1991.02 |
現代の葬儀について語っている人は多いが、その中でユニークなのは、加地信行氏の『儒教とは何か』(中公新書)にのべられていたものである。「仏式葬儀参列者のほとんどの人は、故人の写真を仰ぎ柩に向かって礼拝し、故人を想い、泣き、何回も香をつまんでは焼香し、重々しく遺族に挨拶しているだけであって、本尊に対してはまったく知らぬ顔で退場する。」つまり作者は仏式葬儀では本尊に礼拝すべきで、人々が柩を拝むのは「儒教」のマナーであると言っている。そして「儒教こそ葬儀を重視し、見事に体系化しているのである。葬送儀礼をぬきにして、儒教は存在しえない」(同書)とまで言っている。儒教は日本では徳川時代に朱子学として官学の位置を占めたものの、一般庶民には影響を与えたとはいえない。しかし日本人の仏教の普及にしても江戸時代の壇家制度によって寺院と結びついたもので、その内実は仏教というよりも祖先崇拝が基本となっていた。この祖先崇拝を出発点から重視し、儀礼的に体系づけていたのが儒教なのである。
今回、儒教は死や葬儀をどう扱っているかを、その経典の一つである『礼記』を中心にして、現代日本の葬送儀礼とどの程度共通性があるかを確かめてみた。
『礼記』は前漢(前206〜8)に整理が加えられたもので、2千年以上前の儀礼とその意義を記録したものである。この中には孔子(前552〜前479)の葬儀や意見が出てくるが、面白いことに孔子の母は祈祷の仕事や葬送儀礼を司る「儒」を職としており、孔子自身子供の頃に葬儀の真似事をして遊んだという。また『礼記』(坊記篇)のなかで孔子は、「死は民の卒事なり」(死は人生最後の一大事である)といっている。
『礼記』は49篇あり、ここでは死から喪明けまでを順を追ってみていきます。
「君子は儀式を行なうにあたって、その土地の風習を変えることをしない。先祖の祭り、喪服、泣き方まで皆本国の習慣に従うようにし、慎んでその作法を学び、他国にあっても本国の習慣に従うようにする。」
このようにその土地の風習を守り、他国に住みついたらその国の風俗に従うように説いている。ではなんのために儀式を行なうのか、これについて5つの理由があるといっている。
「天下の礼は、始めに返るを致すなり。鬼神を致すなり、和用を致すなり、義を致すなり、譲を致すなり」
堅苦しい儀礼がなぜ必要であるかを説いているもので、まず第一に儀礼によって物事の始めに返るならば基本が尊重されるようになると言っている。鬼神つまり祖先や神に通じるなら、目上の者を尊敬するようになるであろう。また親和が増せば生活が安定し、道義が育成されれば上下の争いはなくなり、譲る心ができれば競うこともなくなるという。このように儀礼においては、祖先を中心とした秩序が重んじられるのである。
古代より中国では人間を精神と肉体に分け、精神の主宰者を魂と言い、肉体の主宰者を魄と言った。人が死ぬと魂と魄が分離し、魂は天に返り、魄は死んで土に返るという。そして子孫は死者の魂をその家の霊廟に祭り、祭りにおいて死者の名を記した木主に死者の霊を降ろして供養する。また魄は遺体とともに埋葬し、土に返すのである。日本でも埋め墓と参り墓という両墓性という風習が、地方によっては最近まで残されていたが、現在日本は魄を祭る場所がお墓で、魂を祭る廟にあたる場所が仏壇ということになる。
「人が病気になり危篤になれば、まずその部屋の内外を掃除する。君主であれば室内の楽器掛けをはずし、士であれば琴などの楽器をかたづける。それから寝台を取りのけ、病人を北側の窓の下に東枕にして寝かせる。衣服を脱がせて新しい衣を着せる。手足に一人づつ人が付き、真綿を鼻の近くに当てて息の消えるのを待つ。死者が男性であれば男性が、女性であれば女性が処置にあたった。」
「人が死亡したら、遺体を寝床に移し、掛け布団で覆いながら、衣服を脱がせる。そして死者の口を開き、食べものを含ませる。両足はまっすぐするために縛る。次に井戸水を使って遺体を洗う。側近4人で掛け布団を上げ2人が湯潅をする。次に足の爪を切り、ひげをそって使用した水を穴に捨てる。」
