1991.11
著名人とガン死

  ガンによる死亡者数は年々増加を続け、平成元年には21万人を超えた。これは死亡者79万人の27%にあたり、4人に1人がガンによって死亡していることになる。ガン死亡のうち6割が、胃、肝臓、腸など消化器に起こるガンで、次が肺ガンの約17%である。こうした事実も数字だけではピンと来ないが、有名人のガン死と結びつけると興味が出てくる。今回の『デスウォッチング』では、「著名人とガン死」と題して、有名人がどんなガンにかかり、本人はそれを知っていたのか。手術後どのくらいで再発し死亡したのかを見ていきたい。また死亡時刻が真夜中を過ぎると、有名人であっても、みとられずに死ぬ確率が高くなることも興味を引く。


胃ガン

  胃ガンによる死者は平成元年で4万8千人と、ガンのトップを占めるものの、年々全体に占める割合は減少している。20年前の1970年のガン死亡者数は現在の半分の約12万人、そのうち胃ガン患者は現在と同じ4万8千人であった。従って胃ガンは減っているのではなく、他のガンが増えていることがわかる。平成元年の胃ガン死を年代で見ると、40代後半では1万人当たり2人が死亡する確率であるが、70代後半になると1,000人当たり2.5人。70代後半の男性では、1,000人当たり4人が胃ガンで死亡したことになる。


●尾崎紅葉

  小説家尾崎紅葉は、新聞に『金色夜叉』を連載中、身体の調子が思わしくなく中断した。胃の右にしこりが出来、みぞおちに痛みを感じたという。明治36年3月帝大病院に入院し、3月14日医師から胃ガンを宣告される。しかし紅葉は手術を受けないまま自宅で、妻の看病を受けた。末期になると痛みを抑えるため、医師にモルヒネを大量に注射し殺してくれと頼んでいる。ガンの診断から約半年後の10月30日午後11時15分、自宅で死亡。36歳。


●島木赤彦

  アララギ派の歌人の島木赤彦は、大正13年48歳ころから神経痛と胃痛に苦しめられた。翌年1月故郷の諏訪に戻り養生したが、3月には黄疸を併発した。彼は知らなかったが、原因は胃ガンが肝臓に転移したものであった。3月22日斉藤茂吉が見舞に訪れたとき、赤彦は炬燵にうつ伏せになっていた。それから5日後の3月27日午前9時45分、茂吉ら40余人にみとられ死亡。50歳。


●岩崎弥太郎

  三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎は、大酒豪であったが明治17年夏頃から食欲不振となり、秋には胃液を嘔くようになった。診察の結果、胃ガンと判明した。岩崎は病名を教えてくれと頼んだが、医師は最後まで本人に病名を告げなかった。明治18年2月4日、何度も吐瀉し、発声も困難となる。2月7日二人の息子に遺言を残し死亡。死んだ口から汚物が出た。51歳。


●越路吹雪

  シャンソンの女王越路吹雪は、昭和55年6月、パルコ西武劇場出演中に胃痛を訴え、公演後東京共済病院に入院。7月8日、胃の3分の2を切る手術を受ける。本人には胃潰瘍と知らされる。8月に退院するがすでにガンは腹膜に転移していた。9月下旬再入院し、手術後4カ月目の11月6日午後3時、夫にみとられて死亡。56歳。先に彼女の両親と兄もガンで死亡している。


●伊藤整

  『チャタレー夫人の恋人』の翻訳を手掛けた作家伊藤整は、昭和44年4月神田の同和病院に入院。開腹手術の結果、胃に発生したガンが肝臓、直腸に転移し手術は不可能であった。本人には知らされなかった。8月末に退院し、10月20日癌研付属病院に入院。1カ月後の11月15日午後4時50分死去。64歳。


●折口信夫

  歌人であり民俗学の大家である折口信夫は、昭和27年神経痛に悩み、6月に慶応病院で健康診断を受けたが、内臓に欠陥なしと診断される。翌年7月、箱根の山荘に滞在中より目に見えて肉体が衰弱していた。7月29日帰京し、渋谷の近山病院で診断の結果、胃ガンと判明。改めて7月31日慶應病院に入院。1カ月後の9月3日午後1時11分、10人ほどの医師に囲まれて死亡。66歳。


