1992.04
日本災害史

  日本人の死の歴史の中で「大量死」を経験してきた場合、それは災害をさすのではないだろうか。また日本人の死生観は構想の教えや時々の道徳によって生まれることもあるが、むしろ衝撃に満ちた災害や事件の体験から生まれるのではないだろうか。
   今回の「デス・ウオッチング」では、日本の歴史の中で、多くの人命を犠牲にした災害である飢饉、地震、火災を年代順にとりあげ、どんな教訓を与えてくれるかを探ってみたい。


●飢饉

  『日本書記』の欽明天皇の巻に、「郡国大水となり、飢えて人互いに食べる」という記事がある。飢餓の原因として干害(ひでり)、冷害、風水害があるが、戦国時代までは干害が最も恐ろしいとされた。


1181年 養和の大飢饉

  前年来の天変続きで、西国は大飢饉に襲われる。死骸は道端にあふれ、餓死する者は数知れない。仁和寺の僧隆暁は、死者の額に「阿」の字を書いて死者の冥福を祈って回った。「京都の死者の数四万二千三百人」と鴨長明の『方丈記』のなかに記されている。『源平盛衰記』によると、天下大変な飢饉となり、人民の多数が死んだ。わずかに生き残った者も土地を捨てて境を出てここかしこに行き、あるいは妻子を忘れて山野に流浪し、巷にさまよい憂いの声が耳に付くほどである。その年も暮れ、今年は疫れいが流行し、飢え死しなかった人でも病で死んでいった。…街頭には死人が多く倒れており、馬車も死人の上を通る有様である。遺体の臭いが京中に満ちて、道を行く人も大変であった。」


1231年 寛喜の大飢饉

  前年秋の凶作、この年の麦の減収により、飢饉が全国的に広がった。京都では春頃から餓死者が増え、7月に入ると死人を抱いた通行人があとを絶たず、道路には死骸がみちあふれたという。このため「天下の人種三分の一失す」と言われた。鎌倉幕府は、この年の5月、鶴岡八幡宮で国土豊年のための祈とうを行っている。


1428年 鎌倉の飢饉

  鎌倉では2万人の餓死者が出たと『神明鏡』に記されている。


1461年 寛正の大飢饉

  数年来の異常気象で全国に飢饉が拡大し、京都では死者は1月から8万2千人に達した。死体は市中にあふれ、鴨川は水もながれず死臭がおおった。禅僧雲泉大極の『碧山日録』に、「洛北の一僧が木片の卒搭婆を8万4千作り、死体に一つ一つ置いていったところ、2ケ月で残り2千になった」とある。つまり8万2千という死亡者の数字はここから来ているのである。3月には餓死者は1日300人から700人で、五条の橋の下には1千から2千人の死体が埋められた。


1642年 寛永の大飢饉

  冬から春にかけて、全国で飢饉となる。飢饉は8年前から断続的に起きており、幕府は農業再建策を発表する。


1732年 亨保の飢饉

  ウンカの大群が西日本各地を襲い、作物は大打撃をこうむった。被害は『徳川実紀』によると「すべて山陽、西国、四国等にて餓死するもの96万9千人」という。この飢饉で半作以下に落ち込んだ藩が46藩。小倉の開善寺の大宙禅師が、餓死者の遺体を収集し、それぞれに法名をつけて記録した過去帳が残されている。そこに記された死者の数は何と40,600人という。


1756年 宝暦の飢饉

  近世の四大飢餓の一つであるこの飢饉では、岩手と宮城の両県で合計約5万人の死者を出している。死者の葬送で、枕団子を持って行くと、流民たちがかけよって、それを奪い合うことも見られたという。