こうした遺体扱い作法は世界共通に見られるものである。また中国では埋葬までの時間が長いので、遺体の下に氷を入れた漆器をを置いて、遺体保存に努めたようである。
「喪葬の礼は深い悲しみを表現する。そしてその悲しみを順序よく和らげていくように考えられている。君子はまず自分を生んだ親を深く思う。復の礼(魂よばい)は愛を尽くす方法であり、蘇生を祈る心である。死者の魂を戻そうと望むのは神に祈ることであり、それを北向きに行なうのは、北が死者の方角だからである。また死者の口に米や貝を含ませるのは、空腹では忍びがたいからであり、しかし本当の食事ではなく、清潔なものがあればよいのである。また死者の名前を書いた旗(銘旗)を作るのは、死者の身柄をはっきりとさせるためである。故人を愛慕してこれを書き表し、出来るかぎりの道を尽くすのである。」
死者に衣を着せるには、衿を左前にして絞を結ぶ。生前には右前に結んで左手で解きやすくするが、死ねば解く必要がないので左前にする。死者の顔を巾で覆い、口の部分に穴を開けて米を含ませる。
3日の間に葬儀の準備も出来、遠方の親戚も集まるからである。喪に服するのは斂(納棺)の後で、平生の飾りを取って肌脱ぎになり、髪は結ばずに括るという。
「人が死亡したら屋根に登って大声を上げ、死者の霊に向かい「ああ、何がしよ、生き返れ」と叫ぶ。それから遺体に米を含ませ、煮た肉を霊に供える。天を望んで呼び戻そうとする。」
日本にも屋根の上に登ったり、井戸の底に向かって遠ざかっていく魂を呼び戻す習慣が、かっては全国に見られた。
「死んで3日目に死者の衣を換えて納棺する。寝台にある間は遺体を尸(し)と呼び、棺に納めてからはそれを柩と呼ぶ。人々が遺体を動かし棺を持ちあげるとき、皆悲しみが激しく、気持ちが落ち着かないので体を動かし、踊りをおどって気を落ち着かせるのである。」
男性は泣きながら踊り、女性は胸を撫でて悲しむ。しかしその節度を越さないようにきまりが設けられている。こうした哭踊の礼は漢代以後にとだえた。
「不幸はさっさと行なうのがよく、吉事はゆっくりと行なうのがよい。ただし、さっさと行なうにしても程度があり、ゆっくりにしても限度がある。さっさも程度がすぎれば礼をわきまえないように見え、ゆっくりすぎると愚図になり、卑しく見える。君子は悠々とふるまうものである。」
「人が死ねば人はこれを憎み、役に立たないものとしてこれをあざむく。そこで遺体に衣服を着せるのは人々が忌み嫌わないようにするためである。また霊前に食べものを供え、埋葬後に供物を供えるのは、未だ死者が供物を食べた所を見た者はいないが、昔からこのしきたりが続いている。これは死者を軽んじないためで、儀式に欠陥があるわけではないのだ。」
「喪礼では父があれば父が喪主をつとめ、父が亡くなり兄弟が同居していれば、各自が喪主となる。また子や兄弟が無い場合、死者との親縁の年長者が喪主になり、親縁が異なれば近い者が喪主となる。」
「すべて弔問は、たんに喪主の従っていればよいものではない。40代の者は柩の縄を引く役を引受け、同郷で50代の者は、喪主に従って泣き礼をする。また40代の者は葬って穴に土が満たされるまで待つ。」
会葬者は必ず柩車の綱を引き、墓穴に着いたら、棺を穴に降ろすのを手伝う。柩車の綱はどの身分の場合にも引くが、その数は天子が1,000人、諸公は500人、士は50人である。
親を思う心
「孔子が衛という所で、ある人が親を墓地に送るのを見ていた。孔子はそれを見て、門人に『喪の作法はすばらしい、私たちも見習わなくてはならない』と言った。弟子がそのわけを尋ねると、『墓地に行くときは、親の後を慕うようであり、帰りには親を見失って疑っているようだった』。弟子の子貢は『早く家に帰って死者の魂を鎮める祭りをするほうが大切ではないでしょうか』。孔子『いやいや、私はあのように見事に親を思う気持ちを表すことが出来ない』と答えた。」ここでは形式に捕われない孔子の一面が伺われて面白い。
