1992.03
僧の死と葬儀

最澄(767〜822)

  伝教大師最澄は822年6月4日午前8時頃、比叡山の中道院において寂滅した。釈尊入涅槃の儀式に従って、頭北面西右脇に臥し、円寂したという。ときに57歳であった。死去に先立って4月に弟子たちに告げて言った。「私の命ももう永くないが、死んでも何度も生まれ変わってきて、一乗(全ての衆生を救う唯一の教え)を学びそして広めるであろう」と。遺告により、遺体は比叡山東塔の浄土院に納められた。

 

空海(774〜835)

  真言宗を日本にもたらした僧空海の末期は、「入定」といい、現在も生きて多くの人を助けているという信仰がある。『空海僧都伝』によると次のように描かれている。834年5月に、空海は弟子たちに次のように語った。「この世にいるのももう永くはない。そなたたちは仏法を守りなさい。私は永く山に帰るであろう」と。そしてその年の9月に自ら葬るところを定め、翌年正月から水気や流動食をも断ってしまった。そして3月21日の午前4時頃になって、空海は右脇を下にして最期を告げた。弟子たちのなかには震えが来て病人のようになってしまった者もいた。遺体は残された遺教によって高野山の東の峯に納められた。ときに62歳であった。
  亡くなる5日前に残した25箇条からなる『御遺告』には、次のようにある。「私が入滅しようと定めたのは、今年の3月21日の午前4時である。弟子たちよ、悲しんで泣いてはいけない。(中略)私が死んだあとは、必ず弥勒菩薩のいる都卒天に往生して、56億7000万年後には、弥勒菩薩と一緒に人間界に下るであろう。それまでの間は、雲の間から仏道に励む者を助けるであろう」

 

法然(1133〜1212)

  浄土宗の宗祖である法然は、74歳のとき四国に流罪となった。死の前年の1211年11月、4年9カ月目にやっと京都に帰ることが許された。東山大谷の山上の小さな庵に入り、翌年1月より病の床に伏した。そして天台宗の僧、円仁の九条の袈裟をかけ、病床でたえず念仏を唱え続けた。1月3日、弟子が「このたびは本当に往生なされてしまうのでしょうか」と尋ねると、「自分はもと極楽にいたものであるから、今度はきっとそこに帰る」と答えた。1月25日、庭まであつまった門弟たちの念仏の声に包まれて、正午過ぎに入滅した。80歳である。
  往生往生というので、多くの人が集まり、どんな往生の印が空に現われるかと待ちに待ったが、何の現象も起こらず、多くの人をがっかりさせた。臨終の庵室は現在の知恩院勢至堂の場所にあたる。遺骸はその東崖の上に葬られた。はじめ石の棺に納められていたが、山門徒の破却から守るために1228年、西山の粟生野で火葬にして、遺骨を壁に塗込めて隠し、1233年1月、二尊院に廟塔を建ててそこに納められた。やがて法然の師恩に感謝し念仏を励ます「知恩講」が行なわれるようになり、現在も続けられている。

 

道元(1200〜53)

  曹洞宗の宗祖、道元は1253年7月、病状が急変し、波多野義重たちの勧めで、京都に行き、そこで医師の診断を受けた。いよいよ末期に近づくと、道元は『法華経』の「如来神力品」を唱えながら経行した。そして面前の柱に『妙法蓮華経庵』と書きとどめた。8月28日夜半、一偈を残して入滅した。
  遺骸は京都天神の中の小路にある草庵に運ばれ、東山赤辻の小寺に龕を運び火葬にされた。このとき、弟子の懐奘和尚は『舎利礼文』を唱え、参集の僧侶もこれに唱和して、龕の周囲を巡った。9月6日、懐奘は遺骨を持って京都を発ち、9月10日に永平寺にもどり、12日午後4時、方丈において入涅槃の儀式が行なわれた。その後、遺骨は西北隅に建てられた塔「承陽庵」に納められた。

 

親鸞(1173〜1262)