1783年 天明の大飢饉

  1783年から5年間、東北地方を中心にして大飢饉が発生した。雪の奥州路には、行き倒れた死体が重なり、人々は草の根はもちろん、猫や犬、なかには人肉を食う者も珍しくなかった。もっとも被害が多かったのは津軽藩で餓死者8万人、領内の人口の3分の1を失った。1784年の津軽藩の記録『天明凶歳日記』には、「餓死老若男女10万2千余人、死に絶え空家になった家3万5千余軒、他に3万余人疫れい(伝染病)にて果てる。他国に行った者8万余人」とある。
  南部藩では餓死者4万8千人、疫死者2万4千人、他領への流亡者を加えると、人口の2割を失う。仙台藩の餓死者は40万人といわれるが、この数字は少し多きすぎるかもしれない。
  蘭医の杉田玄白は、1787年にこの飢饉を記録している。「飢饉のあとはいつも疫れいが流行するという。今年もまたこの病気にかかって死亡した人が多かった。陸奥国松前から帰った人の話によると、南部の5戸6戸より東の村里は飢饉疫れいの災いで人の種も尽きたようだという。田畑は皆荒れ果てて原野のようになり、里は行き交う人もなく、民屋は立ち並んでいるが人の声もせず、天災で亡くなった人を葬る者もいない。筋肉がただれさせ臥せる者。あるいは白骨になって夜着のまま転がっている者。また道々の草の間には餓死した人の骸骨が累々と重なりあい、幾つもあるのを見た」。飢饉により必ず起る現象に米価の高騰である。そしてそれに不満を持つ群衆により、1783年5月には大坂・江戸で米屋・豪商の打ち壊しが相次いだ。江戸で打ち壊しに参加したのは約5千人、980軒もの被害があった。


1836年 天保の大飢饉

  1833年に始まった大飢饉は、年ごとに深刻さを増大、陸奥では作物が全滅、九州も6割が不作という全国的な規模のものである。陸奥の牡鹿郡では、18ケ村で5万9千人が餓死。仙台藩では道端の死体に、犬や鳥がつついていたという。

 

●台風

  台風も日本の災害の歴史では欠かせないもので、古くから歴史に顔を覗かせている。989年8月の台風は、『今昔物語』の中に紹介され、比叡山の大鐘がころがり落ち、いく先々の房を壊して南の谷底に落ちて行ったという。朝廷ではケガレを払うために、放生会を行ったり、翌年は改元するほどの念の入れかただった。


1201年 東国に大暴風雨

  関東地方に大暴風雨が襲い、船の転覆があいついだ。下総国葛西郡(東京都江戸川区)の海岸部では、押し寄せた津波に千余名がのみこまれた。


1828年 子年の台風

  8月8日深夜から北九州を襲った暴風雨は、九州気象災害のなかでも特筆すべきものである。以下各藩の死亡者状況である。肥前佐賀藩8,550人、肥前大村藩3,107人、肥前長崎45人、筑後柳川藩3,000人、筑後久留米藩208人、筑前福岡藩2,353人、計1万7千人という。この台風でシーボルトが乗っていたオランダ船が難破し、シーボルトが国禁を犯したことが暴露した。


1934年 室戸台風

  いきなり昭和に飛んで昭和9年、9月21日早朝、四国の室戸岬に上陸した台風は京阪神地区に大きな被害をもたらした。大阪市では小学校校舎の倒壊が多くみられ、教員・生徒の死者750人に達した。被害総数は死者・行方不明3,066人である。


1954年 洞爺丸台風

  9月26日、台風15号が東北・北海道を中心に被害をもたらした。午後6時半函館港を出港した青函連絡船洞爺丸が乗客1,314人を乗せて函館港外で転覆、同時に遭難した4隻の貨物船と合わせて、死者1,155人を出した。翌朝浜辺には救命具や破片に混じって、200余りの死体が打ち上げられた。


1959年 伊勢湾台風

  昭和34年9月27日、風速30メートル以上の暴風雨圏が半径300キロを超える大型台風15号は、39都道府県に明治以降最大の被害をもたらした。死者行方不明5,101人、被害総額は5,000億円にのぼった。

 

●地震

  わが国で被害にあった地震は1992年までに約620回、このうち明治に入るまでが280回である。


1293年 鎌倉大地震

  4月13日、関東一円に大地震が発生。社寺仏閣が倒壊し、死者は2万3千以上に達する。鶴岡八万宮の鳥居のあたりには140体の遺体があった。このあと余震が1週間にわたって続いた。13世紀の鎌倉では6回の地震が記録されている。
  秀吉が関白となった1586年から20年余りに大きな地震が記録されている。
  1586年 中部から近畿にかけて大地震が発生。この地震で大垣城が全壊した上、出火。長浜城も潰れ、城主山内一豊の息女も圧死した。飛騨白川谷では山崩れが起り、帰雲城が城主以下500人とともに埋没した。


