1992.02 |
最近「自由葬」であるとか「個人墓」など、お墓が話題になるが、長い歴史の中でどのように墓が移り変わってきたのかを知ることも無駄ではあるまい。そこで今回の「デスウオッチング」では、日本墳墓史と題して、墓の歴史をたどってみたい。
はかとははぶり(葬り)の「は」と、場所を表す「か」の合成語で葬所をあらわす。塚は土を盛りそこに木を植えた葬所であり、墓は地下に埋葬して墳丘のないものをさすが、一般には死者を葬る目的で作られた場所全てをふくむ。
さて古代の集落では中央広場の一画を死者の埋葬地にあてるのは、縄文時代の特徴である。紀元前4000年前から紀元前200年ころまでは、死者は住居の近くに埋葬されたのである。そこには死者は身分の区別なくが並び葬られている。葬法は大半が土葬で、時には火葬された幼児骨を納めた土偶形容器も発見されている。風葬も何らかの理由から、広場に葬れない者に適用されたことが考えられる。
さて、縄文時代の土葬の場合、死者は伸展葬か屈葬の姿で葬られている。そして両方ともに遺体を強く緊縛しているのである。こうした処置は、おそらく死者の体に悪霊がとりつき、それが動き出して住民に悪さをすることを恐れての処置であろう。胸に石を抱かせたり、頭に甕をかぶせたりする処置も同じような配慮が感じられる。
死者と一緒に副葬品を埋葬する風習は、縄文時代には北海道を除くとその例は少ない。もちろん耳飾りや、腕輪をはめた遺体は多いが、これは生前身につけていた装飾品がそのまま持ち込まれたものである。
死者と生者が密接に関わりあった時代である縄文社会に続く弥生時代は、「死者観」が大きく変化した。大陸から来た民族が、新しい論理と制度を携えて渡つてきたとき、縄文文化の風習は終焉に向かったのである。
弥生式文化は近畿地方に新しい墓制をもたらした。畿内では方形周溝墓と呼ぶ、四方を溝で区画し内部を盛り土した墳墓が登場した。この墓には、中央に戸主を葬り、脇に妻、周囲にその子といつた「家族墓」の形をとつている。2代目は先代の方形周溝墓の一辺を借りて一段と小さく営むといつた特色をもつ。その規模は1辺10メートルを超える例が多く、生者の生活空間よりも広い空間を死者に与えている。
同じ時期、北九州では支石墓や甕棺が発見されている。甕棺は弥生中期から後期にかけて九州各地に分布している。この葬法は古墳時代中期まで行なわれているが、その後、減少している。
3世紀から7世紀には古墳時代が登場する。その前半期に見られた雄大な規模の前方後円墳は、その大半がただ一人の豪族を葬るのみである。それは前方後円墳の機能であるといわれる践祚、即位といつた王権の授受、継承にかかわる祭政の舞台といった機能が強く現われている。棺を納めた石室は、遺体や副葬品を守るために造られており、中には銅鏡や多くの碧玉製宝器などが置かれ、身の両脇には太刀や剣、鉾などが並ベられた。こうした副葬品は、単に高貴な身分を示すだけでなく、宗教的な意味合いをもったものと考えられる。
仏教を日本に導入するのに貢献をした聖徳太子は、「聖徳太子伝暦」によると、推古26年(618)に、自らの墓を科長(しなが)に築いたとある。生前に墓を営む習慣はこのように古くからあり、これを「寿陵」あるいは「寿蔵」とよんでいる。
葬制が大きく変化したのは、646年に出された「薄葬令」からである。このときには、墓の大きさや築造期間、人員などが細かく規定された。また殉死の風を禁止させている。薄葬の理由は、墓地造営に費用がかかりすぎる現状をいましめるものと、もうひとつには、中国の風潮を導入したものである。王以下小智以上の者は小石を用いて墓を作り、庶民は一定の葬所を収めて、散埋することが許されなかった。大宝(701)以後は三位以上の者だけが造墓を許された。