●大木正夫

  大木正夫はベトナム戦争の最中現地に2カ月間滞在し、翌昭和45年交響曲『ベトナム』を完成した。その年の11月、病院でガンの診断を受けたがすでに手術は不可能だった。夫人は夫にガンであることを告げた。先が短いため病院を出て、自宅で食事療法を始め、翌年4月18日、胃ガンに気管支炎を併発して死亡。69歳。退院後半年たらずの命であった。


●柳家金語楼

  喜劇俳優の柳家金語楼は、文字どおり倒れるまで仕事を続けた。昭和47年10月18日、慶應病院で検査した結果、胃ガンで肝臓や腰椎まで転移していた。入院からわずか1週間目の10月22日午後11時47分、何人もの夫人に囲まれて死亡。71歳。


●武見太郎

  元日本医師会会長を25年率いた武見太郎は、昭和55年5月に入院して開腹手術を受ける。胃ガンであった。本人は出血性ポリープ(良性潰瘍)と知らされた。秋に黄疸症状が出て、築地のガンセンターで再手術を受けたときには、ガンは総胆管に転移していた。昭和58年11月下旬に慶応病院に入院したが一晩で帰宅。12月18日、容態の悪化により再入院。2日後の20日午前零時50分に死亡。解剖の結果、ガンは肝臓から背骨まで転移していた。79歳。

 


肺ガン

  肺ガンの死者は平成元年で3万5千人、20年前の1970年には1万人であった。この20年間に3倍に増加しており、西暦2000年には胃ガンを抜いてガン死亡の1位になると言われている。肺ガンは一般に60歳前後から多く発生し、その原因は喫煙がよく知られている。


●児玉隆也

  児玉隆也は自分のガン体験を『ガン病棟の99日』に書いている。ひどい肩凝りと血痰の症状を訴えていた彼は、診察の結果、肺ガンと判明。築地のガンセンターに昭和49年12月16日に入院した。そこで彼はジャーナリストとして、初日から闘病ノートを取っている。最後のノートは死の1週間前で、「亀を平林寺の池に離す。」である。入院して5カ月後の、昭和50年5月22日義弟にみとられて死去。38歳。


●五味康祐

  小説家五味康祐は昭和53年春、ヨーロッパ旅行中に血の混じった痰をはいた。帰国後東京逓信病院で診察、肺ガンとわかる。本人には肺にカビの生える肺真菌症と伝えられたが、自分の手相を見て「ガンの相」があるといった。54年春から背中に激痛が走るようになり、11月再入院。このときには背骨、副腎までガンが転移していた。入院5か月後の昭和55年4月1日死去。58歳。


●堀米庸三

  西洋史学者の堀米庸三は肺ガンのため一時病院に入院するが、漢方を中心とした自宅療養をする。この間の事情は『私の闘病記』にある。しかし病状が悪化したため、厚生年金病院に再入院。現代医学に依存しなかったとして医師に詫びを言っている。昭和50年12月22日死亡。62歳。


●檀一雄

  小説家檀一雄は昭和49年に精密検査を受け、肝硬変と診断された。そこで好きな酒をやめ、食事療法を行なったが体調は回復しなかった。昭和50年3月、二日市の柳沢病院に入院。6月右肺にガンを発見、九大病院に入院した。名作『火宅の家』はここで口述された。12月にガンが脊髄に転移し下半身が麻痺した。ガン発見から半年後の昭和51年1月2日、長女の檀ふみ等にみとられて死去。64歳。


●江田三郎

  元社会党書記長の江田三郎は、昭和52年5月2日に慈恵医大病院で診察を受けた。2カ月で7キロ痩せ疲れやすいというのが理由である。検査結果は肺ガンですでに手遅れの状態であったが、検査だけで帰った。入院したのは5月11日、すでにガンは全身に転移していた。ガンの診断から20日後の5月22日に死去。69歳。


●吉川英治

  『宮本武蔵』を書いた吉川英治は、昭和36年春頃から健康がすぐれなかった。ヘビースモーカーであった彼は、9月には毎日血のまじった痰を吐き、食欲もなくなっていた。医者の勧めで10月2日慶應病院に入院、肺ガンと判明。彼が退院を強いるので、夫人は仕方なく肺ガンを告知する。10月6日手術。手術後の経過は順調で12月31日退院する。翌昭和37年7月10日、自宅で意識不明となる。国立がんセンターに入院し、リンパ節を手術。9月7日、小腸全体が壊死し、脳軟化を併発して死去。70歳。