1596年 近畿地方に大地震

  7月13日夜半。近畿地方に大地震が発生。この地震で豊臣秀吉の居城、伏見城が被害にあい、城郭は倒壊、秀吉は難をのがれたものの女房侍女570人余が圧死した。


1611年 会津大地震

  8月13日会津地方に大地震が襲い、死者2,700人、家屋や田畑に多くの被害をもたらした。


1677年 関東・磐城地震

10月9日陸奥・常陸地方で地震があり、磐城地方では死者500人、常陸でも36人が死亡する。


1703年 元禄大地震

  11月23日午前2時頃、関東地方にマグ ニチュード8.2の大地震が襲った。江戸の町では、家々の戸がたちまち倒れ、人々は寝床から飛び起きた。新井白石の『折たく柴の記』にもこの記事がある。この地震では小田原の破壊が多く、城下の死者男女651人、士人152人、旅人40人。津波による死者は房総半島だけで4千人に近く、外房海岸の茂原では2,500人の死者が出、総数6,700人といわれる。


1707年 宝永大地震

  10月4日、日本全土を揺るがす地震が起こった。この地震では土佐の被害が大きく、潰れた家4,800軒、大津波で1万1千軒が流出し、死者は総計1,844人に達した。この津波は東は相模湾から西は九州まで襲来した。紀伊半島、大坂湾にも被害を出し、大坂全体の死亡者は3千人以上、水死1万人といわれる。


1751年 越後高田で大地震

  4月26日深夜、高田(新潟県上越市)で大地震が発生。いたるところから泥水が発生。高田城および侍屋敷に被害が出、死者は1千人から2千人といわれる。


1828年 越後三条地震

  11月12日早朝新潟平野で地震が発生、信濃川下流にある三条等の町はほとんど全壊し、死者は1,500人に達した。この地震は瓦版や瞽女口説によって全国に伝えられた。


1847年 上信越大地震

  3月24日午後10時頃、上信越地方に地震が襲った。善光寺領8千人のうち3千人が死亡、また善光寺では、3月10日から御開帳が始まり、宿坊・町宿には泊まり客が溢れていた。地震により善光寺の諸堂は倒壊、火は門前町の大半を焼きつくした。しかし本堂は地震に耐え、お篭りの信者780人は助かったが、旅宿人2千人が死亡した。


1854年 安政東海地震

  この年は地震が続発し、6月14日に伊賀・伊勢の地を襲った。伊賀上野では、死者600人近く出た。11月4日、午前8時から10時にかけて駿河・遠江・伊豆・相模を中心にマグニチュード8.4の地震が襲った。地震とそれによる津波や火災が原因で、死者1万人余りが出た。


1855年 安政江戸大地震

  10月2日午後10時頃、江戸湾の荒川河口付近を震源とするマグニチュード6.9の直下型地震が発生。出火の被害を含め、市中の大半が被災した。市内で災害のもっとも激しかったのは深川、本所、下谷、浅草等で、届け出によると変死者は深川で868人、本所で385人、下谷で372人、浅草で566人であった。この震災の死者は武家を除いた変死人3,895人、潰れた家は14,346軒であるから、潰れた家2軒に死者1人の割となる。武家の死者を合計すると死者7千人となる。
  火災は翌3日の明け方に鎮火するが、その日から町会所で炊き出しを始め、その他各所で避難民に握り飯が配られた。物価は8日に暴利取締令を発して、強制的に地震前の値段で日用品を売らした。


1891年 濃尾大地震

  明治22年10月28日午前6時38分、美濃・尾張一帯をマグニチュード8.4の地震が襲った。被害は死者7,466人で、岐阜市は家屋の4分の1が倒壊した。名古屋では名古屋駅をはじめ多数の公共建物が倒壊した。圧死者の数からいえば関東大震災と同じ規模で、一見頑丈そうに見える煉瓦建築の被害が激しかった。