この時期には、巨石を用いた豪放な石室、あるいは精微な石室が登場した。その典型が1972年発掘された高松塚古墳である。墳頂に1本の松があったので高松塚とよばれる。この古墳は7世紀末から8世紀初頭のものとされ、漆喰塗りの四壁には玄武・朱雀・白虎・青竜といつた四神、近侍の男女が描かれ、天井には星宿、東西両壁に日月が描写されている。この墓室内には、貴人ただ一人が埋葬されている。時には夫婦合葬墓もあるが、その場合は高位の女性として夫の墓に同伴されたものである。一方、壁画に飾られた墓室に関連して、丁寧な作りの棺が作られ、前例のない玉枕、あるいは随唐からもたらされた鏡などの副葬品が現れる。さらに死者の「伝」や時にはしのびごとを記した墓誌がこの時期に生まれた。
日本での基誌は、中国からの影響で、7世紀の後半から8世紀の後半の頃に行われた。はじめ土葬墓に採用されたが、その後、火葬の流行にともない、火葬墓にも取り入れられ、火葬墓特有のようになつた。しかも、火葬墓の場合は、火葬骨を納めた銅製椀に直接刻されたものも発達した。もつともこれらが、8世紀の初頭にのみ限定されているのである。墓誌銘には、これら銅製骨壷に直接刻されたもののほか、長方形または短冊状の細長い青銅・金銅・銀製のものがある。
『続日本紀』に、入唐僧である道昭が西暦700年、死に際して火葬を遺言し、弟子が粟原寺で荼毘に付し粉にして散骨した事を述べ、「天下の火葬ここに始まる」と記している。道昭の火葬以後、仏教の普及と平行して、火葬が天皇をはじめ貴紳の間に急速に普及していった。それにともない、それまでの横穴式石墳や石棺墓は姿を消し、代わって、骨櫃、骨壷、骨袋に火葬骨を納める新しい墓制が登場してくるのである。
『古事記』を筆録した太朝臣安万呂(723没)の墓と墓誌が話題となつたことがある。墓誌は火葬した骨を納めた木櫃の下の、木炭を敷いた上に裏向けに置かれていた。なお遺骨と一緒に4粒の真珠が見つかっている。この真珠は冥界に輝く珠であり、4は冥数といわれる。
すでに奈良時代(710〜784)から、首都の内部に墓を造ることは法律で禁止されており、平城京内からは当時の墓は一つも発見されていない。平安京でもこの方針は貫かれており、天皇・貴族の墓はいずれも郊外に造られていた。では一般庶民の墓はどうだつたか。『三代実録』861年の条に、百姓葬送・放牧地に5箇所が定められていることが記されている。また『梧庵漫記』に京の周辺の山野・河原が、彼ら庶民の葬られる場であつた。京の西北のあだし野、舟岡、東南の鳥部山、鳥部野一帯が、すでに平安時代からの葬場だつたのである。
貴族の墳墓には卒塔婆が立てられた。850年の仁明天皇の深草陵である。921年、天台宗の僧・良源の遺告に、「生前に墓地をきめ、万一その前に死んだら北方の勝地にしてほしい。棺も生前に準備する。間にあわなければ、その日の中に入棺し、3日以内に埋葬する」などといい残している。石塔に関しては「石卒都婆を生前に作り運んでほしい。もし運ばざる前に命が終われば、しぱらく仮卒都婆を立て、その下を掘り、骨を穴底において上に土を満たずベし。四十九日のうちに石卒都婆をつくりて、立て変えるべし。これは遺弟らがとぎどぎ来礼の標示なり。卒都婆に、光明、五宇、阿弥陀などの真言を安置す」とある。
藤原氏の氏寺は、平城京になってからは興福寺に変わった。承平6年(936)に太政大臣に就任した藤原忠平は、先帝の醍醐天皇と父基経の墓に詣つている。その彼も、義埋の祖父や高祖父の墓がどこにあるのか知らなかつた。平安貴族の葬儀は多く火葬で、火葬場までは着いていくが、茶毘には立ち会わず、鴨川で清めをすませて家へ帰り、骨上げは故人の乳母の子など、身分の下の者が骨壷に納めて墓所に納めたのである。