●室生犀生

  詩人の室生犀生は、昭和36年8月軽井沢の別荘で、咳、痰、胸痛、微熱を訴えた。娘は医者嫌いの父を説得し、10月虎の門の逓信病院で診察した結果肺ガンと診断。娘は父にガンを告知すべきか悩んだものの、医師に反対されて断念する。その後コバルト照射などの治療を受け、11月8日に退院。翌年3月1日、虎の門病院に入院。本人は病名を肋膜炎と聞かされ、最後までガンを知らなかった。3月26日午後7時28分死去。73歳。

 


肝臓ガン

  肝臓ガンの死者は平成元年で2万4千人、20年前の1970年には9,500人でこの間に2.5倍に増加している。男性の死亡者は女性の3倍で、肝硬変、アルコール多飲、B型肝炎の感染などが関係が深い。


●大佛次郎

  『鞍馬天狗』の生みの親である大佛次郎は、昭和43年春下腹部に痛みを感じ、築地のがんセンターで手術を受けた。病名は肝臓ガンである。その後入退院を繰り返し、昭和47年5月再入院。入院中も『天皇の世紀』の執筆を続けた。翌年の昭和48年4月15日、病気を理由に休載宣言をした。手術から5年後の4月30日午後2時死去。75歳。


●林武

  昭和48年暮れに林武の妻が脳溢血で倒れた。生涯画家として日常生活のすべてを妻に任せきっていた彼には、身の回りの世話と妻の看病は大変だった。昭和50年3月、身体の不調から慈恵大病院に入院。病名は肝臓ガンですでに治療は不可能だった。それから3カ月後の6月23日死亡。78歳。


●正木ひろし

  「三鷹事件」「松川事件」「八海事件」など社会で注目された裁判の弁護を引受た正木ひろしは、死の1週間前に病院を訪れた。その時肝臓ガンと診断され入院。昭和50年12月6日死亡。79歳。


●中野好夫

  英文学の翻訳者、伝記作者である中野好夫は、昭和59年8月、結腸ポリープの手術をしたあと外出できるほどになった。しかし実際にはすでに肝臓を中心にガンが広がっており、本人はそのことを知らなかった。12月に具合が悪くなり、肝硬変と診断された。翌年1月14日再入院し、2月20日死亡。手術から半年の生命であった。81歳。

 


結腸ガン

  大腸ガンで発生しやすい部位はS状結腸で約4割を占める。結腸ガンの死者は平成元年で約1万5千人、20年前の1970年では2,500人と、この間に約6倍に増加。脂肪の取り過ぎが原因といわれる。


●高橋和巳

  1960年代の学生に圧倒的な支持を受けた小説家高橋和巳は、昭和45年4月、東京女子医大に入院し結腸ガンと判明する。手術を受け再発の可能性は50%であったが、ガンが肝臓に転移し12月21日再入院した。翌年1月18日、肝臓へ制ガン剤を注入して治療にあたった。ガンを知らない本人には、肝炎の治療とされた。手術から約1年後の5月3日死亡。39歳。


●大川橋蔵

  17年の長寿テレビ番組である『銭形平次』の主役をつとめた大川橋蔵は、54歳頃から体調が悪く入退院を繰り返し、翌年の昭和59年11月25日に入院。結腸ガンですでに肝臓に転移していた。彼は医者に「昔から大酒も飲まずタバコも吸わず、食事にも気を使い、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、なぜこんな病気になったんです」といった。入院後約1年後の12月4日死亡。55歳。


●尾崎士郎

  『人生劇場』で有名な尾崎士郎は、昭和35年秋頃から食欲不振になったが、酒はやめなかった。翌年の6月慈恵会医大に入院し、7月結腸ガンの手術を受けた。しかし2年後の38年半ばにガンは直腸に再発した。今度は病院に入らず自宅で静養した。手術からおよそ2年半後の、昭和39年2月19日自宅にて死去。66歳。