  浄土真宗の開祖親鸞は、1262年11月28日午後2時頃、三条富小路の善法坊で入滅した。年齢90歳。『本願寺親鸞聖人伝絵』によると、亡くなる11月下旬頃から、病の気配が見えた。それ以来世俗のことは話さないで、もっぱら念仏を唱え続けた。そして28日昼頃、頭を北にし、顔を西に向け、右脇を下にして息を引き取った。その臨終を看取った末娘の娘の覚信尼は、母で当時越後にいた恵信尼に、その模様を手紙で知らせている。 翌29日、親鸞の遺体を中心とする葬列は鴨川の東を通って、左京東山の西の麓にある、鳥辺野の南にある延仁寺で火葬にされた。翌日遺骨を拾い、同じ山麓の鳥辺野の北の大谷に納骨した。没後10年して、娘の覚信尼と門弟は墓所を改造し御影を納める。この大谷廟堂がのちの本願寺である。

 

日蓮(1222〜82)

  日蓮聖人は武蔵の池上宗仲の邸にて生涯を閉じた。61歳。常陸の温泉へ養生に行く途上だった。9月18日に池上についた日蓮は、保護者当てに墓所を見延と定めた旨の手紙を出している。10月8日には死後分裂を防ぐため6人の本弟子を定めている。
  10月12日、日蓮の枕元に大曼荼羅を掛け、その前に釈尊立像を安置して、参集した者たちが読経した。そして翌13日死亡した。この時、弟子の日昭は「臨滅度時の鐘」をついている。14日入棺、真夜中の12時に日昭・日朗が導師となって葬送を行なった。その時の式次第は「先火、次大宝華、幡(左右)、香、鐘、散華、御経、文机、仏、御履物、御棺、御輿(4名)、前陣(9名)、後陣(5名)、天蓋、御太刀、御服巻、御馬」とありそれぞれ担当する者の氏名が記入されている。さて遺言には、釈迦の立像を墓所の傍に建て、『法華経』も同じく箱に納め墓所の傍らに置く。香、供花は6人で当番を決めて行なうことが記された。
  遺骸は池上邸の庭で荼毘にふされ、16日遺骨を収拾し、見延に納骨のために10月21日、池上を出発、10月26日無事納骨をすませた。翌年正月23日の百ケ日をきして墓石を建立し、6人の僧の間で香華の順番が定められた。しかしこの番も地元にいる日興がもっぱら行なうようになり、のちの分裂の一つのきっかけとなる。見延山はのちに日蓮宗教団の中心、見延山久遠寺となる。命日の10月13日には、御会式と呼ばれる報恩会が盛大に営まれている。

 

蓮如(1415〜1499)

  本願寺八世の蓮如は、死の前年の4月より病の床にあったが、1499年3月25日、京都の山科本願寺で85歳の生涯を閉じた。医師の治療のかいなく、2月に病状が悪化。2月20日に大阪から輿で山科に行き、親鸞聖人の御影堂に参っている。そして27日に参詣した帰途には「門徒の人々に名残惜しい」と言って輿を後ろ向きに担がせ、手をふりふり帰っていった。それからおよそ1カ月、死の2日前に危篤状態になった。25日の正午、「いかにも静かに眠りあるが如く無病無煩にして、念仏の息はとどまり」85歳の生涯を終えている。遺骸は遺言に従って親鸞の御影堂に安置された。4月2日に予定された葬儀は、群衆の殺到を危惧して、急遽翌日の26日に行なわれた。このとき数万人の人が別れを惜しんだという。
  蓮如の死と葬儀の様子を『第八祖御物語空善聞書』より詳しく見たいと思う。
  3月9日、枕元の一間の押板に親鸞聖人の御影を掛け、頭北面西の向きで休まれた。
  3月19日より、薬も重湯も「否」と言って取らなかった。「ただ御念仏ばかり、はやく往生ありたいとの御念願」と心に決めている。23日より、脈がないために、「はや御往生」と皆々がいっていた処、又8時頃より脈が現われ、「不思議」と皆々が言った。 3月25日正午に往生。いかにも静かに、眠るがごとく御臨終された。「御往生の後、御堂へ入れて、聖人の御前にて、人にも見せよ」と御遺言。25日の晩には数万人の者が遺体とお別れした。
次は葬儀準備次第である。