938年、市上人空也は、念仏を唱えて京で庶民を教化、亡骸を拾い「南無阿弥陀仏」と唱えて火葬している。
1085年、性信法親王が崩御、遺骨を高野山に納め、墓の上に阿弥陀堂を建て、念仏僧を置く。1108年、堀河天皇の遺髪を高野山に納める。このように12世紀に入ると弘法大師入定の地ー高野山に、火葬骨や遺髪を納める高野納骨がさかんとなる。仁平3年(1153)に死去した覚法法親王の場合には、嵯峨野御所から遺骨を西林に移して火葬し、法橋寛深が御骨を頚にかけてただちに高野山に登り、その地で殯葬したと、『兵範記』は記している。弥勒の浄土としての高野山へ納骨することは、末法の時代の天皇や貴族の願いだったのである。また高野山納骨を鼓舞し、それを全国に広めた高野聖の力もあった。
聖地納骨の風潮は高野山をこえて各地に拡散していった。『兵範記』の1167年には「地中に納骨しその上に五輪石塔」を立てる」という記事がある。こうした五輪塔を用いた納骨は、中世納骨慣行の端緒として、やがて鎌倉・室町時代を通じて諸寺でおびただしく見られるようになる。
鎌倉時代、鎌倉では武将・僧侶の埋葬方法に平地とやぐらの二つがあった。寺院等での平地埋葬では、五輪石塔の墓標を立て周囲に墓域を区別するための土居をめぐらしている。もう一つの形態は他地方では見られない「やぐら」である。町の三方を取り囲む山々の裾や山腹に、無数の岩穴を開き、中に五輪塔などが納め、岩壁に金箔で極楽浄土が描かれた。内部に壙穴がうがたれ、そこに火葬骨が納められた。
平安京の制度をとり人れながら、都市化を進めていた鎌倉幕府にとつて、平地の少ない鎌倉の周囲の山々に、特殊なやぐらがつくられたものと思われる。やぐらに葬られたのは、中世の鎌倉ぴとの一部で、一般庶民は、平安京の場谷と同じく周辺地の谷間の葬地に送られたり、あるいはその付近で火葬され、共同の納骨穴などに埋葬されたのであろう。
1262年、浄土真宗の開祖親鸞が歿したが、その分骨について『親鸞上人絵詞伝』には、「その歯骨9粒と総骨を東山の大谷に納め石碑を立て、高田に墓を築き歯骨9粒を納める」とある。
鎌倉の南側の砂浜一帯からは、多くの人骨が埋葬され、骨に残された刀傷などから、元弘3年(1333)、鎌倉幕府滅亡の際の戦死者がまとめて葬られたものとさえた。しかしその後その付近からもかなりの数の人骨が発見され、幕府滅亡時だけではない、中世の墓地地帯であつたことが判明した。鎌倉の町を取り巻く境界はいずれも葬地・墓地が広がっていたのである。
武士の墓には卒塔婆が多いが、阿弥陀の種字などを刻む板碑は武蔵武士が13世紀初頭から立てたもので、関東地区に多く見られる。板碑は生前にあらかじめ、死後の往生を願って立てられる場合が多いという。それは死後に墓を立て追善供養するよりも、7倍も効果が高いと言われているからである。
応仁の乱(1477)以後は、洛中の寺院で境内に墓地を設けている例がいくつも出ている。16世紀半ばすぎには、阿弥陀寺や知恩寺に対し、墓府が特例として境内地への土葬を許可しているが、それは「無縁所」であつたり、すでに既成事実となっていたための例外措置であり、幕府の基本姿勢としてはあくまで京中寺院での葬送禁止であつた。また当時なお大きな力を握っていた比叡山延暦寺も同様の立場から、京中寺院の境内墓地に圧力を加えていた。しかし住人たちの「寺院の本堂近くに墓を立て、そこで将来にわたって追善供養を受けたい」という願いを押しとどめることはできなかつた。こうして都市内の寺院と境内墓地への埋葬という、近世から現代にまで連続している墓地のあり方が登場した。