●横溝正史

  推理小説作家の横溝正史は、持病の肺結核を克服した病歴の持ち主である。昭和55年夏、78歳の時に軽井沢の別荘で腹痛を訴え、手術の結果人工肛門をつけることになった。病名は腸狭搾と告げられたが結腸ガンである。翌年秋に再入院。12月28日、午前5時19分、夫人に手を握られたまま死去。79歳。


●今東光

  毒舌和尚の異名を持つ作家今東光は、昭和46年9月虎の門病院で検査を受け、結腸ガンが発見された。本人は手術を拒否して病院を出たが、2年後に国立がんセンターで手術を受けた。手術後2年半経た昭和51年、血尿が出て来院。このとき手術を必要とする状態にあったが、拒否し翌52年7月、国立下志津病院に入院。すでにS字結腸と膀胱が癒着し穴が開いていた。9月19日死亡。79歳。

 


膵臓ガン

  膵臓は胃の後方に細長く横にのびている臓器で、早期発見が困難といわれる。平成元年の死亡者は約1万3千人で、20年前に比べて3倍に増えている。これは肉食やタバコの増加に関連している。


●正宗白鳥

  小説家正宗白鳥は亡くなる年の5月、人間ドックで精密検査を受けたが、異常を認められなかった。8月、軽井沢に滞在中、食欲不振のため27日日本医大付属病院に入院した。膵臓ガンである。手術後も食欲不振が続き、10月に入って体重が30キロまで落ちた。10月28日死去。82歳。

 


胆のうガン

  肝臓から分泌される胆汁は胆のうに蓄えられ、十二指腸に排出される。胆のうガンは60歳以上の老人に多く、半数に胆石の合併がある。胆のうガンは初期には右側の肋骨の下辺部が痛く、進行すると黄疸、体重減少がある。


●中野重治

  詩人・小説家の中野重治は、昭和54年6月、身体の不調を定期的に検査していた医師に訴える。7月14日顔色が黄色く、体重減少のため東京女子医大に入院した。検査結果は胆のうガンで、すでに肝臓に転移していた。8月24日、昏睡状態に陥り午後5時過ぎ、妻、娘、友人らにみとられて死去。77歳。

 


直腸ガン

  直腸は大腸の最終部分。上端はS状結腸に続き、下端は肛門。早期に便痛の異常、血便がみられる。


●森雅之

  映画俳優。昭和48年6月、自宅で倒れる。病名は直腸ガンである。10月7日死去。62歳。


●吉屋信子

  小説『徳川の夫人たち』の作者である吉屋信子は、亡くなる2年前の昭和46年6月に下腹部の痛みのため診察を受けた。病名は直腸ガンで、手術不可能の状態にあった。病名は本人に知らされていない。昭和48年2月、鎌倉の恵風園病院に入院。7月11日死去。77歳。

 


食道ガン

  喉から胃に至る食道に発生するガンで、初期症状はものが飲み込めなくなり、進行すると咳や声がかすれる。早期からリンパ節に転移しやすい。


●高見順

  詩人である彼の昭和38年9月16日の日記に「食事のとき、何か食道につっかえる感じがする」と記す。10月3日、千葉医大付属病院で検査の結果、食道ガンと診断。10月9日手術。翌39年7月に第2回目の手術をしている。ガンは食道から胃に転移し、12月に第3回の手術を受ける。昭和40年3月、千葉県の放射線医大付属病院で第4回の手術を受ける。3年間に4回の手術を受けたことになる。9月17日同級生だった禅僧に読経してもらい死去。死因は全身ガンによる心臓衰弱であった。58歳。


●亀井勝一郎

  文芸評論家の亀井勝一郎は、昭和39年8月慶応病院に入院、前ガン症状と診断される。昭和41年7月がんセンターに入院。手術を受けて8月退院する。10月7日に再入院。それから1週間後の11月14日死去。前年同じ食道ガンで死亡した『高見順日記』を読むと、自分があと何日で死ぬかが見当できたという。59歳。


●朝永振一郎

  昭和40年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は、昭和53年5月ごろ、食事が喉につかえるようになった。癌研付属病院で診察した結果、食道ガンであった。11月に声が出なくなる確率が9割以上ある手術を行ない、声を失った。昭和54年7月8日、気管のガンから出血し、窒息して死亡。73歳。