1896年 三陸沖大地震

  6月15日岩手県三陸沖の海底でマグニチュード7.6の地震が発生。地震による津波が岩手、宮城、青森の海岸を襲い、3県で約2万7千人の死者を出した。この日、日清戦争凱旋の花火大会が海辺で行なわれ、見物客6〜700人が波にのみこまれた。


1923年 関東大震災

  9月1日午前11時58分、伊豆沖の海底でマグニチュード7.9の激震が関東一円を襲った。この地震で死者約9万9千人、行方不明4万3千人を出す史上最大の地震災害となった。最も被害がひどかったのは旧陸軍の被服廠跡地内での焼死・窒息死者で、3万2千人という。


1948年 福井地震

  6月28日午後4時すぎ、福井平野で地震が発生。福井市内の建築のほとんどが倒壊した。劇場・映画館のなかで焼死した人は数百人に達した。死者は福井市内で930人、福井県では3,700人が死亡した。福井市の東南部で田の草取りをしていた女性が地割れに挾まれて圧死した。地割れに挾まれて死亡する記録は、まことに少ないという。


1983年 日本海中部地震

  5月26日正午すぎ、秋田沖を震源地とするマグニチュード7.7の地震が発生。地震の被害は津波による被害によってもたらされた。死者・行方不明は秋田・青森・北海道で104人。

 

●噴火

  火山帯の上に長く伸びている日本列島では、地震とともに火山活動が活発である。日本の歴史のなかでは、地震のたびに祈とうが行われた。この記録は聖武天皇在位の734年からみられ、以後6回行われている。


1640年 北海道駒ケ岳噴火

  6月13日、松前領内の駒ケ岳(浦岳)が噴火、津波により船100隻が被害にあい、700人が溺死する。


1707年 富士山大噴火

  11月23日、富士山が大噴火。登山口に位置する須走村75戸が倒壊する。降灰の影響は大きく、2年後でも富士山南東麓の御殿場付近の7カ村の住人55%が「飢人」と記録されている。富士山はこの他2回の大噴火を起こしている。


1779年 桜島の噴火

  10月1日桜島が300年ぶりに大噴火を起こした。薩摩藩領内では死者150人、死んだ牛馬2,000頭という被害をもたらした。


1783年 浅間山の噴火

  4月9日から始まった浅間山の噴火が、甚大な被害をもたらしたのは、それから4カ月後の7月8日午前10時。浅間山は大爆発し溶岩は秒速百メートルの火砕流となって、5分後には鎌原村を埋め尽くし、村人597人のうち、466人が死亡した。被害は55カ村に及び、子を抱いた死体や、手足のない死体が利根川下流に流れついたという記録がある。


1792年 島原大変・肥後迷惑

  1月18日夜、雲仙の普賢岳が噴火した。噴火見物の登山者があとをたたないため、島原城主は見物禁止を布告した。4月1日夕暮れ、強い地震が2度起こり、すぐにものすごい鳴動が聞こえた。海に流れ込んだ岩石が有明海一帯に津波を引き起こした。一連の異変で島原では1万人の死者が出、津波を予想していなかった対岸の肥後領でも5千人の溺死者が出た。


1888年 磐梯山大爆発

明治21年7月15日午前7時30分、福島県にある磐梯山が爆発、2時間にわたって鳴動と地震を繰り返した。崩壊した山は時速77キロで北方山麓を襲い、3集落を全滅させた。これにより死者461人にのぼった。死者のうち、死体の発見されたものは87人である。

 

●火災

  平安時代から江戸時代の末期までの1075年間に、記録に残っている大火が1,407回起っている。この中には戦乱による兵火も少なくない。江戸時代には約260年の間に大火が63件起きている。その火災の多い原因の一つには、江戸の人口の半数以上を占めていた約50万人の町人が、江戸の面積のわずか16%にぎっしりと詰って生活していたからである。


1641年 桶町の大火

  1月29日午前零時頃、江戸京橋桶町より出火。江戸最初の大火で、焼失家屋2千戸、死者380人を数える。このとき消火ににあたった大目付が煙に巻かれて死亡。公職での殉職第1号という。