一、ローソクは24挺、道の両方に立てる。又、火屋の四の隅に4挺、卓の向い、扉の脇に2挺。奉行は空善なり。
一、花は紙、花束は12合、提灯は後先4、花瓶・香爐皆々下間党の12、13の人々が持給るなり。
一、お供の女房衆、御輿14丁、御輿の先。
一、上様は御輿の先、同御一家衆35人。
一、御勤の人数、警固の衆15人。
一、御輿は、御堂の内にて、上様・波佐谷殿様御肩を御入候。
一、御輿の周りには下間党。また御庭より御輿に参る衆はやまと度善及び坊主衆。
一、火屋のたいまつの火は、先後丹波殿と駿河殿。
一、御勤の調声は慶聞坊、御焼香は上様。
一、「無始流転の苦を捨てて、」「南無阿弥陀仏の廻向の」「如来大悲の恩徳は」と、この三首なり。
一、御勤の後、焼香は上様・御兄弟衆・御一家衆までなり。
一、御勤の御人数、上々様・御一家衆・御堂衆、その外慶聞坊・法故坊等いずれも皆裳付け衣、絹袈裟なり。
一、御取骨の時は、御輿ただ5丁。ローソク7丁なり。
一、御取骨の事は、一夜御番を2百人ばかりとする。御上様取骨めされた後、人々火屋へ入って取る間、灰も土もとって、国々へ帰す。

 

大谷光勝(1817〜1894)

  東本願寺派第21代の門主である大谷光勝師は、明治27年1月15日午後1時、中風により枳穀邸内において78歳の命を終えた。当時の新聞(明冶27年2月1日東京日日)には次のように記されている。
「東本願寺上人の葬儀/人間の浮生なる相をつらつら観じて、一心一向弥陀の本願にたよれとは勧められつる大谷派の門主21世厳如上人光勝師には、ここに化生の縁尽き、法燈の光り滅して、去る15日に、およそははかなき幻の姿を現在に示されたれば、同じく29日をもて、葬送の儀を執り行われぬ。当日の出棺は午前8時とかねては聞えしが、儀式の厳重なる故にてもや有るらん、時刻移りて11時の出門とは相成りぬ。参列の僧俗1万有余、僧は寺班の格式に随いて、五条、七条の袈裟、法服、差貫殊勝気に、俗は白鼠の素袍、上下各々襟を掻い繕う。法柩は寝棺にて、鈍色の布衣着たる由緒の人々これを舁く。これに続ける現法主光瑩師は、式のごとく(葬式に用いる)朱の傘をさし掛けさせ、鼠色の麻の衣、向こう掛けする藁履、青竹の杖をつきて、力なげに徒歩せらる。髯は延びぬ。服は湿りぬ。能化の法身にも死別の哀傷はげにおわしけりと、見る者覚えず南無仏と合掌礼拝せり。
  皇族を初め奉り、諸華族方には各々代拝の使者を遣わさる。これらいずれも多きは10余人、少なきも3、5人の供廻りを随えたれば、その行列半里の余に続きたり。それよりも目凄じきは諸国より集える信徒の数なり。所轄所警察署の調ベにては、当日16万人の着京と注せしが、この善男女六条の阿弥陀堂門前よりして内野の葬儀場、それより花山の火葬場まで、往来の西側、太路小路の四角、鴨川の河原にひたと充満して、法柩の通行には声を楊げ手を合わせ、我々衆生をも早や早や迎え取らせたまえ、南無阿弥陀仏と叫く声有頂天にも響き、坤軸にも至るべしとはげに実事にて、この群集に揉まれて踏み倒され、圧し潰され、手を挫き、足を折るその悲鳴もまたおびただしく、巡査の制止、消防夫の防御もついにかなわで、五条の仮橋は踏み崩され、花山の火葬場なる谷間の桟敷は踏み落とされて、数名の怪我人を出だしたり。されど全体の式はおこたりなく、正午12時に内野の式場へ着き、厳重の法要終わりて花山に到り、午後11時30分に荼毘の事あいすみて遺骨を収め、翌30日午前零時30分に再び内野へ立ち戻り、1時これを龕薦堂に安じ、再び右を中陰堂に納めて、この荘厳なる葬式の終わりを告げたり。」