●中山義秀

  芥川賞作家の中山義秀は、昭和40年千葉県の放射線総合医学研究所で食道ガンの宣告を受けた。12月、手術のために東京女子医大に入院。手術は成功したが放射線治療が原因で、4年後の昭和44年6月に白血病で倒れ、東京女子医大に再入院。7月虎の門病院に移り8月19日死去。死の前日見舞に来た新聞記者であると同時に牧師であった友人に、洗礼を依頼して、茶碗に水道の水を汲んで洗礼を行なった。69歳。

 


リンパ腫

  リンパ球に生じるガンで、症状は剄部、脇の下などのリンパ節がはれるのが典型的である。進行すると全身のリンパ節が侵される。


●川上宗薫

  ポルノ作家川上宗薫は、昭和57年春食道潰瘍にかかり手術を受ける。その後、昭和59年初冬、鎖骨上部にグリグリが出来、診察の結果リンパ腺ガンと診断される。12月24日手術を受ける。翌年10月には体重が37キロになった。死の2日前まで口述筆記をし、10月13日夫人にみとられて死亡。61歳。

 


乳ガン

  統計的には未婚、高齢初産の人に多く、症状は乳房のしこりから始まり、脇の下のリンパに転移する。平成元年の死亡者は5,800人。20年前には2分の1の2,500人であった。


●巌本真理

  バイオリニストの巌本は、昭和51年12月15日、慶応病院に乳ガンで入院。翌年1月左乳房の切除手術が行なわれた。2年後右乳房に転移。彼女は坑ガン剤を射ちながら演奏会を続けたが、53年11月に再入院し翌年手術を受ける。退院後5月6日救急車で慶応病院に運ばれ、11日に死亡。53歳。


●笠置シヅ子

  ブギの女王笠置シヅ子は、昭和56年乳ガンの手術を受けた。それから3年後の59年9月、今度は卵巣ガンで再入院した。死亡したのは半年後の3月30日午後11時43分死亡。70歳。

 


前立腺ガン

  前立腺は性液をつくる器官で尿道に接している。発ガンには男性ホルモンや食事が関係し、発病年令は平均70歳以上である。


●中谷宇吉郎

  物理学者で随筆家の中谷宇吉郎は、昭和35年研究のためにグリーンランドに出かけた。旅行から帰った後東大で診察を受け、前立腺ガンが判明した。手術をしたが、ガンはすでに骨髄に転移していた。骨髄のガン細胞は次第に身体中の骨髄に広がり造血機能を低下させた。昭和37年4月11日、夫人と茅誠司にみとられ死去。62歳。

 


膀胱ガン

  初期に血尿がみられるため、早期に発見されやすい。ガンの進行によっては経尿道腫瘍切除から膀胱全摘まである。


●伊東深水

  日本画家の伊東深水は、昭和47年5月8日に膀胱ガンで死去。74歳。

 


舌ガン

  舌ガンは虫歯、入れ歯などによって舌が慢性的に刺激されて引き起こされる。また酒、タバコも要因。痛みや塊が出来るので早期発見されやすい。


●十返肇

  文芸評論家の十返肇は舌ガンの手術後、発声が不可能になったため、会話は筆談で行なわれた。昭和38年8月28日死亡。49歳。

 


喉頭ガン

  喉頭ガンは声帯付近に起こるガンで、しわがれ声が特徴。タバコや大気汚染が関係している。また咽頭ガンは鼻腔の奥からのどまでのガンをさす。


●池田勇人

  元首相の池田勇人は昭和39年9月、国立がんセンターに喉頭ガンの疑いで入院。放射線治療を受ける。12月に退院したが、翌年7月29日、東大病院に入院。ガンは食道、肺に転移していた。8月4日手術をし、手術後肺炎を起こした。8月13日午前零時25分死亡、66歳。


●西条八十

  詩人の西条八十は昭和44年6月より、喉頭ガンで声が出なくなる。昭和45年8月12日朝7時頃、食事を運んだお手伝いが八十の死を発見。78歳。

 


資料

山田風太郎『人間臨終図鑑』徳間書店
    岩井寛『作家臨終図会』徳間書店
    柳田邦男『ガン50人の勇気』文芸春秋
    『現代日本人物事典』旺文社他

    

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