「葬儀に参加したときは笑顔を見せない。人に会釈するときは自分の席を立って行なう。道で柩に出会ったら歌を歌わない。遺体のある部屋に入り、そばに行くのに慌てない。食事の時に溜息をつかない。近くで葬式があったら歌を歌わない。墓地に行っても歌を歌わない。人が亡くなって泣いた日には歌わない。埋葬に行くときは小道を通らない。途中のぬかるみや水たまりを避けない。葬儀には悲しみの表情でのぞみ、埋葬の柩を引くときは歌わない。」
周では柩を引くときに挽歌を歌うが、これは人々の力が不揃いになるのを防ぐ意味もある。これをみると当時はよく歌を歌ったものとおもわれる。また死者を埋葬した後には、死者の衣服を柩車に載せて帰る。これは後の虞祭で、尸(かたしろ)が死者の着物を着るために、衣服が持ち帰られるのである。
死者を葬る場所は北方に、頭を北にして埋葬するのが夏・殷・周の時代からの習慣である。死者は幽界に行くからである。土を盛り終えた後、喪主はここに幣を供える。また祝(神職)は喪主の家で祭りの準備をし、子孫の中から尸となる人に指示を与えておく。喪主は帰ってきて泣く儀式をしたあと、世話役と生贄を見る。この世話役は墓地に行き、墓の左にムシロを敷き、そこに供え物をしたあと日中に死者の霊を鎮魂する虞祭を行なう。虞祭は、一日も死者と離れるのが忍びがたいからである。」これは火葬を終えてから家で読経する日本の風習ととてもよく似ている。
「埋葬から帰って門に入っても、堂に上がっても部屋に入ってももはや死者を見ることが出来ない。そこで泣き、胸を打って踊り、悲しみを尽くしてようやく気が静まるのである。親を失った子は恨めしく、物悲しく、魂の抜けたごとく、ただ悲しむばかりである。やがて死者の霊を宗廟に祭り、祖先の一柱としてもてなすが、これは死者が帰ることを願ってのことである。今地下に穴を掘って埋葬して帰ってきたから、敢て部屋に入らず喪屋にいるのは、親も外にあるのを悲しんでのことであり、こもを被り土を枕にするのは土にある親を悲しんでのことである。それゆえしばらくの間は時を定めずに泣き、3年の間喪に服するのは親を慕う心のあらわれであり、人情のまことである。」
「孔子が言った、『弔いに行って死者を死んだ者として見るのは、不仁であって、してはいけない行為である。しかしまた生きているように見なすのは理不尽である。死者に供える明器は、格好が同じでも実用にならないのは、聖なる死者に捧げるに相応しいものである』。」
死者と共に埋めた実際の形を似せた明器に、冠や食器、そのほか木器、陶器などがある。ただ木製の偶人を従葬することは、のちに生者の殉葬に発達する恐れがあるから、孟子はこれを批判している。
「目上の人の家に弔問に行くには、その喪事を妨げない時刻を見計らい、一人では行かない。」
「遺族を知っている者は弔慰の言葉を述べ、故人を知る者は哀悼の言葉を述べる。遺族とは知り合いでも故人を知らぬ者は、弔慰して哀悼を述べず、故人を知っていても遺族と知り合いでなければ哀悼しても、弔慰しない。」
「人が死んでも弔問しない場合が三つある。自殺と圧死と溺死の人の場合である。」
『顔氏家訓』という子孫のために書き残した人生の指南書がある。このなかに弔問のエチケットにふれている。「江南の風習に、重喪(親の死)に出会った場合、知人が同じ都に住んでいるのに、3日経っても弔いに行かなければ、必ず絶交になる。そうなると喪が明けて出会っても、そしらぬ振りをして避けて通る。自分の不幸にしかるべき同情をしなかったことを不満とするからである。何か理由があったり、距離があるなどで行かれなかったら、弔慰の手紙を送ればそれでよいことになっている。しかしこの手紙を送らなかったら、やはり同じような結果となる。北方ではこうした風習はない。江南では弔問客はすべて、喪主以外の人に対しては、面識がなければ手を取って弔慰を述べることはない。喪主には面識はなくて、その親族の方と面識がある場合には、式場に行って弔問せず別の日にその家を訪問することになっている。