次にこの模様をさらに詳しく見てみるために、「風俗画報」の特集号『東本願寺葬式絵図』を参考にして取り上げてみた。(資料は国書刊行会よりの複刻版による)


○尊骸拝礼

  1月18日午前8時より、死者にお別れをする「尊骸拝礼」が、枳穀邸内の東西の間で行なわれた。遺体の置かれた室内の左右及び後面は白の屏風で囲い、前面にはすだれが垂らされた。遺体は座録に安置され、死装束は香色(明るい茶色)の縮緬の道服である。鈍色の上下を着た従者6名が傍らに待機し、礼拝のあるごとに簾を巻き上げるのである。身分により入場する門が異なり、一般の拝観者は下馬場通腋門から入り、通埋門より出るのである。
  1月19日午後7時、遺体を本山に移すため、枳穀邸の居間より棺を担ぎ。出す。棺の両側にはそれぞれ5名の従者がつき従い、本山に入るやただちに黒書院に入られた。


○御棺守護

  棺を安置した黒書院の西壁には阿弥陀如来の軸を掛け、後面には白の屏風で囲み、その前に頭北面西に棺を安置された。棺の上には七条の袈裟で覆われ、棺の前に焼香のために菊燈2基と香爐が置かれた。二の間には従者2名、左に僧侶2名座し、僧侶の上手には寄贈の造花が並べられた。三の間の正面には堂衆2名が昼夜1時間交代で棺を守護し、出棺の時まで四方の障子は全て閉ざされた。


○大師堂、阿弥陀堂暇乞い

  上人死去から14日目の1月29日、葬儀の当日となる。係員は午前1時より参集し、4時には鐘を鳴らし全員の集合となる。棺前の勤行も終わり、午前8時に棺を大師堂に移すにあたり、鈍子の服紗で棺を覆い、堂東の五畳台に安置すると、門跡(本願寺官長)は西側の五畳台に出仕する。ご連枝(法主一門)方は左右に列座され、院家以下末寺の僧侶たちはその後に座す。堂衆たちは柵内の正面に並び勤行された。大師堂の中央はご真影で、須弥壇の前には卓が置かれたが、内敷も供物もなし。勤行のあと棺は阿弥陀堂に移り、下陣の中央に棺を据えて勤行、再び正面から棺を出す。門跡などそれに従って階段を下る。


○出棺から葬儀場へ

  次いで柩棺は葬儀場にと向かう。本寺の門から棺輿が出ると、10万の会葬者は口々に念仏を唱える。棺輿は本門の石階にとどまり、調声人の先声に続いて、数百の助音地は一斉に誦経しはじめる。この葬列は烏丸通内野葬儀場へと向かう。
  内野葬儀場は4,500坪。その回りを青竹10,500本がめぐらされた。火屋(火葬場)は樅材で作られ高さ約10m、屋上にある擬宝珠は長さ約2mで銀箔が施されている。屋内には八葉蓮型の棺台がある。火屋の上には7.2m巾、長さ30mの秩父蓮華唐草金摺の幕が張られている。野机は長さ5.4m、巾1.8m、高さ1.2m。水引は長さ14m、赤地に金欄。打敷は白紗綾蓮華唐草金摺。花束は一対でその数は1万。そして百味飲食などが供養されている。野机の前には銀押の菊燈14対、その他高張提灯が77、辻ローソクが187本用意された。
  参列者のために用意された幄舎は4m四方。そのあとに5.4と3.6mの休憩所が設置された。その他、裏方の席、代香並びに諷経席、休憩所が設けられた。献花はいずれも火屋の左右に陳列された。この内野は同寺の工作場で、代々門主を火葬にした所であるが、明治に入ってからは人家が近いこともあり、ここでは火葬が出来ず、葬儀のみを行ない、火葬は花山にて行なう。
  午後1時葬列は内野青門に到着。門内の入場は参列の僧侶、皇族方使い、宗族親戚その他の会葬者に限られた。式は正信偈、念仏讃淘、短念仏、回向等の勤行が行なわれ、門主は轅に従って龕薦堂の後門より入り、自ら藁に火をつけると、しばらくして堂の四方から煙が出た。これを見て一同敬礼する。そして門主は堂の前門より出て、斜の道から幄舎に入り、それぞれ立て札の下に着席。再び正信偈、五却恩惟などの勤行を営み、門主以下順次焼香を始めた。