1657年 明暦の大火(振袖火事)

1月18日、本郷丸山町の本妙寺から出火、湯島、駿河台一帯に瞬く間に広がった。霊巌寺に避難していた人々は逃げ場を失い9,600人が死亡。また日本橋から浅草方面に逃げる2万3千人は浅草橋前で圧死または溺死した。翌19日江戸城本丸を焼いた。火事は20日午前に鎮火するが、江戸の6割が灰となる。この火事で江戸城が全焼、日本橋にあった吉原も、この火事で浅草の北に移転した。死者10万7000人で、史上、関東大震災につぐ災害であるとともに、西暦64年のローマの大火、1666年のロンドンの大火とともに三大火災と言われる。
  会津藩主保科正之は、焼死者の埋葬をすることにした。幕府はその費用として300両を給付し、増上寺に命じて本所に埋葬地を設け、死骸を船で運んで供養を行なった。これが今両国の回向院として残っている。
  黒木喬の『明暦の大火』によると、江戸の堀や川、あるいは近国の沿岸に流れついた死骸は、鳶や烏についばまれて、目もあてられるありさまになっていた。死体は船で牛島に運ばれ、そこに掘られた20間四方の大穴に埋められた。「本所回向院記」には死者10万8000人とある。
  また幕府は、寺社奉行を増上寺に派遣して、犠牲者の法要を命じた。死体を埋葬する地は92メートル四方があてられ、念仏堂や庫裏が作られた。死者の宗派はさまざまであるから、最初諸宗院回向院無縁寺と称したが、のちに増上寺の末寺に組込まれた。回向院にはそれ以来毎月18、19日の両日、江戸市中から追悼の者がおとづれるようになった。


1682年 お七火事

  12月28日江戸市外駒込の大円寺から出た火事は、南の市内に向かい、本郷・上野を襲い、隅田川を越えて深川まで延焼。焼死者3,500人を出す。有名な八百屋お七の「お七火事」である。お七は放火の犯人として市中引き回しのうえ、鈴ケ森で火刑となった。


1772年 江戸明和の大火

  2月29日目黒の大円寺から火災が発生。翌午後2時に鎮火したが、死者14,700人の犠牲者を出した。火元の大円寺の境内に、焼死者慰霊の500体の石像が建立された。この火事が明和9年に起きたので(メイワク)のせいだとして、11月に改元される。


1788年 天明の大火

  1月30日午前5時頃、団栗図子(どんぐりずし)より出火、内裏・二条城をはじめ、寺社を焼いて2月2日朝鎮火する。焼失戸数3万7千軒、焼死者1,800人を超えた。応仁の乱(1467〜77)以来の京都空前の大火で、幕府は罹災民に対して米銀の貸与を行なった他、米価の高騰を禁じた。


1806年 江戸丙寅の大火

  3月4日午前10時、江戸・芝車町に発生した火災は、死者1,200人を出した。奉行所では15カ所に御救小屋を建て、5万7千人を収容。一人当たり白米3合・握り飯3つが配られる。


1829年 江戸・己丑の大火

  3月21日午前11時、神田の材木屋から出火、翌朝鎮火するまでに類焼した屋敷・町家は37万軒、焼死者、溺死者は2,800人に及ぶ。


1934年 函館大火

  函館は津軽海峡に突出している地形の為風が強く、それが大火を引き起こしている。明治40年に全市の半数を焼く火災が発生し、それ以来煉瓦作りの建造物が増えた。明治45年に再建された東本願寺函館別院は日本最初の鉄筋寺院である。
  昭和9年3月21日、午後7時前、住吉町の神職の家から出火、雪をまじえた列風にあおられ、市街地の3分の2以上を焼きつくした。出火以来14時間で鎮火したが、焼死者は2,165人にのぼった。また吹雪の中を逃げ延びた被災者も寒さのために385人が凍死し、公共施設に収容されてからの死者も少なくなかった。この大火は関東震災に次ぐ惨事といわれた。

 

資料

荒川秀俊・宇佐見龍夫著『災害』近藤出版社他

 

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