石造墓塔は鎌倉時代から作られ、近世に入っても引き続き造立された上、江戸時代末期にまで及んでいる。ところがこれと並行して、江戸時代初期から、墓塔に新しい形態が取り入れられるようになる。それは尖頭型と角碑型(四角柱状)とで、尖頭型のものは、頭部が山形をしている。角石塔では頭部に位牌形といってよい屋根のついたものもある。こうした形は位碑の影響を受けたものと考えられ、元禄時代を境にしてあらたに建立されるものの多くは方柱式である。この石塔に、戒名、没年月日、年齢、氏名などを彫ったり、「先祖代々之墓」とする場合なども少なくないが、本来塔は死者の霊が宿るものと見倣されていたのである。宗派や地方によっても異なり、浄土真宗のさかんな北陸地方では、表面に「南無阿弥陀仏」とのみしるし、側面に故人の姓名をしるすことが普通であった。
一方、中世末から近世にかけ、貴族や大名、城主などのための大きい五輪塔が多く造立されている。こうした五輪塔や宝篋印塔も、わずかながら依然として造立されている。これらの五輪塔には、前代と同じくその内部に火葬骨を埋納したものもあるが、多くは基壇下に埋葬施設が設けられている。石造が普通である。
江戸時代は檀家と寺院との関係が確立し、寺院の境内に墓が営まれた。東京の自證院は1640年に造営されたが、改葬のさいの調査で、遺体は甕棺に納められたものが多く、甕は常滑焼きの大甕であった。木棺の場合には座棺と寝棺で、ほとんどが座棺であった。
土葬の場合に最も普通には木棺に遺体を納めこれを埋葬したものである。また火葬も広く行なわれ、火葬した人骨を蔵骨器や布袋に納めて埋葬したり、単に火葬骨のみを埋めたものもある。
1958年、東京の増上寺の徳川将軍の改葬に伴い、大規模な調査が行なわれた。そこに埋葬されていたのは、二代将軍徳川秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重などである。将軍墓の墓標は、家宣の銅製宝塔のほか、家継・家重・家慶・家茂等の石製宝塔である。
徳川家墳墓の場合には、宝塔を墓標とし、その下に石室が設けられている。石室には、将軍は銅棺と木棺を、夫人・子女の場合には木棺が用いられている。将軍墓の宝塔は、家継のものは3mを超え、石室の大きさは1辺2m、深さ2mであつた。将軍たちの石室は、夫人墓及び子女墓のものに比べ堅牢で大きく、将軍墓にのみ銅棺の中に木棺を収め頑丈のものであった。
これらの墓には、将軍の場合、官職名・生年月日・在位期間・薨去年月日・没年齢・勅旨贈位・賜諡号が刻まれていた。
伊達政宗(1636没)の霊廟・瑞鳳殿の地下遺構の調査によると、主体部は石室で、内部の大きさは1.8m、1.2m、深さ1.45mであつた。この政宗の墳墓は、近世初頭の大名墓の構造を知るうえで重要であり、本格的な近世石室墓のはしりと考えられる。
東京都渋谷区に日蓮宗の寺院で仙寿院がある。1644年立てられたものであるが、道路計画のため、改葬された。その対象となった面積は1,800平方mで、墓標400基、遺体約2,200体、うち土葬が7割であった。このなかに紀州徳川家関係の墓が9基あり、墓標の下には石の蓋がしてあり、遺体を納めた箱の上には、銅板の墓誌が納められていた。
副葬品には、孝晴院の墓所から、青銅の手鏡、鼈甲の櫛、洋銀のかんざし、瀬戸物の水さしなどが発見された。他につげの櫛、皮の袋などがあった。遺体の回りには、湿気よけのための木炭が入れてあり、棺には錠前がかけられていた。(河越逸行『掘り出された江戸時代』雄山閣)