『北京風俗大全』には実際の葬儀の風俗がまとめられているが、そのなかに弔問客の作法が述べられていて興味深い。「女性の弔問客は女性の遺族と一緒に、男性の弔問客は男性の遺族と一緒に泣かなければならない。そのように礼で定められているからだ。また弔問を感謝する場合には、地面に叩頭するのが作法に適っている。たまたま弔問客が年下であったり、親族関係において目下に当たっても、同様にして例外はない。これらの作法は、古い慣習に基づくもので、そうすることによって、残された者は、一家に死の訪れたのは亡くなった者の過ちではなく、他の家族の罪、不品行のせいだと、暗黙裡に告白、承認することになるのである。」(335頁)最後の個所は、少し理解しかねる点であるがこうした考えもあるという程度に理解したらよいと思う。
「3年の喪が25か月で終わることは、丁度4馬の引く車が戸の隙間を通り過ぎるように早い。しかし服喪を続けようとしても際限がない。それゆえに古代の王が中を得た適当の法を立て、一様にこれを行なって服喪をとどめた。」
服喪の期間は、殷周の時代では父母の喪は3年であるが、春秋時代にはこの制度は守られていない。墨子の一派は服喪を3か月として、それ以上の長い喪を批判している。喪服の色は漢、周の時代からずっと白である。
「喪礼では儀礼を重ねるごとに、死者から遠ざかる。まず部屋の中央で遺体を沐浴し、窓下で飯を供え、室内で着替えさせ、東階の上で納棺し、西階で仮もがりを行ない、廟庭で祖奠(送別の礼)を設け、墓に葬る、というように、儀式を重ねるごとに死者が遠ざかってことを示すのである。埋葬の後で遺族を慰めるのに殷の時代では墓地で行ない、周では家で行なった。これは死者を俄かに見捨てない心掛けを教えるものである。」
周の文王が祖先を祭るときは、死者にも生者と同じように仕え、死者を思うにも自分も死をともにすると願うようであった。命日には必ず死を哀み、故人の名を口にするにもその人を目のあたりに見ているようであった。これが祭祀を行なうときの誠意である。」
祖先の祭祀には必ず尸をたてて、それに故人の服を着せた。尸になるのは孫の役割で、死後魂が同類に寄り付くと信じられていたからである。尸は東向きに置かれた位牌の北側、つまり位牌の左側に座った。こうして祭りの時には祖先の魂を招き、篤いもてなしをしたのである。
曾子『時を同じくして死んだ場合には、礼はどうなりますか。どちらを先にし、どちらを後にするのでしょう。』孔子『埋葬は下位の人を先にし、朝夕の供え物は上位の人を先にするのが礼である』。3年の喪を儒教では大祥と呼び、満2年目の命日を指す。これが後に仏教が取り入れ三回忌として定着した。
「曾子『喪が明ければ、すぐにも祭儀の供え物などの手伝いをしてよいでしょうか』。孔子『喪が明けたそうそう祭儀の手伝いをするのは、礼ではない。賓客の案内や接待の手伝いならよろしい』。」
「60になると、制作に1年を要する物(柩)を用意する。70には制作に一時(3か月)を要する葬祭品を用意し、80には1か月を要す葬祭品を用意する。90には毎日かねて用意の品を修理する。ただし衣料の作りやすいものは、その時に用意すればよい。」
日本でも棺を前もって準備したり、自分の墓を用意する話は珍しくない。 このように儒教では、葬送儀礼をいかに重視しているかを理解していただけたのではないでしょうか。もっとも実際の儀礼は、身分によって大変細かい規定が取り決められ、そうした資料は『儀礼』という経典のなかに集められ今に残されている。今回ご紹介した『礼記』は、葬送儀礼をふくめた儀礼の古典として、これからも長く伝えられていくと思います。
『新釈漢文大系 礼記』竹内照夫 明治書院
『中国古代喪服の基礎的研究』谷田孝之 風間書房
『中国社会風俗史』尚秉和 平凡社
『顔氏家訓』中国文学大系 平凡社
『北京風俗大全』羅信耀 平凡社