○花山荼毘所

  葬儀式が終わり、次に火葬のため花山荼毘所に向かう。沿道には幔幕が張られ、行列を待つ老若男女の混雑がみられた。花山火葬場は、渋谷街道から火葬場の入り口にかけて、見張り所を設け、一般参観人は中に入れない。場内には両側に数百個の白張り提灯を連ね、休憩所は1号から7号まである。境内、火屋などは全て白地の幕を打ちめぐらし、室内には火屋奉行の他、いかなる役僧も入場は許されない。焼き終わるまでの間法主は、休憩所で待機するのである。
  火葬竃は従来のものでは、棺が入らないので、鉄の門扉などはすべて今回のために改築された。竃は堅く鉄扉をし、白い幕を垂らして前面左右には銀色の燭台両脚が安置された。
  花山荼毘の式は、入口門際より順次左右に別れ、沿道両側に立列し、宝来絹張提灯、松明、鞍掛けは火屋まで参進した。そして棺を龕前堂正面の鞍掛けに安置すると、力者は休憩所に退く。拝礼のあと門跡、連枝は休憩所に入った。龕前堂南北の扉を閉ざしている四方の白幕が垂らされ、棺は火屋の中に入った。
  まず生の松の木の二つ割を方形に竃の中に積みあげ、その上に棺が安置された。棺はかねて燃えるように工夫がなされている。さて白服にて身を包んだ本山出入りの棟梁株4名が、火屋に入り、黒衣の僧2名がこれを監督した。やがて火を割木に点ずると、6人の者は皆口々に念仏を唱え始めた。焼き終わるまで死体は決して見る事はないという。それは棺が底から焼けるように、棺の周囲は厚さ約1mの柾木にしてあるため、棺が完全に焼ける頃には遺骸はすでに灰になっているという。こうして火を点ずると4人の焼人は周囲から絶えず油を注射する。この油は本山から出ているのである。
  こうして遺体が焼けると、次に拾骨の式がある。荼毘の後、御骨を小長櫃に納め、白絹でもってこれを覆う。そして花山より内野葬儀場への還列を行なう。 元来火葬場から灰骨を持ち帰るには、その帰り道を人に知られないようにするという古例がある。これは蓮如上人の火葬の時に、比叡山の僧が真宗の盛んなことを憎み、その灰骨を途中で奪おうとしたことがあり、それを避けるためという。そのため、灰骨は微塵も残さないように土器に納められ、花山からの行列とは別に、人知れず道を通って内野に帰るのである。


○灰葬式

  1月30日午前6時頃、遺骨は内野の葬儀場に到着。法主の先導で、龕薦堂に進み、白絹で包まれた長櫃から遺骨が取り出され、野机に安置された。机上には花束一対、ローソク、香爐の五具足を配置。一同敬礼し、灰葬勤行、正信偈、念仏讃、短念仏を行ない、列係は紙燭に点火して従者に手渡された。骨捧役は野机の後に向かい、野卓の南を回って正中砂道を供奉。白張り長柄を捧げ、骨添え従者は紙燭を持って左右に供奉する。こうして式を終えて後、ただちに大師堂に白骨が納められ勤行が行なわれた。


○葬儀期間のデータ

  葬儀中の3日間の宿泊人=下京区の旅館が346戸とし、届け出数は7万6000人。葬式当日に係り員に配付された割子の数=2千余個。参列者及び人夫に配付された折詰=2万余個。供廻りに渡した提灯=牡丹紋つき箱提灯240、白張箱提灯180、牡丹紋つき馬乗り提灯480。
  幔幕の数=式場外青門までは、抱き牡丹の紋付。式場は白地幔幕を打ち廻らせる。その数は紋付は200張り、白地は150釜の金布を費やす。

 

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