徳川五代将軍綱吉の時代、1702年12月14日、赤穂の義士たちが吉良家に討ち入り、討ち入りのあと大石良雄らは、吉良の首を持って泉岳寺の主君の墓に報告に訪れている。翌年2月2日義士全員が切腹して泉岳寺内の旧主の墓側に葬られた。初七日には先君の後室である瑶泉院が施主となって法要が行なわれた。そこには浅野内匠頭の忠臣誰々という肩書きをした石碑を立てるはずであったが、寺社奉行がこれを禁じて、単に家来と書いて立てるようになった。それから三回忌には46人が埋められている墓の中央に、石の地蔵様が立てられた。その台石には冥福を祈ることが記されている。なおご存じのように彼らの戒名はすべて、刃と劔の文字が入っている。
吉原の遊廓では、1750年以後、だいたい2〜3千人の遊女をかかえ、年間70人死亡している。いつたん死亡すると夜中に廓より逆さづりにして運び出され、浄閑寺、西方寺あるいは大音寺に運ばれる。これを吉原の西と東と南の3カ所の投げ込み寺といっていい、この投込み寺に、無緑仏として投げすてられた。浄閑寺墓地中央にある「新吉原総霊塔」には2万数千人の遊女が葬られている。台座には「生まれては苦界死しては浄閑寺」と刻まれている。
新宿の遊廓では、北町の成覚寺が投げ込み寺に当たり、1年平均15人葬むられ、明和9年から大正12年に至る152年間に2,200人が投げ込まれている。山門をくぐって左手に「子供合埋碑」があるが、「子供」とは遊女のことである。(葛岡敏『ドン底より』)
江戸の北小塚原は刑場で、死者を弔う役目はもっぱら浄土宗の回向院で、本尊は阿弥陀如来である。この寺院の境内には刑死者がおよそ20万人余りが埋葬されたといわれる。その中には、鼠小僧次郎吉や八百屋お七などもいる。また政治犯人として、小塚原で処刑をうけた吉田松陰、橋本左内などもある。
江戸時代の大坂には大坂7墓があり、この中で規模の大きいのが千日墓地である。現在の千日前は、明治に入るまでは千日寺、刑場、火葬場を中心とした千日墓地があった。明治3年に刑場が廃止され、火葬場と墓地が阿倍野に移されたのである。
明治5年に法律によって自葬祭が禁止され、葬儀はすベて神主・僧侶によるベきことになった。明治3年に寺院墓地はすベて国有地となつていたので、排仏段釈による神葬祭観念が離檀思想をおしすすめ、神葬祭地として明治5年に東京市営基地として青山・谷中・雑司ケ谷・染井の各墓地が開設された。市営墓地は、はじめは神葬墓地として出立したが、火葬を否定する神葬墓地は実情にあわなくなり、やがて共葬墓地としての性格を帯びた。明治22年に、市街地に散在する墓地の移転方針が提案され、明治36年に、寺院の境内墓地を移転改葬した場合には、その跡地を無償下付する旨が告示されて改葬を奨励した。
大規模な寺院墓地の移葬は、大正12年9月の関東大震災の復興作業に伴つて行なわれた。こうした状況のなかで、多磨基地は、大正12年4月に開設された。東京都営の多磨墓地は日本初の公園墓地で、都心から西へ約29キロの地に面積133ヘクタールを占め、その4割が葬地で、残リは通路、庭園緑地になっている。ここには軍人の東郷平八郎、作家の永井荷風、夏目漱石などの墓があり、その総数6万2000基といわれる。この種の公園墓地はその後各地で続いて作られるようになり、昭和10年6月4日には松戸市に八柱霊園が開設された。しかし年ごとに膨張し続ける大都市にあっては、墓不足の実情を解消する対策をうつことは困難で、今日ますますそれが問題化している。
齋藤忠『日本史小百科 墳墓』近藤出版社、『朝日百科・日本の歴史43』朝日新聞社、芳賀登『葬儀の歴史』雄山閣