし七七日には、また本乗経律を読誦講説すべし」とある。日本では十世紀項から四十九日の法要が盛んとなった。

 

●剃髪の始まり

  剃髪は、僧になるための得度式の一部であるが、この目的は煩悩を断ち、騎慢な心を除くためである。仏典では『過去現在因果経』『華厳経』『遺教経』などに記されている。天皇の剃髪は大仏殿を建てた聖武天皇(701〜756)から始まった。

 

●デスマスクの始まり

  一デスマスクの起源はギリシャ、ローマ時代からあったが、日本では明治14年(1881)の新聞集138号に「大鳥圭介君の夫人の像はいまだ収斂ならざる前に石膏泥をもって、その面に冒して範となしつくりしゆえ、分毫も生身にたがわず出来ると申す噂なり」とある。これが始めか。

 

●天冠の由来

  死者の額に三角の布を着ける風習が各地に残されているが、この由来は禅宗の道忠がまとめた『小叢林清規』(1653)の「在家送亡」に記されている。「布帽に卍字を書き、亡者の額に結ぶ」とある。

 

●動物霊国の始まり

  府中市にある多摩動物霊園は、大正12年、禅宗系の宗教法人慈恵院の開山が、動物好きということから、遺体をあずかり供養したことから始まった。なお動物の供養は『円満本光国師見灯録』(1516)に小鳥に対する回向文が収録されている。

 

●納骨時の散水散土の由来

  納骨の時、遺族は各自土を少しづつかけたり、水をかけたりする。この由来は『臨終方法』(701年唐の義浄訳)に「無虫の水を亡者の上に注ぐ。また黄土を亡者の上に散ずること三七遍」とある。

 

●埴輪の始まり

  662年、垂仁天皇の皇后死す。出雲の野見宿禰は出雲の士部(はしべ)により埴(黄赤色の粘土)をとり、人馬の形を作って墓陵の周囲に並べ立てた。これが埴輪の始めである。

 

●風葬の始まり

  聖武天皇の皇后で、仏教の篤い信仰者である光明皇后(760没)が崩せられたとき、遺言によって遺骸は野辺に捨てさせ、雨露にさらさせたという。

 

●仏壇の始まり

  仏壇とは仏像を安置する須弥壇のことであるが、在家に仏壇を安置することは、天武天皇の14年(686)3月27日の詔勅に、『日本書紀』に「諸国家ごとに仏舎を作り、すなわち仏像および経を置き、もって礼拝供養せよ」とある。平安以降は持仏堂と称して住宅の1室に仏像を安置する家があったが、一般の庶民は寺院が発行した刷り仏を壁に貼る程度であった。

 

●法事の始まり

◇百ケ日法要

  「百ケ日」法要はもともと儒教の「卒哭忌」を仏教で採用したもの。『礼記』(BC402〜221)に「士は3月にして葬る。この月や卒哭す」これまでは喪祭であったが、卒哭忌をもって吉祭とする。日本では687年9月9日に崩御された天武天皇の百ケ日法要が12月19日に行なわれた。


◇一周忌・三回忌

  一周忌は中国で行なわれた小祥忌が、仏教に取り入れられたものである。また大祥忌は仏式の三回忌に当たり、死亡より25ケ月目に行なう祭儀である。一周忌は757年の聖式天皇のものが始めで「僧千五百余人を東大寺に議して、斎を設ける」とある。三回忌は鎌倉時代に入ってからで、1186年の平重衡の3回忌が始めである。

 

●埋葬法の始まり

  大化2年(646)3月22日に諸王諸臣の墳墓の制が定められ、畿内より諸国にいたるまで葬地を限り、ところどころに散埋することが禁じられた。大宝1年(701)に作られた律令が制定され、郡および道路の付近に埋葬することが禁じられた。

 

●喪章の始まり

  明治2年(1869)版の西洋見聞録に「黒服を用い、黒色の布片をもって帽子のまわりを巻き、また書簡袋の周辺を黒くするなどをもって喪人たるを示す」とあるように、西洋の喪章についての紹介がなされた。喪章が日本で用いられたのは明治14年3月13日、ロシア皇帝アレクサンドル2世の死亡のときで、大礼服の左袖に黒い綬をつけて服喪の意を表すことが決められた。これがやがて一般にも普及していった。

 

●湯灌の由来

  死者の身体を清める湯灌の作法は、701年唐の義浄が訳した『仏説無常経』の付録に臨終方法という経がある。そこに「信男、信女、もしくは人あり、まさに命終せんと欲せば…香浴にて操浴し清浄にし、新浄衣を着ず」とある。

 

●霊柩車の始まり

  世界最初の霊柩車はアメリカで、1905年のことである。日本では大正6年(1917)大阪の「駕友」が「コビム号」を作り上げたのが最初である。これが普及したのは大正12年に起きた関東大震災以降のことである。

 

●六道銭の由来

  死者に六道銭を持たせる習慣は、三途の川を渡る時の渡し賃であるといわれており、 れは中国から伝わった風習である。貨幣が出来てから貨幣を棺に納めたが、後漢時代に紙銭が発明されてからは紙銭を用いるようになった。日本では紙銭ではなく、金属貨幣が用いられた。穴あき一文銭を使う伝承は、江戸時代初期の寛永通宝以後のことで、六枚使うのは六地蔵に一枚づつ捧げたという説がある。

 

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